28:「七年前」(前)

 ……七年前の、ある日の朝。


 リビングの窓から外を見ると、沢山の紙屑かみくずが空を飛んでいた。

 風に乗って運ばれ、ひらひらと宙を舞うそれらは、ちいさく、無秩序なかたちだった。

 紙片の端には、雑に千切られた跡があり、片面は彩り豊かで、もう片方の面は白い。



 結菜は、一般的な画用紙を破いたものだろうな、とぼんやり考えた。

 元々、絵を描くのは好きだから、画材のたぐいには詳しい。窓硝子越まどがらすごしに紙屑を見たのは、たぶん一〇秒足らずの時間だったが、瞬間的にそれとわかった。

 あとカラフルな側の面は、水彩絵の具で着色されていたようだ。結菜が中学生の頃に使用していたアクリルガッシュではなく、小学生などに普及している品。


 ――画用紙に描いた絵が気に食わなくて、破いて捨てたのかな。


 結菜は、学校へ登校するために身形を整えながら、ふと想像を巡らせた。


 紙屑は窓枠の中の景色を、右から左へ横断するように飛んでいた。

 ここはマンション「ブルーハイツ新委住」の一二階だ。いくら風があっても長時間落下せず、水平方向へ飛翔し続けられるとも思えない。

 しからば紙屑は、同じマンションの隣室からばらまかれた、と考えるのが自然そうだった。


 ――あれがもし手描きした絵なら、何もまき散らさなくたっていいでしょうに……。


 このとき結菜は、まだ親しくもない隣人に好ましからざる印象を抱き、溜め息いた。

 来年から新委住駅前の美術専門学校に通うつもりだからと言って、早々と付近のマンションへ引っ越したのは失敗だったのではないだろうか。在籍中の高校は、同じ市内でも他の地域にあるため、通学時間が長くなった。推薦入試で失敗することはまずないと言われていたものの、進学が決定するのは秋だし、まだ卒業まで半年以上ある。


 もっとも結菜の父親は「新委住駅前の物件は、いい部屋がなかなか空かないんだ。入居できるようなら、機会を逃すわけにはいかない」と言って、転居を即断即決してしまった。それも娘の進路に理解を示した結果だし、未成年で扶養されている身としては、保護者に否応いやおう言う余地などない。

 ただし当の父親は、仕事で海外を転々とするプロのカメラマンだ。一年のうちで自宅に帰ってくることと言えば、大抵数日もないのであるが……。



 いずれにしろ結菜はこれ以後も、隣室の住人に対する悪印象をなかなか払拭ふっしょくできなかった。

 おおむね一〇日毎の間隔で、三ヶ月にわたって七度、窓の外に紙屑が舞い散る光景を、マンションの自室から目撃することになったせいだ。大抵平日で、朝の八時前だった。


 ――これにはご近所の皆さんも、さすがに気を悪くしているんじゃないかしら。


 結菜は思わず眉をひそめ、マンションの隣人について考えた。


 隣室の一二〇二号室に住んでいるのは、芹沢という一家だ。

 夫婦二人と子供一人の三人家族。夫婦は共働きで、子供は今年から中学生だった。

 芹沢夫人とは、引っ越しの挨拶の際に少しだけ、儀礼的なやり取りをしたことがある。

 美人だが、どことなく険のある雰囲気の女性で、挙措に几帳面そうな印象を受けた。

 結菜は「少し苦手なタイプだな」と直感したため、あれから言葉を交わしていない。

 また世帯主の芹沢氏とは、まれに玄関前で顔を合わせ、会釈する程度の接点だ。


 中学一年生の子供は、かなり学業成績優秀らしい、という評判を聞いたことがある。

 しかし小学生の頃から友人が少なく、たまに担任教師などから心配されていた……

 ということも、近所で同学年の子を持つ女性が噂していた。


 ――画用紙に絵を描いて、屋外へまき散らすような真似をするとしたら。


 芹沢家の面々を頭の中に思い浮かべ、結菜は当て推量で考えた。


 ――その三人の中だと、やっぱり息子さんということになるのかなあ……。


 実は一方で、七度見た紙屑そのものに関しては、多少不可解な事実もあった。

 あれほど派手に窓の外で舞っていたにもかかわらず、いまだに近隣住人の中に迷惑だといきどおる人物が現れていないのだ。それと言うのはどうやら、結菜が窓から舞い散る紙屑を見たあとも、マンション周辺で地面に落ちているところを発見された試しがないためらしかった。


