回顧録 蒼茫
窓の隙間からは、穏やかな日差し。
私の心とは正反対の天気で。
一人きり、自室で読書をしていた。
文字を追ってはいるものの。頭に入らず。
ページを行ったりきたりという有様。
私が彼女を壊してから――大分時間が経った頃。
今は昼の仕事だけをこなしている日々。
「調子が、いまいちですね」
時折街中で、ルイを見かけるからか。
うっとおしいとしか言いようがない。
ほとんど読んでない本を閉じて、体を伸ばす。
ひどくこっている。体も中身も。
過ぎていく時間の中で思い出すのは……
あの日……過去ばかり。
そうしてもどうにもならない。
後味の悪さが浮き彫りになるだけで。
それでも、思考は思い出に向かっていく――
私はあの時、様子見に行っただけだった。
戦争が終わり、自分のアトリエはどうなったのかと。
それが気になっていただけ。
地下だから、壊されてはいないだろうと。
そのくらいの、軽い気持ちだった。
アトリエに行くまでの道。
そこには大量の人形が捨てられていた。
地上から、逃げ隠れたものもいた。
そのせいか、ひどく睨み付けられた。
戦争を終えた人間の、出した答え。
散らばるそれを見ながら、歩いていった。
幸か不幸か。
私のアトリエは、ほぼそのまま存在していた。
天井の亀裂から、地上の光が差し込む。
懐かしい錯覚のように思える場所。
足元に気をつけながら、入る。
室内は、多少のほこりはつもっていた。
けれど、特に荒らされたような形跡もなく。
とてもいい状態のままだった。
まるで、誰かが守っていたかのようだ。
私はふとそんなことを思ったものだ。
これが、後に的外れでもなかったのだが。
人形制作の部屋。
一ミリも物が動いていないわけではなかったが。
棚にかけてる鍵なども、そのままで。
私が作って、他人には開けない鍵だから。
当たり前なのだろうけれど。
そのうち、隅から隅までを見たくなった。
手持ちの小さな明かりでは、少々面倒で。
その場にある工具で、手近な明かりを修理した。
いくつかの工具は持ち出しておいたけれど。
数年ぶりかに触れたそれは、手によく馴染んだ。
手早く作業を追え、明かりをつける。
ずいぶんと明るさを増した部屋を眺める。
さて、どこから見回ろうかと考えていたときだったか。
何気なく見ていた視界に、一蹴赤が映って。
それは彼女のもので。彼女に似せた、機械人形の。
明かりに映える色に、懐かしさを感じて。
「誰か、そこにいるのですか?」
気がつくと、その方向へと声を掛けていて。
すると、少し大きめの物音がして。
音を辿って、廊下を進んでいく。
行き着いたのは、アトリエの中の一部屋。
私が、彼女に与えた部屋。
歯車の音が聞こえるのは、私の気のせいだろうか。
思わず、彼女の名前を口にしそうになった。
扉を開けて、部屋へと入った。
そうして見えた色は。
何故か、窓から半分身を乗り出している彼女。
たぶん逃げる途中なのだろうが……
見つけてしまった以上。そんなつもりはなく。
「貴女は何をしようとしているので?」
中途半端な彼女に声を掛ける。
「あなたも、人形を集めにきたのでしょう?」
それを聞いて、どこぞの知り合いを思い出した。
私は、そういう集め方はしない。
否定してから、名前を確認したのだが。
私だとは気づいていないらしく……怪しまれた。
適当な話をでっちあげてから。
「貴女作った人は?」
「何処かへ行ってしまいました」
私が彼女を連れて行かなかったのは……
自我があるのだから、どうにかするだろうと。
そう思っていた部分もある。
実験の一部分でもあったけれど。
自分で考え、行動してほしいと思っていたから。
結局のところ、私が何処かへ行っていただけ?
