第三話「それは彷徨い、甦る。」
21: 手芸男子の断捨離
天城結菜が居住しているマンション「ブルーハイツ新委住」は、基本的に毎日自由な時間帯にごみ出しができる。
ごみ捨て場は屋内形式で、建物一階に設置された所定の場所へ捨てに行けば良い。
廃棄物は可燃ごみの他、プラスチックや瓶缶ペットボトル、再生可能紙などに分別する必要があるものの、各回収日まで意識する必要もなかった。
指定曜日の朝になると、管理人が勝手に業者へ引き渡してくれる。
こうした利便性の高いシステムは、漫画家にとって大変ありがたい。
平時から不規則な生活を送っていて、特定の日に朝起きられない場合が多いせいだ。
ホラー漫画の作業では午前零時を過ぎて以降、取り分け絵を描く筆の乗りがいい――
と、結菜は勝手に思い込んでいた。
それで今週は可燃ごみを、火曜日の午後八時頃にごみ捨て場へ出しに行った。
エレベーターでいったんホールまで下り、そこからフロア奥のスペースを目指す。
目立たない隅にあるドアを開くと、その先の隔離された場所がごみ捨て場だ。
結菜は、おもむろに内部に立ち入り、ごみが積まれた山に向き直った。
運んできた半透明のごみ袋を、その上へ崩れないように重ねて捨てる。
……と、その直後。
にわかに今開けたドアの側から、細長い人影がこちらへ伸びてきた。
振り返ってみると、男性が一人ごみ捨て場の出入り口に佇んでいる。
メガネを掛けた柔和な面立ちの人物だ。たぶん二〇代後半で、結菜より少し年長と思われた。
身長は一八〇センチ以上ありそうだ。シャツとスラックスを身に着けた格好は、ラフな普段着のままと見て取れたものの、清潔感がある。
左右の手には、それぞれひとつずつごみ袋を持っていた。どちらもかなり大きくて、はち切れそうなほど、いっぱいに中身が詰まっているようだった。
――ごみ捨て場で、こんな時間帯に人に会うなんて珍しい。
結菜は、完全に自分のことを棚に上げて考えた。
やや
「どうもこんばんは、天城さん」
相手は、気弱さが
面立ちから連想される通り、優しく、穏やかな声音だった。
さて、メガネの男性から苗字を呼ばれ、結菜はやっと彼のことを思い出した。
たしか、
このマンションで、飛上はふたつ下の階に住んでいるはず。
結菜の部屋は、「ブルーハイツ新委住」の一二〇三号室。
飛上のそれは、同一〇〇一号室だ。
「え、えっと。こんばんは飛上さん」
結菜は、恐る恐るといった口調で、挨拶を返す。
もし名前を勘違いしていたらどうしよう、と密かに
だが飛上は、気弱そうな笑みを崩すことなく、うなずいただけだった。
記憶は正しかったらしい。
「ここのマンションに住んでいると、好きな日時にごみ出しできるのが楽でいいですね」
結菜の心情を知る素振りもなく、飛上が言葉を掛けてきた。
世間話に特有な、毒のない、いかにも
結菜は、愛想笑いを浮かべながら、「あ、はい。本当に……」とぎこちなく返事した。
そうして、自分からも何か話し掛けておくべきだろうかと考え、
しかしまさに平時考えていることを先に言われ、他の丁度いい話題が思い付かない。
と、飛上の持つごみ袋が再び目に付いて、
「あの、飛上さんは随分沢山、捨てるものがあるみたいなんですね。重くないですか?」
「……ああ、これですか。実は見た目ほどに重量はないんですよ、嵩張っていますが」
飛上は、ごみ袋のひとつを、思いのほか軽々と掲げてみせる。
なるほど外形に比べて、中身は
半透明のポリエチレン越しには、布地らしきものが見て取れた。
色鮮やかで、柔らかそうだ。白い綿のようなものも
着なくなった衣類を捨てようとしているのだろうか、と結菜は考えた。
「実は最近、いわゆる『断捨離』というやつをはじめまして」
飛上は、照れ臭そうに言った。
同じマンションに住む相手の視線が、ごみ袋へ注がれていることに気付いたらしい。
突然
「やっぱり思い切って色々捨てようとすると、大量に処分しなくちゃいけないものが出てくるんですよね。でもなかなか朝の忙しい時間帯などには、沢山のごみをいっぺんに出す余裕がなくて。それでこうして今頃、部屋から不用品を運び出しているというわけです」
