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 聖女の朝は、朝の鐘が鳴るよりも早く始まる。

 日が昇るよりも早く起きて、同じく早くに起きるニィナと共に、まず聖堂に向かった。

 礼拝室を正面から見て右手にある扉を開くと、そこには地下に続く階段があり、そこを降りていく。

 地下に降り立つと、その奥には不思議に発光する小さな池と、女人の石像があり、それが持つ水がめから、絶えず地下水が流れていた。

 アナはローブを脱いでロングのキャミソール姿になり、その池に足を入れた。地下水は切れるように冷たく、いくら慣れているといえど、思わず身を震わせた。

 それでもアナは池に足を踏み入れる。池の深さは膝上ほどで、そこに跪くと、髪、身体、顔の順で洗い、身体を清めた。

 そして、その中で今日も一日穏やかに過ごせるようにと祈り、それが終わるとすかさずニィナがやってきて、タオルを掛けて身体を拭いてくれた。

 アナは聖女学院時代から行っているから清めの儀式に慣れているが、それを見ているだけの筈のニィナの方が、なんだか辛そうな顔をしていて、それが少し可笑しかった。

 着替えを終えると、朝食を食べる為に自宅へと戻った。この時、既にウェインが朝食を用意して待ってくれていた。

 清めの儀式で身体が冷えているのを気遣ってくれているのか、いつも朝食に温かいスープを用意してくれるので、アナはそれを毎朝の楽しみにしていた。

 食事を終えると、次に待っているのは結界の見回りだ。

 結界とは、黒と白の二色で編まれた紐で、青い光を放つランタンが点々とぶら下げられていて、村全体を囲っている。

 結界は退魔の力の一種で、浄化晶石の力を紐によって限定することで増幅させ、聖導院から与えられた浄化晶石がたとえ小さな欠片であったとしても、この紐で囲った中には、一部の例外はあれど、どんなに高位の魔獣であっても近づくことが許されない。

 だが、逆を言えば、一度結界が破れてしまえば、広範囲を守ることが難しくなり、そうなってしまえば、小さな欠片程度では、浄化晶石が安置された聖堂周辺を守るのが関の山だ。

 アナは、この村にやって来てから、その結界に綻びが無いか見回るのを毎朝の日課にしてきた。結界の保全は村人の生命の安全に直結するので、一番気の抜けない仕事であった。

 それに小さな村といっても、全土となるとかなり広く、時間のかかる作業でもあった。

 そして、もう一つ、時間がかかる要因があった。


 結界が村の外れから中心部に差し掛かる。

 なだらかな傾斜のある土地には、背の小さな家屋がぽつぽつと建っていて、家庭菜園や花壇に咲く草花が今にも芽吹こうとしていた。

「あら、聖女さま! おはようございます!」

 溌剌とした声色が聞こえて、アナは声の方を向くと、そこにはふくよかな中年の女性が、嬉々とした表情でこちらに向かってきた。

 彼女は聖導院の熱心な信者で、日曜の集会には必ず参加し、畑で採れた野菜や薬草などをよく寄進してくれる心優しい女性だ。だが、一つだけ欠点があった。

(ああ、この方に見つかっちゃった。こうなったら、一時間は帰してもらえないかも……)

 アナは笑みを浮かべつつも、見つかってしまったことを悔いた。彼女は、とにかく一度捕まってしまうと、矢継ぎ早に話題を変え、中々話が切り上げられないのだ。

 勿論、村人と交流するのは大事なのだが、どこからそんなに話題が出て来るのだろうと疑問に思うくらい、話を挟む隙が無い程にお喋りが好きな人で、アナはいつも、聞き役に徹していた。

「今日も結界の見回りですか、素晴らしい! 前任の聖女さまがご高齢で引退なさると聞いて、私達村人は皆、どんな方が来るのかしらって想像していたんですけれども、こんなにお若いのに立派な聖女さまをお迎えすることが出来てとっても嬉しいですわ! ああそうそう、今朝庭を見てみたら、ハーブが生えていまして──」

「あ、そ、そう……そうなんですね……」

 相槌を打とうとしても、気づいた時には次の話題が降ってきて、アナはタイミングを逃しながらも頷いていると、女性は表情をぱっと明るくして、手をぱちんと叩いた。

「そうですわ! 今度、近所の方を呼んでお茶会を開こうと思っているんですけれど、もしよろしければ聖女さまも如何でしょうか? きっと楽しいですわ!」

 女性は名案だと嬉しそうにしている。アナは一瞬ぽかんとしたが、緑が混じる青の瞳に光が差し込んだ。

(お茶会に誘われるなんて、この村に来て初めてだわ!)

 聖女学院に居た頃は、寮内で週に一度はお茶会が開かれていて、参加者は皆お菓子を持ち寄って、それを食べながら厳しい修行を一緒に乗り越えようと励まし合ったものだ。

「お茶会ですか、とてもいいで、す……ね……」

 アナは久しぶりにお茶会に参加できると思うと嬉しくて、つい深く考えずに了承しそうになったが、寸での所で笑顔を消した。

 その時アナは、民との交流について勉強した授業の事を思い出していたのだ。その教師は吊り上がった目を細めて、ハキハキと言っていた。

『いいですか、皆さん。聖女たるもの、民との交流は避けられないものです。その時にふさわしい行動や言動を取らなければ、聖導院へのイメージダウンになりかねませんので、民と会話する時には、十分に気遣わなければなりません。

 ですが、関わり過ぎるのも駄目です。あなた方は民とは違う存在で、常に清らかでなければなりません。民と必要以上に関わりを持つと、俗世に触れて様々な欲が生まれ、魔獣に隙を突かれることがあるからです。一体どうやって隙を突かれるか、わかりますか?』

 という質問に、アナは手を上げて答えたことがある。

 その時自分は「魔獣は様々な種類が居る中に、精神に作用して操ろうとする魔獣が居て、精神の不安定は奴らの格好の的になるから」と答えて、正解の拍手を貰ったのだった。

「聖女さまもいらっしゃいますよね、ならお茶請けもとびきりの出しませんと失礼ですわねっ!」

 浮かれきっている女性は、すでにどんな準備が必要か思案しているようだが、アナの表情は浮かないものだった。

「……素敵な提案で、私も行きたい気持ちはあるのですが……申し訳ありません、私には聖導院での仕事がありますので、どうか皆さんで楽しんでください」

 すると、明るかった女性の表情は水を差されたように落ち着いて、代わりに恥ずかしそうな笑みを小さく浮かべた。

「あらっ、そうですわよね。私ったら聖女さまが来てくれたらとっても嬉しいのにって、そればっかり考えちゃって、申し訳ありません。忘れてくださいな!」

 明るく返してくれたが、その表情は残念そうで、アナはつきりと胸が痛くなる。

 今すぐこの場から逃げ出したくて、笑顔を張り付けてお辞儀をすると、その場から後にしてしまった。

(本当は、お茶会も、お喋りも好きなのに……)

 帰路へと振り向いたアナの表情は、迷子の子供のように寂しげだった。

  

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