第6夜 追憶に眠るのは懐かしき


「マスター、何処かへ行かれるのですか?」

 その朝も、私はいつもと同じように目覚めた。

 事務所にいる彼に挨拶をしようとしたら。

 何故か彼が朝から黒いコートを着ていた。

 だから、思わず私は彼にそう尋ねてしまった。

 挨拶よりも先に。

 本当は、ソファーの上に重ねられた洋服が気になった、というのもある。

「おはようございます、ルナさん」

 いつもと変わらぬ笑顔で、彼からは返事が返ってきた。

 よくよく見ると、仕事のときとは違う種類の服のようだった。

 珍しい、余所行きの服装だった。

「今日は、おでかけだそうですよ~?」

 ゴミ袋の口を堅く縛りながら、シアがそう言った。

 彼女はいつもと同じ服装で、特に変わりはなかった。

「そうですか。何処に行かれるので?」

 モノトーンですよ、という彼の答えを聞いて、私は納得した。

 彼はしばしば、そこへ買い物に行く。人間嫌いが故に。

 モノトーンの地上では、人形の売買が頻繁に行われているからだ。

 奴隷市場の、人間が機械人形になったものだと考えればいい。

 一種のオークションのようなものなのだろう。

 自我があるもの、完全な形のもの、できそこないのもの。

 ありとあらゆる人形。

 それらは檻の中にいれられて、人間に買われるまで待たされる。

 噂では、しばらくたっても購入者がいない場合。

 壊されて地下に捨てられるらしい。

 私がこの事務所へ来てからも、何度か行ったと記憶している。

 ここ最近は、足を運んでいなかった。

 だから、そこはかとなくマスターが張り切っているのか。

 そんな風に納得していると、シアがゴミ袋をひきずりながら。

「ちょっくら捨ててきますね」

「手短にお願いしますよ」

 そういってシアが外へとでていった。

 ゴミを捨てるまでに、袋が破れてしまわなければいいのだけど。

 そんな事を考えていると。

 ドアに向かって手を振っていたマスターが、くるりと振り返った。

「そういうわけですから、貴女も着替えてくださいね?」

 私に言うやいなや、ソファーの方へと彼は歩いていった。

 数着の服を選ぶと、それを持ったまま近寄ってくる。

「わざわざ、着替える必要もないかと……思います」

 後ずさりをしながら、そう答えてみた。

「せっかく出かけるのですから、たまにはどうでしょう」

 どうでしょう、という雰囲気じゃない。

 着替えないと外出できなさそうな、顔をしている。

 シアはいつもどうりの服装だった。そう伝えると――

「彼女には、サイズが合わないんですよ」

「この間、着ました」

「だったら、なおさら同じようなものでしょう、一度着たんだから」

「その服では、動きづらいのです」

 結局は、強引に何着かの服を渡された――これ、は。

 さすがに、人形の私が着るのはまずいような。似合う以前の問題で。

 彼をちらりと見ると、微笑んでいるが、謎の気迫を感じた。

 これは、だめだ。

「わかりました、着ます。ただ、ロングにしていただけますか」

 機械人形がミニスカートをはいているなんて、ありえない。

 私がそういうと、彼は楽しそうに笑った。

 私はその場で着替え、服は洗い場に置いた。

「マスター、移動手段は?」

 モノトーンに行くのには、車を使うほどではないが、歩くとちょっと遠い。

 今までは車を使っていたのだが……

 燃料の燃費が悪いと、最近はめったに使用されていない。

 私としては、なぜ彼が車を持っているのかが不思議だが。

 一般市民にとって車は高級品。公共機関を使う人が多いというのに。

 人形師とは、そんなにも羽振りがいい仕事なのだろうか?

