第2話

「え?」

なんだ、いつもと違う感覚。

身体がいつもより、大きい?

ん?というか、そういえば!

「英二!!」

そのまま、バッと上を向いた。

「ん?」

月が、夜空が、いつもより近くに見えた。

ふと、隣に何かがいることが、わかった。

ゆっくりと、顔を横に向けた。

「英二!!」

英二は、口をぽかんと開けていた。

「…は?」

「…え?」

一人の男と一人の女の無言の見つめ合いが続く中で、英二は女の瞳のその奥をジッと見つめた。

ふと、また木枯らしがぴゅうと吹いて、英二と女の髪が揺れた。

「…レイ?」

英二の言葉に、女は頷いた。

「どういうことだ…」


二人は、一旦部屋に入って向き合った。

「あの、私今、猫じゃない?」

女は自分を指さして、英二を見た。

「猫じゃないし、これは夢か?」

英二も、若干震えた声で返した。

「英二、一回死のうとしたよね」

「したし、多分死んだ、と思う」

英二はそう自分に言い聞かせるように言った後、ふと、ああ、これは死後か、と呟いた。

「なんだ、これは死後か。レイが人間になって話してる俺の妄想か」

英二は、そう言ってわざとらしく笑ってみせた。

「レイ、お前人間にすると意外と可愛かったんだな」

「いや、英二、多分これは、夢じゃないよ」

「猫よりも、犬みたいな顔だな。つり目よりかはおっとりしている感じか」

「私、人間になったんだ」

「いやぁ、こうやってまたレイと会えるなら、案外死んだのも悪くなかったなぁ」

英二は、急にパチっと頬をぶたれた。

「いってぇな、レイは夢の中でもこういう性格なの…」

英二は、おもむろに、そのぶたれた頬を手で覆った。

「…あれ、痛い?」

「夢、じゃないよ」


「レイ、俺死んだよな」

「うん、死んだと思う」

「レイ、お前猫だよな?」

「うん、猫だと思う」

「レイ、俺いまおかしいこと言ってるか?」

「いたって、まともな事実を言ってる」

「なら、これどういうことだ」

「私にも、わからない」

英二が、そのまま混乱しそうになるのをレイはグッと手で掴んだ。

「英二、この世界って不思議なことが沢山あるんだよ」

英二はその手を無理やりに振りほどいて、またベランダに直行した。

「ちょっと!何すんの英二!?」

「もう一回死に直す。俺はきっと、おかしな夢を見てるんだ」

「ちょっと待ってよ!!」

英二は勢いのまま、グッとまたベランダの柵の外に身体を乗り出した。

風が、ブワッと勢いよく吹いて、英二の後姿は、どこか震えていた。

その時だった。

「英二の悪いとこ1!洗濯物を適当に畳むところ!」

英二の背後で、そう大きな声がした。

「英二の悪いとこ2!食べ終わった食器をすぐに洗わないところ!」

「何…言ってんだよ」

英二は顔だけ後ろに向けて、ジッとレイを見た。

「英二の悪いとこ3!何事も無責任に終わらせるところ!」

「…意味がわかんねぇ」

「すぐそばでいっつも思ってたこと!やっと言えた!言葉って便利だね!人間って便利だね!!」

レイはそのまま、大きな声で、うわーんと泣いてしゃがみこんだ。

英二は自分の内にあった、先ほどまでの勢いが、急にしぼんでしまった。

「…なんで、お前が泣いてんだよ」

英二は、スッと身体を柵の内に戻し、ふと夜空を見た。

黒と青が混じった、どこまで続く夜の色が、空一面に広がっている。

数個の星が繊細に光っているのが見えた。寒風が頬に当たってとても冷たかった。

「もう夢でも現実でも、どっちでもいいや」

「え?」

ふと顔をあげたレイに対して、そう言った英二の顔は、もうすっかり笑顔に戻っていた。

「でも相変わらず頬は痛いし、腹も痛いな」

英二は、部屋に戻って、机の上の健康診断表を手にとった。

泣きはらした顔のレイは、少し嬉しそうな顔をしていた。

「英二、ガンだったんだね」

レイは、いたずらに、泣いていたのを誤魔化すように笑った。

「レイだって知ってるだろ?」

「英二の情けない泣き顔なら、知ってるよ」

レイは、ふふっと笑って英二を見た。

「レイ、お前って人間になったら可愛かったんだな」

「猫の時から美人だったでしょ」

二人は互いに笑った。


「英二、やりたいことないの?」

「やりたいことって?」

「死ぬまでにやりたいこと」

