第9話 ゲップ


 真さんの控えめ声を聞いたとき、私は運動会のときのスタートラインのピストルのようにゲップをしてしまった。


 何度も繰り返されるゲップを口で押えながら、義務感のように頷くしかなかった。


 傍らで観察していた燕がヒューヒューと口笛を吹いている。


 真さんは大きな咳払いをした。




 私は苦痛を和らげようと残っていたジンジャーエールを一気に飲み干した。


 愚かだった。


 炭酸ガスが幾分薄れていたとはいえ、パンチの利いたジンジャーエールは塩味が取り残された口の中とジャボジャボのお腹に思い切りアタックした。


 とうとう吐きそうになって口で押えて背中を丸め、革靴を脱いで椅子の面に揃えた。


 そうでもしないと幾度も襲いかかるムカつきは抑えられなかった。


 唸り声に耐えていると窮屈な背中を誰かがさすってくれたのを感じた。


 その手はさらさらしていてとても軽やかだった。数分もしないうちにムカつきは収まり、呼吸の音を辿っていると、唇を弧の字に曲げた燕が嫌味のように右指を指していた。




「お姫様はいいなー。王子様がいて」


 背中をさすってくれたのは真さんだったんだ。


 背中に汗が走り去りそうだった。


 気恥ずかしさで顔面が火照り、身に染みる。


「今月の末には分かるんだ」


 口の中に放り出されたポテトのくず切れに大きな違和感を覚えながら私は学生鞄を持った。


「帰るよ」


 紺色のスカートの中に微風が入り込む。白いハイソックスが汗でたるみ、ポテトの異臭とくっついている。


「コロナ禍で俺が文学の歴史を変えてやるんだ!」


 真さんは風来坊の燕に対して何の注意喚起もしないし、苦笑いもしない。


 今日だって真面目にカウンターでアボガドソースを律義に仕込んでいた。


 大ぶりのアボカドを十字に切ってから、中身のピンポン玉くらいの種を取り除き、果肉を刻んでボールに入れ、塩胡椒をまぶし、軽くあえる。


 真さんがルーティンのようにアボガドソースを作っているところを私は逐一見てしまう癖がある。




 その傷はもう更新されていない。


 持ち上げた鞄はじんわりと重かった。


 毎日使っている鞄なのに肩の荷をじらすように重く感じるときがあるのはなぜだろう。


 鞄の紐が手のひらに食い込むと扉から誰かが入って来る物音が聞こえた。




 カウンター席の前には小ぶりの風車を持った小さな男の子が立っていた。


 その子ははにかみながら、真さんが仕事をしているカウンター越しの水回りの前まで行き、珍しそうに見ている。


 その子は顔の作りが普通の子とは違った。


 前にテレビで特集されていた障害だ。


 確か、先天性の病気で名前は。


「真さんって子供がいたの? へえ、意外、意外」


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