4-4

 カーンの家は村の外れにあり、林の中にひっそりとある小屋が、彼の住処だった。灯りは勿論ついておらず、念のためノックするが、返事は無かった。

 ドアノブを捻ると、鍵は掛かっておらず、そのまま軋むような音を立てて、扉が開かれた。

「鍵も掛けてないなんて、不用心だねぇ」

 呟いたニィナは、カーンを背負い直すと、ゆっくりと家の中に足を踏み入れた。その次にアナが入り、窓から差し込む月明かりで照らされた家の中を、ぐるりと見渡した。

 家の中には、子供用のおもちゃやドライフラワーが飾られていて、額縁には子供が描いたらしき絵と、その下にはへたくそな字で〝おとうさん〟と書かれていた。

「この家、まるで時が止まったようだわ……」

 アナは思わず呟いた。棚の上には奥さんのものと思しき櫛や鏡、古めかしい宝石箱が飾られていて、埃一つなく、丁寧に扱われているのが分かった。

 テーブルの上には、酒の空き瓶が何本も置いてあり、床にもいくつか転がっていた。部屋の奥に置かれたベッドに向かう途中、ニィナが空き瓶を踏みそうになり、煩わしそうに蹴飛ばしていた。

「ったく。中々荒れた生活していますね、この人」

 静かにベッドに寝かせて、アナは布団を掛けてやると、眠っているカーンの顔を、辛そうな顔で覗き込んだ。

(聞かなくてもわかる。彼は、奥さんと息子さんを失ったんだわ。出ていったのか、亡くなったのかまでは分からないけど、カーンにとって、とても辛い体験だったということは、痛い程伝わってくる)

 彼の心にある傷は、きっとこのことなのだろう。アナは、カーンを救いたいあまり、触れられたくない記憶を聞き出そうとしたことで、埋もれていた記憶を抉り出してしまったのではないかと、自身の行いを激しく後悔した。

「……ごめんなさい、カーン」

 隈の濃いカーンの顔を見て、静かに呟くと、アナは立ち上がり、ニィナの方を見た。

「帰りましょう」

「アナ様、大丈夫ですか?」

「私の事は問題では無いわ。気にしなければいけないのは、彼の方だもの」

 そういうと、アナは辛そうな顔でカーンを一瞥して、家を出ようとした。

「う、うぅ……」

 すると、カーンが微かに呻き声をあげて、身体を身じろがせた。アナは驚いたが、真っ先に駆け寄ると、カーンの顔を覗き込んだ。

「カーン、目を覚ましたの?」

 呼びかけると、カーンは薄っすらと目を開けた。焦点が中々合わないが、アナの声にきちんと反応していて、錯乱もしていないようだ。

「……俺は、どうしてここに」

 ぐったりとした話し方で、カーンは言い切ると、辛そうに深く息を吐いた。

 アナは目を見開くと、問いかけた。

「もしかして、ここに来るまでの記憶が無いの?」

「はい……聖堂に行って……聖女さまと、何かお話をした所から……記憶が途切れていて……何故、俺が家のベッドに居るのかも、何故、聖女さまがここに居るのかも、わかりません……」