「その人の名前は?」
これは、答えが返ってこなかった。
そこでふと思い出す。
名前を、教えていなかったかもしれない。
彼女は目覚めるとすぐに、マスターと呼んだから。
そのままでいいと、思っていたようで。
似ているだけでは、愛着はわかないものなのか。
放り出してしまったもの。
その糸の先が、まだこの手に繋がっているのなら。
「私に、仕えませんか?」
たずねたが、変な声で聞き返されてしまった。
まだ、足りていないのだろう。
仕事の手伝い、雑用。なんでもいい。
理由があれば、彼女は動くだろうから。
それを自分で考えてもらいたいところだが。
まだ、その時はかなわぬようで。
「マスター、お望みのままに」
仕えましょう。ひざまずいてそういう彼女を見て。
思わず失笑してしまった。あぁ、懐かしい。
ちっとも変わっていない。私は変わったのに。
いまだ変わらぬというのなら。これからか。
ならば、私がこの目で見届けよう。
彼女の結末を。
冷たい身体の機械人形。身体は無理だとしても。
ヒトガタは、人の心をもつことができるか?
それが在るというのなら。あの約束も。
自然と叶うだろう。
彼女は覚えているだろうか。遠い約束を。
それが破られたときを、結末としよう。
突っ立ったままの彼女を、ひきずっていく。
重いから、結構難儀で。
「名前を教えてくださらないかと……」
たしか、そんなことを聞かれた気がする。
それはそうだと、自分でも思って、名乗った。
今度はしっかりと、記憶してもらうために。
「アルフォンス=オーギュストといいます」
◇
それからは、二人暮らしが始まった。
正確には、一人と一体。
とてもよく働いてくれた、忠実に。
人を殺すことも、命令ならば厭わない。
それは、ある種の理想的な人形ではあったが。
私の望みとはかけ離れていた。
文句もいわずにいるから、考えているのかと。
自我の意味があるのかと、悩んだときもあった。
それでもまぁ、考えてはいたようで。
纏っていたぼろ布の代わりの、いくつかの服。
種類をそれなりにそろえてみたのだけれど。
色の好みはあったようで。
めったにそれ以外の服を、彼女は着なかった。
それは、『彼女』が好きな色とは反対だったけれど。
似せたのはかたちだから。
中身までも似てほしいとは、願わない。
だが次第に、予想外のことも増えていった。
あれは、彼女が珍しくも寝坊したときだったか。
いつまでたっても降りてこない。
何かの不具合かと、見に行ったものの。
夢でも見ていそうなくらい、眠りの状態で。
これは面白いと思って。
部屋のカーテンを、閉めてみた。
元から深かったようだが、明かりで余計に深く。
ちょっとした、悪戯だ。
それでも、もともとは彼女自身のせいで、寝坊したのだが。
起きてきた時間はまあいいとして。
その服装には、飛び上がるかと思った。
本当のところ、雨どころか槍でも降るんじゃないかと。
淡い色合いの服は、『彼女』を思い起こさせた。
それも、すぐに振り払ったが。
目の前の彼女は、機械人形の、月の名を持つ彼女。
人間ではない。
それでも、確実に変わりつつあったのだろう。
今考えると。
珍しい依頼があったのは、その頃か。
混ざりものの、少年からの依頼。
主を殺されたのは、不憫くらいには思ったが。
あの少年の、自我というか、思考というか。
それぞれが分かれて、独立しているのは興味を覚えた。
だけど。
あれはあってはいけないもの。
人と機械を繋ぎ合わせるのも、よろしくはない。
個別の意思をもつものを、無理に繋ぐのもしかり。
だから壊した。
彼女は、どう思っただろうか?
何かを疑ったか、悲しいとでも思ったか。
どんなことを考えて、どんな表情をしていたのか。
見てみたかったと、今は強く思う。
偶然というのも、あるもので。
機械人形が、仕事を求めてくるとは思わなかった。
ましてや、それが悪友のものだったとは。
本当にしつこいものだと、その時は思った。
けれども、外からの変化は頼もしいもの。
あいつが作ったにしては、よくできた人形で。
それでも、やることは変わってないようで。
あの橙色の歯車。私には見覚えがある。
糸の結びつきは、恐ろしいものだ。
あの賭け。結局は私が負けてしまったけれど。
最初は、彼女を壊すようにいったのに。
いつのまにか、私を殺せと変わっていた。
あいつの癖だろうか。
目はひとつなくなってしまったが。
それは瑣末なことで。意味もないことで。
反吐がでそうな依頼もあった。
家族を殺された、哀れな男。
より所を代価としていただいたが。
今は何をしているだろうか。
腑抜けているだろうか?
