4-3
子供たちが、迎えに来た母親に連れられて帰っていくのを見守ったあと、アナは、いつもの定位置に腰かけているカーンの方を向いた。
普段よりも背を曲げて項垂れていて、先ほどのことを考えているのだろうかと、アナは心配そうな面持ちで見つめていた。
(子供を抱いている時のカーンは、本当に別人のようだった。もしかして、彼は……)
そこまで考えて、アナは首を横に振ると、指で口角を押し上げて笑顔を意識すると、カーンの所に言った。
「こんばんは、カーン」
「……こんばんは」
しわがれた声で返事をしたカーンは、アナに目を向けることすら億劫なのか、項垂れたままだ。アナは許可を取ることなく、カーンの隣に座ると、静かに話し始めた。
「さっきは子供たちの面倒を見てくれてありがとう。小さい子もいるから、誰かが見ていないとつい心配になってしまって……カーンが居てくれて良かったわ」
「……いえ、ただ、見ていただけなので。俺は何もしていません」
「そんなこと無いわ。さっき、トニーをあやしてくれていたじゃない。あの子、お母さん以外に抱っこされても絶対に泣き止まないって有名で、私なんて更に泣かせてしまうくらいだもの」
「……」
ついにカーンは黙ってしまい、アナはどこまで踏み込んでいいのだろうかと、いやな動悸を感じながらも、笑顔は絶やさずに話しかけ続けた。
「それに、子供を抱いていた時のあなたは、とても安らいでいたように見えたわ」
「……」
これにも返事は無く、アナは鼓動が早まるのを感じながら、もう一歩大きく踏み込んだ。
「もしかして、カーンはお子さんがいるの?」
カーンに妻子が居たなどという話は一度も耳にしたことが無く、てっきり独身だと思っていたが、執務室で見た姿は、明らかに子供の扱いに慣れていた。それに、抱いていた名前を呼び間違えた時の表情は、何かあると感じざるを得ない反応だった。
もしかしたら、という思いと、それが彼を傷つけてしまわないかという不安が混ざり合っていたが、どうしても聞かずにはいられなかった。
だが、カーンは一言も返すことなく、それどころか表情すら分からないままで、アナは心配そうに彼を見つめた。
(やっぱり、駄目かしら……)
カーンは口を開く素振りすら見せず、アナは申し訳なさそうに顎を引いた。
「……ごめんなさい、ちょっと踏み込み過ぎたわね。誰だって話したくない事があるのに、配慮が足りなかったわ。今のは忘れてちょうだい」
謝罪をすると、アナは椅子から立ち上がって、ローブを正した。
カーンの心に巣食う何かに触れるには、自分はまだ早いのだと思うと、彼との間にある距離の遠さに、少しだけ悲しい気持ちになった。
「じゃあ、好きなだけここにいてね。暫く鍵は開けておくから」
「……待ってください」
そう声を掛けて、執務室に戻ろうとすると、今まで貝のように口を閉ざしていたカーンが、アナを呼び留めた。
振り向くと、カーンは項垂れたまま、無造作な髪を掴むと、ぐしゃりと掻きむしった。アナはそれがひどく苦しげに見えて、哀れな眼差しを向けた。
「あなたになら……聖女さまになら、お話できるかもしれません」
「本当?」
突然でアナは驚いたが、傍に駆け寄ると、椅子にまた座って、白くなるくらい力を込めて膝を握り締めているカーンの手をそっと取ると、両手で優しく包み込んだ。
「大丈夫。ゆっくりでいいから、私に話してみて」
囁くと、カーンは話したくても話せない様子で、葛藤しているように唇を戦慄かせた。だが、カーンはそれでも頑張って言葉を紡ごうとしていて、アナはそれを根気よく見守った。
(頑張って、カーン……!)
