幕間 聖女アリスと聖騎士ノア
異形の怪物から聖獣様の子を助けたあと、男はまるで全身の力を使い果たしたように膝から地に崩れ落ちた。
悲鳴を上げて男に駆け寄るメイドたちを見つめながら、アリスは傷ついた親友に回復魔法を施していた。
(いったいあの方はどのような殿方なんだろう……?)
聖騎士団でも指折りの実力者である幼馴染みのノア。
そのノアを簡単に威圧したミカと名乗る金髪の少女と、兇獣を片足だけで制圧してみせたルーと名乗る銀髪の少女。
二人の強さはアリスの目から見ても異常だ。
そんな異常な強さを持つ少女たちをメイドとして侍らせ、その敬愛を一身に向けられる謎の男――。
(とても臆病……ううん、慎重な方のようにも見えるけど。でもその目には強い意志があった。
聖獣は男のことを『代行者様』と敬い、まるで女神に対するような……いや女神よりも上位の存在として礼を尽くしていたように見えた。
そんな人間がこの世界に居るのだろうか?
(代行者ってどんな方なのかな? 聖獣様でさえも礼を尽くすような、神聖にして不可侵な方とでも言うのかしら……?)
そんな存在は今の時代に伝わっているどの神話にも載っておらず、創世教会の聖典にさえ登場していない。
ならば代行者とは?
心に浮かぶ疑問に繋がるような知識をアリスは持ち合わせていなかった。
(ダメだなぁ……。私もまだまだ勉強不足だ)
兇獣の襲撃によって壊滅した村の、たった一人の生き残りであったアリスは、アイウェオ王国の孤児院に引き取られて、そこで慎ましく生活していた。
ある日、アリスに神聖魔法の素質があることが判明すると、『創世教会』がアリスの保護を申し出た。
兇獣によって両親を失った自分のように不幸に見舞われる人々を少しでも減らそうとアリスは懸命に神官の修行に勤しみ、その甲斐もあって『創世教会』が崇める女神、地母神マーヤから加護を授けられて聖女となった。
同じ頃、アリスを守りたい一心から血のにじむ努力を積み重ねて聖騎士に任命されたノアと共に、アリスは『創世教会』の司教たちに命じられるまま、王国各地で兇獣を浄化していった。
「くっ……アリス、ごめん。あたし、何の役にも立てなかった。精鋭揃いの聖騎士団でもそれなりに強いほうだと思っていたのに、とんだ勘違いだったみたい……」
「そんなことないよノアちゃん。それより怪我のほうは大丈夫?」
「ええ。聖女様の回復魔法のお陰でね。あたしはもう平気よ」
「そっか。良かった……♪」
落ち込んではいるが目立った外傷のない幼馴染みの様子に、アリスはホッと安堵の息を漏らした。
と、そのとき。
頭の中に誰かの声が聞こえてきた。
(これは神託……? でもいつもとは何か違うみたい)
アリスがいつも授けられる神託は、頭の中にフッと浮かぶ神からの便りだ。
どこで兇獣が発生する可能性が高い、であるとか、どこで飢饉が起きそうであるとか、曖昧な言葉の中にそういった情報が秘められている。
だが今、アリスの頭に浮かんだのは、いつものように曖昧な言葉ではなく、まるで目の前から親しげに語りかけられているような、はっきりとした言葉だった。
『アリス。我が声が聞こえていますか?』
「え……聞こえていますけど、でもあなた様はどなた様ですか?」
『聞こえているのであれば良かった。我が名はマーヤ。あなたに加護を授けた、女神と呼ばれているマーヤです』
「ええっ!? 地母神マーヤ様……!?」
『そうです。こうやって話をするのははじめてですね』
「は、はい! えっと、その……いつも私を見守ってくださってありがとうございます! あ、そうじゃなくて、えっと、ああ、もう、私、何を言ってるんだろ!」
突然、信奉する女神から声を掛けられ、混乱の極みに陥るアリス。
横に居るノアが不思議そうな表情を向けるなか、アリスは深呼吸をして気を静め、女神への祈りのポーズを取った。
「マーヤ様……いつも我らに恵みを与えてくださり感謝します。マーヤ様の慈悲に縋り、私たちは日々の糧を得て幸せに暮らしております」
『ふふっ、貴女の祈りはいつも我の下へと届いております。これからもその敬虔な心で力無き者たちを守っておやりなさい』
「はい! あの……ところでマーヤ様。この度の神託はいったいどのような?」
信徒に一節の文章を授けるのが神託のはずなのに、今回は女神から直接、言葉が下りてきている。
事の異常さにアリスは少し身構えながら女神にその真意を問うた。
『我が加護を受けた聖女アリスに告げます。貴女はこれから
「え……私が、ですか?」
『そうです。彼のお方はこの世界にとってとても大切なお方なのです』
「この世界に……」
この世界にとって大切、とはどういう意味なのだろう?
