聖女のお仕事

1-1



 アナは、顔に掛かる長いプラチナブロンドの髪を払って、執務室中に響く子供たちの声を前に、平静を装った。

「エリン、リック。一つのおもちゃを争うのではなく、二人で分けて遊ぶ方がいいですよ。その方が、おもちゃも二人に引っ張られて痛い思いをしなくてすみますよ」

「えーやだ! だってこの木の列車はぼくのだもん!」

「ちがうよ、エリンのだもん!」

「……」

 なおも止まぬ姉弟喧嘩にどうしたものかと思っていると、黒紫色のローブを控えめに引かれ、下を向くと、小さな女の子が頼りなさげな顔をしていた。

「……ね、ねぇ、聖女さま……おしっこ……」

「お、お手洗いなら、あそこを曲がったところにあるわよ?」

「ひ、ひとりだと、怖いの……」

「ええっと、サラ! この子をお手洗いまで連れて行ってちょうだい!」

 今にも決壊しそうなのか、小さく震えている子供を、近くに居た比較的大きな子供に案内させると、思わず溜息を吐いた。

(どうして私は、こんなに沢山の子供の世話をさせられているのかしら……本当なら、今は告白の時間なのに)

 告白の時間は、民の悩みや懺悔などを聞き、聖女が言葉を示す重要な時間だと、聖女学院では教えられてきた。だというのに、先ほどから聞いているのは、子供たちのけたたましい声と、激しい足音だけだ。

(こんな筈じゃ……私の聖女としての人生は、もっと輝いているはずなのに……)

 ゆるやかな絶望が全身に満ちていき、アナはただ呆然としていると、一人の子供が、大きな本を抱えてこちらに近づいて来た。

「ねぇ聖女さま、このご本も読んで!」

「あら、今度は大きい本を持ってきたわね、エドワーズ。この本はちょっと難しいけれど、いいのかしら?」

「うん!」

 屈託のない笑顔を向けられて、アナは苦笑を浮かべる。子供たちの無垢な笑顔を見るのは、嫌いでは無いのだが、どうしても、この状況に納得できない自分が居た。

「じゃあ、最初から読んであげましょう。おいでなさい」

 前任の聖女が執務室の片隅に置いていった安楽椅子に腰かけると、エドワーズは嬉しそうに膝に載って、ページを開いた。

「昔々、これは千年も前の事……」


千年も昔の話、世界はかつて平和であったが、突如として地面が割れ、その隙間から毒の空気〝瘴気〟が吹き出し、世界中を覆ってしまった。

その空気を吸うと人々は病に陥り、身体の弱い者や子供、老人から次々に死んでいき、ついに世界の人口の七割が死に絶えた。

自然の猛威に成すすべもなく、人々が絶滅の危機に瀕した時、今は亡き小国に住んでいた、アーヴェルナという一人の少女が、ある時神の天啓を受けた。

神は、無数の光に声を乗せて、アーヴェルナに伝えた。


〝この連なる地の何処かに、人間が瘴気と呼ぶものを排除する石が存在する。

 それを探すのだ。さすればお前は世界を救うことが出来るだろう。    〟                     


 天啓を受けたアーヴェルナは、その日から石を探す旅に出た。その旅は、あちこちに吹き出す瘴気や、瘴気により生み出された怪物〝魔獣〟により困難を極めたが、やがて彼女は、

世界の果てで石を見つけ出すことが出来た。

 その石は見上げる程大きく、複雑な色を放ち、見る角度や陽光の有無、それに、見る者によって色が異なる不可思議な石であった。

そして、最大の特徴として、この石の周りには、一切瘴気が湧きだしていなかったのだ。

のちにこの石は〝浄化晶石〟と呼ばれるようになった。

 アーヴェルナは浄化晶石を全世界に広める為に〝聖導院〟を開き、世界の中心にどの国にも属さない自治区を作ると、その地を聖導院の拠点とした。

そして、旅の途中に出会った五人の仲間と共に、辛うじて存在していた国々を回り、浄化晶石を砕いた欠片を渡すと同時に、聖導院の教えを説いていった。

 後に、浄化晶石は祈りによってその力を増幅していくことが分かり、人々は瘴気から隔絶された世界を手に入れる度、次々と聖導院に入信して、熱心に祈りを捧げるようになった。

 それが功を奏したのか、猛威を振るっていた瘴気は少しずつ弱まっていき、紫に染まる空に、数百年ぶりの青空が見えるようになった。

 平和と安息をもたらしたアーヴェルナを、民は聖女と呼ぶようになり、時代が流れていくと、いつしか各地で浄化晶石を守り管理する女性のこと自体を、聖女と呼ぶようになった。


「……こうして、神様が私たちに慈悲を与えてくださって、アーヴェルナ様と先人たちが、今ある平和の為にうんと頑張ってくれたから、今のあなたがいて、綺麗な青空を見られているのよ。これはとても大事な事だから、覚えておいてね」

