35:報いのときを待つ祈りたち

 七月も終わりが近付いた頃。

 その日の午後三時過ぎ、結菜はスーパーマーケット「新藍ストア」を買い物で訪れていた。

 レジで精算を済ませたあとは、作荷台に運んだ品を、持参のマイバッグへ移してしまう。

 四日分の食料を確保し、所定の位置にカートを戻してから、店舗の出入り口へ向かった。


 と、そこで不意に「おや、天城さん」と名前を呼ばれる。

 聞き知った声だと思って振り返ると、すぐ後方に飛上孝晴が佇立ちょりつしていた。

 結菜と同じく、買い物帰りらしい。両手を見ると、エコバッグをげている。

 平日の昼間に近所のスーパーで顔を合わせるとは、珍しいこともあるものだ――

 と思ったが、すぐに教師の飛上は今、高校が夏季休暇中なのだと気付いた。


 互いに挨拶したあとは、自然と二人で並んで歩くことになった。

「ブルーハイツ新委住」の住人同士だから、当然帰路も一緒だ。



 世間話の中で、飛上からは「お仕事の調子はいかがですか」と問われたものの、結菜は曖昧あいまいな言葉で返事するに止めた。


 実は最近、漫画単行本の既刊が重版したり、インタビューを受けることになったりして、急に身の回りが慌しくなりはじめている――

 などという話を、ここでぺらぺら話すべきとは思えなかったからだ。


 尚、ありがたいことに暗黒城結子(PN)の単行本は、今もネット上で好評が続いている。

 このままいけばオカルト誌「アメジスト」がWeb媒体へ移行したあとも、そちらで連載継続する結菜の漫画は、閲覧数に関係なく、単行本化される見込みが強まっていた。



「実はまどかと別れて以来、最近はかえって趣味に入れ込むようになってしまいましてね」


 次いで飛上に近況をたずねると、のんびりと舗装路を歩きながら言った。

 口調も以前までに増して穏やかで、誠実さの中に大らかさが感じられる。


「やはり実際には心のどこかで、パッチワーク関連の品々を処分したくない、と考えている自分がいたのでしょうね。そう今は実感しています。まどかのことは好きでしたし、あの子を幸せにしたかった気持ちも嘘ではありませんが……相手のためにすべてを投げ打つ、という境地へ至るのは難しいものです」


 自室に積み上げていたダンボール箱の中身も、今では処分したりせず、大切に保管しているという。余暇にキルト作りを再開した他、次の週末には市民会館でパッチワーク関連のもよおしに参加するらしい。勤務先の学校でも手芸部の顧問として、これまで以上に積極的に所属の生徒を指導しているようだ。


「たぶん私は、恋愛や結婚に向いていないのかもしれません」


「さ、さすがにそんなことはないんじゃないでしょうか……」


 相手の心情をおもんぱかりつつ、結菜はいたわるように応じる。

 だが飛上は、お気遣きづかい頂かずとも大丈夫ですよ、とさばさばして言った。



「あの怪異も結局、私がこういう心持ちだったから生まれてしまったのでしょう」


 前を向いたまま、飛上は変わらぬペースで歩を進めている。


「実は先週のことですが、颯馬くんと会う機会がありましてね。その際に怪異のことに関して、改めて色々と教えてもらいましたよ。――たしか、妖怪『機尋』でしたか。そういった古典的なお化けとも類似性がある怪異だったんじゃないか、という話も聞かせてくれましたね……」


 話を聞きながら、結菜は鼓動が一瞬どきりと強まるのを感じた。

 飛上はたぶん、すでにそれとなく怪奇現象の真相に気付いている。

 結菜は怪異発生の原因について、飛上に一切伝えたりしていない。それは颯馬も同様で、先週面会したのが事実としても、その席で露骨に打ち明けるようなことはしていないはずだ。