アリスは女神の言葉に疑問を持った。
『貴女の疑問は分かります』
「え……マーヤ様は私の考えがお分かりに?」
『その程度は造作もありませんよ。加護を与えた貴女のことは手に取るように分かるのです。ふふっ、我はこれでも女神と呼ばれている者なのですから』
「し、失礼しました……!」
『構いませんよ。それよりも我の命に不服がありますか?』
「不服、というほどのものではありません。ですが何故、あの殿方なのかと。少し気になったのです」
『それは我の口から告げることはできません』
「女神様でも話せないことなのですか……?」
『ええ。ですが彼のお方のお側に侍る二人の少女。あのお方たちは我よりも上位の存在である、とだけ覚えておきなさい』
「この世界を創世したマーヤ様よりも上位のお方……っ!?」
『そもそも我はこの世界を創世した神ではありませんよ。ただ大地を守護し、人々の生業を支えていたに過ぎないのです』
「ですが世界に住まう人々を育み、その命を支えてきたマーヤ様は正しく世界を創世したと言っても過言ではなく――」
『いいえ。それは遥か昔、教会に居た神官たちがねじ曲げた教え。我に創世の力などあるはずがないのです」
「そんな……では私は今まで間違った教えを学んでいたのですか……?」
『そうかもしれません。ですが間違った教えを学んでいたから、貴女が今、心に抱いている願いまで間違っている。そう思いますか?』
兇獣に村を滅ぼされて両親を殺された自分のような悲劇を皆に味わって欲しくない――それはアリスの『存在意義』の根源にある願いなのだ。
例え今までの教えが間違っていたとしても。
アリス自身が願い、実践しようとしている願いなのだ。
教えがあるから願いがあるのではない。
願いがあり、それを成就させるために学んできたのだ。
その学びが間違っているというのであれば、正しいと思うものを学べば良い。
「……いいえ。決して」
『そうでしょう。アリス。教会の教えに囚われる必要はありません。貴女は貴女の願いを成就するために自由におやりなさい。貴女の振るまいが我の想いから外れない限り、我は貴女のことを見守っています』
「……はいっ!」
『そしてその願いを成就させるために、彼のお方の寵愛を得ることが重要なのです。貴女の願いを成就させ、ひいてはこの世界を守るために』
「この世界を守る――」
女神マーヤの言葉の意味は今のアリスでは正確に理解はしえなかった。
だが信奉する女神の言うことなのだ。
今の自分には分からないかもしれないが、いつか分かるときが来るだろう――そう考えてアリスは心を決めた。
「分かりました。今の私に何ができるか分かりませんが、マーヤ様のご神託に従おうと思います」
『ありがとう。これから貴女には幾多の困難が降りかかることでしょう。困ったときは彼のお方にお縋りなさい。必ずや貴女に進む道を示してくださるでしょう』
「はい」
『ではこの度の神託はここまでに。アリス。我は貴女のことをいつも見守っておりますよ』
アリスの頭の中に聞こえていた地母神マーヤの声は途切れた。
「ふぅ……」
「アリス、どうかしたの?」
「たった今、マーヤ様からのご神託があったの」
「えっ!?」
「それも直接、マーヤ様にお声掛けされるという形で」
「ええっ!? め、女神様と直接言葉を交わしたってこと!?」
「うん。あははっ、ちょっとびっくりしちゃった」
「ちょっと……って。私だったら心臓が止まっちゃうか、感動で涙が止まらなくなっちゃうわ」
幼馴染みの反応の薄さに驚きつつも、ノアは何事にも動じない芯の強さを持つ友人の様子に改めて敬意を抱く。
「それでマーヤ様のご神託はなんて?」
「あの殿方にご奉仕せよって」
「…………………はっ? え、なに? それってどういうこと?」
「あの殿方はマーヤ様にとってとても大切な殿方みたい。それでマーヤ様の加護を受けた聖女である私が、あの方のお側に侍ってご奉仕しなさいって」
「なによそれ!」
幼馴染みの説明を聞いてノアは憤慨する。
