第10話 やりたいこと:子フェンリルを助けたい(後編)

 フェンリルを追いかけて洞穴の入り口へ急ぐ。

 暗闇の向こうにぽっかりと開いた入り口。

 その向こうから降り注ぐ太陽の光に目を顰めながら外へ飛び出すと――。


「ていっ」


 ノアにのし掛かって少女を地面に抑え込んでいた異形の怪物を、ルーが気合いと共に蹴り飛ばす場面に出会でくわした。

 ルーに蹴られた異形の怪物は軽々と吹っ飛び、近くの大岩に衝突する。

 背骨が折れそうなほど強烈に叩きつけられた異形の怪物は、だがダメージを負った様子も見せずにすぐに四つ足で立ち上がった。


「なんだあれ……!?」


 聖獣フェンリルのようなシルエット。

 だが身体全体を影のような漆黒の闇が覆っている。

 目だけが爛々とあかく光り、口端から涎が垂れ落ちると地面が腐敗臭のような匂いを撒き散らしていた。


「やはり出てきていましたか……」

「ミカ、あれがなんだか知っているのか?」

「はい。あれは空所グリッヂを通って現世へと湧きだした世界の癌」

「『貪食の虚無ヴォイドイーター』。管理されていない世界に発生し、全てを食らい尽くして虚無へと帰す最悪のバグ」

「『貪食の虚無』……管理されていない世界に発生するってことは、あれをなんとかするのも俺の仕事ってことだな」

「はい。『貪食の虚無』には通常の攻撃は通用しません。神精力を身に宿すご主人様か神精力を与えられた者だけが唯一、対抗できるのです」

「分かった」


 ミカの説明を聞いて俺は覚悟を決めた。

 前世、日本人として生きている間も殴り合いの喧嘩なんてしたことがなかったけれど、今、目の前に俺のやるべきことがあるのだ。

 だったら覚悟を決めてやるだけだ。

 俺は拳を握りしめて『貪食の虚無』に向かって一歩踏み出した。

 目の前に居るのは今まで見たこともない異形の怪物だ。

 正直に言うと怖い。

 足はブルブルと震えているし、気を抜けば腕から力が抜けていきそうだ。

 そんな俺の横にミカたちが並び立つ。


「大丈夫ですよご主人様。ご主人様はミカたちが守ります♪」

「ん。ミカたちが前衛を務める。主様は『神』スキルで『貪食の虚無』を消滅させることに集中して」

「分かった。じゃあ――」


 戦闘態勢を取って『貪食の虚無』と対峙した俺たちに向かって、聖獣フェンリルが悲鳴のような念話を投げかけてきた。


『お待ちください! あの者は……あの異形の者は我の娘なのです! どうか、どうかお慈悲を――!』

「なりません。『貪食の虚無』は世界を消滅へと導く最悪の災厄。一切の慈悲なく消し去らなくてはならないのです」

『しかし……しかしあの子は我のたった一人の娘なのです……!』

「残念だけど手加減して勝てる敵じゃない。諦めて」

『そんな……』


 ミカたちの冷徹な返答に絶望する聖獣に俺は言葉を返した。


「任せろ。俺がなんとかする」

「ご主人様っ!?」

「主様。『貪食の虚無』はすごく強い。ルーたちでも手こずるぐらいの強敵。憑依された個体を傷付けないようにしながら戦える相手じゃない」

「そうか。でも俺は聖獣さんの子供を助けたいんだ」


 我が子の心配をするのは親として当然のことだろう。

 子を死なせたくないというのも当然のことだ。


「俺は両親に親孝行する前に何もできずに死んじまって、両親を悲しませてしまったからさ。できることがあるのなら手を尽くしたい」


 先だってしまったことへの罪滅ぼしとでも言えば良いのか。

 親子の死別を回避できるのであれば手を尽くしたい。

 ただ、そう思ったのだ。


「それが主様のやりたいこと?」

「そうだな。”今”はそれが俺のやりたいことだ。だからやり方を教えてくれ」

「……分かりました。ご主人様のやりたいことを全力で支えるのがミカたちの役目。きっとお役に立って見せましょう!」

「ん……! 主様、『貪食の虚無』がフェンリルの子供から剥離はくりしていくようにイメージする」

「『貪食の虚無』は『存在意義レゾンテートル』に憑依する悪霊のようなもの。悪霊が人から離れ、消滅するようなイメージを思い浮かべてください」

「そのイメージを持ったまま『貪食の虚無』を力いっぱいぶん殴ればいい」

「ええ。『貪食の虚無』の足止めはミカたちにお任せを♪」

「分かった! ありがとうミカ、ルー……!」

「どういたしまして、です♪ でも、ミカたちが上手にできたときはたっぷりご褒美を頂きますからね?」

「そのときはルーたちのお腹の中に主様の神精力プラーナをたくさん注ぎ込んで欲しい。主様、楽しみにしてる」

「うっ……わ、分かったよ!」


 初めてのことだからどんな覚悟を決めれば良いのか分からないけど、二人が求めてくれるのなら誠心誠意、全力でその求めに応じるまでだ。


