16:真っ白な怪異



 怪異譚において「異界」というのは、古今を問わず珍しい概念ではない。


 現代の都市伝説でも、例えば「異界駅」と呼ばれる怪異が地域毎にいくつか存在する。

 ある特定の路線で電車に乗り込むと、本来存在するはずのない駅に到着している――

 という類の話で、主に「駅」という場所自体が怪異と見做みなされ、その周辺地域も現実世界とは異なる時空だと考えられている場合が多い。


 異界駅に良い込む方法や状況、遭遇する時間帯などは非常に多様だ。

 元の世界を離れた先で電話やインターネットが通じるか、出くわした人間が無事帰還できるか否かも、それによってまちまちだとされている。



「実は『不思議な空き家』の都市伝説を知って以来、民俗学的な側面から連想される説話として、柳田國男の『遠野物語とおのものがたり』を連想することもあった」


 颯馬は頭髪をき回しながら、溜め息混じりに言った。


「あの作中には『迷い家マヨイガ』という怪奇現象が記されていてね。山奥で出くわすという奇怪な家のことなんだけど、無欲な者しかたどり着けないと言われている。隠れ里伝説の類型とする見方もあるらしい」


「隠れ里伝説ね……。ひょっとして今の話を踏まえると、『迷い家』は山奥で迷った人がたどり着く、古い異界の一種だっていうこと?」


「まあね、そういう説は少なくない」


 結菜が思い付くままにたずねると、颯馬はゆるい所作で首肯する。

 口の端を曲げたまま、鋭い目つきで坂の下の樹林をにらんでいた。


「今回『取材』している怪奇現象も、家屋に関わる怪異譚だっていう部分では共通点がある。岩手県いわてけんの山奥で遭遇する『迷い家』に比べると、雛番で高級住宅街に現れる『不思議な空き家』は、ずっと都市生活と地続きに存在している印象だけどね」


 颯馬は、やや悔恨かいこんにじむ口調で言った。


「それだけに『不思議な空き家』も何かしら異界と関係のある怪異なんじゃないか、という予感がなくはなかったんだ。とはいえ怪異が本当に僕らをさせる手段を持っているのかも、これまでいまひとつ明確じゃなかった。おかげでそのぶん、注意をおこたってしまったかもしれない」


 結菜は「越境?」と鸚鵡返おうむがえしに短く問い掛け、詳しい説明を求める。

 元の世界から異界へ招き入れる方法さ、と颯馬は言って続けた。


「異界がらみの怪異は、何某なにがしかの状況を経た先で、出くわした人間にふたつの世界の境目をまたがせる。例えば『迷い家』なら山林の奥まで分け入る、『異界駅』なら特定の路線で電車に乗る、とかね」


 あるいはいま少し身近なところでも、ふたつの世界の行き来を意味する越境があるという。

 神社の出入り口は、鳥居をはさんだ境内けいだいの内外を、それぞれ異なる領域と見做すそうだ。

 意図的か否かはともかく、どこかへ踏み込む、何かを通り抜ける、など。

 元の世界から異界への越境には、そういった手続きをともなう場合が多い――

 などと颯馬は、説話や習俗の傾向について補足する。



「ところで『不思議な空き家』に関する都市伝説の内容を、もう一度思い出してよ。この白い家は『午前二時に出現』し、内部に立ち入った人間を『翌朝まで閉じ込める』と言われていたじゃないか」


 颯馬は再び、暗闇に浮かぶ白い家屋へ向き直った。


「その噂にはかなり迷わされてしまった。もしかしたら『不思議な空き家』は、単に特定の時刻になると現れて、建物に踏み込んできた対象を捕まえてしまうだけの存在なんじゃないかって、そんなふうにも考えられそうな話だからね。だとすれば、異界と無関係な怪異ってことになる」


 事前の情報から推測した範囲では、複数の可能性が想定し得わけだ。

 しかし颯馬は「そのためにかえって、怪異の本質を見誤った」とくやしがった。

 安直だが面倒が少なそう状況を、ついつい期待してしまったという。



 ……もっとも結菜は、その言葉を額面通りに受け取る気にはなれなかった。

 五歳年下の青年は、元来慎重な性格で、少なくとも自分ほどに楽観的ではない。

 何であれ危険な可能性のひとつに対し、曖昧あいまいな警戒で済ますとは考え難かった。

 にもかかわらず、こうして二人で異界へ迷い込むことになったのはなぜか。


 ――私が「取材」を止めるつもりはないって、押し切っちゃったからだろうなあ……。


 先程ラーメン店で交わしたやり取りを思い出す。

 あのとき、颯馬は「取材」の続行を止めさせようとしていた。制止の理由は心霊写真により、怪異が「悪い霊」である見込みが強いと判明したからだ。

 会話の流れで、そうだとばかり思い込んでいた。


 だが実際はそれ以上に「不思議な空き家」が異界に関わる怪異だと気付いていたから、結菜を思い止まらせようとしたのではないか。

 ところが結局は、結菜のままを受け入れ、颯馬が引き下がる格好になった。

 彼女が怪異譚の収集を、創作活動のために是が非でも必要としているからだ。

 そのせいで颯馬には、異界へ立ち入るような怪奇現象に付き合わせてしまった。


 一方の結菜は、怪異の写真写りが淡いからという理由で、安易に危険は少ないと考えた。

 しかし思い返してみると、あれは怪異の本体が異界にあったせいで現世の写真にはっきり写り込まなかっただけだったのではないか。現在はカメラそのものが動作しなくなったので、異界でる写真と比較検討することはできないが……。