「あぁ、歩いていきますよ」

 ……足は、大丈夫なのだろうか。

 知らず知らずのうちに、彼のことをじっと見ていた。

「何ですか。まるで私が柔みたいなその視線は」

「失礼しました」

 私とシアは、どれだけ歩いても疲れなど感じないからいいのだが。

 まぁ、何かあったらマスターをかついでしまうという手があるけれど。

「彼女も連れていくのですよね?」

「ええ。行ったことがないようですし」

 たしかに、人形はあまり寄り付かない場所だ。

 連れて行ったところで、ほけっと檻をを眺めていそうだが。

 そういえば、彼女はどうしたのだろう。

 ゴミ捨て場はそんなに遠くないはずなのに戻ってきていない。

「さっき、ちゃんとメンテナンスはしておきましたから。

 長く歩いても大丈夫かと思います」

「お疲れ様です。夜までに間に合うでしょうか」

「それも大丈夫です。しばらく、夜の仕事はお休みです」

 そういうと彼は不適に笑った。何を意味するのだろうか。

「何か優先すべきことでもあったのですか?」

 たいしたことじゃあないですよ、と彼は笑った。

「ちょっと鼠がうろついてまして。退治しようかな、と」

 彼のいうそれは、そのままの意味ではないだろう。

 誰かしら、邪魔者がいるのだろう。そしてそれを排除するのは私の仕事だ。

 マスターの邪魔をするものがいるならば。

 私は通り過ぎる道を、綺麗にするだけだ。

「わかりました。用がありましたら、言って下さい」

 それはもちろんと彼がいう。そうして。

「それにしても、なかなか戻ってきませんね」

 腕を組みながら彼がいった。座ればいいものを、立ったままだ。

 何かあったのか――転んだとか、追っかけられたとか。

 ゴミをぶちまけたとか。

 ドアのほうを見たとき、テーブルの上のものが目についた。

「マスター。あの歯車はなんですか」

「はい?」

 ソファーに腰をおろした彼が首をかしげる。

 仕事につかうテーブルの上に置かれているのは、大小の歯車。

 いくつかあるそれは、むろん私のものではない。

 テーブルへと視線を向けていた彼が、ぽんと手を打って。

「おや、つけ忘れですかね」

「恐らくは、それ以外にはありえないかと」

「キツいですね。あれは……脚のですね、たぶん」

 苦笑している場合ではありません、マスタ--。

「大問題ですね、だから遅いんじゃ」

「関節の繋ぎの部分ですね。動けますけど、途中で止まるでしょうね」

 その言葉をきいて、私はドアへと歩き出した。

 もたもたしてられない。

「探しにいくのですか、優しいですね」

「これ以上は、後の予定に影響がありますので」

「連れて行かなければいいだけでは?」

 さらっと彼はそう行った。

 確かに、足手まといならば置いていけばいいだけのこと。

 なぜ、手間をかけてまで私は探しに行こうとしているのだろうか。

 彼女がいないと――そう、家事は誰がやる?

