聖女とロマンス
3-1
冬が明けて暫く経ち、村に積もる雪が解け始め、少しずつ春を感じさせていたリーンドル村にも、ようやく本格的な春が訪れた。
「いやぁ、ここ最近青空がよく見えていいなぁ。この温かい風を浴びられると、厳しい冬を耐えた甲斐があるってもんだぜ」
村の中を歩いていると、村人たちがこのようなことを口々に言っていた。やはり山間部の冬は厳しいのか、皆、訪れた春に喜びをめいいっぱい感じているようだ。
アナも村人たちが安らぎの表情を浮かべていると、自分がこの表情を守っているのだと思えて、なんだか嬉しくなった。
だが、あまりにも平和なあまり、些細ではあるが、ある悩みに直面していた。
(……報告書に書くことが無いわ)
自宅の書斎で、まっさらな報告書に向かうアナは、呆然と胸の中で呟いた。
(最近、毎日やっている事が同じで、報告書がほぼ同じ文面になってしまうのだけど、どうしたらいいのかしら……違いがあるとすれば、見回り中にローザさんが話してくださる内容くらいなのだけど……)
報告書は、公務の終わりに必ず書かなければならないもので、月初めにまとめて聖導院に提出するのが決まりだ。
これをきちんと書かないと、聖女として不適格だと判断され、査問会に掛けられることもあるので、一見地味だが聖女にとっては重要な作業なのだ。
(それに、これはただの噂ではあるけど、田舎に配属された聖女が、何も起こらないあまり、毎回同じ内容の報告書を書いていたら、業務を適当に行っていると判断されて、辞めさせられた事があるとかないとか……でも、田舎なら毎日違うことなんて起きないんだから、しょうがないと思うけど?)
そう思いながらも、自分もそう判断されたらどうしようと思い、アナはなんとか工夫を凝らして書いていて、そのお陰で無駄に文章力はあがっていったが、そろそろ限界に近づいていた。
(勿論、報告書に書くことが無い程、平和な毎日を送れているというのは、とても幸せなことだから、決して何か問題が起きて欲しいわけじゃないのよ? だけれど、それが原因で辞めさせられるのは、さすがに……)
あくまで噂だが、長年囁かれているだけに妙に信ぴょう性があり、完全には無視できなかった。
(……いや、そんなの気にしても仕方ないわ。それに、自分が堂々と聖女として仕事をこなしていれば、いきなり辞めさせられることは無いはず……よね?)
若干自信が無かったが、こう思うしかなく、アナは報告書に昨日とほぼ同じ内容を書くと、書斎を出た。
廊下に出て、食卓と地続きのリビングで、家事や道具の手入れをしているウェインとニィナに、一言声を掛けた。
「私はそろそろ寝るわ。ウェインは先に休んでちょうだい」
「わかりました。ごゆっくりおやすみください」
「じゃあ、参りましょうか」
ニィナは立ち上がると、アナと共に階段を上り、自室へと向かった。
自室に入ると、手伝ってもらいながら寝間着に着替え、ベッドに入ると、ニィナがカーテンを閉めた。
「では、おやすみなさい。アナ様」
「ええ、ニィナもおやすみなさい。ゆっくり休んでね」
挨拶を交わし、ニィナが部屋を出ていくのを確認すると、アナはベッドに横たわった。今日も朝早くから活動していたので、夜が更ける前に眠くなってしまうのだ。
(明日も早く起きないといけないし、早く眠らないと……)
枕に顔を静めると、微かにいい匂いが鼻腔を掠める。きっと、ニィナが新しいシーツに今朝頂いたお香を焚いてくれたのだろう。花の香りがして、アナの好きな匂いだった。
息をめいいっぱい吸っていると、段々と眠気が訪れてきて、アナはゆっくりと眠りについた。
〈……あれ、もう朝かしら?〉
沈んでいく意識の中、アナはふと、瞼に光を感じたような気がして、目を開けようとした。だがいつまで経っても目が開かず、その瞬間、身体がどこかに引き込まれていくような感覚を覚えた。
〈ああ、今は、夢を視ているのね……〉
現実では有り得ない感覚に、アナはさして驚きもせずに、今夢を視ているのだと自覚した。
どこともいえぬ場所に身を任せ、ただ揺蕩っていると、夢を視ていると理解したからか、目が自然に開いて、ようやく夢の中の景色を見ることが出来た。
〈あの人たちは……?〉
景色はぼやけていて、細部までは分からなかったが、誰かの家の中を覗き見ていることは分かった。その中には若い男女が居て、何かを言い争っているようだった。
〈この二人……見覚えがあるような……?〉
その横顔には確かに見覚えがあり、目を凝らすと、その二人が、村の若者のパメラとダリウスだと分かった。
彼女たちが何を言い争っているのか知りたかったが、くぐもって聞こえる声を、言葉として聞き取ることがどうしても出来なかった。
