34:ここへ至る経緯

「じゃあ颯くんは、そういう背景から『彷徨さまよえるタペストリー』と『よみがえる水彩画』の類似性に気が付いて――飛上さんと怪異のことを話し合ったとき、提案に嘘を混ぜて話したり、佐渡さんの手でタペストリーを処分させたりしようとしたのね」


 このあいだ問いただした件についての答えを、結菜はやっと得たような気がした。

 作業机の上にタッチペンを置いて、椅子に腰掛けたままで座面を回転させる。

 背後を振り返ると、床の上に放置されていた書籍を、颯馬が拾い集めていた。


「佐渡さんをタペストリーと接触させたのも、颯くんの小母さんが七年前に『甦る水彩画』から追い回された末、怪異を除霊した経緯を踏まえたからなの?」


 妖怪「機尋」と同様、「甦る水彩画」も作り手の恨みや執着から生み出された。

 怪異を現世に発生させる負の想念は、必ずしも死者のそればかりではない。


「甦る水彩画」はまた、颯馬の母親という恨みの対象を、ある程度追い詰めたところで、自然と消滅してしまっている。おそらく母親の卒倒によって、颯馬の感情に変化が生まれ、怪異を発生させる原因が霧散したせいと思われた。

 そうした事物の因果が「彷徨えるタペストリー」にも当てまるなら、佐渡まどかに同じような手続きを踏ませることで、怪異を除霊できるかもしれない。そのような連想を持つのは、当然のことだろう。


 しかし今一度投げ掛けられた問いに対して、颯馬の回答は単純ではなかった。


「いや、それは少し違うかな。以前も言った通り『彷徨えるタペストリー』は、『甦る水彩画』と類似した怪異なら、人に害を為す霊じゃない。それは結さんが撮った写真に何も写らなかったことからも、証明されている。そうして『良い霊』なら、僕は今回根本的に必ずしも除霊の必要はない、という前提で事件の対応に臨んでいるつもりだったよ」



 そこから明快な言葉で、尚も説明が続く。


「飛上さんに『怪奇現象の件を恋人同士で共有して、できるなら佐渡さんの手でタペストリーを処分させて欲しい』という言葉を伝えたとき、それが導く状況にはいくつかの展開があり得ると考えられた。


 第一には、佐渡さんが怪異の実在を信じるかどうか、という問題がある。もしここで信用してくれたら、話はとても単純だよね。僕と結さんで改めて、飛上さんと佐渡さんに怪異が発生した理由を伝えればいい。飛上さんのキルト作品に対する執着が原因なんだろうから、パッチワーク関連の品々を処分することを止めれば、おそらく怪奇現象は起こらなくなると思う。ただそこに佐渡さんが納得するか否かは別問題だから、飛上さんとよく話し合ってもらうことになるかな。


 その次には、佐渡さんが怪異を信用せず、しかもそれでいて自分の手では絶対にタペストリーを処分しようとしない場合。これは逆に一番厄介な展開だけど、そうなると僕や結さんにできることはたぶん多くない。とりあえず飛上さんには怪異が発生した原因を伝え、以後は佐渡さんと恋人同士で解決の道を探してもらうことになるだろうね。……ただし互いに話し合いの出発点が違いすぎるから、結局は溝が大きくなるだけで、やっぱり二人は破局するような気がする。


 そうして最後は、佐渡さんが怪異を信用しなかったものの、試しに自分の手でタペストリーを処分してみることになった場合だね。この展開では佐渡さんがじかに怪奇現象と遭遇することになるけれど、さらにそこから二種類の状況が想定される。やはり分かれ目になるのは、非科学的な体験を経ることにより、改めて怪異の実在を信じるようになるか否か、という部分だ。信じるのなら、僕と結さんが怪異発生の原因を伝えることになる。それで佐渡さんもパッチワーク関連の品々を処分するのは、もう止めようとしてくれるかもしれない。もっとも信じてくれないなら――まあ、どうなるかは今回、まさに飛上さんと佐渡さんのあいだに生じた顛末てんまつこそ、そのまま該当する結果というわけさ……」



 颯馬は。拾い集めた書籍を抱え直し、前傾気味だった姿勢を正す。

 作業机の側を選り返って、皮肉っぽい笑みを口の端に薄くきざんだ。


「端的に言い換えるなら結局、飛上さんと佐渡さんがあの状況で上手くいくとすれば、それは『怪奇現象が現実に存在することを、佐渡さんが信用した場合に限られる』ということになる。その上でもう怪奇現象と接触したくないのなら、『飛上さんの趣味を可能な限り受け入れ、かつ大切なパッチワーク関連の品々を処分しない』ということも要求されると思うけれどね」


