33:過去から今を絵解きする

 ……七年前、デジタルカメラで「よみがえる水彩画」を撮影したとき。

 結菜は、そこに何ら霊的な反応を認めることができなかった。


 その時点で、颯馬や自分が目撃した怪奇現象は、おそらく「悪い霊」の仕業ではない――

 と、大まかな判断を下すに至っていた。少なくとも結菜が異能に目覚め、何度となく心霊現象を体験する中で得た知見に基づけば、それはかなり確信に近い見立てだった。



 また結菜は写真撮影に次いで、このときも水彩画に「霊視」を試みている。

 その際には過去の光景を複数知覚し、颯馬の絵から芹沢家の事情を、一面的にとどまるにしろうかがい知る機会があった。常に仕事に追われる夫婦、愛情が薄い親子関係、放置された少年時代の颯馬、家族間のすれ違い……。

 さらには(ねぇ見て、お願い)という、冷たく響く声音まで聞こえてきた覚えがある。


 霊視のあとはそれにより知覚したものを、どのようにとらえ、またいかにして颯馬に伝えようかと、かなり迷った。


 もっとも結菜が言いにくそうにしていると、颯馬は犀利さいりそうな瞳でめ付けてきた。


「結局は『お化けが視える』なんてことも、お姉さんの作り話なんでしょう? 僕が怪奇現象に出くわしたことについても、まるで味方をするような言い方していたけれど、こっちの話を本心から信用していたわけじゃないんだよね。きっと後々馬鹿にして、僕の知らないところで笑い話にするつもりなんだ……」


 こうまで言われると、結菜としても霊視した事物について打ち明けざるを得ない。

 実際は颯馬の言葉で露骨に誘導された格好なのだが、当時の結菜はただちにそれと察することができなかった。五歳年下の中学生とのやり取りに対し、注意が不足していたせいだ。


 ただいずれにしろ颯馬が霊視の結果に関し、このとき詳しく知るに至ったことは間違いない。

 結菜は説明を求められ、渋々ながら霊的に知覚した光景を、スケッチすることになった――

 それこそ、現在もそうするのと同じようにして。


 ちなみに結菜が実体を写真で撮れない怪異は、何某か特殊な条件がともなわない限り、普通の人間にも画像や動画に収めることはできない。颯馬も無論「甦る水彩画」を、当時は映像として保存することができなかった。

 だから猶更なおさら、結菜のスケッチは有用性が高い。



「ああ、そう言えば初めて結さんから絵を見せてもらったのは、あの水彩画を『霊視』したあとにスケッチときだったっけ」


 知り合ったばかりの頃の話題を続けるうち、颯馬はふと思い出したように言った。


「最初に結さんのスケッチを手渡されたときのことは、きっと一生忘れないと思うよ。こんなに綺麗な絵を描けちゃうなんて、まるで魔法みたいだと思ったからね」


「あんな昔のつたないスケッチぐらいで、魔法だなんて。霊視能力や怪奇現象に比べたら、ちっとも神秘的な要素はないはずだけれど」


 結菜は、原稿を描き続けながら、ほんの少しあきれて言った。

 高校時代の絵を思い出すと、技術の未熟さに羞恥心しゅうちしんを刺激される。

 ましてやあのときのスケッチは、だまし討ちで描かされたようなものだ。


 しかし颯馬は、真剣な口調でけ合った。


「それでも魔法だよ。僕には『霊視』に負けないぐらい、不思議なことさ。いつでもペン一本で、見事な絵が描けてしまうってことは……」。


 結菜は自分の背後で、颯馬が移動する気配を感じた。

 室内を掃除しながら、徐々に机の側へ近付いている。

 颯馬は尚も過去を振り返り、先を続けた。


「あのときの感動は、到底ひと言で言い表せない。まずとても驚いて、手が震えたし、たちまち心奪われたよ。それとまあ、自分の絵心のなさを改めて悟って、すっかりとどめを刺された気分になったかな」


 颯馬の言葉には、懐古の響きと微量の自嘲が混ざり合っていた。


 それを聞いていると、あの日スケッチを描いた自分は正しかったのだろうか、と結菜は今更のように疑念を抱く。

 颯馬の過去を本人の前で、結果的にあばいてしまったことと同じだったからだ。かてて加えて、芹沢家の家庭問題を覗き見したと自白したようなものし、そこに関与した格好でもある。