 当然ごみと化して散乱していなければ、不法投棄にも迷惑行為にも当たらない。

 繰り返し同じ光景を目の当たりにした結菜としては、首をひねる他にない話だった。



 ……だが結菜はやがて、宙を舞う紙屑に関し、謎の本体と大きく接近する機会を得る。


 その日もリビングの窓を見ると、屋外で紙屑が空を飛んでいた。

 ただこれまでとは異なり、土曜日の昼過ぎだったから、結菜がそれほど忙しさに追われている時間帯の出来事ではなかった。


 このとき結菜は釣られるようにして、ふらふらと窓際へ近付いた。

 宙を舞う紙屑を、誰がどこからばらまいているのか、目で見て確認したくなったからだ。

 三日月クレセント錠を外して、窓を開けてベランダに出る。物干し台やエアコンの室外機が設置されていて、ごくせまい空間だ。金属製の手摺りを掴んで、片側を振り返ってみた。


 隣室に当たる一二〇二号室のベランダにも、人の姿が見て取れる。

 案の定と言うべきか、そこにいたのは中学生ぐらいの男の子だった。


 この子が芹沢さんの家の子供だな、と結菜は即座に察した。

 大きな画用紙を左手で広げ、胸の高さに掲げて持っている。

 右手は機械的な所作で、紙の端を少しずつ千切っていた。


 画用紙の片面には、絵の具で水彩画らしきものが描かれている。

 ただし、どういった題材の絵なのかまでは、すでに千切られて破損した面積が大きく、横からひと目見ただけではよくわからない。


 男の子は、細かな紙片が手のひらに溜まるたび、それをまとめて風の中に放している。

 いくつもの紙屑は、おどるように宙を舞って、そのうち何枚かが結菜のところにも飛んできた。

 だがまたたく間に目の前をすり抜け、住宅街の上空で散り散りになると、そのまま見えなくなる。


 結菜は、男の子に声を掛けてみることにした。

 迷惑行為を制止すべきだと思ったし、またそれ以上に「なぜマンションのベランダから、紙屑を外へまき散らすのか」という謎に純粋な興味があったからだ。



「こんにちは。それからたぶん初めまして、だよね?」


「……こんにちは。初めまして、お隣のお姉さん」


 ひとまず挨拶すると、男の子は淡白な口調で返事を寄越よこす。

 結菜は、思いのほか素直な反応が得られて、少し驚いた。

 紙屑を千切って外にばらまくような少年は、もっと気難しくて、取っ付き難いかもしれないと思っていたからだ。

 さりとて愛想が良さそうな態度でもないが、少なくとも無視されずに済んだことは歓迎すべきだろう。


「私ね、結菜っていいます。天城結菜。君の名前は?」


「僕は、芹沢颯馬ですけど」


 結菜が名乗ると、男の子の方も案外あっさり名前を教えてくれた。

 ただし淡白な口調は変わりなかったし、画用紙を千切る手も、動きを止める気配はない。


「そっか。じゃあ颯馬くん――」


 努めて明るく呼び掛け、しかし途中で言い直す。


「いや、颯くんって呼んでいいかな。何となく呼びやすいし」


「別にどうでもかまいせんよお姉さん、ご自由に……」


 尚も手元で画用紙を千切りつつ、颯馬は素っ気なく答える。

 結菜は、提案した呼称が受け入れられた一方、まだ颯馬が自分のことを「お姉さん」と呼んでいることに不可視の壁を感じずにはいられなかった。



 しかし気を取り直して、本題を切り出す。


「えっと……颯くんはなぜ、その紙を千切って、ベランダから部屋の外へ飛ばしているのかな? それもたぶん、今日より以前にも何度か同じことをしていたよね」


「事情を説明したところで、わかってもらえませんよ。納得もしてもらえないでしょうし」


 颯馬の返事は、取り付く島もない。千切った紙をばらまく行為も、める気配がなかった。

 結菜は、中学生男子から冷たい対応を取られたことに少し傷付き、口の端を引きらせる。

 しかし不平が出そうになるのをぐっとこらえ、粘り強くやり取りを続けた。


「そんなふうに千切った紙を飛ばしていて、大人に見付かったら怒られないかな。ほら、近所のお宅の庭とか、道路に落ちたら、迷惑に思う人だっているだろうし」


「現時点ではまだ、誰からも怒られたことはありません。いったい誰がマンションの一二階から紙屑をまき散らしているかなんて、ちょっと地上から見上げた程度じゃ特定できないでしょう。少し離れた場所の高層建築物から双眼鏡でも覗けば、僕の姿を確認できるかもしれませんけど。とはいえ、そこまでして紙屑がばらまかれている原因を突き止めよう、と考える人はそういないと思います」