すると、突然、見ていた景色が絵具で塗りつぶされたように消え、新しい景色に変わった。
そこは村の近くにある湖で、氷が溶けて湖面がようやく見られるようになったと村人に聞いた。時刻は夜中のようで、月が天高い所に上っていた。
湖に現れたのは、パメラ一人だった。ダリウスの姿は無く、彼女は頬に涙を伝わせ、ひどく悲しんでいる様子だった。
〈彼女……どうしたのかしら? 何故泣いているの?〉
パメラは涙を拭いながら湖の傍に行くと、その場で立ち止まり、月が浮かぶ湖面をぼんやりと見つめていた。
何故かその姿を見ていると胸がざわついて、無意識に胸のあたりを握りしめていると、パメラは一度空を仰いだあと、湖に飛び込んでしまった。
〈ああっ!〉
声をあげた瞬間、アナは突然、自身も真夜中の湖に飛び込んだような感覚に陥り、激しい水流に投げ出されて、身を捩らせた。
〈苦しい! 息が出来ない!〉
黒い水から逃げられることが出来ず、息が苦しくなり、必死に水流から抜け出そうと藻掻いた。
すると、夢に入った時と全く同じような、身体が引き込まれていくような感覚を覚えた。
「……っきゃあ‼」
悲鳴をあげながら目を覚ますと、そこは見慣れた自室の天井で、アナはベッドから飛び起きた。
「今のは……」
心臓が早鐘を打ち、全力疾走した後のように息が荒くなっている。先程まで視ていたのは夢だというのに、まるで今の出来事を本当に体験したような、生々しい感覚が肌に残っていた。
「アナ様、ご無事ですか!」
「大丈夫ですか⁉」
悲鳴を聞きつけたのか、寝間着姿のウェインとニィナが、ほぼ同時に部屋にやって来た。アナは二人を見ると、びっしょりと濡れた額を手の甲で拭った。
「……大丈夫よ、私は何ともないわ」
「ですが、物凄い悲鳴を上げていましたよ?」
「誰かに襲われたわけではないのですね?」
「ええ、その心配はないわ。ただ……今、予知夢を視たのよ」
「予知夢……?」
二人は不思議そうに聞き返した。アナは息を吐くと、弱々しく言った。
「聞いたことが無いのも無理ないわよね。予知夢は、聖女であっても視られる者はそう多くないもの。私も、初めて視たわ……」
予知夢とは、聖女が持つ特殊能力で、夢の中で未来を視ることが出来た。
「ええと……どうしてそれが予知夢だとわかるんですか? 普通の夢の可能性もありますよね?」
ニィナは半信半疑なのか、問いかける。アナも困惑している様子だったが、やがて確信を持った声色で返した。
「私も、最初は信じられなかったけれど、私の中に流れ込んできた彼女の感情が、あまりにも生々しかったの。だから、間違いないと思うわ」
「彼女?」
ウェインに聞かれ、アナは未だ落ち着かない心を静める為、ゆっくりと息を吐くと、弱々しい声で言った。
「夢の中では、村人のパメラとダリウスが言い争いをしていたの。何を言っているかはわからなかったけど、ダリウスはずっと申し訳なさそうにしていて、パメラは怒って、悲しんでいた。それで……」
「それで?」
それ以上のことを言うのは躊躇いがあったが、ウェインに促され、仕方がなく答えた。
「……それで、彼女は悲しみのあまり、近くの湖に、身を投げてしまった。そこで、視ていた予知夢が途切れてしまった」
ウェインとニィナは、真剣な顔を見合わせた。これが予知夢だとしたら、パメラはじきに、自分の意思で死を選ぶことになってしまう。
「これは、一大事ですね」
「そうね……なんとしても止めないと」
「ですが、どうするのですか? パメラに予知夢を視たことを伝えるのですか?」
ウェインに問われ、アナは首を横に振った。
「予知夢に出て来た人に、その内容を伝えるのは良くないとされているの。特に、生死に関わることは、固く禁じられているわ」
「そうなのですか?」
「ええ。もし自分が死ぬ未来を視たと言われたら、誰しも冷静で居られないでしょう? それに、予知夢を伝えても、その後彼女が意思を変えることなく、死を選んだとしたら、私たちに邪魔されないように、別の場所で死のうとするかもしれない。そうなったら、私達には阻止できないわ」
「……確かに、そうなれば、我々で状態をコントロールできなくなりますね」
「そうでしょう。……だけど、問題は、彼女たちに悟られないように、どうやって事情を聴きだすか、よね」
若い娘と青年のトラブルなど、なんとなく察しが付きそうなものだが、それ故に、聞き出すのは中々骨が折れそうだ。
「どんな理由にせよ、前途ある若い娘を、自ら死に急がせるわけにはいかないわ。明日は日曜の集会があるから、村人が皆礼拝室に集まるし、その時に様子を確認してみましょう」
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