3-5
柔らかな風が木々を囁かせ、フクロウの鳴き声が響き渡る湖畔の森。
村から灯りは消え、人々の営みがしばしの休息をしている中、道の傍にある一軒家の扉が音を立てて開き、中から、一人の女性が出て来た。
「……っ」
道の入口付近の茂みに潜んでいたアナは、暗がりに人影が見えた瞬間、つい声を出してしまいそうになった。
だが、ニィナが先回りをして口を塞いでくれたので、なんとか声を漏らさずに済んだ。
(やっぱり来たのね、パメラ)
三人が潜む辺りを人影が過り、月明かりで僅かに照らされた、パメラの虚ろな横顔を見た瞬間、アナは胸が苦しくなった。
横を通り過ぎていくのを確認すると、ニィナが囁いた。
「あの子、本当に来たね。アナ様の言う通り」
「だが、どうやって止めるんです? 彼女があなたの言葉に耳を傾けてくれるとは限らないですよ」
「そうならないように、力を尽くすわ。でも、それでも彼女が身を投げようとした時は、力ずくで彼女を止めて」
「分かりました」
その後、音を立てないように茂みから出ると、パメラの後を追った。
パメラは湖に辿り着くと、桟橋へと向かい、靴と靴下を乱雑に脱ぎ捨てて、地面に放り投げていた。
そして、傍につけられていたボートに置かれていた縄を拾い上げると、湖の縁に転がる石からそれなりに重そうなものを選んで、縄を巻き付けると、足首にそれを付けた。
(あの子、本気なのね)
万が一にでも浮かんでこないように、足首に重りを付けているのだ。覚悟はかなりのものだろう。アナはぐっと胸を掴むと、二人に目配せして、勢いよく飛び出した。
「パメラ!」
名前を呼ぶと、パメラは驚いた様子も無く、ゆらりと振り向いた。瞳は井戸の底のように暗く淀んでいて、この世に居ても意味が無いと、本気で思っている顔をしていた。
「……何故、この期に及んで邪魔をするのですか。あなたも……神ですら、私を見放したというのに」
「そんな、見放してなんかいないわ。あなたは確かに辛い結果を迎えたかもしれないけれど、それでも運命を受け入れなくちゃ。この先を生きていく為にも!」
「私の人生に、この先などありません。ダリウスの傍に居られなければ、私の人生は無いのと同じです」
「そんなことないわ、あなたにはあなたの人生が……!」
更に言いつのろうとするが、パメラは煩わしそうに首を横に振った。
「もう、いいんです。ダリウスが置いていった、別れを告げる手紙を読んだ瞬間、私は死んだも同然になってしまったんです。お願いですから、もう、引き留めないでください」
そう言って、パメラは月を仰いだ。三日月が照らす明かりをぼんやりと眺めていると、彼女の瞳から、ひとりでに涙が零れた。
「……ごめんなさい、私、あなたが居ない人生なんて、考えたくもないの」
涙声で呟くと、パメラは桟橋から湖面に足を延ばした。
「駄目!」
金切り声で叫んだアナは、咄嗟に手を伸ばすが、パメラに届くはずもなく、水に落ちる激しい音が響いた。
「パメラ!」
アナは叫ぶと、何としてでもパメラを助けなければいけないと、無我夢中で湖に飛び込んでいった。
「アナ様!」
「あーもうっ、何やってんの!」
事態を見守っていたウェインは、アナが飛び込んでいったのを見た瞬間、外套を脱ぎながら茂みから出て、いち早く駆けて行った。ニィナも飛び出して、湖に駆けていくウェインに、懐から出したナイフを渡した。
「これで足にくくりつけている縄を切って、パメラとアナ様を引き上げて。私は桟橋から三人を引っ張るから」
「分かった」
ウェインは頷くと、ナイフを咥えて綺麗なフォームで湖に飛び込んだ。
(泳ぐって、どうしたらいいのっ? ていうか、そんなの考えている暇無いわ!)
