第3夜 大切なモノを差し出す愚かさ

 フェルシオンの街は気候が安定している。

 ほとんどが晴れているのに、その日は珍しくも曇り空だった。

 どうもじめじめとしているようで、洗濯物が乾く気配がない。

 時間が空いていたので、私はマスターにメンテナンスをしてもらっていた。

 シアはキッチンで食器を洗っているようだ。少し見慣れてきたピンク色が見える。

 ちらちらと動いているのは……リズムでも刻んでいるのか。

 微妙に音程の外れた鼻歌っぽいものが聞こえてくる。

「マスター、彼女は水は駄目なんじゃ……」

 私の部品を交換している彼に尋ねてみた。

「はい、毎回メンテナンスは手間ですからね。防水の手袋を使ってます」

 キッチンからの鼻歌は続いている。リズムを刻んでいる足音もかすかに聞こえる。

 耳に心地よいというか、耳障りというか……

 少し前から洗っているようだが、そんなに量はないはず。

 私達は物を食べないから、食器はひとりぶんなのだが。

「ルナさん、腕を動かしてみてください。具合を見ますから」

 わかりました、と答えてから、腕をぐりぐりと回したり、伸ばしたりする。

 特に不具合はなく、昨晩と比べ物にならないくらいに調子はよかった。

「腕、良好です。問題ありません」

「それはよかったです」

 そういうと、彼は胴体部分のメンテナンスへと取り掛かった。

 大小様々の歯車、配線や回路の具合を見て、手際よく交換していく。

 取り出された部品を見ると、ずいぶんとさび付いているものもあった。

 腕以外にもガタが来ていたらしい。私はあまり気にしないから、余計にだろう。

 そんなことを考えていると、作業していた彼の手が不意に止まった。

「貴女の歯車は綺麗ですね」

 いきなり何をいいだすのか。困惑しつつも答える。

「私の歯車……ですか。別に普通だと思いますけれど」

「普通のものよりも、とても綺麗な色をしていますよ」

 私の心臓ともいえる歯車。私のそれは紅色をしている。

 左胸に埋め込まれたそれのおかげで、私は動いている。

「そんなに珍しいものではないです、紅など」

「血の色に似ていて、綺麗だとは思いませんか?」

「血液とは違う色です、似ているかもしれませんが」

 つれないですねぇ、と彼は苦笑した。手の振動が内部の配線に伝わって、震えた。

 この色は、血とは似て非なるもの。酸化すれば、やがて黒に近づく。それが赤。


 私の紅は変わらない。幾年めぐろうとも、変化は訪れない。

 色つきのものは、錆びないのも特徴の一つ。

 だから、私以外の人形に使うこともできる。前の使用者は誰だったのだろう。

 積み重なった記憶は、私の中にあるのだろうか……

 ぼんやりとしていると、横に影が差した。いつのまにかシアが側にいたようだ。

 洗い物が終わったのだろう。

「アル様って器用なんですねえ。お料理もお掃除も、メンテナンスもできるなんて。

 ルナちゃんが着ている服も、アル様が作ったんでしょう?」

 人形師というものは手先が器用な事がほとんどだから、モノづくり全般得意なのだろう。

 これは女性の服だから、わざわざこしらえたということだろうか。

 申し訳ないような…………ん?