いつまでそうしていたのか、アナがカーンの顔をじっと見つめていると、やがて晩の鐘が鳴り、髪の間から見える、苦しげに細められたカーンの瞳が、見開かれた。そして、今まで食いしばるように震えていた唇から力が抜けた。
最初、アナは決心がついたのかと、息を呑んだ。カーンの唇がゆっくりと開かれるのを、固唾を呑んで見守っていた。
「う……うウゥ……!」
しかし、カーンの口から漏れたのは、獣のような呻き声だった。
「カーン? どうしたの?」
何か様子がおかしいと思い、アナはカーンの顔を覗き込もうとする。だが次の瞬間、握られていたアナの手が振り払われて、立ち上がると、頭を押さえて悶え始めた。
「グゥ、ぐ……ぐああっ……!」
「カーン⁉」
その様子は尋常では無く、アナは立ち上がった。目がギラギラと不吉に輝き、口からは地を這うような呻き声が聞こえる。その姿は、自分を蝕む何かに、必死に抵抗しているようにも見えた。
「カーン、しっかりして! 一体どうしたの!」
明らかに正気を失いかけているカーンの肩を掴み、大声で呼びかける。すると、カーンの目がこちらに向いて、アナの細い手首を掴み上げた。
「痛っ……!」
手首に込められた力は異常なほど強く、アナは痛みで顔を歪めた。
瞬間。カーンが首から下げていたお守りが、薄紫色の光を放った。
「え……⁉」
その途端、まるで落雷が起きたかのような激しい音が響き渡って、カーンの身体が、お守りに宿った光と全く同じ色の光を放った。
「ガアアアアアアッ!」
断末魔のような声が響き渡り、カーンは苦悶に満ちた表情からすっと力が抜けると、アナの方へと倒れこんだ。
「きゃっ!」
アナは突然のことで身体がよろめいたが、気を失ったカーンを避けるわけにもいかず、慌てて支えた。
体格差も違えば意識の無い成人男性を支えるのは中々骨が折れたが、よろめきながらも、なんとか共倒れにならずに済んだ。
「アナ様、なんですか今の音!」
「あ、ニィナ……!」
晩の鐘が鳴ったので、迎えに来たらしきニィナが、血相を抱えて礼拝室の扉を勢いよく開けた。
「あれっ、その人ってカーンですよね。なんか、気絶しているみたいですけど……?」
「そ、それには色々と深い訳があって……ちょっと、支えるのを手伝ってくれないっ?」
「ああ、はいはい。了解しました」
体重を支え切れず、生まれたての小鹿のように震えていたアナは、なんとか助けを求めると、ニィナは駆け寄って、アナから受け取るようにして、カーンの背後に立つと鎖骨と腹に腕を差し込んで、自身の方へ体重を寄せ、その流れで椅子に腰かけさせた。
「ありがとう……危うく潰される所だったわ」
「それで、これはどういう訳なんです? さっきの叫び声の主は彼ですよね?」
「それが、私にもよく分からないの。カーンの過去について聞こうとしたら、いきなり苦しみだして、獣のように唸り始めて……心配になって肩に触れたら、物凄い力で手首を掴まれたの」
そういって、アナは自身の腕を出した。手首には、カーンが付けたと思しき手の痕が、痣となって生々しく残っていた。
「そうしたら、彼のお守りが薄紫色に光って、ニィナもさっき聞いたと思うけれど、落雷のような物凄い音と共に、彼の身体も薄紫色に光って、そこでカーンは気を失ってしまったわ」
「お守りが……?」
ニィナが呟くと、アナは、カーンの首に提げられたお守りを手に取った。
「しかも、これは私が作ったものではないわ。刻印が違うもの」
「あ……本当だ。私が持っているのは羽がモチーフになっているけど、このお守りは違いますね」
聖女のお守りは、作る人物によってそれぞれ刻印が変わる。カーンが持つお守りの刻印は、蝶がモチーフになっていた。
「きっと、これは前任の聖女が持たせたものなのよ。どうやってこんな術を仕掛けたかは分からないけど……」
「アナ様でも分からない術なんですか?」
「少なくとも、聖女学院で習ったことは無いわ。これは彼女が編み出した技なのかもしれないわね。……とりあえず、彼を家まで運んであげないと。ここに置き去りにはしておけないわ」
「じゃあ、私が負ぶっていきますよ。カーンの家の場所は分かります?」
そう言って、ニィナは大の男であるカーンを軽々と背負った。アナは少々驚きながらも、懐から真鍮の鍵を取り出した。
「確か、家は村の外れにあるはずよ。行きましょう」
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