 思い出せないのが煩わしいのか、カーンは髪をくしゃりと掻き分ける。アナは、こんなに憔悴しているカーンに、真実を告げるべきか迷っていた。

「あんたは、さっきね……」

「ニィナ!」

 躊躇っているのを他所に、ニィナが真実を告げようとするので、思わずアナは張り詰めた声で制止した。

「どうかしたのですか。もしや、俺は何か、聖女さまにご無礼を……?」

 事態が呑み込めていない様子のカーンは、不安げに問いかける。アナは笑顔を作ると、取り繕うように言った。

「いいえ、そんな事無いから安心して。あなたが礼拝室で急に倒れてしまったから、ニィナに頼んで運んできてもらったの。そうよね、ニィナ?」

「……ええ、そうですね」

 念を押すように、アナはニィナの顔を見る。ニィナはアナの意図を汲んで、小さく頷いた。

「体調はどう? もしまだ辛い所があるなら、村の薬師を連れてくるわ」

「……いいえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

 カーンは何か悟ったような表情を浮かべて、ぎこちなく頭を下げた。アナは、首を横に振って、笑顔を浮かべた。それは人生で一番下手な笑顔だった。

「謝る必要は無いの。じゃあ、ゆっくり休んで。また明日の夕方に会いましょうね」

 そういうと、アナは、返事が出来ないでいるカーンを尻目に、ニィナを連れて家を出た。


 カーンの家から出たあと、ニィナが厳しい表情をして、アナの後ろ姿に声を掛けた。

「カーンに真実を告げなくてよかったんですか?」

「彼に真実を告げて何になると言うのよ。そんなのただ辛いだけだわ。それに……彼は言わなくても気づいているでしょうから」

「なんだ、ちゃんと気づいているんですか」

 ニィナは皮肉めいた言い方をするが、アナは気にすることなく言った。

「彼には、酷な事をしてしまったわ。自分が救いたいあまりに、躍起になって逆に彼の心の傷を抉ってしまうなんて。……私、傲慢で最低だわ」

「あなたはただ、カーンを救えないか手を尽くそうとしただけでしょう。救えなくても救えない人は沢山居ます。そんなことで、いちいち一喜一憂していたら、身が持ちませんよ」

 後ろ姿のアナは、俯いた。

「……そうかしら。そこの感覚が鈍くなってしまったら、自分が聖女と呼べるに相応しい存在だとは、到底思えなくなってしまうような気がするのだけれど」

 そう言い残すと、ニィナの言葉を待たずに歩き始めた。ニィナはやれやれ、という表情を浮かべると、アナの後を追った。


 次の日の夕方、カーンは変わらず礼拝室の定位置に居た。いつものように椅子に腰かけてぼんやりとどこかを見つめていて、アナが居ることには気づいて居ない様子だ。

(いつか、カーンが話したいと思った時に、奥さんと息子さんの事について、聞けたらいいのだけど……)

 今日はカーンにどんな顔で話しかけたらよいか分からず、アナは後ろ髪引かれながらも、静かに礼拝室を後にした。


   

 * * *


 塩気のある生ぬるい風が吹き、カモメが忙しなく鳴き交わす港町。青空が水平線まで続き、もうすぐ訪れる夏を予感させる熱気が漂っていた。

「レイアさん、お手紙が来ていますよ」

 自宅のテラスに置かれた安楽椅子に腰かけ、目の前の海を眺めていた老婆は、馴染みの郵便配達員に目を向けた。

 レイアは白髪の長い髪を丁寧に結い上げて、皺ひとつないワンピースを身に着けていて、そこらの老婆とは思えない程、気品に満ち溢れていた。

「あらあら、ありがとうねぇ。一体誰からかしら?」

「えーっと、送り主は、アナという方ですね。蝋印は聖導院のものでしたんで、お知り合いですかね?」

「アナ、ねぇ。そんな名前、私の知り合いに居たかしら?」

 疑問に思いながらも手紙を受け取り、テラスのすぐ脇にある坂道を登っていく配達員に手を振ると、レイアは手紙を開いた。

「……そう。後任の聖女が、こんな真面目な子で良かったわ」

 手紙を読み終えると、レイアは安堵したような笑みを浮かべた。だが、その笑顔は悲しげなものに変わった。

 安楽椅子を降りると、レイアはテラスの後ろにある勝手口から自室に入り、テーブルに付いた。アナが同封していた返信用の便せんをテーブルに広げると、文字を綴り始めた。

『初めまして、リーンドル村の新しい聖女さま。こうして手紙を下さったこと、とても嬉しく思います。わざわざ会わなくとも、文面からあなたの真面目さや高潔さが伝わってきます。あなたのような素晴らしい聖女が私の後任に就いてくれたことをとても嬉しく思います。

 さあ、挨拶はこれくらいにして、本題に入りましょう。カーンの事ですが、彼が抱えているものを語りたがらないのには訳があります。

 彼は、重く暗い過去が圧し掛かっていて、そのせいで時折理性のたがが外れ、あなたや周りに危険を及ぼす可能性があったのです。それを危惧して、なるべく過去の事を深く思い出さないように、私が制御の術を施しました。ですが、その対策がいつまで効果を発揮するかはわかりません。

 私には、彼の心の痛みを隠すことは出来ても、全て拭い去ることはできませんでした。ですが、あなたになら出来るかもしれない。そう信じて、あなたにカーンの過去をお話したいと思います』

 そこまで書いて、レイアは自室の大きな窓の外を見た。窓の外に広がる海には、色とりどりの帆を張る商船や小さな漁船など、大小さまざまな船で賑わっている。

 燦々と照らす太陽が波間に反射して白く輝き、眩しさに目が眩みそうだった。

(私は、結局カーンを救うことが出来なかった。それを仕方ないとすら思っていた。でも、あなたは違うのね。アナ……)

 胸中で呟くと、視線を便せんに移して、レイアは続きを書き始めた。

  

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