「うふふっ♪ 絶対ですよ? 絶対ぜーったい、約束ですからね? ご主人様♪」

「じゃあミカ。奴を全力でぶっ潰す」

「もちろんです。ご褒美が懸かっているんですから全力全開五千パーセント殺る気満々で行きますよ、ルー!」

「ん!」

「来なさい! 我が愛剣『正義の剣ジャッジメント』! 我が聖域『絶対聖域アブソリュート・サンクチュアリ』!」

「おいで、『全てを刈り取るものエクスリーパー』」


 ミカは太陽のように黄金に輝く両手剣と重厚な盾を。

 ルーは背丈よりも大きな漆黒の大鎌を。

 召喚した武装を手にして視線を交わすと、二人は『貪食の虚無』に向かって地面を蹴った。


「てぇぇぇい!」

「おりゃー」


 飛び上がったミカは上段から剣を振り下ろし、ルーは地面すれすれを這うように奔って大鎌を薙ぎ払う。

 息の合った二人の連携攻撃を何とか回避した『貪食の虚無』は、口を大きく開くと闇色を纏った黒光ブレスを吐き付けた。

 空気を淀ませ、大地を腐食させながら二人に迫る黒光のブレス。


「んもぅ! 面倒臭いですね!」


 不満を零しながら大盾を構えたミカが浴びせられたブレスをはね除ける。


「その程度の攻撃、ミカたちには効きませんよ!」

「反撃」


 盾を構えるミカの背後から飛び出したルーが至近距離で足を止めると、大鎌をクルクルと回すように連続攻撃を仕掛けた。

 右と思えば左、上と思えば下――変幻自在に襲いかかってくる大鎌の斬撃をギリギリで避けながら『貪食の虚無』は反撃を繰り出す。

 時に牙を剥き、時に爪を閃かせて激しい攻撃を繰り出す『貪食の虚無』。

 その攻撃はどれもミカたちには届かず、攻撃の隙を突いてミカたちの魔法が身体に叩き込まれる。

 互角のように見えて徐々に敵を押し込み始めるミカたち。

 その後ろで俺は『神』スキルを発動させるために頭の中でイメージを高める。


(どれだけ異形をしてようとシルエットはフェンリルなんだ。そのシルエットから、身体に纏わり付いている黒い靄を剥がすように――)


 一枚、一枚、タマネギの皮をめくるように。

 本体に傷を付けないためにゆっくりと慎重に。

 そして剥がした黒い靄が大気中に溶けていくようなイメージを思い浮かべる。


(絶対に助けるから、もう少し我慢していてくれよ……!)


 ミカたちの攻撃に圧倒されながら、それでも『貪食の虚無』は敵愾心を剥き出しにして反撃を続ける。

 その姿の中にフェンリルの娘が居ることを感じ取りながら、俺は必死に頭の中でイメージを固めた。


「ミカ、ルー、そろそろ――!」

「了解です! ルー、動きを止めますよ!」

「ん……!」


 俺の言葉を受けて、二人が一斉に『貪食の虚無』に斬りかかった。

 攻撃は見事に相手の身体を捉え、黒い霧に包まれた敵が地面に叩きつけられ、一瞬、動きが止まった。


「今だ!」


 二人の背後から飛び出して『貪食の虚無』に向かって走り寄る。

 抑えつけられた『貪食の虚無』の爛々と黒く輝く赫い目が、滾るような憎悪を交えて俺を睨みつける。

 口角をつり上げ、大きく鋭い牙を剥きだしにして敵意を向ける『貪食の虚無』の姿に足が止まりそうになる。


(なにビビッてんだよ! 俺が、俺自身が! 助けると決めたんだろうが!)


 己で決めたことを成し遂げるため。

 やりたいことをやるために。

 ここでビビッてなんていられない!


「うおおおっ! 『神』スキル!」


 頭の中のイメージが実現する――そう信じながら声を上げると、握った拳から光が湧きだした。

 その拳を地面に伏した『貪食の虚無』に叩きつける。


「親から子供を奪うんじゃない! 『貪食の虚無』!」


 握った拳が『貪食の虚無』の身体に接触すると、黒霧の塊が悲鳴にも似た咆哮を上げ――やがてフェンリルに憑依していた黒い霧が剥がれ落ちて宙に霧散し始めた。

 やがて消去された黒い塊から銀色の毛並みを持つ狼に似た生物が姿を現す。

 ぐったりとしているが、どうやらまだ命は燃え尽きてはいないようだ。


『ああ……! 我の愛し子……っ!』


 姿を見せた娘の姿に、聖獣フェンリルが駆け寄っていく。

 地面に伏して気を失った我が子を毛繕いする母フェンリルの姿。

 それは我が子の無事を心から喜ぶ母親の姿に見えた。


「はぁ、はぁ、はぁ……良かった。ちゃんと助けられた……」


 自分の望んだ結果を達成することができた――そんな満足感を覚えながら、全身を包み込む酷い倦怠感に引き摺られるように俺の意識は遠のいていった。


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