「シア、今のルナちゃんというのはいったい、な」

「そうです、私は器用なんです。凄いでしょう、もっと褒めても構いませんよ?」

 マスターに割り込まれてしまった。人形相手にいばってどうするのですか。

「ええとシア、先ほどの呼び方なのですが」

「え、何か問題でもありました?」

 こちらを見る彼女の瞳は、なぜかきらきらしているように見える。

 光の加減だろうが。何故だろうか、注意しても変わらない気がする。

「いえ、なんでもないです。できれば、呼び捨てがいいのですが」

「えぇえ! なんかそっけないじゃないですかっ、ルナちゃんでいいんですよ」

 やっぱりダメだったようだ。私が慣れるしかないのですね。

 そう諦めていると、シアが小首を傾げながら、マスターに尋ねた。

「あのう、聞きたいことあったんですけど、いいですか?」

 彼は私の配線を直しながら、構わないですよ、と答えた。

「あの……アル様って、男でいいんですよね??」

 とんでもない発言が聞こえた直後、何か外れる音が聞こえた。

 それと同時に、私の視界が暗転した。

 音からすると配線が外されたらしい。

 それもどうやら視覚を司る部位に繋がるもの。

 部屋の中には、私の歯車が回る音以外聞こえない。痛いほどの静寂だった。

 視界が閉ざされているので、状況が把握できない。

 今までに目が見えなくて、こんなに困ったことはあっただろうか。

 動けないままにじっとしていると、普段よりも低い声が聞こえた。

「なにがいいのかまったくわからないのですが――

 もう一度お願いします、シアさん?」

 動揺しているのだろう。

「えっと……アル様って男ですよね?」

「当たり前でしょう、何をいいだすんですか、いきなり」

 低すぎる彼の声が恐ろしい。なるほど、地雷原をぶち抜くとはこういう事なのか。

「どうしてそう思うのですか?」

「え、いや、オーギュスト様は御髪も長くて秀麗ですし……」

「それは、褒めているのか、けなしているのか……綺麗ねぇ」

 動揺しているのは、どちらも同じらしい。古めかしい言い方だ。

 彼の髪は長く、一つにゆるくまとめられている。

 そこそこ中性的な顔立ちではあるが……声を聞けば、わかるだろうに。

「も、勿論! 褒めてるに決まってるじゃないですかぁ」

「男性にとって、それは褒め言葉にはなりません。学習してくださいね?」

 それに、と彼は続けた。

「貴女だって、綺麗ならば誰でも女性と思うわけではないでしょう?」

「うぅ……」

 だんだんと彼の声にドスが聞いてきて、シアは声だけ半泣き状態になってきた。

 人形相手に、脅さないでください。大人げないと思うのは、変でしょうか?