そうであれば、つまらない。
そうでなければ、たくましい。
依頼人について思うのは、その程度だろうか。
私としては、対象の方が汚らわしい。
あれは久しぶりに、自分で始末したと覚えている。
彼女の得物は、使い勝手がよかった。
私は、銃のほうを好むけれど。
彼女達に戦争の話をしたのは。
そう、ほんの出来心でもあった。
ただ覚えていてほしいのは、偽りなく。
本に綴られ束ねられた、嘘。
人の記憶に残る、ひとかけらの真実。
どちらも、忘れ去られてはいけないもので。
だからこそ私は話した。
普段は、ああいう役割はしないのだけど。
私も、まだ変わっていたのだろうか。
今も彼女の歯車に眠るだろう。
いつか、遠い先のいつか。
それを誰かに物語ることも、あるかもしれない。
私がそれを見ることは、ありえないが。
モノトーンへいったとき。
彼女はどうも、アトリエを見に行ったようだけど。
一体何を考えたのだろうか。
自分が変わっていることに、気がついただろうか?
何もかも、出会ったときとは違う。
この辺りから。
毎日は、楽しくなっていたように思う。
他の人形と暮らしているより……全然いい。
だから、決して悪くはなかったのだ。
いまだに思う。
もしも、私が彼女を連れ出していなかったら。
まだ、あの場所に彼女はいたのだろうか、と。
それとも、未練がましい私が、探していたのか。
私はどこまでも、わがままだ。
だが面倒なのは、あいつも同じだろう。
ちょろちょろとうろついて。
あの日のカフェ。すごく平穏だったが。
あいつが、いなければ。
隣では、彼女達がなにやら盛り上がっていたようで。
そちらの話が、すごく気になっていたが。
私はそれどころじゃなかった。
学生時代から全然変わっていやしない、ルイ。
変わったというなら、狡猾さとかそういう部分。
……あの甘い紅茶を思い出すと、胸焼けが。
くだらないが、悪くはなかった。
とんだ茶番ではあったけれど。
酒精に飲み込まれた夜もあった。
壊れたのならば、私が直せばいい。
歯車さえ無事ならば、修復をすればいいだけだというのに。
あの時は……思考よりも先に体が勝手に動いた。
また、目の前で似姿が失われるのが耐えられなかったのかもしれない。
自らの手でなら、まだしも。
降って湧いた屑にかっさわれるなど許せない。
そういえば。着飾っていたときもあった。
正確には、着飾られていた、なのだろうが。
シアも、おそろいのものをつけていたような。
どんな成り行きで、そうなったのか。
今となっては知りえないけれど。
できることならば、彼女の口から……
話を聞いてみたかった。
あのコサージュも、リングも。
よく、似合っていたから。
主の手癖が悪いと、人形にも影響するのだろうか。
適当に作った、あの看板。
まさか使われる日がくるとは、思ってもいなかった。
それを作った当時の私も、お笑い種だが。
あの最後の夜も、雨が降っていたけれど。
静かな雨夜もあった。
あれは、不思議な夜だった。
普段はいわないような言葉が、すらすらと。
それは彼女も同じだったのだろう。
珍しい話も、言葉も聴けた。
彼女は、もしも私が殺されたなら。
泣いてくれたのだろうか。
今でも、それだけが気になっている。
雨が、誰かの代わりに泣くなんて。
記憶は、歯車を伝い受け継がれるものなのだろうか。
未完成の機械人形。完成した人形。
どちらもあの愛しい人に似せて。
どうか、人のような心になりますよう。
『彼女』の代わりに――
しあわせになってほしい。
体の弱かった『彼女』
それでも、彼女はしあわせだといっていた。
私はそれを、いまだに信じられない。
人と人形が、争っていなかったら?
