第10話 王子様と
悪い予感は瞬く間に広がり、無数の鋼となって襲いかかる。
タアタ、タアタ、と覚えたての言葉だろうか、その子は澄んだ瞳で見ている。
「いくつくらいのときの子供? なあ?」
何で白黒をつけようとしたのだろう。
早とちりした私。
「燕、冗談をよしなよ。真さんも困っているじゃない」
心の中で赤い舌を出しながら私は燕に言い放った。
「お姫さまは王子様に離縁状を叩きつけられたな。ヒューヒュー」
燕の悪ふざけには呆れ返る。
またいつもの他愛もない冗談だ。
やっぱり、燕の言う通り、この子は。
「年の離れた弟だよ。小さいように見えるけれどもこれでも小学一年生」
そのときほど私は呆気に取られたときはなかった。
そういう事情もある。
吹っ切れたように肩の力が弱くなると私はへなへなになってよろめいた。
「ダウン症なんだ。幸彦は」
口数が少ない真さんが身辺について多くを語ったのはこれが初めてだった。
その子はタアタ、タアタ、と聞き取りづらい言葉を言った後、口を大きく開いて、ニイニ、兄ちゃん! と外国のお菓子の袋に描かれたお日さまのような笑みを零した。
事実を知った燕は無愛想に私を見ていた。
そこまでがっかりすることじゃないの、と私は心の中で燕にふんぞり返る。
本音を言えば相手は怒髪天を衝くだろうけど。
「あら、幸彦ちゃんじゃない。久しぶりね」
くまもんのイラストがプリントされたマスクをつけた燕のお母さんは目を細めて言った。
「真君も仕事はそれまでにして椿ちゃんたちと一緒に散歩でもしたら? 幸彦ちゃんも遊びに来たことだし」
「大事な従業員に残業はさせなくてもいいんですかー。おふくろ様」
燕が不平不満をありありと述べた。
「あんたも手伝えばいいつうの!」
燕のお母さんはわざわざ燕のほうまで行って軽く拳骨を食らわせる。
燕が児童虐待なんですけど! と喚いている間に燕のお母さんは物怖じしないで
「あんたの大学の学費、おじゃんにするよ」
と勇気のある発言をしていた。
才能溢れる息子に何を言うのか、俺は選ばれし者なのに! と燕が豪語すればそれを逆手に取って負けるまい、と私も応戦した。
「じゃあ、選ばれし者は家庭の奉仕活動に勤しまなくていいんだね」
そういう意味じゃねえよ、と聖者と成り果てぬブーイングの嵐。燕はとうとう痺れを切らしたのか、カウンターに行って片付け始めた。
「じゃあ、椿。王子様と仲良くよ」
王子様ってどこ? とその小さな男の子が意味深な質問をしたので燕は、さあさあ、早く行け、行け、と蠅を払うように手でその子の背中を押した。
幸彦ちゃんは嫌がる様子も見せず、逆にくすぐったそうに笑いながら、マスクを外した燕の鼻孔を指して、鼻毛! と無邪気に笑った。
鼻毛だって燕、と私が言ったら、伸び放題の鼻毛を指摘された燕は軽く手を払っていた。
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