「側に侍れって、そんなの聖女のすることじゃないでしょ! 本当にマーヤ様はそんなことを仰ったの?」
「うん。それが世界を守るためなんだって」
「世界を、って。いったいどういうことよ?」
「それは私にも分からないよ。でも……」
あの男のことが気になるのは本当のことだ。
臆病に見えるほど慎重でどこか浮世離れした雰囲気を持ち、その癖、聖女である自分では為し得なかった聖獣の浄化を成功させた謎の人物。
あの男の側に居れば、自分が今よりももっと強くなれそうな――アリスにはそんな予感があった。
それはただの予感でしかない。
予知でも予言でもなく、ただの勘。女の勘のようなものだ。
だがその勘を裏付けるような女神からの神託を受けたことで、その予感は確信に似たものに変わった。
「私、マーヤ様のご神託に従ってみようと思う」
「ええ……っ!? で、でもアリスには王太子との婚約が……」
アイウェオ王家が聖女アリスの力を見込み、王太子との婚約が一年ほど前に発表されていた。
地母神マーヤの神託に従うというのであれば、その婚約を破棄するほかに方法がない――ノアはそう言いたいのだ。
「婚約は元々、大司教様と国王様との間で決まった政治的なものだし。それにモーブ様は今、アマル男爵令嬢に夢中みたいだから、私から婚約破棄を申し出ればきっと喜ぶんじゃないかな?」
「王家との婚約を破棄するのよ? そんな簡単にいくはずがないわ」
「そうかもしれないけど。でも私はマーヤ様のご神託に従いたいの」
「……教会はどうするつもり? あの男についていくのなら教会から離れなくちゃならないじゃない。聖女である貴女を手放すなんてこと教会がするとは思えないわ」
「マーヤ様のご神託に従うからって言えば大丈夫じゃないかな?」
「お気楽ねえ。そんなに簡単にいくはずがないじゃない」
「……でも私はもう決めたから」
「そう。決意は固いのね」
「うん。……ごめんね、ノアちゃん」
「別に良いわ。アリスが頑固なのは昔からのことだしね」
「えへへー……」
「笑って誤魔化さないの。でもアリスが決意を固めているのなら、あたしも色々と考えなくちゃいけないわね。聖騎士団に剣を返上して――」
「ええっ!? ノアちゃん、聖騎士を辞めちゃうのっ!? せっかく頑張って聖騎士団に入団したのに……っ!」
「あのねえ。あたしが聖騎士団に入団したのは聖女となった貴女をずっと守りたかったからよ。貴女が教会を出て行くのなら聖騎士を続ける必要もないでしょう」
「でもノアちゃんを巻き込みたくは――」
ない――。
そう言おうとするアリスの口に指を押し当てて、ノアはその先の言葉を封じた。
「それ以上言ったら怒るからね? 巻き込み上等。あたしはこれからもずっとアリスの側に居るわ。これはあたしが自分で決めたことなんだから、アリスがイヤだって言っても聞いてあげない」
「……ごめんね、ノアちゃん」
「違うでしょ?」
「……うん。ありがとうノアちゃん!」
「ふふっ、どういたしまして。……で? どうするつもり?」
「どうって?」
「あの男についていくのは良いとして。それをどう申し出るのかってこと」
「それは正直に話すつもりだけど……それじゃダメかな?」
「うーん……あの男だけならそれで行けるかもしれないけど、問題はあの男の側に居る二人のメイドね」
己の強さに自負はあった。
だがそんな自負を歯牙にも掛けず、金髪メイドは言葉を発するだけで自分を威圧して行動の自由を奪ったのだ。
ノアはあのときほど恐怖を感じて身が竦んだことは無かった。
そんな異常なほどの強さを持ち、主に対して行きすぎとも思える忠誠を捧げているあの少女たちが、果たしてアリスの申し出を受け入れるのだろうか?
そんな疑問がノアにはあった。
「反対されるかな?」
「分からないけれど。でも諦めるつもりはないのでしょう?」
「うん。無理って言われても頑張って説得するつもり」
「ならアリスの好きにやると良いわ。応援してる」
「うん、ありがとうノアちゃん♪」
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