「いいですか、シアさん。私はれっきとした男です。いくら髪が長くても、

 髪が長くとも、色白でも女顔でも、です。分かりましたか?」

 声はドスが利いたまま。うっすらと微笑んでいたとしたら、

 迫力が増すだろうなと雑念がよぎる。

「はい、すいませんでした……」

 ずいぶんとしおれた感じのシアの声が聞こえた。

 それと同時に、私の視界が復活した。


 うなだれたシアと、不気味に口元が歪んでいるマスター……

 その笑顔のまま。彼は私のほうへとくるりと向いた。

「すいませんでした、ルナさん。

 シアさんがあまりにも変な事をいうので、配線を切っちゃって」

 うっすらではなかった。はっきりと顔が引きつっている。

 だが口調はなにごともなかったのかのよう。聞こえていないと思われてるのか。

 私はしばし悩んだ。伝えるべきか、知らぬふりをすべきか。今後を考えると……

 いつのまにやら彼は工具箱を整理している。メンテナンスは進んでいたらしい。

 マスター、と声をかけると、彼の顔がこちらを向く。

「今度、髪を短くされてはいかがですか?」

 彼の顔が、まるで苦虫を噛み潰したような顔になった。

「考えて、おきましょうか……」

 口元をへの字に曲げたまま一言いうと、彼は二階へ行ってしまった。

 工具箱は置いたままでいいのだろうか。

 そのやり取りを眺めていたシアが、隣で呟いた。

「アル様……気にされてたんですねぇ」

「何度か間違えられたこともありますから……禁句です」

「それめっちゃ問題発言したことになりませんか、あたし?」

「勢いよく地雷を踏みましたね」

 あちゃー、とシアが額に手を当てている。今後は気をつけるべきだろう。

「マスターは人間嫌いなんですよ。あまり関わりたくないようです」

 この事務所に、人間のお手伝いさんがいない理由でもある。

 他人などは嫌です、といって機械人形しか雇っていないそうだ。

 私の前にも何体かいたそうだが、今は二人だけだ。

 シアにそう伝えてから、私は思わず呟く。

 関わりを持ちたくないということは、殻に閉じこもりたいのだろうか。

 人がわずらわしくて仕方がないのだろう。

「なんというか……」

「女の人みたいですねえ、アル様って」

 二階から、派手な物音が聞こえたのは気のせいではないようだ――


 その日の夜の仕事は、日が沈む頃に舞い込んできた。

 控えめノックされたドアを開くと、ずいぶんと小柄な男が立っていた。

 皺がより色褪せたスーツに、くたびれよれているワイシャツ。

 二十代にも三十代にも見える顔には、鉛のような疲労が張り付いている。

 目線を彷徨わせる男が身じろぐと、かすかな金属音がした。

「依頼人の方ですね? こちらへどうぞ……」

 私は所在なさそうに立っていた男を、ソファへと案内した。

 男の向かい側のソファにはマスターが座っている。その口元には薄い微笑。

「本日はどのようなご依頼でしょうか?」

 彼の柔らかい声に誘われるように、男は正面を向いた。

 まだ視線を少しふらつかせながらも、懐から一枚の写真を取り出し、

 彼に差し出した。

 私はその写真を遠めにみる。どこにでもいそうな、犯罪者面をした男の顔。

「この男を、殺してもらいたいのです……」

 男の喉からは、しわがれている細い声が聞こえた。

 ちらと写真を見ながら、彼はさらに尋ねる。

「これは……ここのスラムにいますね。本人だけですか?

 それとも、組織ごと血祭りにあげますか?]