一方のアナは、水に飛び込んでから、自身に泳ぎの経験がほぼ無い事に気づいた。自分が生まれ育った所は水が貴重な荒野にあるので、水泳など一度もしたことが無かった。
だが、どんどんと湖の底に沈んでいくパメラをこの世に引き留めるには、死に物狂いで泳ぐしか無く、殆ど溺れている人のような動きで水を掻き分けていった。
(パメラ、死んじゃ駄目! そんなの、私が絶対許さないんだから!)
目を閉じて、既に死を受け入れているパメラの手に、なんとか届かないかと、必死に腕を伸ばす。
(う……そろそろ息が……)
息の限界が近づくのを感じていると、ふいにアナの手首が誰かによって掴まれた。
ふと隣を見ると、ナイフを咥えたウェインが手首を掴んでいて、アナよりもずっと上手いフォームで下に泳いでいくと、弛緩して上にあげられていたパメラの手を掴ませてくれた。
すると、パメラは薄く目を開けた。視線の先にアナが居ることに気づくと、驚いたように目を見開いて、口から空気が零れていた。
ウェインはそのあと、パメラの足元まで泳いで石が繋がっていた縄を切ると、アナを助けながら、二人でパメラを水面まで引き上げた。
「ぶはぁっ、はぁっ!」
「……っニィナ! まずアナ様を引き上げろ!」
「はぁっ、私はいいから、まずパメラを……!」
三人が一気に水面から顔を出すと、ウェインはすぐ傍の桟橋に居たニィナに指示を飛ばすが、アナはそれを拒みながら、パメラを桟橋の近くまで連れて来た。
「はいはい、ごちゃごちゃ言わないの!」
「ひゃあっ!」
桟橋で待機していたニィナは、まずはアナの腋の下に腕を差し込むと、物凄い力を入れて引き上げた。
「よいしょっと! 次はパメラね。さあ、腕を伸ばして」
「……」
まさか飛び込んでまで救われると思っていなかったのか、呆然としているパメラは、何も言わずに腕を伸ばして、ニィナに引き上げられていた。
ウェインは桟橋に手を掛けて、自力で湖から上がると、三人とも満身創痍の様子で、息を切らしていた。
パメラは未だに生きた心地がしていないようで、死人のように虚ろな表情を浮かべていた。
すると、アナは自身の身体がびしょ濡れなことなど気にしていない様子で、パメラの傍に来ると、彼女の頬を強く叩いた。
「……!」
「命を、そんな簡単に投げ打つな!」
パメラはその言葉に苛立ったのか、頬を抑えながら、今まで胸に渦巻いていた感情を吐き出すかのように叫んだ。
「か、簡単なわけないでしょ! どこまでも彼を愛しているからこそ、私は死を選んだのよ! 何も知らないあなたが、口出ししないでよ!」
物凄い剣幕だったが、アナは怯むことは無く、更に大きな声で怒鳴った。
「口出しするに決まっているでしょ、私はこの村の聖女なんだもの! それに、ダリウスを愛しているのなら、彼がどうしてあなたを置いていったのか、きちんと考えて!」
すると、パメラは動揺して口答えを止めた。アナは深く息を吐いて呼吸を整えると、滔々と語った。
「あなたが、ダリウスに自分を迎えに来るか聞いた時、約束できないから忘れて欲しいと言った理由を考えてみたの。想像に過ぎないけれど、ダリウスは、あなたの貴重な若い盛りの時間を、自身の夢という曖昧なもので消費させたくなかったんじゃないかしら。それがパメラに伝わるよう説明しなかったのは、彼の落ち度だけど、愛する者と離別する辛さは、彼だって同じく味わっているはずよ。なのに、彼にそれ以上の苦しみを味わわせるつもり?」
瞳がぐらりと揺らいで、パメラの頬に、髪から滴った水が一筋垂れていった。
「悲しいのは分かるけれど、これ以上自暴自棄になるのはやめなさい。もし、ダリウスがあなたの死を知って、あなたと同じように考えて後を追うとなったら、あなたはどうするの?」
「駄目よ、後を追うなんて!」
咄嗟に顔を上げて、パメラは縋るように言ったあと、はっと我に返ったような顔をした。