 しかし飛上は事件の当事者で、怪奇現象を実在の出来事として受け入れている。

 とすれば結菜が描いたスケッチの内容と、自らの体験を照らすなどし、正しい因果関係を導き出したとしても、不思議はない。

 少なくとも颯馬は中学生の頃から、そうした推理を得意としているし――

 どういう面会時の経緯で話題になったかはわからないが、ましてや妖怪「機尋」に関する情報も聞き知っているとなれば、猶更なおさらのことだ。


 もっとも飛上は、その点に触れようとはしなかった。



「そうそう。そう言えば『機尋』の話を耳にしたとき、ふと気になることを思い出したんです」


 代わりに突然、思い掛けない話を持ち出してくる。


「この都市がなぜ『藍ヶ崎』という地名なのか、天城さんは御存じですか」


「えっ、土地の名前の由来ですか? うーん、ちょっとわかりませんね……」


 結菜は、咄嗟とっさに答えが見付からず、白旗を揚げた。

 飛上の洞察に内心驚いていたところだったし、急にローカルな知識を問われ、面食らったからでもある。当惑を禁じ得ない。

 たしか小学生の頃に社会科の授業で、地域にまつわる文化に取り組んだ際、何となく教わったような気はするのだが……非常に曖昧な記憶だった。


「実はこの辺りの土地では、昭和のはじめぐらいまで『藍染め』がけっこう盛んだったそうなのですよ」


 飛上は、いかにも本業の教師らしい口振りで説明した。


「江戸時代に阿波あわ――まあ、現代の徳島県ですよね、そこから移住してきた染物職人がいたようです。それで本格的な藍染めの技術を伝えて、一時期それなりに繁盛したらしい。市内では現在でも陽乃丘方面の一部で木綿が生産されていますが、当時はそれで作った織物も流通していたと聞きます。だから色々と仕事に都合が良かったのでしょうね。……ただし工芸としては、あまり深く根付いたわけでもなかったみたいです。やがては近代化の波に呑まれていき、地域の名称に藍染めの『藍』の字まで残ったわりには、あっさり衰退してしまった」


 話に耳を傾けるうち、結菜も朧気ながら地元の染物について思い出してきた。

 そう言えば、たしか今でも市内の一部地域に繊維工場があったはずだが、あれは古くからある紡績織布産業にルーツを求められる、と聞いたことがあった。


 それで結菜も話題の要点を察して、かたわらで歩く飛上の顔を見た。


「でも藍ヶ崎市内に昔から、木綿糸や織物、それに染物を作る文化があったということは――」


「ええ、それこそ元々『機尋』のような妖怪が生まれる土壌も存在していたのかもしれません」


 言葉のあとを引き取りつつ、飛上はうなずく。


 たしかに指摘されてみると、藍ヶ崎は「機尋」が発生してもおかしくない土地柄と思われた。

 しからば、そこに類似性を有する怪異「彷徨えるタペストリー」が生まれることも、あり得そうだし――

「甦る水彩画」にしても、同様なのかもしれない。


 一方でふと気付いたが、飛上の部屋に置かれていたダンボール箱の中には、藍染めの端切はぎれが混ざっていたように思う。飛上はもしかすると、保管しているパッチワーク素材を見て、地名の由来と怪異の関係を連想したのだろうか。