環境さえ良ければ、治ったろうに。
そうならば、私が人形を作ることもなかった。
争いが長引くほど、自然は悪化していく。
彼女の、綺麗な髪。
吐いた血と同じ色の。
目眩がするような、赤。
それでも彼女は言った。
風の囁きのような、はかない声で。
私はしあわせです――と。
薬でもどうにならない、蝕みを。
ただ見ているだけだった、私に。
微笑んで、彼女はそういってくれた。
そうして、あの夜に。
私は彼女を壊した。
あの日は、記念すべき日でもあったのに。
彼女達が、しあわせについて話し合っていた。
いままでにこんなことがあったろうか?
確実な変化のサイン。
紡がれた答えを、私は知らないけれど。
だから、私は最後の仕上げをした。
決断を、迫った。
そのときに、彼女がどんな答えを選ぶのか。
邪魔者を始末するのは、ルール。
彼女も承知していただろう。
それなのに、彼女はためらった。
選択の意味するものは……
実験の成功にも似ていた。
同時に、それは裏切りにもなったけど。
だから私は彼女を壊した。
それがひとつの約束だったから。
自分のものを、自分で壊した。
それで、終われたならよかったのに。
◇
あらぬところを見ていた目を閉じて。
私は今一度考える。
私にとって、彼女はただの機械人形。
それがたとえあの人の似姿だったとしても。
しあわせになってほしいと願ったのは。
嘘偽りはない。今も昔も。
それを壊したのは、自分なのに。
「往生際が悪いったら……ない」
ぽつりと呟いた言葉に返事はない。
胸に、穴が開いている。
『彼女』を亡くしたときよりも、深く。
何をしても埋まらない。
埋まるどころか、侵食されていくだけで。
ちゃんとした結末にたどり着けるのか。
人の心を持てるのか。
それはただの実験で、わがままな願いだった。
彼女がいなくなって残ったのは、空だけ。
彼女は最後に、ありがとうございました、と。
そう、私に伝えた。
自らを壊した私に対しての言葉。
どんな意味で、どんな気持ちだったのだろう。
罵倒されるならわかるが、なぜ感謝を。
それも、今では彼女に聞くことは叶わない。
なんども、私は考えてみたけれど。
答えはでることはなくて。誰も教えてもくれない。
きっと、彼女が持って行ってしまったのだろう。
誰にも、触れられない場所へと。
こんなにも、囚われるなんて。
作ったときですら、思わなかった。
今になってようやくといった所だろう。
もしも、姿を似せていなかったら。
まったく違う人形だったら。
こんな思いにはならなかった?
それも、幾度となく考えた。
けれども、結論は同じで。
私がルナと呼ぶ、あの機械人形。
どんな姿をしていて、どんな自我でも。
結局は、後悔するのだ。
この手で壊してしまったことを。
どうして、そうしてしまったのか。
しあわせになってほしいと願っていたのに。
『彼女』の代わり。
それがいけなかった?
彼女がしあわせになっていないのだから。
人形がそうなるなど、許せなかった?
否。
私は信じられなかっただけで。
たしかに、しあわせだと聞いた。
ただ……私のエゴか。
いつからだったろう。
毎日が楽しくなっていったのは。
にぎやかになったからか。なじんだからか。
最後まで彼女は、気づいてはくれなかったけれど。
私は、忘れたことはない。置いてきたことはあっても。
戦禍から逃げるように、転々と旅をして。
死にゆく、殺されていく人々。
作られては壊されていく人形。
生み出した人形を嫌悪する人間。
昔のままではいられなかった。
生きていくことはできるだろうが。
何かに、弱い私は耐えられなかった。
たぶん彼女の中にずっといたのは。
私ではなくて……僕だったのだろう。
それは当たり前のことだろうに。
何故だか、苦しさと微かな痛みを伴った。
目眩がしそうになるほどに。
私は、彼女を壊したくはなかった。
それも私の一欠片。
自分のエゴなど。
捻じ曲げてしまえばよかったのに。
実験など、どうでもよかっただろうに。
他に方法や、可能性はいくらでもあったはずだ。
それなのに――私は。
今ならば素直に伝えられるだろうに。
彼女はもう、何処にもいない。
私の思い出……記憶の中にいるというのは。
しょせんは、慰みにしかならなくて。
触れることは、できないでしょう?