「あーなるほど、そういうことですか……」
結菜は、ちょっと恐縮しつつも、飛上の話に相槌を打つ。
「断捨離」――
所有物への執着を断ち、不用品を思い切って捨てること。
最近では、すっかり「身の回りを整理すること」の呼び方として定着した印象がある。
元来は行為そのものというより、そのための主義思想を指す言葉だったはずだが。
ただいずれにしろ、飛上が夜間にごみを捨てに来た理由は、至極真っ当なものだった。少なくとも、結菜のような自堕落さには起因していない。
そのあと二、三、短く言葉を交わしてから、結菜は飛上に頭を下げて、ごみ捨て場を離れる。
出入り口のドアをすり抜ける際、いったん後ろを振り返ると、飛上は入れ替わりにごみの山の前立って、半透明の袋を捨てようとしているところだった。
飛上は長身を
○ ○ ○
翌日の正午過ぎ。
結菜の部屋を颯馬が訪れて、いつものように昼食を作ってくれた。
調理を済ませて皿を並べると、差し向かいでダイニングテーブルに着席する。
本日の献立はオムライスだ。薄焼き玉子にふわりと包まれた形状も、綺麗に整っている。
ケチャップライスをスプーンで掬って口の中へ運ぶたび、優しい味付けに舌が歓喜した。
「へぇ、ごみ捨て場で飛上さんに会ったんだ」
食事中に何気なく昨晩の出来事を話すと、颯馬はスプーンを動かす手を止めて反応した。
「それにしても、大量の布地や綿を処分しようとしていたなんて、ちょっと引っ掛かるな」
「引っ掛かる? 不要な衣類をまとめて捨てようとしていただけだと思うけど……」
結菜は、付け合わせのサラダにドレッシングを掛けながら、颯馬の言葉に首を
あのとき飛上は、思い切って「断捨離」しようとしている様子だった。
その過程で処分すべき衣類が多く出ることは、あまり不思議ではない。
あまり着ないうちに古くなったものの、捨てるタイミングを見失った衣服というのは、むしろいかにもよくありそうな不用品だ。
ああ、そう言えば私も収納の中にそういう衣類が少なからずあるような――
などと、結菜はあれこれ考えるうちに自らを省みて、いささか気が重くなった。
ずぼらな結菜にとって、生活上の雑事は大抵
だが颯馬は、と結菜の意見にすんなりと賛同しなかった。
「たとえ普段着ることがなくなった衣服があっても、飛上さんの場合はそれがただちに不用品になることがないはずなんだよ。他の人とは多少異なる事情があるんだ」
「異なる事情って?」
「飛上さんは、パッチワークキルトが趣味だからさ。男性じゃ珍しいと思うけど」
【パッチワークキルト】――
様々な色や柄の布を縫い合わせ、裏地とのあいだに綿を入れた手芸作品のことだ。
文化的な視点で言えば、古くはヨーロッパで英国貴婦人の
作品の性質上、技術面の奥深さや芸術性が注目されることも少なくない。優れたパッチワークキルトを生み出すことで評価され、キルト作家として商業活動している人物もいる。
もっとも男性の趣味としては、颯馬が言う通り一般的ではないように思われた。
「大抵の生地なら、飛上さんにとっては趣味で利用する機会があり得るものなんだ。だから普段着ない衣類だって、そう簡単に捨てるような人じゃないはずなんだよ」
古着も裁断してしまえば、パッチワーク用の端切れとして再利用できる、ということらしい。
もちろん衣服の生地は様々な種類があり、厚手のものなどは手芸に使えない場合も多いだろうし、あらゆるものにすべて保管する価値があるわけではないはずだが。
……ところで「パッチワーク」という単語を使うと
取り分け東北北陸地方などでは、江戸時代以前から「
ただし趣味で作ったり鑑賞したりするものではなく、日常的な実用品としての文化だが。
かつて当該地域では破れたり
颯馬は例によって、そうした話を民俗学的な視点で補足した。
「それにしても、颯くんは飛上さんのことに詳しいね」
何となく意外に感じて、結菜は素朴な疑問を口にした。
「同じマンションに住んでいるっていう部分では私も一緒だけど、そんな趣味がある人だなんて話は今初めて聞いたよ」