 颯馬は妙に大人びた口調で、理屈っぽく話す。

 だが結菜としては、言いたいのはそういうことじゃないんだけどなあ……と、内心苦笑せざるを得ない。問題の要点は、実情に即した理由から批難されずに済んでいることではなく、颯馬が自分の行為で周囲に迷惑を掛けている意識はないのか、という部分なのだ。


 やり取りに幾分か齟齬そごを感じていると、しかし颯馬はちょっと不機嫌そうに尚も続けた。

 結菜の反応を見て、会話の理解力を疑われたと察し、それを否定しようとしたらしい。


「それにこの画用紙はそもそも、千切ってばらまいても、誰の迷惑にもなったりしません」


「……千切ってばらまいても、誰の迷惑にもならない? それってどういう意味なの?」


 結菜はきょかれ、思わず鸚鵡おうむ返しにたずねる。


 と、すぐに颯馬は、自らの失点に気付いた様子だった。自尊心を守るため、つい余計なことを言って、話の流れが望まざる方へ進んだのを、悟ったようだ。

 不満に対して反射的に応戦してしまう辺りは、まだ中学生らしいと言えるかもしれない。



 颯馬は、恨めしそうに結菜をちらりと見た。

 だが次いで、あべこべに目を横へ逸らす。


「それはこんなことをしている事情について、お姉さんにわかってもらえないことと同じ理由が要因です。だからきっと、話しても納得してもらえると思えません」


「ふうん。話したってわかってもらえない、納得してもらえないことかあ。なるほどねー」


 結菜は、両肘を手摺てすりの上に突くと、左右の手のひらを組み合わせた。

 そこへ自分のおとがいを乗せ、そのまま若干前傾気味の姿勢で寄り掛かる。


 マンションの下に広がる景色を、何気なく見晴らした。

 住宅街の舗装路を、人や車がまばらに行き交っている。

 世界の仕組みも不条理も、そこでは常識という枠組みに入れられた事物以外、一切存在していないように感じられた。あったとしても、かえりみられる雰囲気はない。



「実は私ね、わりとお化けとかえちゃうタイプなんだよね」



 結菜は、故意に悪戯いたずらっぽい口調で、いきなり突飛な話題を切り出してみた。

 それから隣のベランダを見ると、颯馬が直立したまま身体を強張こわばらせている。

 画用紙を千切る手を止め、わずかに目を見開き、口唇を半ば開き掛けていた。


 結菜は、続けて問いただす。


「ね、颯くんはどう? お化けみたいなオカルト、信じている方かな」


「……いるわけがないでしょう、そんなものなんて。非科学的です」


 微妙な間をはさんでから、颯馬はしぼり出すように答えた。

 陰気な声音だった。左右の瞳は犀利さいりそうだが、暗く陰影が差し込んでいる。ただあどけなさが残る横顔は、鼻梁びりょうが整っていた。何年か後には、端正な美貌を手に入れそうな気配がある。


 将来女の子を泣かせたりするようにならなければいいけれど……

 などと、結菜は何気なく、ここでの会話と無関係なことを考えた。



「そっか、それは残念」


 結菜は、やはりわざととぼけた調子で言った。


「でも私は信じるっていうか、実際視えちゃう体質だからなー。まあ今までどんなに説明しても、本気でわかってくれる人はいなかったし、誰も納得しようともしなかったけど……」


 それは自分の霊能力についての、正確な告白でも説明でもない。

 とはいえ他者から理解されない生きにくさに関しては、結菜も昔からよく知っている。

 だから結菜にとって、これは颯馬に対する「似た者同士」であることのアピールだ。


 もっとも深刻には振る舞わなかったから、当てこすりと受け取られる可能性もあった。

 また一方では、単に颯馬から事情を聞き出すための、方便だと思われたかもしれない。

 オカルトは非科学的だと述べた通り、颯馬が結菜の言葉をまったく信用していないとすれば、むしろ悪い印象を持たれていたとしてもおかしくなかった。



 二人のあいだにまたしても、数秒の沈黙が生じる。


「……もし、お姉さんがどうしても」


 やがて颯馬が、ゆっくりと口を開く。

 そこに嫌悪を含んだ響きはない。


「どうしても、ベランダから紙屑をばらまく理由を知りたいのなら――明日の午後になったら、僕の部屋へ来てください。事情を説明しますよ」


 結菜は、自分が賭けに勝ったことを悟り、少年の申し出を承知した。

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