 マスターの顔ではなく、どこか遠くを見ながら男は、はっきりと答えた。

「他のヤツなど……どうでもいい。こいつだけを殺してください」

 わかりました、と彼は一度うなずいてから。


「よろしければ、殺害理由をお伺いしても? いえ、無理にとはいいませんが。

 こちらもそれなりのリスクはあるので……聞く権利はあるかと思いまして」

 言葉では、いいたくなければいわなくても良いと言っているが……

 マスターの目線は、言えと強要しているようだ。

 彼の蒼く冷たい瞳に見つめられて、男はぽつりぽつりと話し出す。

「妻と娘を、あいつに殺されたのです」

 男の声はさきほどまでとは違い鋭く、顔には獰猛さが宿っている。

 黒い瞳に映るのは殺意か憎悪なのか。

「私は、とある組織の下で働いていました。雑用ばかりのしたっぱです。

 ある日上司のミスが何故か私に回ってきて……殺しをしたのです」

「いったい誰を殺したのですか?」

「そんなの私は知りません。上にいわれた人物を殺しただけです

 彼は男の顔を見ながら、目を眇めている。

 時折、あいづちのつもりなのかうなずいている。

「誰を殺したかなど……私が知ったのはずいぶんと後のことです。

 それがアイツの女だったんです。理由なんて知りません。でも、殺してしまった」

 依頼人の男は、その女の復讐でもされた……そんな感じだろうと私は思った。

「それから数ヵ月後です。 仕事から帰った家には血の匂いが充満していて……

 妻は、自室で体をズタズタに切り裂かれて死んでいました。

 娘は……あの子はまだ子供だったんですよ!なのに。

 ら、乱暴された後がありました。首を絞められた跡も」


 男は話を終えると、ぐんにゃりと体の力を抜いた。

 吼えるかのように吐き出した言葉は、何処かへいってしまった。

 マスターは下衆が、と呟いたきり、眉をつりあがらせたまま。

 不幸な男はしばらく放心していたが、やがて彼のほうへと視線を戻して。

「それで……代価はどうすればいいのでしょうか。多少なら持ってきましたが」

 男は懐から今度は分厚い封筒を取り出して、彼のほうへと再び差し出す。

 彼は受け取らずに、やんわりと封筒を押し戻しながら。

「お金はけっこうです。代わりに、こちらから指定してもよろしいでしょうか?」

 戸惑いながらもうなずいた男をみて、彼はにっこりと微笑んで。

「では。貴方が身に着けているそのペンダントをください」


 その単語を聞いた瞬間、機械仕掛けのように男の肩がはねた。

「これは……妻の形見でして。思い出の品でもあるのです……」

 男が服の中のそれを握り締めると、鎖でも切れたのだろう。

 ペンダントは硬い音を立てて床へと転がった。

 私はそれを拾い上げて、テーブルの上へと置いた。

 透き通るようなエメラルドグリーンではあるが、どこか作り物じみている。

 金属部分には薔薇の装飾がほどこされていた。

 そのペンダントを手に取り、彼は品定めでもするかのように眺めている。

「それは見た目はいいけれど、たいした価値はないのです。ですから」

「私には私なりのルールがありまして。金銭の問題ではないのですよ」

 しつこく封筒を差し出す手を強く押しもどして、彼は続ける。

「貴女にとって、一番大切で価値のあるものをもらいます」

「ご家族を殺した男は、貴方が殺した女性の仇でも討ったつもりなのでしょう。

 貴女は、男にとって大切な女性を殺したのですよ」

「そんなことは知らなかった!」

「知っていたら、貴方は殺すのを止めていましたか?」

 彼の言葉を聞いて、男は黙り込んでしまった。

 止めなかったでしょう? と彼は続ける。

「仕事だから、貴方は殺していたでしょう。他の選択肢なんて考えなかったはずだ。

 そうして家族を殺され、貴方は復讐をしたいとおっしゃる」

「そのためにここにきたのです」

「わかっています。私達は貴方の願いを受けて、人を殺します。

 ですから、貴方の想いが込められた物を……それ相応の代価をください」

 そうして、彼はもてあそんでいたペンダントを、テーブルの上へと置いた。

「それがあなたのルールだというのですか。また大切なものを失うのですか」

「殺したのも、殺されたのも……これから殺すのも、貴方の都合ですから」

「それでも依頼する私は愚かなのでしょうか」

「知りません。そんなの自分で考えてください」

 だんだんとすがりつくかのようになっている男を、容赦なく突き放して。

「重要なのは、依頼をするのか、やめられるのか。どちらですか?」

「お願い……します。それをお渡ししますから。必ず、お願いします」

 震えた声で男は答えて、ペンダントを彼のほうへと差し出した。

「はい。確かに受け取りました。これにて依頼は成立です」

 どこからつまらなそうに、彼は男にそう告げた。

 告げられた男はお願いします、と頭を下げてから、事務所をでていった。


 それは、彼が営む夜のルール。

 相手の身分に関わらず、依頼を引き受ける、その代わりに。

 依頼人から、殺しに値するかけがえのない何かをもらう。

 それは物ばかりではない。

 人でも構わない。その人を大切だと思っているのなら。

 世間的に無価値でも、依頼人が大事にしているものを、奪う。

 あるものは、富や財産を。あるものは、家族や友人を犠牲にして。

 代価となった人の扱いは、決して雑ではないらしい。約束事は、たった一つだけ。

 依頼人との接触は、絶対に許さない。

 破ったものを待っているのは、暖かい寝床ではなく死だけ。

 今までも、これからも違えられることのない彼のルール。

 さて……と彼はソファから腰をあげた。

「それではルナさん、依頼も成立しましたので……お願いしますね」

「はい、マスター」

「今回は、時間をかけて殺してやってください。わかりましたか?」

「了解しました。お望みのままに


 こうして、今夜も私の仕事は始まった。


 今回の目標がいるのは、スラム街の奥深く。

 廃墟や、古い家などが立ち並ぶ場所だった。

 腹黒いものほど、住処も薄暗い場所を好むのだろうか。

 今回のように、マスターから指示があるのは珍しいことだ。

 私も子供で遊ぶような輩は好まないけれど……

 彼はもっと気に入らなかったのだろう。

 目標がいる場所へとついてから、私は気配を探った。とても静か。

 腰のベルトから得物を取出し、警戒しながらあたりを歩く。

 付近にはごみが散らばっているだけで、人影はない。

 首をめぐらして、廃墟を見る。この辺にいると彼からは聞いたのだが……

 耳を澄ませていると、小さな物音がごみの影から聞こえて。

 私は反射的に得物を投げつけた。


 甲高い鳴き声と共に倒れたのは、野良猫だった。

 あぁ、間違えた。うっかり関係のない動物を殺してしまった。

 猫の頭部はぱっくりと割れて、熟れた無花果のようになっている。

 血の香が漂っていそうなそれに近づいて、刺さったナイフを抜く。

 濡れた音に見知らぬ声が重なったのは、その時だった。

「そんなところで、何をしているんだい? 君」

 水を含んだような声。振り向くと、そこには殺すべき目標がいた。

 血の匂いにでも誘われたのだろうか。

 にやつきながら、死骸をなめまわすように見ている。

「おや、猫を殺しちゃったのかい? いけない子だねぇ」

 生き物で遊んじゃあいけないって、教わらなかったの? 