 私もできるが、それはシアの方が向いている。

 結果としては、効率がいいのだ。

 彼女が市場にいけるかどうか、それはきっと関係のないことだ。

 それに、何より。

「連れて行くといったのは、マスターです」

 彼がそういったのだから。私のそのために動く。

 それ以外の、私の理由なんて必要はないだろう。

 なにか、嘘をついているような違和感を感じたまま。

 ドアを開けて外へとでた。後ろから聞こえてきたのは――

「これで、全部でしょうかね?」

 彼のそんな声だった。


 モノトーンの街は、多くの客で賑わっていた。

 毎回思うのだが、そんなにも売りは魅力的なのだろうか。

 結局あの後、シアは近くのゴミ捨て場で発見した。

 無事といえば無事だったのだが……いた場所が謎だった。

 ゴミ箱とゴミ箱の間に、挟まるようにして倒れていた。

 なんでも、捨てようとしたら脚が動かなくなったとのこと。

 それはわかるが、なぜ挟まる。どんな倒れ方をしたのやら。

 私がかついで帰り、マスターがしっかりと再度メンテナンスをした。

 そうして歩いて、やっとモノトーンへとついた。すでに時刻は昼時。

 物珍しそうに、きょろきょろとしながらシアがいう。

 遠めに人だかりを眺めつつ、私はそれに答える。

「ずいぶんと人がいるんですね~」

「フェルシオンの倍以上はいそうですよね」

 マスターは何をしているのだろうか。姿があっという間に見えなくなった。

 先ほどまで、近くにいたはずなのだが。

 おおかた、売りを見に行っているのだろう。

 何度かマスターが人形を買い、持ち帰るのを見たことがある。

 しかし、部屋へと持ち運ばれた後は、一度も見かけたことがない。

 まさか彼の部屋にびっしりと飾られているわけでもあるまい。

 普段掃除は自分でするといわれているから……直接は見ていないけれど。

 ぬいぐるみと人形などが並んでいると考えると、ない鳥肌が立ちそうだ。

「それにしても~なんでこんなに人が多いんですかねえ」

 シアがそうつぶやく。この街には、普通の店もあるだろうに。

「物珍しいのもあるのでしょう。交易品よりは目立ちます」

「でもでも、機械人形を嫌う人も多いですよね?」

「それでも買う人がいるからこそだと思います。好みの問題ですね」

「自分たちを脅かしたモノを買うなんて、変わってますよね」

 感心したかのように、シアがそういった。

 彼女の視線は、うごめく人の群れへと向いている。

 本当に、物好きなものだと私も思う。

 かつては滅ぼされる可能性もあったというのに。

 この間マスターから聞いた話を思い出す。

 過ちがあっても、なお前に進んでしまうのが、人間なのだろうか。

 この地下にいる人形達は、今もなお根にもっているのだろうか。

 抗うことなどせず、あきらめてしまったのか――

 知らなくていいことだ。

 でもそういってばかりもいけないのかと、思い知らされる。

 マスターの話が頭のなかをちらつく。気をつけなければいけない。 

 そう考えていると。

「まぁ、戦争あってもあまり気にしないですけどね……あたしは」

「あぁ。戦闘は苦手だと聞いたような」

「できないこともないですけど。命中率の問題が」

「嫌な事は、起きないにこしたことはないですよ、二人とも」

 ぶつぶつとシアがつぶやき始めた。

 すると、いつのまにかマスターが会話に混ざっていた。

「何か見つかりましたか? アル様」

「今回は、どうも。あまり生きがよくないですね」

 そういって、彼は売りの一箇所へと歩いていく。

 私たちは、彼の後ろに黙ってついていく。

 人ごみの中から見えたものは。

 たくさんの檻の中に、人形が入っていた。

 彼を見ると、品定めをしているのか、人形をじっと見つめている。

 シアはというと、これまた珍しそうに同類を見つめていた。

 私はというと、なんとなくぼんやりとそれを眺めていた。

 檻に囚われた機械仕掛けの人形たち。

 人に作られ、人に使われ、人に買われて、人に捨てられ。

 すべての人形は、何を思うのだろうか。

 何故今そこにいるのか、なんのために作られたのか。

 理解しようともしないだろうし、考えもしないだろう。

 理由がなければ、ヒトガタが動く意味がない。