     ○  ○  ○




「ブルーハイツ新委住」に到着すると、エントランスホールでエレベーターに乗り込む。

 飛上は一〇階で先に降りたため、そこで別れ、結菜は一人で一二階まで昇った。

 それから一二〇三号室に帰宅し、食料品を冷蔵庫に入れたあと、家計簿を付ける。


 その後は仕事部屋に戻って、作業机の前に腰掛けた。

 液晶タブレット上に漫画制作アプリを立ち上げると、作画中の原稿ファイルを開く。

 今日も今日とて、ペン入れやトーンの貼り込みを続けた。地味で地道な作業だ。


 そのまま二時間近く手を動かしていると、この日も颯馬が部屋に姿を現わした。

 下拵したごしらえを済ませた食材を持参し、二人で食べる夕飯を作りにやって来たのだ。

 キッチンで冷蔵庫を開け、さっきスーパーで購入してきたばかりの品をあらためると、

「なんで結さんはまた、いつも冷凍物やレトルトの食べ物ばかり買ってくるかな……」

 などと憮然とした口調で、颯馬は感想をつぶやいているようだった。

 結菜は、素知らぬふうに仕事部屋で作業を続け、それを聞き流す。



 しばらくして夕食が出来上がると、いつも通り結菜と颯馬はダイニングテーブルに着席した。

 手作りの海老ドリアからは、ベシャメルソースの甘い香りが熱気をはらんで立ち昇っている。

 具材やライスをスプーンで口へ運びつつ、結菜は買い物帰りに飛上と会ったことを話した。

 飛上の近況の他、妖怪「機尋」と藍ヶ崎市の地名にまつわる見立てなどを、簡単に伝える。

 結菜がひと頻り話し終えるまで、颯馬は口をはさまず興味深そうに聞いていた。


「なるほど。たしかに藍ヶ崎市では昔、藍染めが普及していたし、紡績業に携わる人々も少なくなかったはずだ。そういう地方文化の変遷は、まさに民俗学の研究領域だね。大学のゼミでは、フィールドワークの題材にしている同級生もいた気がするよ。正直これまで怪奇現象そのものの性質に気を取られて、うっかり失念していたな……」


 やがて颯馬は、苦々しそうに言った。

 得意分野の見落としを悟って、悔しく感じているらしい。

 それからわずかに思案する素振りをのぞかせ、言葉を続けた。


「妖怪『機尋』は、かつて機織りの怨念から生み出された怪異だ。一方で藍染めの織物は、糸をつむいで織られた布でもあるし、色を塗られた品とも言える。この土地で『機尋』と似通った怪異の生まれる要因が、もしそこにあるのだとしたら納得だよね。飛上さんが出くわした『彷徨えるタペストリー』は布の品だし、僕が昔遭遇した『甦る水彩画』も絵の具を塗った画用紙だから」


 颯馬は織布の話に自分なりの見解を交え、解釈を拡げてみせる。

 言葉を紡ぎながら、いっそう思考を巡らせているようだった。



「……ところで、たった今ふと思ったんだけど」


 颯馬は、いったんスプーンをテーブルの上に置いた。

 片手で頬杖を突き、コップで水を飲んでから続ける。


「どうして『彷徨えるタペストリー』も『甦る水彩画』も、僕らが住むマンションで発生したんだろう? 同じような特徴を持つ怪異が、時期は異なるものの同じ土地で生まれるなんて、もし偶然なら随分まれな出来事なんじゃないだろうか。藍ヶ崎に元来『機尋』の出現する土壌があるにしても、市内はけっこう広いわけだし、陽乃丘や鐘羽といった地域でもおかしくはないよね。――にもかかわらず、なぜここで?」


「なぜってかれても……何かそうなる理由があり得そうなの?」


 結菜もスプーンを持つ手の動きを止め、戸惑い気味に訊き返す。

 これはあくまで思い付きだけど、と颯馬は前置きしてから続けた。


「このマンションが新委住に建てられたのは、僕や結さんがここで暮らすようになる少し前だ。少なくとも半世紀以上も昔のことじゃない。ただし僕の記憶が間違いなければ、ここは元々市内でも主に特定のルーツを持つ人々が集まる地域だった。それでマンションが新築される以前にも、古い住居や個人商店、ちいさな工場や工房があったと聞いたことがある」


「もしかすると特定のルーツを持つ人々っていうのは、つまり――」


「うん、他所よその土地から移住してきた人たちさ。昔からそういう地域みたいなんだ。それこそ、江戸時代、阿波の染物職人がやって来た頃からね」


 結菜が示唆するものに思い至ると、颯馬は引き取ってうなずく。


「ここは『新しい住人に委ねられた場所』、だから『新委住』なんだよ」


 その上で、颯馬はさらに藍色という語についても、自らの見立てを示した――

 英語で「藍」は主にIndigoインディゴと訳されているが、それが「藍染め」という日本文化と結び付いたものとして理解される場合においては、海外で特にJapanジャパンBlueブルーと呼ばれることもある、と。


 そうして、このマンションには「ブルーハイツ新委住」という名称が与えられている。

 そこにはもしかすると、藍ヶ崎市内ですでにすたれた藍染め文化との関連があるのではないか。

 集合住宅が建築される以前、そこにあったはずのものを踏まえた物件名ではないのだろうか? 


