4-2

 日が傾き始め、アナは元気にはしゃぎまわる子供たちの面倒を見ながら、そろそろカーンが来る頃だと、ぼんやり考えていた。

(今日こそは、少しでもカーンの笑顔を見られるといいのだけど……)

 以前、カーンの心に踏み込み過ぎてしまってから、折角縮んだ距離がまた遠くなってしまったような気がするが、アナはちっともめげていなかった。

(こんな所でめげていてはやっていけないもの。頑張るのよ、アナ!)

 心の中で自分を励ましていると、唐突に、執務室の扉が、音を立てて勢いよく開かれた。驚いたアナが扉の方を見ると、その前に居た若者が、息も切れ切れに言った。

「聖女さま、大変です! 熊の魔獣が結界のすぐ外をうろついているって、近所の連中がみーんな怖がってるんです! どうか、聖女さまの退魔の力をお貸しください!」

「そんなの大きな個体が? で、でも今は子供の面倒を見なくてはならないのに……!」

「子供たちなら、少しくらい見ていなくても大丈夫ですよ! さあ、こっちです!」

「でも……!」

 預けられた子供たちの中には、自力で立つのがやっとの幼児も何人か居て、もし事故が起きれば責任は重大だし、何よりその子の親に面目が立たない。

 だが、魔獣の浄化は聖女の大事な仕事で、どちらを取るかと悩みながら、若者に手を引かれて執務室を出て、礼拝室に入ると、丁度よくカーンが聖堂に入ろうとする所だった。

 その時、アナは丁度いいとばかりに、カーンに声を掛けた。

「カーン、丁度いい所に! 本当に申し訳ないんだけれど、私が戻るまでの間、執務室にいる子供たちを見ていてくれないかしら!」

「お、俺がですか?」

 突然の頼まれごとに、カーンは狼狽えていたが、アナはどんどん先に行こうとする若者に追いつくべく、早口で言った。

「魔獣を浄化したら、すぐ戻るから! 本当にお願いね~!」

 言いながら聖堂から消えていくアナを、カーンはただ呆然と見守っていた。

「……やるしかないのか」

 独り言ちると、カーンはふぅと溜息を吐いて、廊下に出ると、執務室に入った。

 子供たちは、アナが居なくなったことなど気にも留めていないようで、大きい子から小さい子まで、思い思いに遊んでいた。

 甲高い声と遠慮のない足音が響き渡り、カーンは所在無さげにしていると、執務室の端の女の子が負ぶっていた乳児が、いきなり大声を上げて泣き出した。

「よしよし、どうしたの?」

 女の子は慣れた手つきであやしていたが、乳児は顔を真っ赤にしてめいいっぱい泣いていて、泣き止む気配がまるで無かった。

「よしよし、どうしたの。お腹空いたの?」

「……」

 そう囁きながら、女の子は困った様子で乳児をあやしつづけている。それを見ていたカーンは、遠慮がちにその女の子に近づいた。

「ちょっといいかな」

「え?」

 いきなり現れたくたびれた風貌の男に、女の子はびっくりしている様子だった。カーンはその反応を見て躊躇った様子だったが、ぐっと覚悟を決めた表情をすると、そっと乳児に手を伸ばした。


「早く、帰らなくちゃ!」

 一方、素早く魔獣を退治したアナは、走って聖堂に向かっていた。

「全く、熊の魔獣だって血相抱えて言うものだから身構えていたのに、実際の大きさは子熊くらいだったじゃない!」

 愚痴を零しながら、聖堂の扉を勢いよく開けて、執務室に向かう。礼拝室にはカーンの姿はなく、アナの頼みを聞いてくれたのだとわかり、少しだけほっとした。

「カーン、皆も急に出て行ってごめんなさい!」

 勢いよく執務室の扉を開けると、アナは思わぬ光景に、目を見開いた。

「シィー……そうだ、いい子だな」

 カーンが、女の子が背負っていたはずの乳児を、手慣れた様子で両腕に抱き、ゆっくりと身体を動かして、寝かしつけていた。

(カーン……)

 アナは驚いて、その場に立ち尽くしてしまった。カーンは乳児を寝かしつけるのに夢中で、アナが帰って来たことに気づいて居ないようだった。

 すると、不安そうに末っ子の様子を覗き込んでいた女の子が、乳児の安らかな寝顔を見るなり、カーンに小声で言った。

「おじちゃん、凄いね。この子、一回泣いたら全然泣き止まないんだよ」

「そうなのか。一人で面倒見て偉いな」

 そっと片腕を外すと、女の子の頭を優しく撫でる。その横顔は、今まで見たカーンの表情のどれよりも穏やかで、まるで別人のようだった。

 カーンはゆっくりと乳児に顔を近づけて、言い聞かせるような声色で囁いた。

「大丈夫だ、ルーイ……怖いものは何もないからな」

 すると、女の子が不思議そうな顔をした。

「その子はルーイじゃないよ、トニーだよ?」

 その瞬間、カーンは安らぎに満ちた表情から一転して、我に返ったような顔になり、弾かれるように女の子の顔を見た。

 女の子は、急に表情が変わったカーンが怖かったのか、びくりと肩を揺らして一歩後ずさった。

 ここでようやくアナが帰って来たことにも気づいたのか、顔を上げて、神妙な表情を浮かべるアナを見やるが、何も言わずに女の子に視線を戻すと、眠りについた乳児を、そっと差し出した。

「あとは頼んだ」

 女の子に言い残すと、アナに一礼して、カーンは執務室を出て行こうとする。アナはそれを見送って、背中に、

「カーン、子守ありがとう……」

 と声を掛けたが、返事をすることは無かった。

(あんなに安らいだ表情、初めて見たわ)

 普段では予想も出来ないほど優しく、穏やかで、父性すら感じられるほどのカーンの表情が頭から離れず、アナは、彼が去った後の廊下を、ぼんやりと眺めた。

  

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