 しかしスケッチしなければ、颯馬は誰に対しても心を開かないままだったのかもしれないし、怪奇現象の発生を収束させることも困難だったかもしれない。



「きっと颯くんはあの日、私が描いたスケッチを見て――」


 結菜は内心、答えの出ない自問を続けながら言った。


「それで『甦る水彩画』が自分の中の何か――恨めしさとか、反発とか、そういった負の感情と結び付いて、よくわからない怪奇現象を起こしている、って気付いたんだよね……」


 そう、結菜が七年前に接触した怪異――

「甦る水彩画」を生み出していた原因は、たぶん颯馬の心の中にあった。当時の霊視した光景をはじめ、のちの展開や着地点を、今改めて振り返ればわかる。


 颯馬の母親である芹沢恵美は、自身の仕事や社会的成功に執心して、一方では子供とは向き合おうとしない傾向が強かったらしい。

 そのせいで怪異は、颯馬の「相手の関心を自分に向けたい」という願望を下地としつつ、それを軽視し続けてきた母親への怨嗟えんさによって発生したのだろう。

(ねぇ見て、お願い)という冷たい声も、きっと颯馬の思念が生み出したものだったのだ。言葉に出せない、報われぬ渇望が幻聴となり、知覚に訴えていたのに違いない。


「……以前にも言ったと思うけど、あの水彩画を最初に描いたのは小学四年生の頃だったんだ」


 颯馬は、部屋の掃除を続行しつつ、記憶を手繰たぐるように言った。


「図画工作の授業で、家族の絵が課題になってね。芸術的なセンスがないから、ちっとも上手くは描けなかったけど。それでも一生懸命に色を塗って、どうにか完成させたんだ。担任の先生は『描き上げることができたら、お家の人に見せてみましょう』って言っていてさ。当時の僕は、今にして考えてみると、滑稽こっけいにしか思えないほど張り切って描いていたよ」


 小学生の颯馬少年は帰宅すると、完成した水彩画を母親に手渡そうとした。

 担任教師の勧めに従って、自作に対する意見や感想を聞こうとしたからだ。

 けれど母親の恵美はその際、息子の絵を受け取ろうとすらしなかった。


「母さんは絵を差し出す僕の方を、振り向きもせずに言ったんだよね――『忙しいから、あとにして頂戴。隣の部屋の収納に入れておいてくれたら、見ておくから』って。僕は最初、すぐにも見てもらいたかったんだけど。仕方がないから母さんの言う通り、隣の部屋へ行って収納の中にしまっておいた。でも、そうしたら――」


「そうしたら、そのまま三年過ぎて忘れられていて、やっと絵が見てもらえたと思ったら、すぐに処分するように指示された……?」


 あとを引き取ると、颯馬は「まあ、そういうことさ」と返事する。

 どうやらおおむね想像した通りみたいだ、と結菜は密かに考えた。



 実際は七年前にも、結菜は霊視の内容から類推して、事物の因果を把握し掛けていた。

 しかしながら当初はまだ、芹沢家の人々と然程さほど親しくなっていなかった。そうした状況で隣人家庭のことに踏み込んで良いのか、判断が付かず、有効な手立てを取れなかったのだ。

 さりとて怪異が関わる問題ゆえ、当然第三者の助けを求めることも容易ではない……。


 それで幾分逡巡しゅんじゅんしていると、颯馬は自分の母親を怪異と接触させてしまった。

 結菜が事態に気付いた頃には、芹沢恵美はそのせいで卒倒し、病院へ運ばれることになった。身体に異常はないと診断されたが、退院後も怪異に対する恐怖心は消えていないようだ。

 そのせいで、颯馬と言葉を交わす機会はいっそう減少し、同じ一二〇二号室で起居しているのに、いまや自分の子供を避けるまでになっている――

 どうやら恵美は、ついぞ怪異の実在を認めておらず、自分を精神的に追い詰めた出来事も、「息子が仕組んだ詭計トリックに違いない」と思い込んでいるらしい。佐渡まどかと酷似した反応だ。


 それに対して颯馬には、結菜が知り合った頃のような、鬱屈した面影がなくなった。社交的になり、友人知人が増え、立ち居振る舞いも如才ない。

 母親との断絶は深まったにもかかわらず、恨みや反発は過去の感情と化したかに見える。

 ひょっとしたら恵美が倒れた際、それによってある種の留飲を下げたのかもしれない……と、結菜は密かに想像していた。


 だが他にも理由はあるのかもしれないし、わからない。例えば、同じ時期にたまたま、学校で女の子と仲良くなり、血縁者以外に親しみを持てる相手と出会った、とか。

 颯馬は美男子だから、いかにもありそうなことだと思う。あるいは戸籍上の家族でなくても、心を許せる相手がいれば、孤独が救われることもあり得るのではないか。あくまで単なる想像に過ぎないし、それがどこの誰なのかも、結菜はあずかり知るところではないが。


 尚、父親の和馬は「甦る水彩画」が除霊された前後を問わず、仕事にばかり注力している。

 家庭の問題に無関心な点も、当然変わるところがない。いつも朝早くから出勤して、「ブルーハイツ新委住」一二〇二号室には夜遅くに帰宅する。ほぼ寝るためだけに自宅を利用していて、颯馬も恵美も面と向かって会話することが多くない。

 おかげで勤務先では現在、役員の一人として経営にたずさわるまでに出世したという。


 ただし見方次第では、和馬は芹沢家の中における最大の罪人と言えるかもしれなかった。夫として、または父親として、本来ならば誰より家族関係を良好に保つ努力が求められる立場のはずだが、そうした意識は明らかに欠如している。



 かくして今日まで、芹沢家は夫婦や親子の間柄が冷え切っていた。

 それでも辛うじて家庭崩壊を免れているのは、夫妻と息子の三者全員が、表面上では理知的に振る舞い、いさかいを好んでいなかったからだろう。

 たとえ内心では、家族の誰かに対して不平や怒りをつのらせ、ときとしてそれが怪異を生み出すほどに根深いものだったとしても――……。



「ただいずれにしろ当時の経験が、飛上さんの件では大いに役立ったよ」


 颯馬は、かすかな笑いを漏らし、あっけらかんとして言った。

 その口調には、どこか作り物めいた前向きさがにじんでいる。


「実は七年前に『甦る水彩画』の件が収束したあとも、僕はあの怪異が結局どういうものだったのか――単に『自分の内側から出てきた私怨で発生した化け物だった』というだけじゃなく、他に類例のある事象なんじゃないかと思って、以来ずっと手掛かりを探していたんだ」


「もしかして、そうするうちに民俗学で妖怪を知って、妖怪『機尋』にたどり着いたの?」


「そうだね、民俗学は怪異譚を古い文化として研究している分野だから。とはいえその後も大学へ進学してまで、ずっとそういう勉強を続けることにした理由は、別にあるんだけど……」


 当て推量で問うと、颯馬はひと言付け加えつつも肯定する。

 もっとも「別にある理由」が何かは、ほとんど結菜の興味を引かなかった。

 だからわざわざ、その点についてはあれこれと深く考えようとしなかった。


「とにかく、おかげで『彷徨さまよえるタペストリー』と『機尋』の類似点にも気付いたし、だから『甦る水彩画』とも同系統の怪異かもしれない、って。そういうふうに連想を進めていくことができた」


「彷徨えるタペストリー」と「甦る水彩画」、それから「機尋」。

 三つの怪異は、いずれも「人の手で作られた品が、作り手の情念に類するものを宿している。しかも特定の目標や対象をひたすら追い回す」という共通点がある。

 またそのうち「彷徨えるタペストリー」と「甦る水彩画」の二つは、「追跡対象が存在しない場合も、元の持ち主のところへ舞い戻ろうとする。さらに持ち主の手を離れた時点で破損個所があった場合は、いつの間にか復元している」という特徴を有していた。



「……うーん。私としては、ちょっとだけ違和感があるんだけど」


 結菜は、漫画を描きつつやり取りしていて、素朴な疑問を抱いた。


「飛上さんって、あのタペストリーに対して、本当に怪異を生み出してしまうほど固執していたのかな? もちろん結果から見れば、たしかに颯くんの推理は正しかったと思う。だけど最初に会って話をしたときから、最終的に佐渡さんと破局したあとまで、表面的な部分ではそうは見えなかったというか……」


 飛上は「学生時代に作ったもので、出来栄えはつたい」と、自らタペストリーを評していた。

 創作者にとって過去の作品は、第三者から好かれるぶんには嬉しいが、見返してみると大抵は気恥ずかしいものだと思う。常に技術的に進歩している人間なら、猶更ではないだろうか。


