第二話「帰り着けない家の灯り」
12:漫画家としての危機
ひとつの戦いの終わりは、新たな戦いのはじまりでしかない――
などというと、連載少年漫画の新章開幕を告げる
だが現実というのは人生が続く限り、実際に次々と戦いを繰り返していくようなものだ。
発注・製造・納品のサイクルで成立する仕事に従事していれば、
かくして天城結菜も今まさしく、次なる戦いの舞台への旅立ちを求められていた。
ただし彼女が挑むべきものは、少年漫画の世界で語られるような冒険ではない。
新作ホラー漫画のアイディアを捻り出し、ネームに起こして提出することである。
<――それで、
液晶モニタの向こう側から、生真面目そうな女性が語り掛けてきた。
ショートボブの髪形で、白いブラウスを着用している。かなりの美人だ。
オカルト雑誌『アメジスト』の編集者である
<読者アンケートの結果は堅調で、SNSなどに散見される感想も好評です。六月発売号に掲載予定の次回作も、同等以上の反応は期待できるのではないか……と、編集部では見ています>
「そ、そうですか。ありがとうございます」
結菜は、正面のモニタに頭を下げる。
Webカメラが相手の画面にも、こちらの所作を映し出しているはずだった。
PCを利用したオンラインの打ち合わせは、正直言うとあまり得意ではない。
互いの顔が見えるぶん、意思の疎通が取りやすいのはたしかなのだが、それだけに通常の電話やメールのやり取りにない気疲れがある。
実は結菜が今着ている衣服も、リモートワークのためだけに購入したものだった。
ちなみに「暗黒城結子」というのは、結菜が漫画を描く際のペンネームだ。
かつては少女漫画家志望だったため、もっと華やかで可愛らしいPNだったのだが……
オカルト雑誌(厳密にはスピリチュアル雑誌だという声もある)にホラー漫画でデビューすることになってしまったため、この通り怪しげな名前に変更することになってしまった。
インターネット上では、結菜の素性を知らない一部の読者が以前、
「毎日ゴスロリ風の衣装に身を包みながら絵を描いている、こじらせ女子らしい」
などと、勝手に彼女の人物像を
<ただこれは、暗黒城先生には何の責任もないことで、心苦しいのですが>
モニタの中で、担当編集の小倉が眉根を寄せる。
<近年の出版業界というか、雑誌媒体が置かれている環境の問題があります。特にコアな読者層をターゲットとしたサブカルチャー誌は、商業面で大変厳しい状況にありまして。弊社の中でも『アメジスト』の編集部は、あまりいい立場とは言えません>
結菜は「アッ。アァ、ハイ……」などと、裏返った声で応じることしかできない。
だがヘッドセットのイヤパッドから聞こえる音声は、尚も不穏な言葉を続ける。
<そうした背景もあり、社内でも最近は『アメジスト』をWeb媒体へ移行すべきではないか、という話が検討されはじめています。もちろん暗黒城先生には、そうなった場合も今までと変わらず隔月で漫画を描いて頂きたいとは考えているのですが……>
そこまで言ったところで、小倉が微妙に間を
何か言い
さらに幾分か
<もし将来Web掲載になった場合、漫画の単行本化は作品ページの閲覧状況を加味して判断されるようになる可能性があると思います>
「……は、はあ。そうなんですか……」
結菜は、どこかぼんやりした感覚で返事していた。
「漫画が単行本化されるかどうかは、Web掲載になったら閲覧状況次第」――
つまり、
しかしマイナーオカルト誌のWebサイトで、それほどのPVが期待できるだろうか?
かなり
小倉の話が事実ならば、これは漫画家として金銭面で非常に深刻な問題だった。
漫画を描いても単行本化されなければ、収入は原稿掲載時の稿料のみになる。
尚、結菜が過去に世へ出した単行本は三冊で、いずれも少部数の上に重版していない。
さりとて刊行した際には、応分の印税が支払われ、多少のまとまった収入になっていた。
それがこのままだと、一円も得られなくなるかもしれない――……
打ち合わせはその後、八月発売号に掲載する漫画の内容へ話題が移った。
ひとつの戦いの終わりは、新たな戦いのはじまりでしかないからだ。
六月発売号に掲載予定分の原稿は、すでに納品を済ませている。
だから次なるアイディアを生み出し、また新たなネームを切らねばならない。
そう。差し当たっては、それが単行本になるか怪しい原稿の依頼であっても。
<次号でも読者に対する訴求力のある題材をお願いします>
と、小倉は注文を付けてから、リモートの接続を切った。
結菜もビデオ通話アプリを閉じて、PCをシャットダウンする。
ヘッドセットとメガネを外し、上体を椅子の背もたれに預けた。
置時計を見ると、時刻は午後九時半を過ぎている。
そう言えば、打ち合わせしていて夕飯を食べ損ねた。
不規則な生活のせいで、時間感覚もおかしい。
「……やっぱり『アメジスト』も、遠からず紙媒体では休刊路線かー」
結菜は、椅子に腰掛けたまま、仕事部屋の天井を仰いだ。
小倉に伝えられた話を思い出してみても、思いのほか動揺は感じていなかった。
さすがにやや
結菜も前々から、心のどこかで「マイナーなオカルト誌の寿命は、今の時代ではそう長くないだろう」という予感を抱いていたからだ。ゆえに来るべきときが来たように思う。
小倉はまだ、そういう話が社内で持ち上がっているだけの段階――