「まあ僕が飛上さんのことを多少なりと知ることができたのは、ちょっとした偶然と巡り合わせに負うところも大きいけどね」
颯馬は、苦笑交じりに応じる。
「以前に藍ヶ崎駅前で、書店に立ち寄ったことがあったんだけどさ。そこでミステリ小説を買うために会計しようとしたら、たまたま見知った男性がレジで前に立っていたんだよ」
その人物こそ、飛上だったらしい。
飛上は駅前の書店で、パッチワークキルトの専門誌を定期購読しているのだという。
それでこのとき、行き掛りから互いの趣味を知ることになり、以後若干の親交がある――
と、飛上との接点に関して、颯馬は記憶を
尚、藍ヶ崎駅前の目抜き通り沿いには、同じ並びに手芸店も建っている。
飛上が駅前で買い物する際には、それら二件の店を巡回するのが定番コースなのだそうだ。
颯馬も同じ書店を利用する機会が多いせいで、顔を合わせる状況が発生したらしかった。
「ちなみに飛上さんの下の名前は、
颯馬は付け加えて、さらに続ける。
「飛上さんは職業柄、文学作品に詳しいそうなんだけど。まだ中高生だった頃に『赤毛のアン』を読んだ影響で、パッチワークキルトに興味を持つようになったんだって」
『赤毛のアン』の本文には、パッチワークキルトを指し示す描写が少なからず存在している。
結菜もシリーズ全作ではないが、三冊目の『アンの愛情』までは一応読んだからわかる。
かの名作に描かれた要素が、飛上の関心を引いたことは間違いないようだ。
「ふうん。男性で『赤毛のアン』を読んでいるっていうのも、やっぱり少し珍しい気がするね」
「うーん、そうかな? たしか作家の
結菜が率直な感想を述べると、颯馬は手元の皿へ視線を戻しながら言った。
再びスプーンでオムライスを崩し、口の中へケチャップライスをゆっくり運ぶ。
「あるいは男性でも、誰か女性から勧められて読んだことがある、という場合も考えられるし。そう言えば飛上さん、たしか交際中の彼女がいるらしいからね……」
昼食を済ませたあとは、食器を食洗器にセットする。
颯馬はそれから、キッチンの手入れをはじめた。毎度のことながらまめまめしい。
流し台に除菌スプレーを吹き付け、洗い流す。次いで排水口のネットも交換する。
そのあいだに結菜も相変わらず、リビングでソファに腰掛け、漫画の作業を進めていた。
タブレット上で作画用アプリを開くと、新規ファイルにタッチペンで思うまま描画していく。
ここで今使用しているのは、仕事部屋(兼自室)にある大画面の液晶タブレットではない。
手元の画面では、ポートフォリオ用の漫画に関係する設定画を描いているところだった。
オカルト雑誌『アメジスト』に寄稿しているそれとは、別途作成しているものだ。
担当編集者の小倉と打ち合わせをした「不思議な空き家」がモチーフの漫画は、昨夜のうちに二度目の修正ネームを送ってから、ひとまず現在メールの返信を待っている。
――そう言えば、最新号の『アメジスト』もそろそろ世に出回る頃なんだなあ。
結菜は、アプリのレイヤーにラフ画を描き込みながら、ふと雑誌の発売日を思い出した。
ついさっき颯馬から聞かされた話の中で、藍ヶ崎駅前の書店が出てきたせいかもしれない。
昔は自分の漫画が掲載される雑誌が店頭に並ぶかと思うと、そのたび胸が高鳴ったものだ。
お約束ながら店先まで足を運び、実際に平台に積まれた光景を眺めて歓喜したこともある。
たださすがに五年も漫画家を続けていると、最近は初々しい気持ちが薄れ気味だった。
とはいえ「アメジスト」自体が紙媒体として寿命を迎えつつある事実もあり、今号の発売日に対してはやや感傷的な情が湧いてくる。無論、これまでにはなかったことだ。
やっぱり自分の作り出したものが書店に置かれる、というのは特別なことだったんだな……
と、結菜は今更のように痛感した。その特別な感動を、あと自分は何度味わえるのだろうか。
そうした考えを取り留めもなく巡らせ、メガネを掛けて作画していると。
ほどなく颯馬がキッチンを離れて、ソファのところへやって来た。