 それが土台無理な話であることは、結菜にも察せられた。

 飛上の話を思い返してみる限り、佐渡まどかは徹底した常識人らしい。何しろ自分が遭遇した怪奇現象についても、飛上が仕込んだトリックだと言い張っているほどなのだ。

 颯馬の母親と同様に非科学的な事物を、どうあっても受け入れる様子はなさそうに思える。


 だから実は面談した際、颯馬の提案に同調した時点で、ほとんど飛上と佐渡の破局は決定していたのかもしれない――

 とすれば、この件の顛末てんまつも、もしかして颯馬が期待していたものだったのだろうか? 

 結菜が率直に問いただしてみると、ある意味ではその通り、と颯馬は首肯して認めた。




「改めて結さんが今回描いてくれたスケッチについて振り返るとね、あの絵の中からは飛上さんの様々な心情が想像できるように思うんだ」


 颯馬は書棚へ向き直って、抱えた本を戻しつつ言った。

 そうして霊視の光景を、いっそう詳しく「絵解き」していく。


「この点に関して言うと、僕は高校時代が描かれた二、三枚目のスケッチに注目したくなるね。自分の好きなものが受け入れられないという、孤独や疎外感、周囲の差別的な意識が見て取れるじゃないか。ただし一方で、最後の四枚目も興味深い。パッチワークキルトへの情熱を捨てず、思い入れを貫き通したことで努力が報われ、成功体験を得たという内容になっている――」


 そこで言葉を一度区切って、ほんの少しだけ間がはさまれた。

 幾分か考えるような素振りを交えつつ、颯馬は先を続ける。


「そうしたし方の中に僕はね、無理解な相手に対する対抗心のようなものを感じるんだ」


「……それって、パッチワークキルトを否定されることへの反発ってこと?」


「その通り。たとえ好きなものを否定されても、絶対に折れてはいけない、あらがうべきだ、という強い意志さ。ただ今回の件で飛上さんが不幸だったのは、趣味に無理解な相手が恋人だった点に尽きる」


 再び結菜が確認すると、颯馬は軽く肩をすくめた。



「それでも飛上さんは誠実な人だから、どうにか自分の本心を押し殺して、パッチワーク関連の品々を処分しようとしたんだろうね。世間一般ではもし『趣味と恋人と、どちらが大切か?』とかれれば、まあ何だかんだで恋人を選ぶべきだろう、という風潮が強いと思う。現代は価値観が多様化しているけど、それでも二者択一を迫られれば、そう答える人が多いんじゃないかな。それこそが恋人を大切にする良い交際相手だ、ということだよね。そうして佐渡さんはたぶん、恋人に対して、何より自分を優先して欲しいと求めるタイプの女性だったんじゃないだろうか。


 そういった恋愛における価値観、個人の願望自体を、否定するつもりはない。誰かから何かを受け取ること、あるいは逆に誰かへ何かを与えることに幸せや喜びを感じる人はいるだろうし、各人の自由だよ。

 ただ飛上さんは、パッチワークキルトを大切にしていて、趣味を続け、それに関わる品を所有することに少なくない価値を見出している人物だと思う。どれだけ表面的に取り繕っていても、そうした欲求なり感覚なりがキルト作品や端切れを呪物化させ、怪奇現象を起こしていたことは事実なんだ。


 すると、飛上さんと佐渡さんのあいだには、いずれかが歩み寄らない限り、どうしたって埋め難い溝があることになる。――さて、飛上さんはパッチワークキルト関連の品々を処分しようとしたものの、怪異がそれを妨げて、思うようにいかなかった。何しろ飛上さんの心の根底には、いましがたも言った通り無理解な相手への対抗心があるんだからね。とはいえ対する佐渡さんも怪異の存在を否定して取り合わず、要求を取り下げようとしてくれない。だったら二人にとっては、どういう結論が幸せなのか。

 ……交際関係を解消するのが一番いい、という判断に至ったのは、個人的には賢明だと思う。怪異を除霊するには、おそらく飛上さんが『パッチワーク関連の品々を処分せずに済む』状況に落ち着く必要もあったのだろうし」



 颯馬の説明は丁寧だったが、結菜は除霊の点に関してひと言問い質したくなった。


「颯くんは『悪い霊』じゃないなら、除霊する必要はないかもしれないって言ってなかった?」


「ああもちろん、そういった展開を選択する余地だって、あの二人になくはなかったと思うよ。何度捨てても手元に戻ってくるキルト作品や端切はぎれと付き合いつつ、意地でも交際を続けるっていう方向性になるだろうけどね。でも佐渡さんは、怪異の実在を受け入れようとしないし、それは飛上さんの言葉を結局信用していないということでもある。だから除霊しなくても二人の身に危険はないだろうけど、それで恋人同士であり続けられるかは疑問だね」