 不愉快な男の声はそう続いた。どうやら、私は人間だと判断されたようで。

「それは人の子に教えるものでしょう。私にはあてはまりません」

 男の首を狙って、私は切り掛かった。刃が首に触れる寸前――


『今回は時間を掛けて、殺してくださいね?』


 マスターの言葉が頭に浮かんで、切っ先をそらす。

 男はゆらゆらとした動きで少し後ろに下がり、にたにたと不気味に笑う。

「物騒な子だ。お仕置きが必要みたいだねぇ?」

 満面の笑みで取り出した何かを、私は足ですぐさま蹴り飛ばした。

 地面に固い音を立てて転がったのは、先端がとがった杖のようなもので。

 アイスピックのように尖った先は、人にとってはまぎれもない凶器。

「アレ……? あんた機械人形か? これじゃあ遊べないじゃないか」

 蹴り飛ばした時の音で気づいたのか。男はそうつぶやいた。

 ぼやいたかと思うと、すぐさま満面の笑みで手を打った。

「あぁ。ばらして遊べばいいんだね。 戻せないけど、壊すだけなら簡単そうだ!」

 さきほどよりも楽しそうな表情をした男は、こちらにじりじりと近づいてくる。

「あなたが私を壊す? 御冗談を」

 近づいてくる男の腕をつかんで、ねじりあげる。いてて、とのんきな声があがる。

 つかむ寸前、男が杖を振りかざしたものの、何の意味もない。

 男を地面へと転がしても、まだへらへらとしていて。

「頭の中がどうなっているのやら……」

 ここまでふにゃふにゃとしていると、逆に疑問がわいてしまう。

 さて、どこから刺したものか……ナイフをかざしたまま迷っていると。

「はい、ちょっとストップです。ルナさん」

 この場にいない彼の声が聞こえて、そちらに顔を向ける。


 夜闇に紛れるかのように、一つの影があって。

 黒のコートをまとい、黒の手袋をはめて。腰には拳銃がさげられている。

 雲の切れ間から降り注ぐ月明かりは、彼の髪を煌めかせた。

 彼は昼よりも夜のほうが似合う。

 冷たい微笑が浮かんではいたけれども、美しいと私は思った。

「マスター、どうしたのですか? 珍しいです」

 こんなことは初めてだったから。彼自身が手を下すことなど、ない。

 人の血になど触れたくないのだと思っていた。

 すると彼はためいきをつきながら言った。

「どうもこうもありませんよ。まったく……変な話を聞いたせいです。

 気分が優れない。さらにむしゃくしゃしてます」

 つまりは、非常に不愉快な状態だということで。

「怒っていらっしゃるのですね。それは、私もよくわかりました」

「ええ、珍しいでしょう? この手で始末しないと、夢見が悪くなりそうです」

 そういうと、彼は原因の男に目を向けた。

 射抜くような鋭い蒼に視線を受けて、男の顔が引きつった。

「貴女のナイフを一つ貸してください」

 私は言われるがままに、彼へと差し出す。下で暴れる男がうっとうしい。

「しっかり押さえていてくださ――」

 彼の言葉が終わる前に、私の視界はぐるりと回った。

 奇妙な声をあげながら、男がいきなり立ち上がって逃げ出した。

 火事場の馬鹿力か。予想外の力で私ははねのけられたようで。

 聞こえた鈍い音は、男の腕の骨か。

 すぐさま起き上がり、男を捕まえようとして。視界を、何かが掠めていった。

 その直後聞こえたのは、男の悲鳴。

 地面へと再び倒れこんだ男に刺さっているのは……

 さっき、彼へと渡した得物の片割れで。

「お見事です。私より精度が良さそうですね。それと申し訳ありませんでした」

「気にしないでください。あれはどこですかね?」

「右足……健のあたりではないかと」

 彼が投げたナイフは、見事に男の足めがけて命中していた。

「まっすぐ飛びました。あれはいいナイフですね」

 そう言いながら、目の前へゆるりと白い手が差し出される。

 私は黙ったまま、彼に残りの得物を手渡した。彼は男へと近づいていく。

「なんだよオマエは……男になんか僕興味はっ」

「下衆はしゃべらなくて結構」