「ルナさんどうです、懐かしいでしょう」

「は?」

 急な彼の問いかけに対して、出たのは変な声。

 完全に上の空だった。するとすばやくシアが会話に加わった。

「懐かしいって、何がですか?」

 その目は、心なしかきらきらと輝いているように見えた。

 ……好奇心で。

「ここで、ルナさんを見つけたんですよ」

「え!? 買ったんですかっ?」

 もう少しましな勘違いはないのだろうか。

「見つけた、ですよシア」

「ここの地下で、私はルナさんを見つけたんですよ」

 見つけた。

 拾った、といわれない事に、謎の安心感を覚える自分がいた。

 でも、それが身に余ることのようにも思えて。

「そうなんですか?」

 こんどはこちらへと向きを変えた彼女に、答える。

「はい。私はここでマスターに拾われました」

 視界の隅で、彼の少しだけ眉をしかめていた。

 あれは、戦争が終わった頃だと記憶している。


 私は、モノトーンの地下のアトリエにずっといた。

 私を作ってくれた主は、戦争が始まるといなくなった。

 何処へ行ったのか。生きているのかどうかもわからない。

 待っていれば、主が帰ってくるかと思っていたのかもしれない。

 戦争中から戦後まで、私はひたすらアトリエにいた。

 何も考えない、意味のない日々。

 時間ばかりが過ぎるなか思い出すのは。

 この身を作ってくれた人のことばかりで。

 白い指先で、髪に触れてくれたときのこと。

 凪いだ海のように、穏やかな青い瞳。

 薄暗い室内のせいか。よりいっそう鮮やかな記憶だった。

 たまに少しだけ外にでたこともあったけれど。ガレキがあるばかりで。

 ほかには、壊され捨てられた人形が散らばっているだけ。

 うっすらと日が差し込んでくるのは、ヒビが入った天井で。

 何度か、そこから人形を投げ落とす人間をみたこともあった。

 割れてひび割れた硝子球。転がる、有色の歯車。

 それは自ら望んで争いにいった人形がいたということなのだろう。

 なんでわざわざ壊されにいくのか、理解できなかった。

 地下にはときおり、人形を捕まえにくる人間もいた。

 拾われていくのは、自我のない機械人形ばかりだった。

 意思のあるものは隠れてしまうから。

 そういう時、私はいつもアトリエの中にこもっていた。


 私がマスターに会ったのも、アトリエの中だった。

 歯車の軋む音しか聞こえない室内に、人の足音が響いて。

 私はいつものように隠れてやりすごそうとしたのだ。

 アトリエの中は鍵のかかった棚や部屋が多く、あまり収穫はない。

 人形師がそれぞれの技術を守る為に、特注の鍵を使用していることがほとんどで。

 たいていは、あきらめてすぐに帰ってしまう人が多かった。

 しばらく、がたがたと物音がするのを、黙って聞いていた。

 そうしていると、いきなり部屋が明るくなった。

 携帯用の照明だろうか。室内の照明は壊れていたのに。

 人形を拾いにくるのだから、それなりに物は携えているのだろう。

 だが明るいのは少し困る。私の姿は目立ちすぎてしまう。

 それに。

 明るくなった室内で、侵入者の姿がはっきりと見えた。

 冷たい色をした瞳を携えた、銀の髪をもつ人。

 それは主を思い起こしたけれども、でも違うだろうと思った。

 本人であれば、こそこそとする必要はない。

 身にまとう雰囲気にも違和感があった。

 遠めに見ても、冷たさを感じる人間だったから。

 私の知っている主は、常に穏やかな人だった。

 ときおり、違う面が見えたこともあったけれど。

 ぼうっと考えていると。

「誰か……そこにいるのですか」

 男の声で、我に返る。

 ここは私が退くべきだった。あとで戻ってくればいい。

 アトリエを壊そうとするわけではないだろうから。

 そう判断して、部屋の窓から逃げようとしたとき――

「貴女は――」

 すごく中途半端な体制のまま、私は止まった。

 呼び止めるような声に、つられて首を動かした。

 そのまま窓から飛び出せばよかったものを。

 久方ぶりに人間に声を掛けられたことが、嬉しかったとでも?

 私が戸惑っていると、男が部屋へとやってきてしまった。

 貴女は何をしようとしているのですか……?

