聖女の憂慮
4-1
「聖女さま、また明日―!」
子供たちの元気のいい声が礼拝室に響き渡る。
辺りに夕飯の良い匂いが漂い始める夕暮れ時、母親に連れられた子供たちを、アナは笑顔で見送った。
観音開きの扉が閉じられ、アナは、今日も一仕事やり終えたと安堵の溜息を吐く。
ここ最近は子守にもすっかり慣れてきて、少しずつ素を出せるようになってからは、陰口を言われたことも気にならなくなっていた。
(最近、日が長くなってきたわね。前はこの時間になると、太陽が眠りに付き始めていたのに)
ステンドグラス越しに、床に落ちる夕焼けをつま先ごと眺めると、アナは振り向いた。
(やっぱり、今日も居るのよね)
両端に並べられた長椅子の右側最前列には、いつものようにカーンが黄昏れていた。
(彼は一体、ここに来て何を考えているのかしら?)
カーンは、毎日のように夕方頃に来て、ただ祈るわけでもなく、ここに座ってぼんやりとしている。
見かける度に挨拶を交わすが、アナが世間話をしようとしても、カーンは相槌を打つたけで、会話を続けようという意思がまるで感じられなかった。
(彼の横顔、いつも寂しそうだわ。何か、私が力になってあげられたら……)
虚ろな眼差しをどこにもない所に向けているカーンを見る度、何かできる事が無いかと常々思っていたが、アナはついに一大決心をした。
後ろで組んでいた手をぐっと握り締めると、アナは、ゆっくりとカーンに近づいた。
「カーン、こんばんは」
声を掛けられたカーンは、ゆっくりと顔を上げるとアナの方を向いた。といっても、視線はどこか違う所をぼんやりと見ているようだった。
「……聖女さま。こんばんは」
「最近、少しずつ日が長くなってきましたね。もうすぐ晩の鐘が鳴るというのに、灯りをつけていない礼拝室が、まだ明るいもの」
「そう言われれば、そうですね」
「ええ。……隣に座ってもいいかしら?」
内心、緊張しながらアナが切り出すと、カーンは微かに意外そうな顔をした。虚ろな表情以外の顔を見たのは、これが初めてだった。
「……もちろん、いいですが。どうしてですか?」
「何故って、カーンとお話したいからよ。駄目かしら?」
「俺などと話しても、別に面白くもないでしょう」
「そんなこと無いわ。それに、私はカーンの事が知りたいの。だって、毎日こうして顔を合わせるのに、私はあなたの事を何も知らないもの。そんなの悲しいじゃない?」
問いかけると、カーンは困ったような表情をした。カーンからしたら放っておいて欲しいのかもしれないが、少しでも打ち解けられるきっかけになればと、強引に隣に座った。
「カーンは、子供たちを見送る時間になると、必ずここに居るわね。大体いつ頃から居るの?」
「昼間の内は森で仕事をしているので、仕事が終わったら来るようにしています。日課のようなものです」
「カーンは木こりだものね。毎日来てくれて、聖女としてはとても嬉しいのだけれど、何か理由があるのかしら?」
「……いえ、ただここが落ち着くので」
はぐらかすように言って、カーンは視線をアーヴェルナの石像に向けた。アナもそれを追うように、アーヴェルナの石像を見ると、独り言のように言った。
「わかるわ、ただぼんやりここに座って、ステンドグラスが落とす光が、床を彩っているのを見るのは、私も好きだもの」
アナはカーンの方を向いて、彼の横顔を見る。カーンはアナの事など目にも留めていないようで、瞳の奥には、彼のがらんどうの心が映し出されているように見えた。
「……カーン、あなたはいつも、どこか寂しそうにしているのね」
問いかけると、うっすらと開いていたカーンの唇が、きつく閉じられた。
(ちょっと急ぎすぎたかしら。どうしよう、悩みを聞くどころか、悲しい顔をさせてしまった……)
少し踏み込み過ぎたせいか、カーンの表情が更に暗くなり、貝のように心を閉ざしてしまい、アナは不安げに眉を下げた。
すると、沈黙を破るように晩の鐘が鈍く鳴り響き、カーンはすっと立ち上がると、アナに頭を下げた。
「……もう、ここを閉める時間ですね。長居してしまったことをお許しください。失礼します」