 ゆえにいずれにしろ、破局は早晩避けられなかっただろう――

 颯馬は、そう結論付けてから続けた。


 その発言を聞く限り、颯馬としては自分の助言から導かれた状況を、あくまでも結果的なものだと主張したいらしい。飛上と佐渡が破局したのは両名の選択だし、怪異が除霊されたのも行き掛かり上の展開ということなのだろう。


 とはいえ、いずれも颯馬はあらかじめ予見していた結末のはずだ。

 ひるがえってみれば間接的な関与で、事態を思惑通りの展開へ着地させたとも解釈できる。

 年下ながら抜かりない立ち回りには、畏怖と当惑が半ばした印象を抱かざるを得ない。


 もし颯馬を敵に回したりしたら、恐ろしいことになるだろうな、と結菜はよく思う。

 裏を返すと、味方でいてくれる限りは、非常に頼もしい男の子なのだが……。




     ○  ○  ○




 颯馬はその後、いったん結菜の仕事部屋を足早に出ていった。

 それから二分と経たずに引き返してきた際には、両手で掃除機を携えていた。玄関ホール脇の収納から、引っ張り出してきたのだろう。

 たぶん結菜が起居する部屋のことで、颯馬が知らないことはほとんどない。

 掃除機のプラグをコンセントにつなぐと、電源スイッチを入れて起動させる。


 結菜も液晶タブレットの前で居住まいを正し、漫画制作の仕事に戻った。



「……あのさぁ結さん。こっちの棚の物陰に何か、ラフ画の描かれた紙が落ちていたんだけど」


 しばらくして、にわかに颯馬が声を掛けてきた。

 結菜は再び原稿作業を中断し、自分の名前を呼ぶ青年の方へ振り向く。

 颯馬は、空いた側の手でコピー用紙を掲げ、ひらひら翻してみせていた。


 白い紙の表面には、たしかに結菜の絵柄でラフ画が描かれている。

 少し前にキャラクターデザインを発作的に思い付き、あわてて手近な紙にメモ描きしておいた際のものだった。普段はラフ画でも大抵、タブレットでデジタル作画してしまうのだが、たまにはサインペンで紙の上に描くこともある。主に単なる気まぐれではあるのだが、何となくアナログで描く方がアイディアがまとまりやすい――と、感じる場合も少なくなかった。


「これって不要なやつ? 床の上に落ちているのに気が付かないで、ちょっと掃除機で吸い込みそうになったから、紙の端の部分がすっかり皺くちゃになっちゃっているけど……」


 颯馬は、コピー用紙に描かれたラフ画をあらため、要不要を問い掛けてくる。

 失敗作のデザインなので、結菜としてはつぶさに観察されると気恥ずかしい。


「ああそれ、シュレッダーに掛けて処分しちゃって。元々自主的に没にしたものだから」


「ふうん、そうなんだ。ラフ画とはいえ、けっこういい絵なのに」


「いやいや、それじゃ商業には出せないよー。目を引く要素が足りなくて、パッとしないし」


「僕から見れば、そんなことはないと思うけど……プロの基準は厳しいね」


 結菜がラフ画の拙さを指摘すると、颯馬は感心したように唸った。


「でもやっぱり、捨てるのはもったいないなあ。僕が個人的に保管しておきたいぐらいだよ」


「ちょ、お願いだからそれは止めて。私の絵が欲しいなら、そのうち颯くんにはちゃんとしたのを描いてあげるから」


 結菜は、思わず目をまたたかせ、次いで苦笑せずにいられなかった。

 いつも颯馬は絵をめてくれるが、よく考えてみると、直筆のそれを個人的に欲しがったのは、意外に初めてのような気がする。もしかしたら、一応はプロ漫画家である結菜に対し、これまで「取材」以外では絵を描いてくれなどと言いにくかったのかもしれない。