「この怪異が人間を異界へ引き込む境界は、場所だけでなく、接触の時間帯とあわせて設定されるんだろうな」


 颯馬は、白い家をじっと見詰めながら、考察を巡らせている様子だった。

 それで結菜は何か言おうとしたものの、切り出す機会を逸してしまった。


「午前二時以降の丑三うしみどきには、陰陽道おんみょうどうの鬼門を指す。それで該当する時間帯には、幽世かくりよ現世うつしよをつなぐ道が開きやすくなるという解釈らしいからね。怪談などで丑三つ時に怪異が出没するのは、元々そうした俗信に基づいた話なんだ」


 ただし「ふたつの世界が行き来しやすくなる」という要素を事実と信じるのなら、丑三つ時は異界へ越境するのに都合がいい時間帯とも考えられる――

 颯馬は、自分たちが「不思議な空き家」と遭遇して、別の時空に迷い込んでしまったことを、そのような理屈で把握しようと努めているらしい。


 取り分け、ここは雛番北一七条東一丁目だ。

 住宅街のかなり北側で、一番東端に当たる。

 北東は鬼門の方角だ、というわけだった。



「まあ何にしても、これからどうしようか結さん」


 颯馬は、ほどなく思案するのを止めて、結菜に問い掛けてきた。


「この際は腹をくくって、この空き家の中に踏み込んでみるかい?」


「……それはまあ、やっぱりそうするしかないんじゃないかな」


 提案に同意する以外、適当な選択肢が思い付かなかった。

 異界に迷い込んだとは言っても、周囲には白い家屋の他に目に付く事物が見当たらない。

 坂の下にある樹林は、仮に奥に何かあるにしても、分け入っていくのは気後れしてしまう。


 とはいえ都市伝説を再度振り返ると、過去に「不思議な空き家」と遭遇した人物は、建物の中で翌朝まで閉じ込められていたことになっている。

 翻ってみれば、それはまず目の前の家屋へ立ち入らない限り、元の世界に帰還できないことを意味しているのではないだろうか……。


 結菜が自分なりの意見を述べると、颯馬は相槌あいづちを打ちながら耳をかたむけていた。


「なるほど。基本的には僕も結さんに同感だよ。ついいましがた都市伝説の内容に裏切られて、うっかり異界に迷い込んでしまった教訓がなさすぎるかもしれないけどね……」


 颯馬は賛意を示しながら、家屋の門扉へ視線を投げ掛けている。

 釣られてその先を見ると、黒地に白字の表札が掲げられていた。

 表面には「杜河もりかわ」と記されている。かつての居住者の姓だろうか。



「それにもし確実に元の世界へ帰ろうとするなら、この怪異を浄化してしまうのが一番いいんだろうな。そうして除霊の手掛かりも、順当に考えるなら家の中にあると思う」


「一応いておくけど、颯くんはもしかしたら元の世界に帰れないかもしれないと思う?」


 気掛かりな点について、結菜は見解をたずねてみた。

 颯馬は、腕組みして少し考えてから、懸念を認めた。


「まったくあり得ない話じゃない、とは思うよ。むしろ、異界から帰還できた人の方が例外で、ほとんどの人は元の世界に戻れず行方不明者扱いになっているだけ、ってことは考えられるし」


「……たしか自発的な家出や失踪の場合、警察はなかなか捜査してくれないんだっけ」


 結菜は、かつて刑事ドラマで耳にした知識を思い出す。

 警察には民事不介入の原則があり、事件性が明白でなければ行方不明者の捜索には腰が重い。

 ましてや心霊スポットで姿を消した人間のことなど、真面目に取り合ってもらえるかさえ疑問だった。


 そうした要素を勘案すると、実は自分と颯馬は思ったより深刻な状況にあるのではないか――

 という不安が、今更のように胸の中に湧き上がってくる。


「不思議な空き家」は、人を死に至らしめるほどに「悪い霊」として危険ではないかもしれない。

しかし異界に迷い込んだ人間を、そのまま閉じ込めてしまう怪異なのだとしたら、どうする? 