幾度も幾度も繰り返し、人形を作った。
彼女の、赤い歯車を使って。
同じような見た目にして、何度も。
それでも……
ルナ=クローディアはひとりだけ。
それがわかっているのに。
しばらくは、止めることができなかった。
作った人形は、どれもみなすべて。
美しいくらい、綺麗に微笑んでくれて。
まるで、それがやりのこしたことでもあるかのよう。
人も、同じ人は二人いないのだ。
人形も、同じこと。
そんな単純なことに、何故気づかなかったのか。
目を、背けていたのか。
これじゃあ、あいつに笑われても仕方がない。
どちらの彼女も。私には唯一の存在だった。
今でも、私はときおり夢を見る。
それは眠っているとき。真昼に。
いつかのように、二人がいるのだ。
シアは、歌いながら洗物をしていて。
ルナはそれを遠まきに見ている。
けれども、嫌そうな表情でもなくて。
私は、ただそれを眺めている……
次第に、それは色を失って。形も失う。
ただ一人。私は部屋に残るばかり。
現実に、叩き落される気分だ。
叶うのならば、あの頃に戻りたい。
私が今考えるのは、そればかり。
なにもなかったかのように暮らせたなら。
仕事をして、彼女と他愛のない話をして。
これは永久に叶うことのない願い。
馬鹿なこの身は試さずにはいられなかったのだ。
それがどんなに愚かな選択だとしても。
「もう、終わりにしてしまいましょうか」
彼女がいない日々。
それは意味も、色彩も失って。
鮮やかなのは記憶だけで。
それならば、と私は選択をする。
生きる意味など見出せないから。
自ら、幕をひいてしまおうかと。
この滑稽な、私の物語。
幕引きには鉛がふさわしい。
彼女を壊したのと、同じ素材のものを。
夢のなかでなら、会えるかもしれない?
そうして私は、逃げ出すのだ。
この舞台から。
テーブルの引き出しから、銃を取り出す。
しあわせになって欲しいと願って。
しあわせを絶ってしまった私。
大切な愛しくてまぶしいものは。
いつだって、すぐ傍にあったのに。
ねえ、ルナ。
貴女は、人の心を持てたのでしょうか?
知ることはできない。
私は、一人死のう。
手向けには、銃声で十分だ。
行き場のない思いを抱いたまま。
こめかみに、それを押し付ける。
硬くて冷たい、無機質の感触。
それは死神の抱擁にも似ている。
願おう、彼女が、また生まれてくることを。
次は、人間としてしあわせに。
どうか幸せになれますように。
私は一人、暗闇の中で祈っていよう。
贖罪には、なりえるだろうか。
引き金に力を入れて――刹那。
窓も開いていないのに。
どこからか風が吹き込んできて。
頬に、ひやりとした感触があって。
思わず手を離して、そこに触れた。
「私は、悲しいんですね」
彼女のためになら、いくらでも泣こう。
そうして、溺れて死んでしまえばいい。
緩やか結末は、私には合わないけれど。
今度こそ。
そう思って、引き金に指を掛ける。
躊躇わない――
一瞬で、幕は下ろされた。
世界に響く、鈍い衝撃。スローモーションの夢。
倒れ行くさなかに見えたのは。
彼女と同じ――赤。
◇
眼帯の男が、事務所に入ろうとしたとき。
一発の銃声が、微かに聞こえた。
男は、ゆっくりとした足取りへ中へと。
階段を登る音が響く。
ふらふらと、手に持たれた花が揺れる。
いくつかある扉。
迷うことなくその一つを選んで。
中に入ると、そこにあったものは。
かつては、腕がいいといわれた人形師の死体。
無言で死体を眺めて、部屋を見渡す、
すると、男はあるものに気づいた。
テーブルの上に置かれた、装飾が綺麗な箱。
ふたを開くと、赤い歯車が納められていた。
男は取り出すと、自分の懐にしまった。
今度は懐から布を取り出すと……
死体が握っていた銃をとり、包んだ。
次に、持ってきたひとつの花。
自分の目と同じ色をした、それ。
薬にも毒にもなりうる、紫色の花。
それを、死体へと放り投げて。
小さく何事かを呟いてから。
眼帯の男は、部屋を去った。
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