 結菜は、思わず溜め息をいた。


「藍ヶ崎で新委住、ブルーハイツ……。そういう話を聞かされてみると、ここは『機尋』みたいな怪異の発生する材料が、充分すぎるぐらいそろっているような気がしてくるね……」


「まあちょっとした連想でしかないから、はっきりした証拠は何もないけどね。ただ『彷徨えるタペストリー』や『甦る水彩画』が出現したことはたしかだから、今話したような郷土史と関連があったとしてもおかしくはない――と、僕は思う」


 苦笑交じりに言って、颯馬は肩をすくめる。


 結菜はやり取りの中で、不意に「もし怪異が土地と強く結び付いた存在だとしたら、ここから引っ越すことで消滅させることはできなかったのだろうか」と考えた。

 しかし思案してすぐ、あまり有効な対策ではなさそうだと思い直す。

 少なくとも「彷徨えるタペストリー」は、マンションを離れて、佐渡まどかの居宅にまで出現した。とすると類似の怪異は、他地域へ移動しても追い掛けてくる可能性が高い。

 たぶん地縛霊などではなく、あくまで個別に発生している存在なのだろう……。



 二人は食事を再開し、それが済むと食器を片付けた。

 颯馬が皿を洗い、結菜がいてから、キッチンの食器棚に収納する。

 ひとときリビングで休んだあと、結菜は漫画原稿の作画に戻ろうとした。

 それを見て、颯馬もソファから腰を上げ、帰宅する旨を伝えてくる。


 結菜は、再び仕事部屋で篭もる前に一応、颯馬を玄関まで見送った。


「明日は大学の講義が午後の四コマ目からだし、その前に来てお昼ご飯を作るよ」


 颯馬は、かがんで靴をきながら予告する。

 迷惑掛けて悪いねぇ、と結菜はいつものように恐縮して言った。

 身の回りのことを毎日散々世話させておいて、何を今更――

 そうした批判を免れられるとは思わないが、さりとて感謝の念にいつわりはない。

 と、颯馬も毎度のことながら、単に自分のぶんを作るついでさ、と返事する。

 それもまた、いつものやり取りで繰り返される定型句だ。


 ただし颯馬は思い掛けなく、このとき普段にはない言葉を続けた。


「……もし面倒臭かったら、とっくに僕は止めているよ。好きでしていることなんだ」


 靴紐を結ぶと、立ち上がって背筋を伸ばす。


「むしろ結さんこそ、マンションの隣人から毎日押し掛けられて、迷惑じゃないの。男子大学生が頻繁に部屋へ出入りしているのって、大人の女性としてはあまり外聞のいいものじゃない気がするけど」


「お、大人の女性かあ。まあ私は歳だけ取って二〇代半ばになったってだけで、そういう立派なものじゃないからねぇ。颯くんとの間柄も、昨日今日はじまったわけじゃないし」


 結菜は、あはは、と乾いた笑いを漏らして言った。

 と、目の前にたたずむ青年が振り返り、互いに正面から向き合う格好になる。

 颯馬は、一段低い三和土たたきに立っていても、結菜より目線の位置が高い。

 七年前は今ほど背丈がなかったはずなのに、本当に大人になった。


「そうだね。結さんと出会って、食事を作ったりするようになってから、もう随分経った。――たぶん好きで続けていることからは、離れようとしても容易に離れられない」


 颯馬の言葉には、静かだが訴えるような調子があった。


「大事なものは、捨てられないんだ。そうして身近に大切な人がいたなら、やっぱり誰しもそれを受け入れられたいし、認めてもらいたい、肯定してもらいたいと思うものなのかもしれない。今回の件に関連する怪異を考察してみて、何となくそれがわかったように感じるよ」



 犀利さいりそうな瞳が真剣な眼差しを、真っ直ぐ結菜へ注いでいる。

 結菜は、そこに名状しがたい居心地悪さを感じ、ちょっとひるんだ。

 かたちの良い颯馬の口唇から、さらに言葉が紡がれた。


「もしかしたら、それはある種の祈りなんじゃないかな」


 結菜は、鸚鵡おうむ返しに「祈り……?」とつぶやく。

 ゆるい所作で首肯し、颯馬は引き取って続けた。


「そうさ、祈りだよ。自分の大切なものを知って欲しいと願って、それがいつか届いて欲しいと思う祈り。だから僕もつまり、自分にとって何が大切なのかを……いや――……」


 そこまで言ってから、にわかに一度言葉を切る。

 結菜へ向けていた視線を外し、かぶりを振った。


「それがいったい、どうすればあやまたず成し遂げられるかは、とても手強い謎だね。いずれ絵解きしなくちゃいけない問題だ。時間は掛かるかもしれないけれど、きっと答えにたどり着くつもりさ。どんな努力も惜しまずに、ね」