それは実質的に取り殺されてしまうのと、然程違いないのではないか。


「まあ前時代的な『神隠し』が現代でよみがえった怪異、という見方もできそうではあるよね」


 結菜の心中を知ってか知らずか、颯馬は付言するように続けた。

 面差しのけわしさが和らぎ、平静さを取り戻したように見える。

 話し方も落ち着き、今は彼女をおもんぱかっているのがわかった。


「該当する説話も『遠野物語』に収められているんだけど。僕が知る限りじゃ、行方不明になった人物は『神隠し』の場合も、元の人里へ大抵生還する筋書きだったからさ。失踪してから何年も経過したのち、ってパターンが多い気がするから短絡的には喜べないけどね……」




 それから颯馬は、幾分背筋を伸ばし、真っ白な家屋へ歩み寄った。

 門扉もんぴに手を乗せ、そのまま押す。滑らかに動いて、音もなく開いた。

 後ろを振り返って、結菜に声を掛ける。


「じゃあ何はともあれ、家の中に上がらせてもらおう。いいかな結さん?」


 いいかな、というのは心の準備を問われているのだった。

 結菜は、何も言わずにうなずき、颯馬のかたわらに進み出た。

 それを横目で見て、颯馬は口元に微笑をきざんだ。


「結さんには、ひと通り家の中を調べてから『霊視』してもらいたい。その前に疲れて身動き取れなくなると、厄介なことになるかもしれないからね。それにまだ建物の外側を見ただけの段階じゃ、何か視えたとしても意味がわからない可能性だってあるし」


 颯馬は、そう言ってから率先して、真っ白な家の敷地へ踏み出した。




     ○  ○  ○




 ――「不思議な空き家」は人を殺しはしないが、異界に閉じ込める。


 今回接触した怪異の性質に関して、結菜はそうした印象を強めつつあった。

 颯馬の『遠野物語』を例に引いた言葉は、きっと彼女をなぐさめるための気遣いだろう。

 しかし根が元々楽観的なので、素直に前向きな見込みを信じたくなる性分だった。


 ただし仮定が正しかったとしても、颯馬は一度異界に捕えられたら「元の世界に帰れるのは、何年先のことかわからない」とも指摘している。

 都市伝説では翌朝までとされているが、どこまで信用していいかは判然としなかった。

 とすれば、やはり怪異を浄化し、消し去ることで、元の世界に戻る努力をすべきだろう。



 橋のようなアプローチを渡り、二人は家屋の玄関前に立った。

 颯馬は少し迷ったようだが、インターフォンのボタンを押した。

 だが反応がなかった。誰かが応答するしないではなく、音が鳴らない。

 端末自体が動作していないようだ。故障しているのかもしれなかった。


 次いで颯馬は、玄関ドアのノブを握って、そっと回す。

 施錠はされておらず、門扉と同じで抵抗なく開いた。

 その場から内側をのぞき込むと、照明の灯りが柔らかな光を放ち、家の中を照らしている。

 すぐ正面に広い三和土たたきやホールが見て取れるものの、奥はひっそりと静まり返っていた。


 結菜と颯馬は、どちらからともなく顔を見合わせる。


「噂通り本当に空き家みたいだ」


 颯馬は、肩をすくめて言った。


「どういうわけか、誰もいないのに照明は点いているけどね」


「その、たしかにそれ自体も不思議なんだけど。それより――」


 結菜は、玄関ポーチの真ん中で佇んだまま、家屋の外壁へ目を配っている。

 完全に想像の埒外だったものを見て取り、狼狽ろうばいせずにいられなかったからだ。


「屋外から窓を見ても、家の中が真っ暗なのはどういうことなの……!?」


 そう。間違いなく、家の中には照明が点いている。

 開いた玄関ドアからも、その光が外へ漏れている。

 ところが外壁にある窓からは、まったく明るい家の中が見えなかった。

 玄関ドアのすぐ傍にある窓を覗いてさえ、外からは屋内が暗く見える。


 颯馬は、玄関ドアを通り抜け、屋内で三和土側から窓の前に立った。

 硝子越がらすごしに外を眺めて、妙に感心した様子で唸る。


「……ふむ。窓のこちら側からは、夜の屋外が普通に見渡せるね」


 次いで颯馬は窓枠へ手を伸ばし、三日月クレセントじょうを探りはじめた。

 しかしちからを込めて何度か動かそうとしたが、びくともしない。

 窓枠そのものを揺らしてみても、窓は開きそうになかった。


「なかなか興味深い。家の中と外が硝子一枚挟んで、別の時空にへだてられているみたいだ」


「え、それどういうこと? この家の中も外も、異界であることには変わりないんでしょう?」


「たしかにどちらも異界なんだろうけど、それでいてまたそれぞれが異なる世界になっている、というか。いや僕にも正確なところは、ちっともわからないんだけどね……」


 結菜が混乱して訊くと、颯馬は苦笑混じりに返事を寄越よこす。

 結局、何某なにがしか論理的に説明できるものではないらしかった。



 いずれにしろ、同じ場所でぐずぐずしていてもはじまらない。

 そこで結菜も意を決すると、思い切って家の中へ踏み入る。


 ……と、直後に背後で、自然と玄関ドアが閉まった。

 振り返ってもう一度開こうとしても、当然のように動かない。

 まさに都市伝説通り、空き家の中に閉じ込められたのだ。


「ここからいよいよ、今回遭遇した怪異の『取材』も本番ってわけだ」


 颯馬は、やや皮肉っぽい口調でつぶやいた。

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