18:消えた家族のスケッチ
二階を見て回ったあと、結菜と颯馬は一階へ引き返した。
これで空き家の内部を、ひと通り検分し終えたことになる。
しかし家屋から脱出し、元の世界に帰還する方法――
換言すると、怪異を浄化する手段はまだ判然としない。
それによって、
怪異の根源にある未練や怨念を知ることこそ、除霊の足掛かりになるはずだった。
結菜が「霊視」を試すに際して、実行する場所にはリビングを選んだ。
この家にかつて起居していた家族が存在するとして、まず間違いなく生活の中心だった部屋のはずだからだ。それだけ過去の思念が残存する確率は高く、
それにソファが設えられているから、結菜が疲労で倒れた場合も休むのに都合がいい。
「――じゃあ、早速はじめるよ」
結菜は、出窓の前に立ち、リビングの中央を向いて言った。
すぐ隣では、万が一何かあった場合に備え、颯馬が様子を見守っている。
今回は「霊視」状態へ入ることについて、過去にない緊張感を覚えていた。
異界の中で全力の霊能力を行使するのは、何しろ結菜にとっても初めての経験だ。
ましてや白い家の内側にいるのは、怪異に身の回りを囲まれている状況に等しい。
とはいえ元の世界よりも、かえって自分の霊感が研ぎ澄まされているのがわかる。
そのぶん異能が制御しやすく、安全に「霊視」できそうな感覚もあるのだが――
こればかりは試してみてからでないと、どうなのか判定できない。
とにかく結菜は
いつもと変わらない自分なりの作法を、落ち着いて、意識的になぞる。
そうして内なる霊力を充分に高めたところで、再び左右の瞳を開いた。
……目の前に再度、リビングの空間が広がる。
しかし先程まで見ていたそれとは、同じ部屋でも雰囲気がまったく違っていた。
空気から
眺めているのは無音の光景だが、それをなぜか不気味とも思わなかった。
ふと隣接したダイニングを見れば、男女二人と子供一人がテーブルを囲んでいる。
いずれも容姿はやや鮮明に視認できないが、ここに昔住んでいた家族と思われた。
おそらく三人家族で、父親と母親、それに両者の息子なのだろう。
両親が差し向かいで着席し、子供は父親の隣席に腰掛けている。
――今視ているこれが、この家で起きた過去の出来事……?
ダイニングの様子を、改めてよく観察する。
「霊視」前のそれと違って、付近の家具や壁紙の色は白系統だ。
テーブルの上には料理の皿が並び、親子共に笑顔が絶えない。
会話の内容まではわからないが、明るく平和な家族
ただし小学生の男の子だけは、何となく挙措に落ち着かないところがある。
食事の合間に両親の顔をちらちら盗み見て、様子を
いったいどうしたのだろう、と結菜は妙な引っ掛かりを覚えずにいられなかった。
男の子の素振りには、単に悪戯を企んでいるような、無邪気さは感じられない。
と、直後に少しずつ視界が暗転し、何も視えなくなってしまう。
……ほどなく、目の前に次なる光景が現出した。
結菜の身体はリビングにあるはずだが、新たに知覚したのは別の空間だった。
もっとも見覚えがある場所だ。室内に置かれた勉強机やベッド、ゲーム機……
「ここはさっき空き家の二階で踏み入った、子供部屋らしい」と、すぐにわかった。
結菜の視点は今、その一隅から周囲を見渡す位置にある。
出入り口のドアが開き、男の子が部屋に入ってきた。
何かを警戒するようにして、室内を忙しなく見回す。
勉強机に近付き、その傍らに置かれていたリュックを持ち上げた。
内側を覗き込み、ちいさくうなずいてから、次にベッドへ歩み寄る。
床に膝を付けて
その有様を眺めていて、結菜はあっと声を上げそうになった。
シーツや敷布団を捲った場所には、厚手のマットがあったのだが――
それも持ち上げると、ベッド下から直方体状のスペースが現れたのだ。
男の子は、そこに抱えていたリュックを、丸ごとしまい込んでしまった。