 かれこれ七年も一緒にいるのに、妙なところで律儀なことだ――

 と考え、結菜はその為人ひととなりに若干、あきれにも似た印象を抱いてしまう。


「そう? じゃあ言質は取ったからね、約束だよ」


 颯馬は、微妙に声を弾ませて言うと、部屋の隅にあるシュレッダーへ歩み寄る。

 本体の電源を入れ、失敗したデザイン画を挿入口へ投入した。けたたましいモーターのうなり声と共に、みるみるコピー用紙が内部へ吸い込まれていく。



 自分の絵が細切れに裁断されていく音を聞きながら、結菜は漫画制作の作業を再開した。

 と同時に何気なく、かつて「よみがえる水彩画」から霊的な気配が消失したときのことを思い出す。


 ――僕が描いた水彩画ですけど、実は先日処分することができました。


 颯馬は、彼の母親が卒倒した翌週のこと、落ち着いた口調で報告した。


 ――四つに破って、普通にごみ箱に捨てたんですけど。自分の部屋に戻ってくる様子もないし、もう以前みたいに不思議な現象は起こらないようです。


 それを伝え聞いても、結菜はほとんど驚かなかった。

 実は処分する前にもう一度だけ、颯馬が描いた絵を「霊視」させてもらっていたからだ。

 だからすでに「甦る水彩画」は、所謂いわゆるき物が落ちた」状態であることを把握していた。

 しからば廃棄することができるようになっていたのは、当然だろう。


 ――水彩画の件で、お姉さんには色々とお世話になりました。


 颯馬は当時、神妙な面持ちで言ったものだ。

 面識を得た当初の、他者を突き放すような刺々しさは消えていた。

 むしろ今思い返してみると、結菜は少し笑ってしまいそうになる。


 ――僕が出くわした不思議な出来事を、お姉さんが信用してくれて、本当に嬉しかったです。ああいう、お化けみたいな……怪異っていうんでしたっけ? あの絵がそういうものに変化してしまっているって、お姉さんがけ合ってくれたおかげで、僕は救われたんだと思います。


 結菜は少し大袈裟だなと思ったが、颯馬少年の眼差しは真剣だった。


 かくしてこれ以後、結菜と颯馬のあいだにおいて「お隣さん同士」としての、とても長い親交がはじまった。

 やがて颯馬が一二〇三号室を訪れたある日からは、結菜のずぼらな一人暮らしの状況も、見事に露見してしまう。

 もっとも颯馬は事態を看取すると、自発的に部屋の清掃を(まさしく、今現在もそうしているように!)開始し、あらゆるものを整理整頓してみせた。さらに結菜のかたよった食生活を見抜き、なぜか定期的に食事の世話まで焼くようになっていく。

 颯馬は、常に両親に放置されていたせいで、当時から家事全般をひと通り得意としていた。


 五歳も年少の男子中学生から、身の回りのことを世話されるのは問題があるのではないか――

 というのは、もちろん結菜も大いに感じていた。ところが颯馬に任せておけば、家事の負担が減るのは確実だったから、ついつい頼って楽をしてしまう。

 颯馬の側も面倒臭がる様子はなく、進んで引き受けているようだ。


 たぶん颯馬はそれによって、かつて怪異から救われたことに謝意を示しているのだろう……

などと、ときどき結菜はぼんやり考える。ただし七年にもわたってそれが続いている事実は、世話される側としても、さすがに年々居心地悪さが増している。

 にもかかわらず颯馬の厚意を断れないのは、結菜が怠惰な性分だからだ。これでは良くないと理解しつつも、現状に寄り掛かってしまう。脱却するだけの気概が持てない。



 それどころか特殊な状況も継続するうち、最早日常の一部分となってしまった。

 思えば颯馬との親交も、徐々に段階を経て深まることこそあれ、その逆はない。


 ――ところでお姉さんのこと、これからは『結さん』って呼んでもいいですか。


 颯馬が中学校を卒業して、高校生になった際には、そうした要望を受けた記憶がある。

 軽い気持ちで、結菜はいいよと許諾した。それでこの頃から、互いを「颯くん」「結さん」と呼び合うようになったはずだ。初めはおずおずと、だが次第に慣れた様子で愛称を口にするようになって、当時高校生の颯馬は大いに満足気だったように思う。

 またさらに大学へ進学した前後からは、敬語で言葉を交わすこともなくなった。

 考えてみれば、二人はとても時間を掛けて、現在の間柄を構築してきたのだ――……




 ……背後ではまた、掃除機が床のほこりを吸い上げ、うなるような音を立てている。


 わざわざ振り返ってたしかめなくても、そこに今も颯馬がいて、手際よく家事を片付けているのがわかった。

 そうして結菜は、作業机の前でタッチペンを握り、液晶タブレットに表示された下描きの線をなぞっている。


 この日常は果たして、いつまで続けられるのだろう? 

 必ずしも現状が正しいとは思わないが、今後も漫画を描き続け、颯馬から愛想を尽かされずにいられる自分でありたい――

 と、結菜は密かに考えた。それは贅沢な願いだろうか。

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