「さっきから、キッチンで冷蔵庫や収納の中を
結菜の隣に腰を下ろし、颯馬は注意をうながすように言った。
「調味料なんかが残り少なくなっているね。具体的にはポン酢とマヨネーズ、あとはバターも」
「……あ、やだ本当に? 近々スーパーに行ったら、買い足しておかなくちゃ」
結菜は、手元の画面へ視線を落としたまま、タッチペンを動かしながら返事した。
指摘されて思い返すと、たしかにいくつか調味料などの残量が心許なかった気がする。
正直なところ、ポン酢やマヨネーズ、バター以外についても、結菜はキッチンに存在する食料品類の状況を、あまり正確に把握していなかった。
颯馬が部屋に来ない日は、レトルト食品やインスタント食品、冷凍食品などばかり食べているせいだ。
大いに乱れた食生活だという自覚はあるのだが、悪い習慣はなかなか容易に改まらない。
調理に手間を取られるぐらいなら、同じだけの時間を費やして漫画を描きたくなってしまう。
もっとも颯馬も無論、そうした結菜の
だから頻繁に食事の世話を焼いたりしているようだし、今更日頃の暮らしぶりをくどくど訓戒するつもりもないらしい。
実際にこのときも、すぐさま話題を転じてきた。
「ところで結さん。今描いているのって、次の漫画のキャラクターデザインか何かかい?」
颯馬は、横からタブレットを覗き込んでたずねる。
画面上に表示されている画像は、男性キャラクターの全身を図説したイラストだ。
しかも単一のそれを正面、背面、側面の三方から描画している。いわゆる三面図と呼ばれるもので、颯馬の見立て通り、新作に登場させるキャラクターのデザイン案だった。
「いつ見ても上手いなあ。どうすればこんな絵が描けるようになるのか、想像も付かないよ」
「へへへ……。子供の頃から沢山描き続けてきたからね、継続はちからなりってことだよ。それとまあ、一応これでも商業作家ですから」
直截的な言葉で称賛され、結菜は思わず頬が
漫画やイラストのことで褒められると、承認欲求が満たされるのでつくづく弱い。
取り分け身近な相手にもかかわらず、昔から颯馬の言葉には気分が高揚する。
たぶんそれがおだてではなく、本心から出たものだとわかるからだろう。
結菜が初めて自作の絵を見せたとき――
そう、颯馬はまだ中学生だった時分から、自らの絵心のなさを嘆いていた。
芸術的な感性についての乏しさは、現在も尚コンプレックスとして持ち続けているらしい。
それだけに颯馬はまた、結菜がクリエイティヴな活動を好むことに関して、常々純粋な敬意を抱いているようなのだった。
ちなみに結菜の経験から言うと、少なくとも漫画やイラストの技術的な部分は、継続的な訓練である程度まで修得が可能だと考えられる。絵の良し悪しに先天性や環境的要因に基づく才能が問われるのは、かなり先の次元の問題で、それこそプロ作家以外には無関係な気がする。
ゆえに颯馬も「自分には芸術的な才能がない」と、決め付ける必要はないと思うのだが……
ただ一方で努力を継続するためには、絵を描く行為そのものに対する愛情なり執着なりが必要なことも、一面の事実ではある。颯馬が「自分は気質的に不向きだ」と感じているのなら、この点で結菜に手助けできることは多くない。
「やっぱりいいな結さんの絵は。美術的な才能のある人が羨ましい」
颯馬は、尚もデザイン案の画像へ視線を注いだままで言った。
結菜が内心何を考えているかは、気付いていない様子だった。
ミステリ小説の探偵じみた洞察力を有する颯馬にも、わかることとわからないことはあるのだ。推理というのは、相手の心の中を読み取る異能ではない。
だから颯馬の口調には、あくまで羨望や
しかもその対象は、結菜だけに限られないらしかった。
「きっと飛上さんも、こういう方面の
――なるほど颯くんは、飛上さんにとっても貴重な理解者なのかもしれない。
結菜は話を聞きながら、颯馬と飛上に接点があった理由を、理解できるような気がした。
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