002 ユリカ・ライフ
「由梨花さんの朝は早い。由梨花さんは朝最初にシャワーにかかる習慣がある。そしてその後腕立て伏せ、腹筋、スクワットそれぞれ五十回ずつを繰り返した後に、栄養食品のサプリメントを水と一緒に流し込む。これが由梨花さんの朝食です。そのあとは一日の授業の復習、予習。身なりを整えて部屋を出ます。由梨花さんの部屋に置かれている小説は石井久道『悦子の墓』、湯村夏美『嗚呼愛しのガンダーラ』、松田けんいち『きゅるるん子猫大百科ベストワンハンドレッド』、それぞれ角沢文庫、新調文庫、主婦の
「すなぎも」
青葉学園高等部二年教室の一室。
夕方ホームルーム後の騒がしい教室の中でおびただしい量の個人情報を流出させている頭のおかしい男子生徒がいた。顔なじみで、毎朝顔を合わせている知り合い。
彼は教室でまるで今日の天気の話をするかのように、今のような言葉をクラスメイトに投げかけていた。
確かにその前にクラスメイトの女子が『舞園さんってどういう生活しているのかな。スタイルいいし……』と話しているのは耳に入っていた。
だけどそこで、わたしの私生活を当たり前のように語ることは規則違反。
「すなぎも、まって」
「はい! 待ちます!」
「今何を言ってたの」
「舞園由梨花さんの一日を事細かに言語化しておりました!」
「……わかった。そこになおって。ぶん殴る」
「よろこんで!」
よろこんで、らしいので思いっ切りぶん殴った。毎日の腕立て伏せと腹筋、スクワットが産んだベストバランスのストレートは、彼の顔面に綺麗に決まり、「はぅっ」という消え入りそうな断末魔と共に後方に倒れ込む。だがその表情はどこか嬉しそうだった。
これが変態。
なるほど、すごい。
「由梨花さんの拳と俺の頬が触れ合ったと言うことは、これは実質デートでは?」
実質もクソもない。
床の上でニヤニヤと笑うこの気持ちの悪い男は、砂肝和一。わたしのクラスメイトで、前述の通りストーカーだ。
その凄まじさは去年……わたし達が一年生の頃からで、わたしへの貢物を持ってきたり、わたしの好みそうな服をプレゼントしてきたり、体重が少し増えればダイエットの本を手渡してくるなど、枚挙にいとまがなく、恐るべきは散々わたしに叱られようとも懲りずに告白まがいのことをしてくるところ。
流石に一年生の時と比べれば大人しくはなったものの、それでもこの頭のおかしさは変わらない。
悔しいのはこの男、これを善意で行っている為、これだけ好き勝手やっておきながら学則違反は殆ど起こさないところだ。ちゃっかりしていると言うべきか……。
わたしが肩を落とし、床の上で傷む頬を嬉しそうにさする変態を見下していると、帰路につくために行き交う人混みを分ける見知った顔が目に入ってきた。
彼女はすなぎもを見下ろした後に、こぶしを握り締めているわたしを見る。
「よぉ。また馬鹿やってんのかぁ?」
片手をあげてにやにやと笑い、赤髪を揺らす。いかにも楽天家そうな朗らかな笑みを浮かべて、りあは変態に近付いてぽんっと肩を叩いた。
「ほどほどにしてやれよぉ? スナギモも度を越えない程度のストーキングにしろよ。行き過ぎたストーカーは犯罪だぜ?」
「すなぎもは行き過ぎてる。手遅れ」
「おお……それは可哀想に。ナンマイダナンマイダ」
「ありがとうございます真宮寺さん。俺由梨花さんと結婚します」
「頭がいかれてる。どへんたい」
強めに罵ってみた。
「誉め言葉です!」
「死ぬべきだと思う」
わーきゃーわーきゃーと嘆くすなぎもにわたしが辛辣な言葉を吐く。それでもわたしと話せることがよほどうれしいのかゆるゆるのスマイル。ストーカーというもののすさまじさを感じる。そんなわたしにりあはきゅっと近づき肩を揉みだす。
「まーまー、そうしかめっ面すんなって。可愛いらしい顔が台無しだぜ? ところでスナギモはなにしたんだ?」
「わたしの生活スタイルを急にそらんじだした」
「スナギモ!」
流石のりあもこれには吠えた。
彼女も生徒会……生徒への叱責も。
「あれはあんまり他の人に言うなって言っただろ? アタイが渡した情報なんだからうまく使えって」
共犯者だった。
「てへっ。アタイ困ってるストーカーはほっとけないのさ」
「個人の情報漏洩、規則違反。りあは牢獄で泣きわめきながらわたしに許しを乞うべき」
あははごめんごめん、と悪びれる様子もない。彼女はすなぎものことを割と気に入っている。それはこのクラスの中では比較的人間味があるからだと思う。
この青葉学園都市は高等教育機関、研究機関が集積された計画都市だ。
その研究の対象として、この青葉学園では異能力が重視されている。メカニズムは未だに不明な所が多いけれど、それを解明し教育、社会の役に立てるということを建前に非人道的行いさえ許容されている。
無論、青葉学園の生徒は殆どが異能力者だ。
わたしであれば幻。りあであれば爆発。
他にも、電波を操ったり自身を透明化させたりとその能力は多岐にわたる。そしてそういう異能力者はどこか頭のねじが飛び、人間性が薄い。