「お前さぁ、そんな死ぬとか直接的に言うけど、飼い主を慰めようとか、そういう気は一ミリもないの?」

「猫は、クールだからね」

そう言って笑ったレイの頬のえくぼができて、英二はふとレイの猫ひげが、ぴょんっと生えていたのを思い出した。

「死ぬまでにやりたいことかぁ」

英二はそう大きく言って、くうを眺めた。

「俺、もうずっと、恋人できてなかったんだよね」

英二は口をもごつかせて、その先を中々言おうとしなかった。

「そのレイさん、ちょっと今可愛いし、お願いしてもいい?」

勢いまかせで言った英二の言葉に、レイは、え?と少し動揺した。

「飼い主が、情けないなぁ」

「ですよねぇ。へいへい、すみませんね」

じゃあ違うのかぁ、と呟いた英二を遮るように、嘘だよ、とレイが笑った。

「嘘だよ。いいよ。恋人になるよ」

「まじ?」

「まじ。あっでもこの場合恋猫になるのか」

「どっちでもいいだろ」

英二はそう言って笑うと、続くようにレイも笑った。

「明日、起きて、俺がまだこの景色を見ていたら、そしたら二人で遊園地に行こう」



「おはよう、昨日は楽しかったね」

「…ん」

いつもの、スマホのアラームじゃなくて、今日は女の声が聞こえる。

目を開けると、レイが顔を覗き込んでいた。

「おはよう」

「夢じゃなかったんだ…」

まだ頭がぼうっとしている中で、英二はそう呟いた。

「遊園地に行こう!」


ー千葉県、浦安市

「ここ、日本で一番有名な遊園地だから」

「そうなんだ!」

家から車で走って、約1時間半ぐらい。ふとスマホを見ると、10時00分と表示されていた。

平日のこの時間だというのに、遊園地は沢山の人で賑わっていた。

なんとく空いてそうなアトラクションに並ぶと、それでも「30分待ち」とあった。

「いやぁ、それにしてもここに来るのも久しぶりだなぁ」

「ずっと行ってなかったの?」

「大学の卒業旅行で行ったきり、仕事が忙しくて行ってなかった」

「へー」

「お前、興味ないだろ」

「待つの苦手なんだよね」

レイはそのまま、売店で買ったチュロスの包み紙を開けた。

「それ揚げたてだから、絶対熱いぞ」

レイはそれをパクッと食べると、その瞬間大きな声で、あつっと叫んだ。

前にいた高校生のカップルが思わず後ろを振り向いたから、英二は、すみません、と謝った。

「だから言ったろ」

「私アツいの苦手なんだ」

「猫舌ってやつだ」

「なにそれ?」

レイは、あげる、と言って、それを英二にそのまま渡した。

「それにしても、この恰好少しアツいかも」

レイは、英二が貸してやった黒のダウンジャケットを胸元で仰ぎながら、そう言った。

「それ脱ぐか?」

「脱ぎ方わからない」

「チャックを下におろせばいいだけだよ」

英二は、自分よりやや身長が低いレイの首元にあったチャックを下にズッーと下してやった。

ふと、英二の手がレイの胸元に当たって、思わず英二は手をひっこめた。

レイがにやにやしながら英二を見る。

「今のが、エロいってやつ?興奮する?」

「バカいうなよ」

「猫も発情期は、きゃんきゃん鳴くんだよ?」

レイはからかった調子で、英二に言った。

「いいかげんにしろ」

ポンっと英二はレイの頭を叩いた。

いつの間にか、アトラクションの順番がきて、二人はそれに乗り込んだ。

そのアトラクションは、子供達の不思議な世界観を船に見立てたボート型の乗り物で回っていく、というものだった。

乗っている間、レイはずっと興味がなさそうに、ただ回りを見渡していた。


アトラクションは終わって、二人は外に追いやられた。

「いまいちだったね」

「そうか?」

「うん、それよりあのすごい早いやつ乗ろうよ」

レイが、興奮しながら指さしたそこは、乗り物が滝から落ちていく、この遊園地の看板的なジェットコースターだった。

「俺、ジェットコースター苦手なんですけど」

「私と一緒なら怖くないって」

レイはウキウキした顔で、いくよ!と言って、英二の手を掴んで引っ張っていった。



「おはよう、昨日は楽しかったね」

「…ん?」

「英二、昨日、ジェットコースターでうわあああって言ってたよ!うわああって!」

レイが昨日の事を思い出して笑っているのを横目に、英二はカーテンから入った日光に目を細めた。