……気付けば、目の前の光景がリビングに戻っていた。
黒いドアを開けて、父親らしき男性が書斎から入室してくる。両手に荷物を抱えていた。
そこへキッチンの方から、母親らしき女性が歩み寄ってくる。華やかな外出着を着ていた。
さらにホールへ続くドアが開き、子供が姿を現わす。両親に声を掛け、
このとき結菜は、男性の入ってきたドアが当時は黒くなかったことに気付いた。
親子三人は、どこかへ外出しようとしているらしかった。
部屋に差し込む光は、これが日中の出来事だと教えてくれる。
親子で
それに合わせ、自然と「霊視」の視点も移動をはじめる。
各々が靴を
結菜の視点も、あとに
その際に玄関前のアプローチを視て、奇妙なことに気が付いた。
結菜と颯馬が空き家へ入るときに通った、橋のような通り道がなかったのだ。
現在「霊視」している家のそれは、ごく平凡な飛び石が敷かれたものだった。
三人は皆、足早に敷地内の駐車スペースへ歩く。
そこに停まっていた自家用車のドアを開け、思い思いに乗り込んだ。
父親は運転席に座り、助手席に子供が、後部座席に母親が座った。
親子を乗せた車はエンジンを始動させ、正面の坂道を下りていく。
ここでも家屋の敷地から眺望する景色は、結菜が知るものと違っていた。
舗装路の脇には木々が整然と並び、遠目に見えるビルも
強い陽光や青々とした植物は、晴れやかな夏の日を彩っているかと思われた。
だが、そこで三度、視界は暗転する……。
次なる光景は、なかなかそれまでのように視認できるようにならなかった。
視覚が薄暗いままの状態が続き、結菜は若干の不安を
しかしやがて、ぼんやり視野が広がっていく。
そうして現在の視点で、思うような視覚を獲得できない理由を察した――
瞼をゆっくり
――これって……あの男の子と視点かな?
結菜は、頼りない視覚情報を基にして、今「霊視」しているものを把握しようとした。
周囲は
乗車している人物と視点を共有していて、腰掛けているのは助手席だった。
隣の運転席では、メガネを掛けた成人男性がハンドルを握っている。後部座席は視えないが、家を車で出た際と同じ席順なら、あの母親と
とすれば結菜が視ているものは、たぶん過去に杜河家の少年が見ていた情景だ。
――それにしても暗いな……夜道? ここって、どこなんだろう。
結菜は、男の子の視覚を借りて、どうにか詳しい状況の理解に努める。
尚も瞼が瞬くせいで、視野の確保が不十分なのは、少年が眠気を覚えているためだろうか。
間違いないのは、暗いのが車内だけでなく、車窓の外を流れる景色も同様だということだ。
それゆえ車が夜道を走行しているのは、はっきりしている……
とはいえ、どこへ向かっているかまでは、いささか判じ
前方を照らすヘッドライトが時折、道路の左右に樹木を浮かび上がらせるので、おそらく山道の途中かもしれない、と当て推量するのがせいぜいだった。
……しかもなぜか、車内の空気が重苦しい。
今回「霊視」した光景の中では、ここまでになかった不穏さが
肌感覚で伝わる物悲しい気配、危うい雰囲気、そこはかとない
まさに「悪い霊」との接触で感じる不気味さだ、と結菜は思った。
――いつの間にどうして、こんなに
あの白い家を出たあと、家族のあいだにいかなる出来事があったのか。
重い瞼の隙間から視えるものだけでは、まったく理解が追い付かない。
と、そのとき。
車の前方に突然、思い掛けないものが視えた。
ふたつの大きな丸い光だ。それが接近してくる。
大型車のヘッドライトらしい、と結菜は気付いた。
おそらくダンプカーだろう。
それがもう、家族を乗せた車の目前に迫っていた。
夜の山道で、急なカーブに差し掛かる場所だった。
おかげで双方の車から、相手の車体が見え
しかも周囲に他の車は少なく、互いに思ったより速度が出ていた。
取り分けダンプカーは、対向車線からはみ出しそうになっている。
