第11話 夕影の絶唱
オペラハウスの形をした水族館とボックス型の建物をしたNHKの放送局のある埠頭から、空に向かって大きくそびえ立つ桜島は天気がどんなに悪くても見える。
多くのフェリーが毎日決まった時間に出航を告げる汽笛を鳴らし、小さな運河には水族館のショーでお馴染みのイルカが悠々と泳いでいる。
海岸に沿って白波は押し寄せ、潮風が途切れる日はない。
埠頭に設備された広場には枯れかけた白詰草が芝生の上に沿って生え、散歩を日課にしている老夫婦が仲良く並んで体操をし、小学生がドリブルの練習をしていた。
二藍色に染まった夕空には偉大ともいえる桜島が不機嫌そうに噴煙を上げている。
幼い頃から何度も見上げた桜島だ。
泣きながら帰ったときもそばにあった桜島だ。
当たり前すぎて灰を回収するためのごみ袋が他県にはない、と知ったときも、ああ、あいつのせいか、とあいつ呼ばわりした桜島だ。
朝凪から徒歩で二分くらいの場所にその埠頭はある。
幸彦ちゃんは手をひらひらさせながら、メルヘンの世界の主人公に早変わりしていた。
親子まではなくても年の離れたお兄さんは幸彦ちゃんにとって、もう一人のお父さんみたいなものだろう。
咽喉に異物が残り、なかなかうまく話のタネを探り寄せられない。
何か最近肩が凝るなあ、と肩をぐりぐりと回すと幸彦ちゃんがマスクを外した私の顔を覗き込んでいる。
まさか、燕のときのように鼻毛! と言って茶化すんだろうか。
幸彦ちゃんは白詰草に止まった紋白蝶を追いかけ、小さい足でダッシュする。
「幸彦が初めて会った人になつくのは珍しいんだよ。これでも」
ダウン症の子どもは、あまり人見知りはせず、誰とでもフレンドリーだと周知されているけれども、実際のところは人それぞれで用心深い性格の子だっているものだ、と真さんは一言添えた。
「椿ちゃんは短歌に興味があるんだよね」
つい、緊張がほぐれていたのでいきなり、真さんから話を振られて手に汗が滲んだ。
「なら、この歌集はお勧めかもしれないね」
真さんの手提げ鞄から取り出したのは浅葱色の単行本だった。
表紙に滑走路の写真がアップされていて、地味だけれども一目だけで印象に残る文字。
それは帯に書かれた『三十二歳で命を絶った歌人の絶唱』。
その文言でこの本を手に取らざる得ない人の境遇も知りえるような本。
歌集なんて燕から勧められた『サラダ記念日』を現代文のテストのついでに覚えたくらいで、散々短歌の蘊蓄を燕から手ほどき受けた私でも知らなかった。
「コロナが拡大すれば、また苦しみ人が増えるだろうね。かつての僕みたいに」
真さんの瞳には混じりけのない翳があった。
「夭折したんだよ。この才能に愛されていたはずの若き歌人は」
どういう意味なんですか、と私はつい口が滑った。
「若くして死が訪れる意味だよ」
真さんの白い横顔に夕影が遮った。
才能に愛されていたという台詞に少なからず、尊敬の念があるのだろう。
最近、死を身近に感じる。
ニュースで人気俳優が亡くなったニュースは学校中に衝撃を与えた。
ラインに煌々と照らされた、トップニュースでその悲痛な記事が目に入ったとき、踝が震えるなんて今まで無縁だったのに私の踝は気が散ったように震えていた。
その日の夜は夕飯も食べられなかった。
別にその俳優さんの、熱心なファンだったわけではない。
その訃報がきっかけで今まで蚊帳の外だった死、という魔物がぴったりと体内を循環する血のように必然的に感じられたからだ。
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