アナは立ち上がり、悲しげな表情でカーンが去っていくのを見送ると、扉を閉じる音が礼拝室に空虚に響いた。
家に帰ってからというものの、アナはカーンの事ばかり考えていて、ウェインが出してくれた食事も、ニィナが淹れてくれたお茶の味も、いまいちよく分からなかった。
それを、同じ食卓を囲んでいたウェインとニィナは、心配げな表情で見ていた。
「アナ様、どうかなされたのですか。帰ってこられてからずっと上の空ですが」
「……えっ? あっごめんなさい。ぼうっとしていたわ、何か言った?」
「帰ってからずっとぼんやりしてますけど、どうしたんですかって、ウェインは言っていましたよ。おおむね私も同意見ですけど」
二人の心配げな眼差しにようやく気付いたアナは、申し訳なさそうに笑った。
「ああ、そうね……ちょっと、カーンの事が気にかかって」
「カーンって、村の外れに住んでいる木こりで、毎日礼拝室に居る人でしたよね?」
「そうよ。子供たちを見送る時に必ず会うから、その度に挨拶していたのだけれど、今日はちょっと踏み込んで、彼の事を聞いてみたのよ」
「それはまた……あの人はあの人で、なかなか変人じゃないですか? よく話しかける気になりましたね」
ニィナに突っ込まれて、アナは首を横に振った。
「別に、カーンを変な人だと思ったことは無いわ。でも、毎日のように礼拝室に来て、寂しそうな顔で座っていたら、気になるでしょう?」
「俺は、カーンという人物に会ったことが無いですが、どういう人物なのですか?」
ウェインが問い掛けると、アナが首を捻りながら答えた。
「見回り中に村人と話した時、一度だけカーンの話が出たことがあったのだけれど、全員腫れ物に触るような、余所余所しい態度をしていた事だけは覚えているわ。詳しく聞いてみたかったんだけど、聞いたのは若い子だったからカーンのことをあまり知らないみたいで、詳しくは話してもらえなかったのよね」
「よく知らないのに、余所余所しい態度を取っているんですか。彼は余所者なのですか?」
「いや、それがそういうわけでも無いらしいの。ただ分かるのは、彼が村人たちから距離を置いているということだけよ。誰かに聞こうにも、何か勘繰っていると思われたら困るから中々聞けなくて……」
アナは溜息を吐く。ウェインは暫く黙ったのち、こう言った。
「そんなに彼のことが気になるようでしたら、引退された前任に手紙を出して、聞いてみたら如何ですか? 彼女なら、村の全てを知っているでしょうから」
「……確かに、その手があったわ!」
ふといいアイディアをウェインに提案され、アナは目を見開いた。確かに、引退した前任の聖女なら、カーンに隠された過去も知っているはずだ。
「聖導院が住所を知っているはずですから、報告書と共に同封すれば、届けてもらえると思います。ただ、彼女が引っ越した場所は、リーンドル村どころか、聖都からもかなり遠い所にあると聞きましたから、届くのには少し時間がかかるかもしれませんが」
「それでもいいの。早速手紙を書いてみることにするわ。ありがとう、ウェイン」
「光明が見えるといいですね」
「ええ、本当に」
アナは嬉しそうに笑った。
寝支度を済ませたアナは、寝間着姿のまま書斎に入ると、便せんと封筒を取り出して、少し考えたのち、ペンを走らせた。
挨拶と自己紹介、リーンドル村のすばらしさを簡潔にしたためると、カーンのことについて、悩んでいることをつまびらかに書いた。
(彼が、何に囚われているのかを知ることで、救いの道を少しでも見いだせたらいいのだけど)
質問を書いては見るものの、それが前任の聖女ですら分からないのなら、自分が解決するのは難しいかもしれない。
そういった不安がうっすらとあったが、アナはとにかくやれることをやることしか出来ず、文字を書き終えると、封筒にしまい封蝋を垂らして、聖導院のシンボルである縦菱のマークの印を押した。
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