 颯馬は、奇妙な微笑を口元にたたえ、玄関ドアの側へ向き直る。

「じゃあまた明日」と何でもない調子で言って、部屋を出ていった。




 ……ひととき一二〇三号室を、静寂が包む。

 結菜は仕事部屋へ引き返すと、作業机の前に腰掛けた。

 呼気を大きく吐き出し、椅子の背もたれに上体を預ける。


 丁度そのとき。

 背後に何やら、不思議な空気の流れが生じるのを感じ取った。

 特殊な気配に釣られて、そちら側へ椅子の座面を回転させる。

 何もないはずの空間には、見覚えのある人物が立っていた。


 子供の頃に亡くなったはずの、結菜の母親だった。


 さすがに結菜は驚き、目を見開いた。喉の奥が詰まって、声も出ない。

 母親が幽霊だということは、すぐわかった。しかし霊能力を持つ結菜にしても、こうして対面するのは何年か振りだ。このマンションで暮らしはじめてからは、たぶん初めてだと思う。

 それにもかかわらず、いったいどうして今頃出現したのだろうか? 


 思わずたじろいでいると、母親は微笑み、かすかに唇を動かした。

むくわれるといいね、祈りが……」と、優しい声が聞こえた気がする。

 そうして瞳をまたたかせた直後には、もうそこに母親の姿はなかった。



 部屋の中は、再び静寂で満たされる。


 ――祈りが、報われると……? 誰の? 


 結菜は、ちょっと考え込み、いましがた颯馬と交わした会話を思い出す。

 やり取りの中で、颯馬は「祈り」という言葉を「自分の大切なものを知って欲しいと願って、それが届いて欲しいと思う」ことだと定めていた。

 もしかすると、結菜の母親が伝えようとした祈りも、それを踏襲した概念なのだろうか。

 颯馬にとっては、過去に結局家族に届かず、現状の親子関係を導いてしまった祈り――……


 ときどき結菜は、自分と颯馬の境遇について、どちらがより望ましいか、と考える。

 結菜は、母親が自分のことを愛してくれていたと思うが、まだ幼い頃に他界してしまった。

 一方で颯馬は、母親が存命しているものの、ずっと充分な愛情を注がれた試しがない。

 また世の中には、結菜や颯馬より、もっと複雑な親子関係にある人も少なくないはずだ。


 願い届かぬ数多あまたの「祈り」は、あまねく世界のあちこちにあふれ、報いのときを待つのだろう。

 それを結菜のような人間は、しばしば「怪異」として霊視しているのかもしれなかった。


 ――それにしても、颯くんがオカン系男子に育ってしまったのは……何だか、皮肉なものね。


 颯馬の世話好きな行状に思いを致し、結菜はほろ苦い感覚に囚われた。

 あの性分を、ただただパーソナリティとして受容すべきかは、改めて考えると悩ましい。

 颯馬はあたかも、自分に与えられなかったものを、他人に与えることで、祈りの届かなかった現実に対し、復讐しているかにも思えるからだ。それを結菜が受け入れ続けることは、果たして颯馬にとっての救い足り得るのだろうか。わからない。



 結菜は今一度、作業机の側へ向き直り、タッチペンを手に取った。

 液晶タブレットに電源を入れ、漫画原稿制作アプリを立ち上げる。


 ――ただ何にしても、きっと私にとっての「祈り」は絵を描くことだ。


 制作途中のファイルを開き、作画の続きに取り掛かった。

 絵と物語に込めた祈りを、見知らぬ誰かへ届けるために描く。

 結菜は、報われればいいな、と密かな希望を抱いていた。






<霊視のあとは、絵解きの時間。・了>

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