1-5
「おい、アナ様はどうした?」
夜、夕食の準備も整い、あとはアナが来るだけという所で、ニィナが一人で階段に戻ってきたことを、ウェインは訝しんだ。
ニィナは困ったような表情を浮かべていた。
「それがねぇ……公務が終わる時間に迎えに行ったら、すっごい暗い顔しててさ。何かあったのか聞いても答えてくれないし、というか殆ど喋ってくれないし、夕飯もいらないからって、部屋に閉じこもっちゃったんだよね」
「なんだ、何かあったのか?」
「そんなのこっちが聞きたいよ。ねぇどうする?」
「……そうだな」
息を細く吐いて、ウェインは厨房に向き、ニィナもそれについていった。
火が消えたばかりの竈に薪をくべて火を起こすと、そこに小鍋を置いて、牛乳を注いだ。焦げないようにへらでかき混ぜ、沸騰した所ではちみつをスプーン一杯入れると、マグカップに注ぎ入れた。
「これを持って行ってやってくれ。それで気持ちを落ち着かせてから、悩みを聞いてやるといい」
「何よ、あんたが作ったんだから、あんたが持って行きなって」
「……俺は、人を慰めるのが得意ではない」
「別にそれは意外じゃないけどさ、私も私で、お前は正論しか言えないのかって、昔よく怒られてたからさぁ、適任とは言えないのよ。だからウェイン、頼んだ」
「……」
ウェインは溜息を吐くと、ニィナを一瞥してホットミルクを片手に二階に上っていった。
アナの部屋の扉をノックするが、返事は無い。
「アナ様、俺です。入ってもよろしいですか」
扉越しに声を掛けたが、やはり返事は無い。ウェインは少し考えたのち、ドアノブを掴むと、許可も無しに扉を開けた。
部屋の中は灯りが付いておらず、月明かりだけが僅かに部屋を照らしていた。
アナは、ベッドに腰かけて、窓の外を眺めていた。
「……入れと言った覚えは無いわ」
振り向くことも無く、アナは静かでいて、揺らめく波間のような声色で言った。
「許可はいただけませんでしたが、安否を確認するために、無礼を承知で入らせていただきました。申し訳ありません」
「安否、ね……こんな静かな場所に、何の危険があるというの?」
「……とりあえず、食事が喉を通らないのでしたら、これだけでも飲んでください。身体が温まると、気持ちも落ち着きますので」
投げやりな言葉を吐くアナに近づいて、ホットミルクを差し出すと、彼女はぎこちなく振り返った。ただでさえ白い肌から血の気が消え失せていて、表情は氷の様に冷たく、固かった。
「……あなたがそんな暗い顔をしていては、民にもそれは伝わります」
「そんなこと、分かっているわ」
「では、一体何があったのですか」
アナはホットミルクを受け取ると、ウェインから視線を外して小さな声で言った。
「どうすれば、聖女として村人たちに認められるのか、その為にはどのくらい頑張ればいいのか、分からなくなってしまったの」
「何を言っているんですか、わざわざ認めさせなくても、既に彼らからは認められているでしょう?」
何故そう思ったのか分からず、ウェインは反論するが、アナが弾かれたように振り返った。
「そんな事ない……!」
震える声色でそう言ったアナの緑がかった青の瞳には、今にも零れそうなほどの涙が湛えられていて、ウェインは無表情に動揺の色がさした。
「私は聞いてしまったもの、民が私の陰口を話していることを。認められるのはおろか、何を考えているか分からないと恐怖心を覚えさせる始末よ。こんな酷い聖女、世界のどこにだっていないわ!」
瞬きをすると、大粒の涙がアナの白い頬を流れ落ちていく。アナはそれを乱暴に拭うと、自棄になったように言った。
「どうせ、村人たちは私を体のいい子守としてしか見ていないのよ。私はただ、聖女学院で学んできたことを実践してきたのに、これじゃ何一つ意味が無いじゃない。じゃあどうすればいいのよ、私だって皆との距離を縮めたいのに、教えがそれを拒むんだもの!」
胸にわだかまっていたものをひとしきり吐き出すと、アナははぁ、と息を吐く。ウェインはそれを静かに聞いていたが、やがて控えめに言った。
「……ホットミルク、今が丁度いい温度ですよ。飲んでください」
アナはそう言われて、まるで自棄酒のようにホットミルクを呷った。確かに温度は熱すぎずぬる過ぎず丁度良い温度で、甘く温かいミルクは、固まった心をほぐしてくれた。
アナはごくごくと飲み干すと、微かだが、頬に赤みが戻った。
「少しは落ち着きましたか」
「……ええ」
空っぽになったマグカップをアナから預かると、ウェインは言い聞かせるように言った。
「そんなに悩むのでしたら、民の心と学校で教えられたこと、どちらを取るか選ぶべきです。どっちつかずなままでは、民も付いていくことが出来ません。これは、他でもないあなたが決めるべきことだ」
「え?」
アナは虚を突かれたような顔をした。そして、強い衝撃を受けた。
(先生から教えられたことに背くなんて、そんなこと、やってしまっていいのかしら?)