それは能力を得た反動というべきだと思う。だからこそりあは、ストーカーという極めて人間的で愚かな行動に身を委ねるすなぎものことを気に入っている。
自分達にない人間的一面を強く持っているあの変態のことが。
わたしは、嫌い。それはまるで、自分が人間らしくある為にわたしを利用しているみたいだから。だから今日もこうして冷ややかな目で彼を見下すのだ。
「そういやスナギモ、夏祭りはいいのかよ」
思い出したように呟くりあの声で、思考から一気に現実に引き戻される。りあの言葉にすなぎもは顔を少し赤らめて、視線を泳がせる。
「いや、あれは……ああ」
「なんだ。つまんねぇなぁ……」
あからさまに気を落としてりあは後頭部で手を組んだ。そのままぐいっと背伸びをしつつ、わたしに視線を送り教室を出ようとする。教室内の人影はもうずいぶんと少なくなっていた。
青と夕焼けの間の曖昧な光が窓ガラスを通過し室内を染めている。その光は、いつもは気持ち悪いという感想しか抱かないすなぎもの顔を、なんだかひどく印象的な、物憂げな表情に見せた。
りあの後を追って、教室を出る。
ちらりと振り返るとすなぎもが大きく手を振っていた。
「また明日ぁ!」
無邪気に、彼は笑っていた。
●◯●◯●◯
「明日の放課後は生徒会での定例会だな。今月の人間狩りも近いし、明日にゃ対象者一覧のコピーが配られるだろうなぁ」
青葉学園廊下。昇降口に降りるための道程を生きながら、りあはめんどくさそうにあくびをする。
大概、定例会において毎月の人間狩り対象者が発表される。青葉学園都市と言えど学校はこの青葉学園高等部だけじゃない。ほかにいくつもの教育機関・研究機関のビル群が埋め尽くすこの学園都市において、結果を出さない能力者を排除することは学園都市全体の質の向上として欠かせないことだった。処分を生徒会に任せることは、能力実践の演習にもなるので無駄がない。
「下部組織の連中は殆ど仕事しないから執行部で対処できる人数が喜ばしい」
「そうだなぁ。まぁカイチョ―に祈るしかねぇんだけどよぉ。アイツ時々無理難題吹っ掛けてくるからなぁ……。何考えてるか分かんねぇし」
ぶつぶつ二人で話しながら昇降口を抜けて学校を出る。学園の門を抜け、長い階段を下りていく。急な階段で、人間狩りの際はここで体力を失った標的を殺すこともある。のぼりがかなりきついけれど、お世話になってきた階段。
「なぁ、ユリカ。最後に心の底から泣いたのはいつだ」
何の前触れもなく呟いた。階段を下りつつ視線はずっと向こうを向いている。ここじゃないどこかを見てるみたいな。
「覚えてない」
「最後に笑ったのは」
「覚えてない」
「うん。まぁそうだよなぁ。ユリカは人形を目指してるもんな。能力を行使するだけの規則に従う人形を」
「当たり前。生徒会の人間として正しいふるまい。りあみたいな戦闘狂もいるけど」
「なぁ」
りあが立ち止まった。
彼女の方を振り向く。
夕焼けが赤髪を照らし、幻想的な雰囲気さえ感じさせる。
風がすっと吹いた。
まるでそれは問いかけるように。
「じゃあ最後に怒ったのはいつだ」
●◯●◯●◯
青葉学園高等部の人間の多くは学園からそう遠くない位置にある寮 星海寮で生活している。それはりあも、わたしも、多分すなぎもも。彼は男子寮だからわたしのいる棟とはまた違う場所だけど。
りあと寮廊下で別れ、わたしは一人自室へ歩いていた。
人の声が少しもしない静かな廊下。人影はあるのに皆他人には関心を持たない。
わたしはその中を突っ切って歩き、扉の一つの前で静止する。鍵を取り出し、静かにひねる。
ほんのわずかな開錠音なのに、やけに大きく感じる。
扉を開けて部屋の中に入る。
カーペットも、何も敷かれてないフローリングの床。
靴を脱ぎ、靴下のままその上を歩く。
埃一つ落ちていない綺麗な床。
リヴィングに入り、学生鞄を壁際に置いた。
テレビもなければ机もない殺風景な部屋。あるのは備え付けのベッドと小さな本棚だけで、そこに並ぶのはすなぎもが言った通りの三冊の本。教科書類は部屋の隅に綺麗に積み上げてある。
窓に近付き、開ける。
風がカーテンを押し、中に入ってくる。
『じゃあ最後に怒ったのはいつだ』
りあの言葉が頭の中を巡る。
言われた瞬間、わたしは黙り込んでしまった。
今は言える。
小さく、唇を動かす。
「きょう」
外を見下ろす。並ぶビル、ビル、ビル。まるで無理矢理詰め込まれた子供のおもちゃ箱みたいな都市だ。すべてがぐちゃぐちゃで、だけどそれが完璧なんだ。
窓から離れ、台所の棚に置いていたサプリメントを飲む。
これが今日の夕食。
味はない、感触もない。
この感覚を忘れるなわたし。
わたしは常にこんな風にいなければならない。
「わたしはお人形」
それは自分を再認識するため……?
いや、勝手に口が動いていた。
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