 膝の上で興味津々に話を聞いていたエドワーズは、振り返ると疑問を投げかけて来た。

「ねぇ、どうして聖女さまは、聖女さまになろうと思ったの?」

 純粋な質問に、アナは少しの間を置いて言った。

「うーん、そうね……私は、小さい頃から憧れの聖女が居たの。そんな彼女に少しでも近づきたくて、私もなってみたいと思ったのが始まりかしら?」

「憧れの人って、どんな人? 聖女さまが憧れるんだから、やっぱり凄い人なの?」

 アナは少し悲しそうに笑った。

「凄い人なのは確かだけど、どんな人かは分からないのよ」

「え、なんで? 憧れの人なんでしょ?」

「そうなんだけどね……」

 当然の疑問に、どう答えたらいいか言いあぐねていると、執務室の扉がノックされた。

「どうぞ」

 声を掛けると扉が開き、低姿勢の女性が数人、ぞろぞろと執務室に入って来た。

「失礼します。聖女さま、今日も子供の面倒を見てくださってありがとうございます」

 この女性たちは、預けられた子供たちの母親だ。

昼間は忙しくしていて、子供の面倒を見る余裕が無いらしく、前任の聖女が厚意で子供を預かっていたようだ。その流れで、新任であるアナまで、子守の役目を担う羽目になったのだ。

「いいえ、お気になさらないでください。子供たちと戯れるのは喜びもありますから」

 アナは笑みを浮かべて、当たり障り無く返した。

「そうはおっしゃっても、新任の聖女さまは、前任の聖女さまと比べてお若くいらっしゃいますから、子供の世話をされたことなど無いでしょうに、大変だったでしょう? ご苦労をお掛けして申し訳ありません」

 そういって母親たちが次々に頭を下げるので、アナは困った顔をした。

 へりくだりはするが、矢鱈と決めつけてかかったような言い方と、かといってこれからは他に当てを探すなどとは一切言わない母親たちに、アナは口元に苦笑を浮かべるほかなかった。

 だが、アナはそんなことおくびにも出さず、あくまで自分は聖女であると言い聞かせながら、静かに言った。

「苦労などと思ったことはありません。子供は世界の宝なのですから、聖導院の代表としてきちんと面倒を見させていただきます」

「まあ、さすがですわ。お若いのに、うちの旦那よりしっかりしてらっしゃるわ!」

 そういって母親たちは笑うと、子供たちを連れて、聖堂を後にした。

 アナは親子を入口まで見送って、観音扉を閉じると、その顔から笑顔は消えて思わず口から息が零れた。

(別に偉ぶりたいわけじゃないけれど、あの人たち、私の事なんて、ただの子守としか思っていないんじゃないかしら……?)

 村人たちにとって、今の所、アナは聖女という名前が付いているだけの、ただの余所者のように思っている気がしてならなかった。

都会ならまだしも、山間部に位置する小さな村という閉鎖した空間だと、アナは異物も同然なのだ。

 それに、長年共にしてきた聖女の影響もある故、馴染むにはかなりの時間を要するだろう。

(どうして? 私が間違っていたの?)

思い描いていた景色とまるで違い、アナは酷く困惑していた。聖女学院で期待に胸を膨らませていた自分は何処かへ去ってしまい、ここに居るのは、知らぬ土地に残され、だれにも頼れない孤独な少女であった。

浮かない顔で振り返ると、礼拝室のステンドグラスから夕陽が差し込み、古ぼけたカーペットに様々な色の光を落としている。

通路を挟むようにして、両脇に並べられた席の右側の最前列には、一人の男が座っていて、ああまたか、と思った。

 その男はカーンと言い、無精ひげと無造作な髪という、一見浮浪者と見紛うほどの、くたびれた雰囲気をまとった男だ。

アナが赴任してから毎日見る男で、夕方に来ては定位置に座り、聖堂を閉める時間になると去っていくのだ。

聖堂に来るのを日課にするのはとてもいい事だと思うが、彼の表情は常に暗く、重苦しい何かを抱えているようだった。

 アナは我に返ったように頬を両手で抑えると、聖女らしい穏やかな笑みを作り直して、カーンに近寄った。

「こんばんは、カーン。今日も精が出ますね」

 声を掛けると、暫く何も聞こえていないかのように、講壇の奥に置かれたアーヴェルナの石像を見つめていたが、やがて目線だけでアナを捉えると、ゆっくり振り返った。

「……ああ、聖女さまですか。こんばんは」

「ずっと聖女像を見つめていたようでしたが、何を考えていらしたのですか?」

「……いえ、特には。ただ、ぼんやりと見つめていました」

 カーンは低い声で返すと、ステンドグラスに滲む濃いオレンジ色の光にようやく気付いたのか、ぽつりと呟くように言った。

「聖女さま、夕の鐘はもう鳴りましたか?」

「いえ、まだですが、昼の鐘が鳴ったのは大分前ですから。もうそろそろ鳴る頃でしょうか」

「そうですか……では、俺はこれで失礼します」

 席から立ち上がると、胸に手を当てて頭を下げる敬礼をして、カーンはよろよろと聖堂を後にしていった。

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