「今胸に降りた感情を、あなたはダリウスに味わわせようとしていたのよ。こんなこと、絶対に二度とやらないで。ダリウスが彼なりに守ろうとした、あなたの人生を、そんな簡単に捨ててしまわないで」
「わ、たしは……っ」
そう呟いた瞬間、パメラの瞳から涙が零れ落ち、その場に倒れこむと、子供のように泣きじゃくった。
アナは傍に膝を突くと、パメラが泣き止むまで、その背中をさすり続けた。
暫くすると、パメラはようやく気持ちの整理が付いたのか泣き止んで、アナたちは彼女を家の前まで送り届けた。
「本当にこの村を出ていくの?」
家まで送り届ける道中に聞いたことについて、アナが心配そうに問い掛けると、パメラは振り向いて、憑き物が落ちたかのようにすっきりした顔に笑みを浮かべた。
「はい、もう決めたんです。父が起き出してくる前に、この村を出て彼を追いかけようと思います」
「それは、結界の外には瘴気や魔獣などの危険があると分かった上で、言っているのよね?」
「はい。彼の目的地は分かっていますから、きちんと安全に気を付けて向かおうと思います。ここからそう遠くありませんし、生きて会いに行かないと、置いていったことに対して文句を言えなくなってしまいますから。それに、ここに居たままでは、父が用意した相手と結婚しなければならなくなりますし」
既に意志は固いようで、パメラは濡れ髪を手で整えると、アナに深々と頭を下げた。
「聖女さま、どうか今までの度重なるご無礼をお許しください。あなたに救われた命、少しでも彼の支えになれるように使って行こうと思います」
「そんなのいいのよ。あなたがもう一度生きてみようと思ってくれただけで、こんなに嬉しいことは無いわ。……所で、あなたお守りはあるの?」
「あっ、はい。今も首に提げています」
パメラは服の中にしまっていた木彫りのネックレスを取り出した。それは、聖導院が信徒に配っている、瘴気や魔獣を寄せ付けないとされているお守りで、ニィナやウェインが着けているものとデザインが似通っていた。
「これは、聖女さまが手ずから彫ってくださったものですから。神に見放されたと思っていた時も、こればかりは外すことが出来ませんでした」
照れくさそうにパメラが言うと、アナは嬉しそうに笑みを浮かべて、お守りを手に取ると、もう片方の手をかざした。
「今からこれに、どんなに濃い瘴気や、どんなに強い魔獣からも、このお守りが身を守るように念を掛けます。……はい、これでもう、大丈夫」
パメラの瞳をまっすぐ見つめると、彼女は瞳を潤ませて、また深々と頭を下げた。
アナたちが家を去ると、今まで黙っていたウェインとニィナが、一斉に厳しい表情を浮かべた。
「アナ様、また無茶をしましたね」
「今度は湖に一人で飛び込むなんて。全く、なーに考えてるんですか!」
「ご、ごめんなさい。あれこれ考えている間に、いつの間にか身体が動いていて……」
「もうっ。帰ったらきちんと湯浴みさせなきゃ。このまま寝かせたら風邪引いちゃう」
「アナ様、俺の外套だけで寒くはないですか? まずは着替えていただかないと」
「……あはは」
口々に小言を言う従者たちの姿を見て、アナはふっと笑みを零す。
「何笑ってんですか、こっちは真面目なんですからね!」
「ごめんなさい。ただ、あなた達が傍にいたら、私はどんなに道を違えても大丈夫だろうなと思っただけよ」
すると、二人は顔を見合わせて、ふっと笑みを浮かべた。
「そんなの今更ですよ、当たり前でしょ?」
「それが俺たちの仕事ですから。……いつでも、あなたの傍らでお守りします」
「ふふ、そうよね。とっても心強いわ」
真ん中に立つアナは、両脇に居るウェインとニィナの手をそっと握ると、そのまま帰路に着いた。
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