猫と、世界と

夏場

第1話

「吾輩は猫である。名前はレイという」

そう言って英二は、レイをじっと見た。

負けるまい、とレイもそのままジッと見返している。

一人と一匹の無言の見つめ合いが続く中で、英二はレイの瞳のその奥をジッと見つめた。

ふと、網戸から入ってきた木枯らしが、ぴゅうと部屋全体を寒くしたその瞬間、レイがニャァと鳴いて、沈黙を破った。

「よし、今日はレイの負け」

英二はそのまま、戸棚から「猫の気持ち」と書かれたお菓子を出した。

「負けだから、今日は安いやつ」

英二がレイにそれを見せると、レイは不機嫌そうな鳴き声を出して、英二を威嚇した。

「仕方ないだろ。勝負なんだから。しかも最近はずっとレイが勝ってて、このままじゃ俺の生活がままならないし」

英二のその言葉に、レイは諦めたかのように、にゃあ…と不貞腐れたように鳴いた。

「へいへい、安月給でごめんなさいね」

英二はそう言いながらも、少しばかりの気遣いで、お菓子をフードボウルにいつもより多くいれてやった。

レイが、それをカリカリと食べるのを見て、英二もテーブルに座って、コンビニで買ったミートソースパスタの封を開けた。

「こんな生活ばっかり続けてたら、さすがに身体に悪いよなぁ」

そう言いながらも、英二はそのパスタを巻く手を止めることはなかった。

ふと、テーブルの右角にあったレシートに、目をやった。

その横、A4の真っ白の紙の真ん中「健康診断表」という大きな黒文字が目に入った。

その文字は、現実をまじまじと主張してくるかのような存在感で、そこにある。

一瞬それを無視して、またパスタを巻こうとしたその手を、一回止めた。

「見たくない現実を受け入れる覚悟、か」

数年前、医者に言われた言葉を口に出してみた。

フォークを置いて、健康診断表を手に取った。


「よし」

自分を一回鼓舞してから、それを開いた。

様々なチェック項目と文字が羅列するその中で、すぐに左下の予備項目を見た。

「肺 腫瘍 あり」

英二はそれだけ見て、また健康診断表を閉じた。

そのまま、もう英二はフォークを持たなかった。

「はぁ、やっぱりかぁ」

レイはふと、お菓子を食べるのをやめて、英二を見つめていた。

英二もまた、そのままレイを見つめた。

「ガン、転移してた」

レイは、にゃあと鳴いて、英二の足元に寄ってきた。

英二はそのまま机につっぱして、泣いた。



1年前だった。

会社の夜勤明け、帰宅途中の最寄り駅で英二は急な腹痛に襲われ、そのまま倒れてしまった。

待合席でウトウトしていた、始発を待つサラリーマンが救急車を呼んで、英二は病院に運ばれた。

そのまま、着いた病院ですぐに治療を受けた。

鎮痛剤や点滴を投与し、午前中には英二はすっかり元気になっていた。

日頃の食生活が祟ったのか、それでも明日までの仕事をやらなば、と、英二はベッドから立ち上がって医者に駆け寄った。

「あ、先生。もう俺すっかり元気なんですけど、いつ頃退院できますかね?」

そう陽気に言った英二とは裏腹に、医者の顔は険しかった。

とても、嫌な予感がした。

「滝田英二さん、あなた、最近ずっと腹の辺りに違和感などありませんでしたか?」

「…腹?」

状況がいまいち飲み込めない英二に対して、医者は、ふぅと息をついた。

「結論から申しますと、あなたの脇腹に、現在悪性ガンの腫瘍がありました」

「…は?」

絶句する英二に対し、医者は険しい顔をくずさず、言葉を続けた。


ようやく医者が話すのをやめた時、英二は、ただ、治るんですか?と呟いた。

「もちろん、腫瘍の切除手術はします。ただこのガン腫瘍が他の臓器に転移した場合ですが、正直、その時は打つ手はありません」

医者の、打つ手はない、という言葉が、鉛のごとく、ドシッと英二の体にのしかかった。

頭がくらくらして、英二はまた倒れそうになるほどだった。

「まだ現実を受け止められないのは、重々承知です。また日をおいてから、手術日数のご予約、確認をお願いします」

医者はそのまま、失礼します、と続けて、英二の横を通って行った。

現実は、英二が思っていたよりも、恐ろしくて残酷だった。

その後、英二は家に着いても、ただぼぅっとして、その日は何も考えることができなかった。



「レイ、俺どうすればいいかなぁ」

ソファに座って、レイの首元を指で揺らしながら、英二は呟いた。

時間が立ったミートソースパスタは、8割以上がまだ残っていて、そのソースが固まってフォークにベトッと付いていた。

レイは英二にその首元をなでられるのがお気に入りらしく、ゴロゴロと喉元を鳴らしていた。

英二は、自分自身の人生を振り返った。生まれてから今までの30年間、そういえばこれといって良い事も特になかった。

人はいつ死ぬかわからないって言葉、なんとなく無視して過ごしてきたけど、これは本当だったと気づくのが遅すぎた。


外は、夜が一層深く、闇に包まれて静寂だった。

英二はおもむろに立ち上がって、ベランダに出た。

寒風が、英二の髪をふわっと揺らす。

急になでられるのをやめられたレイは、少し不機嫌ぎみに、にゃあと泣いて、英二の足元に寄ってきた。

前の低層マンション、奥に見える踏切、街頭の情けない光が籠って、夜が一層寂しくなっていた。

ずっと下の、赤色のアスファルトが闇と同化していて、暗い色だった。

ぴゅうっと、また寒風が吹く。

英二は、そのまま飛び降りた。

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