聖女学院で教えられたことは、アナにとって絶対であり、何者も揺るがすことが出来ないと思っていた。だが、その言葉が自分を雁字搦めにしているのも事実だ。
未だに衝撃が抜け切れず、呆けていると、ウェインは続けていった。
「それとも、元々の希望であった大都市への転任を希望しますか? 通るかどうかはさておいて、要望を伝えることは可能ですが」
「な、何であなたがそれを……⁉」
アナは、ウェインが自身の願望を知っていることに、激しく動揺した。
「あなたの従者に赴任する前、ある程度の情報を知らされます。書類には、あなたがとても真面目で、優秀で、都市への赴任を希望していると書いてありました。理由までは書かれていませんが、それに、口には出さずとも、そういう雰囲気を感じたので」
アナは恥ずかしそうに、そして自虐めいた笑みを浮かべた。
「そうだったの……ああ、それも、もしかしたら民に伝わっていたのかもしれないわね」
溜息を吐いて、アナは視線を落とした。
「別に、ここが嫌だったわけじゃないのよ。ただ、私は、都市に暮らす、ある聖女にどうしても会いたかったの」
「聖女にですか? その方は一体……」
うつむいたまま、アナは言った。
「その聖女の名はリリー、私の実の母よ」
ウェインは目を見開いた。
「……それは存じ上げませんでした。お母様も聖女なのですか」
「あら、その情報は載っていなかったのね。物心付いた頃から、養父に育てられてきた私は、母の顔も、どこに住んでいるかもわからないけれど、唯一知っているのは、どこかの都市で聖女をやっているということだけ。だから、同じように聖女になって、都市部に赴任して、母の顔を一目見て見たかったの。といっても、もうそれは叶わなくなってしまったけれど」
「……それは、かなりの賭けではないですか? 聖女は各国に派遣されますから、仮に都市に行けたとしても、どこの国に居るかもわからない以上、そこにアナ様の母上がいらっしゃるかは分からないのでは?」
「そんなこと分かってるわよ、でも幼い私には、そうする事でしか、母を近くに感じられなかったの。馬鹿なことだと笑われるでしょうけど……」
目尻に滲む涙を指で拭うと、アナはウェインの方を見た。月明かりに照らされた彼女の顔は、先程よりもずっと晴れやかになっていた。
「はあ、すっきりした。悪かったわね、心配を掛けた上に、愚痴まで聞かせてしまって。ニィナも、さっきは邪険にしてしまってごめんなさいね」
そういって扉の方を振り向くので、ウェインもつられて振り向くと、部屋の扉が微かに開いていて、やがてゆっくりと開くと、その向こうにはニィナが居た。
「あはは……気づかれていましたか」
居心地悪そうにニィナが笑うと、部屋の中に入ってくる。
「二人共、気弱な所を見せてしまってごめんなさい。本当なら私がこういった悩みを聞いて、民を闇から救い、光に導く存在なのに」
「いいんですよ、従者はあなたを支える為に存在しているんですから、気を遣う必要なんて無いんです。むしろ、頼ってくれないと仕事してないと思われて、逆に聖導院からお給料下げられちゃいますよ」
ニィナは明るく笑って見せると、アナはつられて笑った。
その表情は、初めて見る、心からの笑顔だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます