29:「七年前」(後)

 翌日の日曜日。

 結菜は、約束通り「ブルーハイツ新委住」一二〇二号室を訪ねた。

 時刻は午後一時半過ぎ。自宅がある同じマンションの隣室とはいえ、念のためにきちんとした外出着を着用に及んでいる。


 颯馬からの招待は、実際のところ予期せぬものだった。

 単に結菜としてはあのときベランダで、千切った紙を部屋の外へまく理由を聞き出したかっただけなのだ。そのために彼女なりの話術を弄したつもりだったわけだが、すっかり思い掛けない展開になった。



 芹沢家の部屋の前に立ち、インターフォンのボタンを押す。

 室内からスピーカー越しに応答があったので、隣の部屋の天城です、と名乗った。

 ほどなく目の前で玄関ドアが開き、昨日にベランダで言葉を交わした少年――

 芹沢颯馬が姿を現わす。


「こんにちはお姉さん。どうぞ上がってください」


 颯馬はこの日も相変わらず、素っ気ない態度だった。

 玄関ドアの内側に結菜を招き入れると、スリッパを勧めてくる。

 それから先導するようにして、部屋の奥へ引き返していった。

 非常に手際よく、事務的な挙措だ。

 結菜も急いで、そのあとに続く。


 芹沢家のリビングは、静かで綺麗な、清潔感がある部屋だった。

 結菜が起居する一二〇三号室とし、ほとんど同じ間取りのはずだ――

 にもかかわらず、かなり雰囲気が異なるせいか、まるでそうは見えない。

 ペールカラーの家具が並び、白い壁面もまぶしかった。調度や室内装飾はシンプルなデザインのものばかりで、住宅販売業者が公開しているモデルルームのようだった。

 だがそのぶん、生活感が妙に薄く、住居として血の通った気配が欠けていた。

 ……何より日曜日にもかかわらず、颯馬以外の居住者の姿が見当たらない。


「両親はどちらも、仕事で出掛けています」


 結菜が違和感を覚えていると、颯馬はそれを察したように言った。

 問いただされる前に先んじて、説明しておこうということらしかった。


「だから今は僕しか、この部屋にはいません。うちの家族にはよくあることです」


 颯馬はリビングをすり抜けると、さらに奥の部屋へ入っていった。

 もちろん結菜は、ここでもそれにならうしかない。


 そうして踏み込んだ一室は、リビングと比して、ずっと住人の体温が感じられる空間だった。

 家具全般が黒やグレー系で統一されていて、南側の壁一面には大きな書棚がしつらえてある。

 ここもおおむねすっきりと整理されてはいるものの、室内の様子に無機質な印象はない。


「……ここが僕の部屋です」


 颯馬は、部屋の役割を端的に説明する。


 ――おっ、おお……生まれて初めて、親戚以外の男の子の部屋に入ってしまった……。


 結菜はようやく、この部屋を訪れたことが貴重な体験と気付いて、若干緊張していた。

 すでに高校三年生にもかかわらず、異性との接点がなさすぎるせいで、こうしたことは初めての機会なのだった。子供の頃から霊感が強い体質に引け目を感じていて、漫画を描いたり読んだりしかしてこなかった結果である。

 しかも初めて踏み込んだのが、五歳も年下の中学生のそれ、というのが少しせつない。

 もっとも「家族が不在」のところへ踏み込んでいること自体、相手が子供だから、という前提を踏まえてこその状態であるのだが。



「とりあえずお姉さん、この部屋の机の上を見てください」


 颯馬は、室内の窓側を指差しながら言った。

 そこには午後の斜光が差し込んでいて、シンプルなデザインの机が置かれている。

 天板の上を見ると、電気スタンドやペン立て、教科書、参考書、辞書などがあり――

 それらに囲まれるようにして、中央に大きな一枚の紙が広げられていた。

 B3サイズほどもある画用紙だ。表面は、水彩絵の具で着色されている。


 結菜は思わず、わずかに瞳を見開き、次いで二、三度まばたきした。


「えっ。これって、もしかして……?」


「僕が昨日、細かく千切ってベランダから外にまいた絵です」


 颯馬はあとを引き取り、抑揚にとぼしい口調で言った。

 犀利さいりそうな瞳には、諦観ていかんにじんでいるかに見える。


「あ、いや。千切ってまいたのって、その――」


 結菜は、若干混乱しつつ、確認を求めるように言った。


「ほ、本当に? でもこれ、なんで今ここにあるの? 間違いなく昨日、颯くんはベランダから部屋の外へばらまいたよね。紙の表面には、全然千切られた跡があるようには見えないけど」


「いつもこうなんですよ。何度破いて処分しても、そんなこと最初からなかったみたいにして、次の日には必ず僕の部屋にあるんです。おまけに絵そのものも、完全に僕が千切ったときより前の状態に戻っていると思います。勝手に修復されているというか、いつの間にか自力で復活しているというか――たぶん『よみがえる水彩画』なんです、これは」


 颯馬は、彼の実年齢には不似合いな仕草で、深く溜め息をいた。

 相変わらず淡々とした口振りだが、かすかに自嘲的な響きがある。



 結菜は、ちょっと息をんでから、机のそばまで歩み寄った。

 画用紙を近くで今一度観察し、よくよく細部まで検分する。

 やはり手で千切られた痕跡こんせきも、細かく刻んだものを接合したつなぎ目も、一切見て取れない。疑う余地なく一枚の、片面を絵の具で着色された画用紙だ。


 ……ただし紙の厚さや質、着色に使用されている絵の具は、なるほど颯馬が昨日千切っていたものと同一に思われる。


 とはいえそうすると、昨日ベランダで見た光景は何だったのか。

 そもそもあの場で風に舞う紙屑を見たからこそ、結菜は手で紙を千切る颯馬との面識を得て、今日ここを訪問することになったはずだ。


 結菜は、にわかに不可解な不気味さを覚え、背筋に悪寒が走った。



 ――それにしてもこれ、水彩画だったんだ……。


 結菜は、画用紙に注意を払う一方、颯馬の言葉を思い出していた。


 表面に塗られた絵の具は、暖色と寒色が複雑に混在し、奇怪なグラデーションを成している。全体として配色は、補色関係にある色の対立が激しく、重苦しさがあって、見ていて妙に不安に駆られた。

 つぶさに見ていくと、画面には何箇所か、事物の描写されているらしい部分が発見できるものの、いずれもシルエットが曖昧で、たしかな造形が判別しがたい。


 正直な感想としては、何が題材かまったく不明な代物だ。

 颯馬がこれを水彩画だと称していなければ、何某なにがしかの意図によって描かれた作品とは、永遠に把握できなかっただろう。

 だから少なくとも結菜は、ずっと「片面を絵の具で着色された画用紙」だと思い込んでいた。



「……お姉さん、今この絵を見ながら『下手くそすぎてヤバい』と考えていたでしょう」


 そのとき不意にかたわらで、颯馬が平坦な口調でつぶやいた。

 結菜の方をのぞき込み、感情が消えた表情を浮かべている。

 それとなく察してはいたが、これは颯馬が描いた絵らしい。

 結菜は、ちょっと慌てながらも取りつくろおうとした。


「い、いや、そんなことは考えなかったよ。個性的な絵だなあとは思ったけど……」


「いいんです、別にそんな言い方でわざわざ気を遣ってもらわなくったって。自分に絵心がないってことぐらい、よくわかっていますから」


 机の側へ向き直って、颯馬はまた淡々と言った。

 自分が書いた水彩画を、改めて見詰めている。


「ただひとつ言わせてもらうなら、この絵を描いたのは三年も前なんです。まだ小学生だった頃ですよ。あの頃に比べたら、僕の画力も少しはになっていると思います……」


 颯馬が続けて話した言葉を聞いて、結菜は少し意外に感じた。

「自分には絵心がない」と言っているわりには、水彩画に対して、何かしらの執着を持っているように思われたからだ。



「えっと、改めて質問させてもらっていいかな。颯くんはこの、君が描いた絵――つまり『甦る水彩画』を、これまでに何度か手で千切って、ベランダから外へばらまいていたわけだよね」


 結菜は、はぐらかすように目を横へ逸らしつつたずねた。


「どうして、そんなことしていたのかな。やっぱり破いた絵が復元するっていう、いわゆる怪奇現象みたいなものを信じられなくて、自分が遭遇した出来事を意地でも否定したかったから?」


「……信じられない、という段階は三回同じことを繰り返した時点で終わっていますね」


 颯馬は問い掛けに対し、ほんの少しだけ考えるような素振りを覗かせた。

 例によって声音の抑揚は少ないが、目の奥に影が差したかと思われた。


「理由としては『どうしても処分しなくちゃいけないものなのに、いくつかの方法を可能な限り試してみても、結局上手くいかなかったから』――ということになるでしょうか」


 颯馬が語ったところによれば、手で千切ってばらまいた以外にも、シュレッダーに掛けたり、ごみ収集業者に直接回収してもらったり、火をけて燃やしてみたり……などといった方法で、何とか水彩画を廃棄できないものか試行錯誤したらしい。

 ところが颯馬が描いた絵は、どうやっても翌日になると、ここにある机の上で発見される。

 もちろん見事なまでに元通りの状態で、破損の箇所など微塵も見当たらないというのだ。


 ただそれよりも颯馬の発言で、結菜が気になったのは「どうしても処分しなくちゃいけない」という言葉だった。怪奇現象が起きる品だから、手元に置いておきたくない心理は理解できるが、そこには何か別の事情がありそうなニュアンスに聞こえた。



 そこで処分せねばならない理由を重ねてくと、颯馬は殊更ことさらに淡々とした口調で答えた。


「うちの母親から、常々強くそう指示されているんですよ」


「颯くんのお母さんが? 自分の子供が描いた絵を?」


「うちの母親は、綺麗好きというか、無駄を好まない性格というか――とにかく、あまり家の中に邪魔なものを置いておきたくない人なんです」


 結菜が訊き返すと、颯馬は緩い所作で首肯する。


 もしかして颯くんのお母さんはミニマリストなのかしら……と、結菜は考えた。

 以前にテレビ番組で「生活に直接関わらないものを極力減らし、シンプルな住居で暮らすのが良い」とする価値観がある、という話を見聞きしたことがあった。同じような志向性を持つ人でも個人差があって、単に余計なものを省こうとするだけだという人から、あらゆるものを捨てて半ば原始的な生活をはじめるほどの人まで、かなり幅が広い概念でもあるらしいが。


 芹沢家の様子を思い返してみると、リビングで感じた無機質さに得心がいくような気がした。

 極端にミニマリズムを信仰しているふうではないし、強く意識してはいないかもしれないが、颯馬の母親はそうした価値観と近しい感覚の持ち主でもおかしくなさそうだった。


「はあ、それでその――この動物園の、ライオンが描かれた絵を処分しなくちゃいけないのね」


「動物園やライオンではなく、自宅のリビングと僕の家族を描いた絵ですがその通りです」


 結菜が確認するようにつぶやくと、颯馬は絵の題材に関して誤解を指摘した。

 それで画用紙の表面を二度見してから、結菜は気まずさを覚えて言いつくろう。


「あっ、ああそう、颯くんのご家族の絵ね。大丈夫。ちゃんとそう見えるから……」


 慌てて訂正したものの、颯馬は無表情のまま反応を示そうとしない。

 結菜は、致命的な失敗を悟りつつも、誤魔化ごまかすように咳払せきばらいする。



「あー、それはそれとして。とりあえずこれ、私はもう少し念入りに調べてみたいかも」


「……念入りに調べるって、どうするつもりです? この絵が破れても勝手に復元する原因を、お姉さんには何か検証する具体的な方法があるんですか」


 颯馬は、おもむろに結菜の方を振り向いてたずねた。

 やはり表情自体は変化に乏しいが、怪訝けげんそうな目つきだった。

 結菜は、背筋を伸ばして胸を張り、得意気に笑みを浮かべる。


「ふふ、まあちょっとね。昨日も言ったけど、私って霊感強いから」


 包み隠さず言えば、結菜は「お化けがえる」という話を打ち明けた当初、颯馬の抱える問題が怪異に関連したものだと、必ずしも想定していなかった。

 霊感体質について話したのは、あくまで颯馬から事情を聞き出すための方便でしかなかった。

 それでもし発言を疑われ、怪しまれたとしても、ただの冗談だと言って有耶無耶うやむやにするつもりだったのだ。


 しかしまさに思い掛けなく、颯馬の「わかってもらえない理由」は怪奇現象にあった。


 しからば、この際は自分が保持する霊能力を、実地に試してみてもいいだろう――

 と、結菜は判断した。わかってもらえそうにないものを抱える者同士で、互いの状況に対する理解を深められると思ったからだ。



「いったん一二〇三号室の自室に行って、デジタルカメラを取ってきたいんだけどいいかな?」

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