「朝か…」

レイが、ふと、あーそうだ、何かを思い出すかのように言う。

「英二、昨日の車の中にあった写真に女の子いたけど、あれ誰なの?」

「…柚香のことか?」

「ゆずか…って?誰?」

「俺の妹」

「会ってないの?」

「ずいぶん前に喧嘩しちゃってから会ってないな」

レイはぴょいっとベッドから下りて、スッと英二を見た。

「仲直りしないの?」

「もう、できねーよ」

「意地張ってても仕方なくない?英二もうすぐ死ぬんだよ?」

「まぁそうだけど…」

柚香の顔を思い出す。

笑っている顔、不貞腐れた顔、拗ねた顔。

色々そう思いだす中で、最後に思い出すのは、泣きながら怒っていた顔だった。

「…最期に会いにいくか」


ー埼玉県、草加市

「はいー?ん?」

「よっ」

「お兄ちゃん?」

インターフォン越しに甲高い声が玄関前に響いた。

ガチャっとドアが空いて、柚香がその隙間から顔をひょいっと出した。

「急にどうしたの?」

英二は決まりの悪そうな顔をしながら、柚香を見る。

「いやぁ…まぁとりあえず中入れてよ」

「今、部屋汚いんですけど」

「いいから、いいから」


部屋に入ると、PCデスクの上にパソコンが開いたままで、ヘアアイロンや膨大な資料などがそこに散らかっていた。

「全然きれいじゃん」

部屋を見渡しながら、英二は言った。

「てか、急になに?」

「いやー柚香が何してるかなーって」

ポスッと英二はそのデスクチェアに座った。


お茶をコップに入れて持ってきた柚香の顔が、急にムスっと変わった。

「まず、私まだ謝ってもらってないんですけど」

その語尾が、明らかに怒りを含んでいたことに、英二は気づいた。

「あぁもう昔のことだろ。忘れようよ」

なるべくなだめるように、英二は気を遣って言った。

「そういうとこだよ!そういうとこ!」

柚香は、もう完全に怒っていた。

「お父さんの葬式で、お兄ちゃん謝ってばかりだったじゃん。迷惑かけてすみませんって」

「それの何が悪いんだよ」

思わず、英二も対抗するかのように言い返した。

「お父さんは迷惑なんてかけてない!謝る必要ないのにずっと謝ってた!」

「あのな、お前も社会に出てわかっただろ?死んでも会社に迷惑かけたら謝るもんなんだよ」

「だったらせめて私の目の前でやらないでよ!ずっと謝ってて、お父さんが何か悪いことしたみたいで!ずっと気分悪かったよ!」

柚香は、その声が震えていて、泣いている様子だった。

両親が死んでから、前は、ずっとこういう言い合いが続いていた。

英二は、少し深呼吸して、こんなことしてる場合じゃないんだ、と自分に言い聞かせた。

「柚香、ごめんな」

柚香は、英二のその初めての謝罪を聞いて、スッと少し落ち着いたみたいだった。

「私こそ、意地張っててごめん。ずっと言いたかった」


「…で、用件はなに」

柚香は、ミカンをパクパクと食べて、もうすっかり落ち着いていた。

「うーん、聞きたい?」

「もったいぶんないで」

ずっと心にあったわだかまりが解けて、柚香も少し嬉しそうだった。

英二は、そんな柚香を見て、少しだけ微笑んだ。

「柚香、今までありがとうな」

「は?なに、急に」

「俺、もうすぐ死ぬんだわ」

柚香の手にあったミカンが、ポロってすぐに下に落ちた。

「冗談でしょ?キレるよ?」

英二は手提げバッグから健康診断表をとって、それを机に広げた。

「予備項目のとこ、見てみ」

柚香は、目だけ動かして、予備項目を探した。

そうして確認したのか、またこれをすぐ閉じた。

「嘘でしょ?」

「…ごめん」

「ごめんとか、そういうのじゃないって。そうやってすぐ謝んないでよ」

柚香は、口を震わせ、その声もまた震えていた。

そのまま、急に英二にバッと抱きついた。

「そんなのあんまりだよ」

「うん、でも最期に柚香と仲直りしたくて」

「お兄ちゃんまで、置いてかないでよ」

英二は、自分の肩が、柚香の涙で濡れて、肌にまでそれが浸透しているのがわかった。

「ごめんな」

「だから、謝んなって」

「…ありがとうな」

柚香は、バッと顔を挙げて、うわあああああんと大声で泣き始めた。

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