曲がり角へ突入する際、やや減速が遅れたのかもしれない。
大小の車体が吸い寄せられるように接近するのは、ほんの一瞬だった。
結菜が「危ない」と思ったときには、もう二台が衝突する直前に視えた。
そうして、車のフロントガラスの向こう側には、いっぱいに光が
そこで不意に「霊視」の光景が途切れた。
軽い頭痛を覚えて、足元がふらつく。
とはいえ意識が遠退いたり、倒れ込むほどの疲労ではない。
結菜は、かぶりを振って
瞳を今一度瞬かせると、空き家のリビングが目の前にあった。
「霊視」を開始する直前、たしかに結菜が
自分本来の視点を取り戻し、再び異界で家屋の室内を見ているのだ。
「ねぇ結さん、大丈夫かい?」
「……うん、全然平気。ほとんど疲れてないし」
結菜は、浅く呼気を吐いてから、安心させようと笑い掛けた。
実際に「霊視」したことによる疲労感は、非常に軽微だった。
異界に身を置きながら霊能力を行使することは、やはり心身の負担を減らすらしい――
結菜は、自らの感覚的な所見を述べてから、付け足すように言葉を継ぐ。
「これなら、すぐにでも『霊視』したものを絵に描けると思うよ」
言葉通りに早速、結菜はスケッチに取り掛かることにした。
ソファに腰掛け、手持ちのバッグから、準備してきた作画道具とメガネを取り出す。
ただし普段はタブレットを使用するところだが、今回は少しだけ試してみて止めた。
アプリは起動できるが、画像ファイルを保存するとキャンバスデータが消失するのだ。
どうやら写真や動画と同じで、異界ではデジタルな画像がイラストでも残せないらしい。
それで仕方なく、アナログな手段で絵を描くことにする。
念のために昔ながらのスケッチブックを持ち歩いていたおかげで、助かった。
青色の芯を詰めたシャーペンで下描きし、ペン入れにはサインペンを用いる。
主線は〇・三ミリ、細部の描き込みは〇・一ミリ、アウトラインには〇・八ミリ……
と使い分け、ベタが入る箇所は筆ペンで手早く
インクや墨が乾燥したら、カラーマーカーで色付けしていく。
――イラスト入りのサイン色紙を、読者プレゼント用に描き下ろしてください。
と、たまに仕事で、担当の小倉から要求されるときのことを思い出す。
デジタル作画が主流の現代だが、アナログ作画も仕事で必要な機会は多い。
おかげで結菜は、通常の筆記用具でも難なく絵を描くことが可能なのだった。
「やっぱり結さんは、絵を描くのが上手いなあ」
結菜の手元で絵が描き上がっていく様子を見て、颯馬は感嘆を漏らした。
「いつも絵を描いているときには
「……もぉ~、またすぐおだてるんだから! しれっと恥ずかしいこと言うよねぇ颯くんは」
結菜は、思わず抗議したものの、口元が
作画技術全般を
たとえ見え透いたお世辞でも、
もっとも結菜が「にやにやしつつも真剣に称賛を受け取っていない」という点に関して、颯馬は不満げな反応を見せることが多かったのだが。
「とにかく『霊視』で印象に残った場面、今回は四枚に分けて描いてみたから見てくれる?」
そう言って結菜はスケッチブックごと、颯馬に完成した絵を手渡した。
一枚目は、家族三人がテーブルを囲んで食事する、団欒の情景。
二枚目は、子供部屋でベッドの下にリュックを隠す、男の子の姿。
三枚目は、家を出て、この地域を自家用車で離れようとする親子の様子。
四枚目は、夜の山道で、親子の乗る車が大型車と衝突しそうになる瞬間……。
「なるほど。この家で過去に起居していた家族の光景、って感じだね」
颯馬は、受け取ったスケッチブックを捲り、そこに描かれた絵に見入った。
細部まで丹念に一枚ずつ、描画されている事物と状況をたしかめていく。
いよいよ今回の「取材」でも、颯馬の「絵解き」がはじまったのだ。
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