005 二人の距離

 教室。朝のホームルーム前。

 普段よりも早い時間に教室に出向く。


 寮でりあを起こして無理矢理連れてくるのもわたしの仕事で、それらを考慮していつも早い時間に教室に着く。


 だけど今日は珍しくりあも早く起きていた。あくびを噛み殺しながらも『学校行くかぁ』と呟く彼女の姿は、秘境を探検して本物のクリーチャーに出くわすのと同じくらいに確率の低い景色だった。


 そんなわけで普段より早い登校になってしまったけれど、教室には既にすなぎもがいた。退屈そうに机に突っ伏して眠っている。


 学校は居眠りをするところじゃない、と指摘したいところだけど、まだ登校時間としても早い。こんなところでまで厳しくしなくてもよいはず。


 すなぎもの前の席にちょこんと座って、彼の寝顔を覗き見る。大きく口を開けて眠っている。


 鮫みたいなギザギザの歯がのぞき、チンピラみたいな見た目に反して上品ないびきをかく。音は小さく、芸術点の高い(いびきの芸術点ってそもそもなんだろう)代物だ。

 机の上には、一限の教科のノートが並べられている。机横にかかった鞄の口からは夏祭りのチラシが見えた。今日行われるものだ。


 ……誰か既に先約がいるかな。

 いない……はず。


 ちょっとだけ考える。ストーカーみたいな動きをしているけど、あれはアイドルをファンが追っかけする感覚で、実は彼女持ちだとか、夏祭りは女の子たくさんで出かける……とかだったらどうしよう。


 ……。


 なんだか腹立ってきたからデコピンをお見舞いしておく。

 こぴんっと綺麗な音が額で弾ける。デコピンの衝撃に思わず彼は目を覚まして額を抑える。そしてそのまま誰がこんなことをしたのか確認しようと上を向いて。


「えっ⁉ 由梨花さん⁉ ご機嫌麗しゅう……ハローでございます……」


「おはよう。すなぎも」


 彼は黒板上の時計を確認する。


「あれ、今日は早いですね」


「りあが珍しく早起きだった。登校らくちん」


「あの真宮寺さんが早起き……珍しいこともあるんですねぇ……うっ」


「ど、どうしたの」


「こんなに長時間まともに由梨花さんとお話ができるなんて……今日の俺はなんて幸せなんだろうっ。泣きます!」


「あ、うん。好きなだけ……」


 大きく声を上げてすなぎもは泣きだした。

 ちょっと話しただけでこれとは。

 まぁ……それもそうかもしれない。実際わたしと彼のコミュニケーションと言えば奇行と罵倒だけだった。なのに懲りずにぶつかってきたのが、すなぎもの凄いところ。行き過ぎな所もあるけれど……。


「すなぎも、今日暇?」


 意を決して聞いてみる。

 すなぎもが涙を流しながら喜んでいる中、台詞に反応して動作が止まる。時間自体が止まったような突然のフリーズで、ちょっと人差し指で小突くとようやく意識を取り戻す。


「えっ、はい。暇、です」


 呆然としつつそう言った。

 ほっと息を吐く。


「了解。じゃあ放課後夏祭りに行く。第七駅で六時頃に待ち合わせ」


「えっ」


「いい?」


「えっ」


「すなぎも?」


「いくらですか……?」


「お金なんて取らない」


 ツーッと。今度は静かに涙の雫が彼の頬を伝った。何故か天井を見上げて、安らかな顔をしている。


「そうか。ここが黄金郷……。たどり着いたんだな、俺は」


 だめ。幸福が体中に満ちて頭がおかしくなってる。正常な思考ができてない。一気にいろいろと話を進めすぎたかもしれない。もっとゆっくり誘うべきだった。

 

 すなぎもを見る。

 こんなに喜ぶ男を、わたしは今夜殺す。

 せめて幸せな夢の中で殺してあげたい。

 エゴだろう。

 これはわたしのエゴ。

 それでもこの気持ちは変わらない。

 そうしたいんだ、わたしが。

 でもそれは……人形としてのわたしが……?

 それとも……。


 ため息をつく。


 急にわたしの中で膨らむこの言葉にできない、心が重くなるような感覚はなんだろう。

 邪魔。これじゃまともに仕事もできない。

 時計を見ようと黒板の方を振り返る。


 すると、入り口の方に人影が見えた。

 それは間違いなくりあで、こっそりとわたしたちの様子を覗き込んでいたみたい。

 彼女はにやりとわたしのお誘いの様子を見ていたらしい。あとで絶対いじってくる。あの顔は間違いない。


 ぱしゃり。


 勝手に盗撮しないで。馬鹿。

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