第12話 夜明けとは
朝、目覚めても胸の不快な痛みが取れない。
昼にお手製の弁当を開けても美味しいと感じられない。
夕方、帰っても楽しみは何かあるの?
嘘つき。マスクのせいでおっかなびっくり。
赤紫の水溶液につかった日常が戻る日なんてない。
「死んじゃダメだよね。死んだらそこで可能性から封鎖される」
白い炎暑が街角を覆う。
広場の真ん中に植えられた楡の木の樹皮が熱気で少し枯れていた。
熱風ももはや、業火の血の沼の頭上に吹き荒れる嵐である。
死んじゃダメだよね、と語る真さんの声音はまるで、過去に仕舞った机の抽斗に眠っている、自分自身に対して呟いているようだった。
死の気配は至る所に隠れている。
「夜明けとはぼくにとっては残酷だ 朝になったら下っ端だから」
真さんはその本のページを繊細な指で開き、夕凪に押されながら朗読した。
真さんの低音のバイオリンのような芯の通った声が心の軸を震わせる。
燕が詠んだ、出来立てほやほやの短歌を目にしたときの微妙な感動とは明らかに違う。
何だろう。
生きづらさを詠んだ短歌だと無能な私でも分かる。
簡単な自己承認のためにこの歌があるわけじゃない。
この歌は夜の底で一滴の、澄み切った涙を拭くためにあるんだ。
「椿ちゃんもこの歌のように孤独にさざめきたい夜があるだろう」
真さんは無数の傷心が二の腕に刻印されているのに決して隠そうとしない。
ロマンチストなのはこの年齢の、永遠のような春のせい。
「真さんは死にたい、と思ったことがあるんですか」
しまった、と思っても口は開いたままだった。
これだから私は配慮がない、と他人から思われるんだろうね。
「ない人に僕は逆に会って話がしてみたいよ。どうやったら気ままに生きられるか、ってね」
幸彦ちゃんがしまいには、知らない同じ年齢くらいの子どもと駆けっこして遊び始めている。
この頃は無心に、無邪気に、倫理で覚えたばかりの煩悩なんて知りもしないで、明日を迎えられた。
いつから、悩みが肥えてきて余分な私が出来上がったのか。
幸彦ちゃんはたぶんまだ深い悩みなんて知らない。
知らなくていい感情は知らなくていい。
「椿ちゃん、学校だけは途中で放り出さないほうが生きるのに楽だよ。通常課程にしがみついておけば、肩にかかる重荷が減るんだ」
真さんは自分に言い聞かせるように話す。
「コロナで大変だろうけれどドロップアウトしたら大変だよ。蟻地獄に一度堕ちたら這い上がるのは至難の技だから」
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