 だから結菜としては、飛上が事情を打ち明けるときの淡々とした物腰も、かえって自然なもののように感じられたのだ。古い作品への過度な執着は、そこにほとんど見て取れなかった。


 しかし颯馬は、結菜と異なる見解を持っているようだった。


「それはそうだろうね。まさしく飛上さんはパッチワーク関連の品々を惜しんでいるだなんて、僕らの前ではおくびにも出そうとしなかった。だって元々キルト作品や端切れを処分しようとしていたのは、元恋人の佐渡さんに乞われたからでしょう。まさか本心では恋人よりもタペストリーが大切だ、なんて言えやしないよ」


 ましてや飛上としては「処分できないタペストリー」の問題について、自分から相談しているにもかかわらず、明け透けに「実は本心では捨てたりしたくない」とは打ち明けにくいだろう――と、付け足して言う。


 また翻ってみると「彷徨えるタペストリー」は、佐渡まどかを追い詰めたことにより、飛上の願望を実現したとも言えそうだった。つまり、あの怪異はやはり「良い霊」で、タペストリーの制作者である飛上に利益をもたらしたのだ。

 かつて「甦る水彩画」が颯馬の母親を追い詰めたことにより、良かれ悪しかれ芹沢家の在り方を変化させたのと同じように……。



「あとタペストリーを『霊視』してから、結さんがタブレットで描いた情景は無視できない」


「飛上さんの中高生時代と、大学生の頃の出来事を描いたスケッチのこと?」


「そうさ。飛上さんから聞いた話と考え合わせてみると、色々な事実がうかがい知れるように思う。あのタペストリーに何か強い思い入れを持っていたんじゃないかっていうも、そこに描写されたものを見ていくと、決して不思議じゃない気がするんだ」


 結菜が確認するように訊くと、颯馬は考え深げな口調で肯定する。

 その上で、スケッチの中の事物をよく思い出してみて、と続けた。


「取り分け決定的だと感じるのは、中学時代が描かれた一枚目のスケッチさ」


 言及されて今一度、結菜は先日自分が描いた絵を、頭の中に思い浮かべた。手元では漫画原稿を制作しつつだから、脳内で二つのイメージが交錯して、多少妙な感覚だったけれど。


「さすがに結さんはホラー漫画家だけあって、絵の細部に描写のリアリティがあるよね。手早く描いたスケッチでも、かなり緻密に描き込んでいたし。……あの奥に描かれた高齢女性なんか、素人目にも服装の表現が見事だと思う。着衣の生地は、しっかり柄まで描き込まれていた」



 颯馬の話に耳を傾けているうち、結菜は咄嗟とっさに言語化しがたい引っ掛かりを覚えた。

 高齢女性……結菜が一枚目のスケッチに描いた光景を、飛上は祖母の家と言っていたはずだ。あの女性は、きっと飛上の祖母に当たる人物なのだろう。

 そうして結菜は、たしかに彼女の着衣を、きちんと生地の柄まで描き込んだ。

 ああ、そうだ。その柄が入った生地には、「霊視」の光景以外でも見覚えがある――……


「どうやら気付いたみたいだね、結さん」


 僅かに沈思していると、颯馬は答え合わせするように言った。


「そう、よく思い出してみて欲しい――あれと同じ柄の生地が、実は『彷徨えるタペストリー』の一部分にも見て取れるんだ。たぶん二つの生地は、元々同じものなんだよ。あのタペストリーを作り出すに当たって、飛上さんはかつて自分のお祖母さんが着ていた被服の生地を、端切れとして使用したんだ。幾何学的なパターンに組み入れ、他の布と縫い合わせたんだと思う」


 ――やっぱりそうなのか! 今まで完全に見落としていて、それとわからなかった……。


 結菜は、自分の注意不足を呪いたくなった。



 つまり、飛上にとって「彷徨えるタペストリー」は、実質的に一部が祖母の形見で作られた品だったわけだ。

 飛上は先日、祖母の家の書棚には『赤毛のアン』があったとも言っていた。それを手に取り、作中に描かれたパッチワークキルトと出会ったことは、彼の現在地に大きな影響を与えている。


 それとわかればなるほど、颯馬が言う通り「彷徨えるタペストリー」について、飛上が密かに強い執着を抱いていたとしても、おかしくはなさそうだった。

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