 戸惑ったような声で男が言う。

 ここで、今の格好がみっともないかもしれないと思った。

 とりあえず部屋に足を下ろして、男に告げた。

「逃げようかと。お邪魔でしょう?」

 私がそういうと、男は首をかしげた。

「人形でも拾いにきたのでしょう? 勝手に持っていけばいい」

 私は逃げますが、と付け加えた。

「別に泥棒をしにきたわけではありませんが……」

 困っているようだ。じゃあ、何をしに来たのか。

「貴女が、ルナさんですか?」

「そう呼ばれていたこともありましたが、何故ご存知で?」

「あちらの部屋に設計図がありましたので」

 様々な用紙が散らばる方を指し示して。そんなものも、あったのかもしれない。

「で。貴女はなぜここにいるのですか」

「特に理由などはない。行き場がないだけです」

 貴女を作った人は? と聞かれて答える。

「……知りません。今はいません」

 その人の名前は? と聞かれて詰まった。

 そういえば、主の名前を知らない。いいや、何も知らない。

 私が知っているのは、アトリエの中の彼だけだ。

 でも知らなくていいはずだ。だって私は機械人形。

 黙り込む私をじっと見ていた男が突然。

「では、こうしましょうか。私のところへきませんか?」

「……はい?」

「ですから、来ないかといっているのです」

「何故」

「ここにいるよりはましでしょう」

「いく意味も理由もない」

 なら作ればいいんですね、と男はのたまう。

「私の仕事を手伝ってもらえませんか。雇いましょう。

 見た感じ、旧式みたいですから」

 荒事は得意でしょう? とうっそり笑う。

 このとき、強引という言葉の意味を私は知った。

「どうしました? まだ理由が必要ですか? 暇でしょうに」

 ここで、くるかどうかもわからぬ人を待ち続けるよりは。

 人に使われるほうがいいかもしれない。空っぽではなくなる。

 私には、理由があればそれだけでいい。

「わかりました。貴方に仕えることにします」

 私は彼の前で、恭しく一礼をして……

「マスター、お望みのままに動きましょう」

 すると、いきなり笑い声が聞こえて、私は驚いた。

 驚いたのなんて、何年ぶりかもわからない。

「笑うようなことを、いいましたか」

「いえ、堅苦しいと思って。もったいない」

 くすくすと笑いながら新しいマスターがいう。

「貴女は別に奴隷じゃないんですから」

 人に作られたもの。人間の奴隷以外に、何があるのだろう。

 そう思ったが、口にはださかった。また、笑われそうだったから。


 笑い終えると、彼はドアのほうへと歩いていった。

「とりあえず、帰りましょうか」

「何処へ?」

 私は窓のそばにつったったまま。

「家といいますか、私の事務所です」

 いつまでたっても動かない私を、彼が近づいてきて腕をつかむ。

 そのままずるずると私はひきずられた。重くはないのだろうか。

 そんなことを考えつつ、何かたずねようと思った。

「マスター、ひとつ聞いてもいいですか」

「ひとつといわず、何でもどうぞ」

 この言葉は、後で嘘だとわかったけれど。

「名前を教えてくださらないかと」

 いなくなってしまっても、せめて名前くらいは覚えていられるよう。

 彼が、きょとんとした顔で私を見た。

 人形に教える名などないだろうか。そう思ったとき。

「そうでした、名乗るのを忘れていました。私の名前は――」

 ◇

「ルナちゃ~ん。立ったまま寝ちゃ駄目ですよ?」

 間延びしたシアの声と、揺さぶられた振動で戻った。

 どうやら、突っ立ったまま回想していたようだ。

 周りの人からすれば、さぞかし邪魔だったに違いない。

 あのとき、マスターにあわなかったら、どうしていただろう。

 今もまだ、アトリエにひきこもっていたのかもしれない。

 融通など効かないのだから。離れる理由すら持たないのだから。

 辺りをきょろきょろみて、彼の姿を見つけた。

「あの、マスター。寄り道をしてきてもいいですか」

 近づいて、声をかける。

「どうぞ? 私はこの辺にいますから」

 シアさんも近くにいるから、わかるでしょうと彼がいう。

 ありがとうございます、といってから私は駆け出す。

 勝手に足がそう動いていた。なんとなく振り向くと。

「どこいくんですか、ルナちゃーん!」

 これまた走ってきそうなシアを、彼ががしっとつかんだ。

 大声で名前を呼ばないでほしい……目立つ。

 二人の話す声だけが、聞こえる。

「一人で行かせてあげたって、いいでしょうに」

「それじゃあ、あたしが暇で困るんです」

 ぷうっとほほを膨らませたような表情が、頭のなかに浮かんだ。

「人形でも見ていてください」

 きっと、彼はまた売りに集中したんだろう。私も、早くアトリエを見てしまおう。

 なんとなく、また行ってみようとおもったのだ。

 私にとっては数少ない、記憶に残る場所のひとつだから。

 わからないことは、昔よりかなり増えた。

 知らないことも、ずいぶんとあった。いろいろなことが。

 主にも、それを伝えてみたいと。かすかに、片隅で思った。

「夜までには、帰れるといいのですが」

 地下に降りる前、見上げた空は夕闇で。

 いくつかの星が瞬いていた。

 もうじき、月が見えるのだろうと思った。

 少し見たら、二人のところに戻らなければ。

 今の居場所はアトリエではない。

 あの事務所なのだから。

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