 彼はそう吐き捨てると、男の口へと得物を突き立てる。

 耳障りな悲鳴も、聞き取れない言葉になった。

 はいつくばりながら暴れる男を、私はがっちりと押さえつける。

 逃げられはしないだろうが、そこそこ危ない。

「次はどこがいいと思いますか? ルナさん」

「それは私に聞かれても……お好きなところをどうぞ」

「本当は真っ先に切り落としたほうがいい物があるんですが」

 ちらと男の下半身へ視線を向けて、汚らわしいと呟く。

「そこは死ねば用無しですから。気にしなくてもいいと思います」

 うーん、と彼は首をひねって考えている。次にどこを痛めつけようかと。

 その間にも刺した得物をねじっているから……しっかりとしている。

 首をひねりつつ、彼が出した答えは。

「そういえば、これはさっき、貴女をばらすとかほざいてましたね」

「いつからいたんですかマスター……」

「ですから、私もコレを解体して差し上げないと。それがいい」

 そういうと彼は懐銃を取り出して、彼の両足を念入りに撃ち抜いた。

 男は声も出さずに、おとなしくなった。死んではいないだろう。

 彼の顔には、冷笑がはりつきっぱなしだ。口元はさらに歪んでいく。

 男の髪を鷲掴みにして、言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。

「さて、聞いていましたか? ばらしてあげますから、感謝してくださいよ?」

「たふけてくれよぉ、何でもするきゃらさァッ」

「あぁ、ちなみに私……医学の知識はそれほどありませんので。

 テキトーにやらせていただきます」

 彼はざくざくと男の体を切り裂いていく。

 体の末端から、雑にけれども息絶えないように。

 彼の顔と髪に赤い飛沫がかかり、染めていく。

「貴女の中に、知識はありましたっけ?」

「データとしては、一応あります。経験はありませんが」

「じゅうぶんです。助手がいてよかったですねぇ?」

 ふふ、と笑う彼は、美しい死神のよう。

 白い指先を赤い血が伝わる光景は、魅惑的なものだと思った。

 少しずつ肉を裂き、骨を折りじわじわと男に恐怖を与えて痛めつける。

 艶やかな銀色が……少しずつ、赤に浸食されていく。

 男は体を痙攣させるだけで、声はない。

 知識がないなんて。腕のよい人形師ほと詳しいはずだ。

「痛いといわなければ、意味がないじゃないですか」

 そういって腹部を深めにえぐると、しばらくぶりのうめき声。

 もう押さえている必要もないだろう。私は彼の傍へ立つ。

 男を切り刻む彼の顔は、とても楽しそうに微笑んでいた。

 けれどもそれは表情だけで、瞳は冷たく凍ったまま見下している。

 凄絶なその顔に浮かんでいるのは、狂気と呼ばれるものなのか。

 そんなものさえ、彼の一欠片でしかないのだろうけれど。

「そろそろ開けてしまいましょうかねえ?」

「構いませんが、たぶんじきに死ぬかと思います」

「なおさら、早く開けないといけませんね」

 くすりと笑んだ彼の顔でも見えたか……

 男がうめき声のようなものを口から零した。

 畏怖と、虚ろ。

 今の男の中には、そんなものしかないだろう。

 私の眼には、男など映っていない。死神のような彼しか、目に入らない。

 焼き付けるように、けれどもどこか遠くから彼を見る私がいる。

 頭部に銃口を突き付けて。手は滑らかに作業をしながら、彼の声が夜に響く。

「命が尽きる瞬間まで、後悔し続けなさい。それが、貴方の行動の末路ですから」

 依頼人の家族は、なんど助けてほしいと乞うたのか、私は知らない。

 男がそれを無視したというのは事実。

 そう……自業自得なのだろう。だから男は殺される。

 そのうち、早く殺してくれといいだすかもしれない。そんなことを刹那考えた。

 夜の闇が深いスラムの中、男の歪な悲鳴が響き渡った。

 空が白み始めるまで、それは続いた。

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