というような言い方だったが、おそらく十中八九は確定なのだろう。
そもそも編集者は普通、担当雑誌が休刊の危機にあるとしても、事前に漫画家やライターにそれと打ち明けることは少ない気がする。
ある日突然Web上などで告知され、外注で仕事を
「自分が寄稿している雑誌が休刊することを、そのとき初めて知らされた」
という状況に遭遇するパターンも珍しくないらしい。
にもかかわらず、そうした事情を
真面目な小倉なりの
あるいはデビューから五年以上、〆切だけは守って寄稿し続けたことへの温情だろうか。
いずれにしろ、これは「今のまま『アメジスト』だけに漫画を載せていても、漫画家としてのキャリアに先はない」という、小倉からの遠回しなメッセージに違いない……。
「はあ、なんかダメだなあ。悩んでばかりいないで、適当にご飯食べよう」
結菜は、両手を頭上に
空腹が思考を妨げ、ますます気持ちを滅入らせているのが、自分でもわかる。
こういうときはまず、何か食べて落ち着くべきだ、というのが彼女の哲学だった。
もっとも結菜は、それほど
どちらかと言えば、ご馳走のために手間を掛けるより、満腹感さえ得られるなら簡単なものでいい、という価値観の下僕である。漫画を描くこと以外には、基本的に
だからいざ冷蔵庫の中を見て、いくつか食材が不足していると悟った途端、調理に対する意欲がみるみる減退してしまった。近所のスーパーまで今から買い出しに行く気にはなれない。
かくしてこの日の夜も、買い置きの冷凍
――またこんなものばかり食べていたら、颯くんに怒られるんだろうなあ。
結菜は、皿に盛った冷凍炒飯を電子レンジの中へ入れながら、何気なく考えた。
五歳年下の隣人は、何かと世話を焼きたがる性分で、彼女の食生活にも
その予感は果たして、現実のものとなる。
○ ○ ○
結菜の部屋を芹沢颯馬が訪れたのは、翌日の午後二時頃だった。
大学で一、二限目の講義を受けたあと、マンション「ブルーハイツ新委住」の隣室――
彼が起居する自宅まで、真っ直ぐ帰ってきたという。
その手の中には、
颯馬は訪問に先んじ、結菜に「もう昼は食べちゃった?」と連絡を入れてきた。
それにまだだと返事したところ、彼女の部屋で調理する準備をしていたらしい。
颯馬も今日は朝しか食べておらず、結菜一緒に済ませるつもりなのだ。
二人のあいだでは、こういうことが比較的よくある。
颯馬は、室内に招じ入れられると、リビングを抜けてキッチンに立った。
しかしながら調理台やシンクの様子を見るなり、眉を
「だからレトルトやインスタントの食品にばかり頼っていちゃダメだって、普段から言っているじゃないか」
颯馬は、コンロの脇にあった空き箱を、手に取って眺めた。
昨夜、結菜が夕飯に食したレトルト麻婆茄子のパッケージだ。
うっかり放置したままで、捨てるのを忘れていたものだった。
「ちょっと目を離していると、いつもこうなんだもんなあ。栄養のバランスが
「あっ、あのね颯くんっ。だから私もいつも言っているけど、最近のレトルトやインスタントの食べ物は本当に凄いんだよ? 有名店の一流料理人さんが監修していたりするし」
結菜は釈明しながら、電子レンジの
すぐ横の棚の上に乗っていた袋を
冷凍炒飯と中華スープの包装を、どさくさ
ただし体裁を取り
結菜が昨晩食べた献立は、今の一瞬でしっかりと把握されていた。
「凄いとか凄くないとか、そういう問題じゃあないんだよなあ……。たぶん結さん、昨夜食べた料理だと葉物野菜とか全然摂取できてないでしょう」
颯馬は、樹脂製の保存容器のひとつを、調理台の上に置いて開けた。
新鮮そうな野菜が適当な大きさにカットされ、密に詰め込まれている。
戸棚から器を取り出すと、それを手早く移し替えていった。
「ほら結さん、これそっちのテーブルに持っていって」
サラダが盛られた器を手渡され、結菜は黙ってダイニングテーブルへ運んだ。
そうする間にも、颯馬はフライパンや
それから結菜が手伝おうかと声を掛け、必要ないと断られるのも普段と同じ流れだった。
――本日もまた、颯くんの年下オカン系男子っぷりが
颯馬の姿にそうした所感を抱きつつ、結菜は自室からタブレットとメガネを取ってくる。
手持ち無沙汰になったため、料理が完成するまでのあいだはインターネットすることにした。
ダイニングテーブルに着席すると、手元の画面でブラウザを開いて、Webページを
漫画の参考になりそうなアイディアがないか、SNSや動画共有サイトを調べてはじめた。
「そう言えば結さん、こないだ『取材』した件は無事に漫画になったの?」
と、颯馬がフライパンに油を引きつつ、思い出したようにたずねてくる。
「ほら、『鈴風橋のお化け』のやつ。たしか、そのまま描いちゃ良くないらしいってことは何か言っていたけど」
「んー、まあ一応はね~。まだ掲載誌が発売になってないから、読者の反応はどうかわからないけど。ただ編集部内の評判はいいって、担当の小倉さんが言ってた」
「へぇ、そりゃ良かった。わりと危ない目に遭いながら『取材』した甲斐があったね」
結菜は生返事で答えたが、颯馬は素朴に喜んでくれているようだった。
フライパンの上で食材が熱せられ、油の細かく弾ける音が聴こえてくる。
タブレットの画面をタップしながら、結菜は何となく居心地悪さを覚えた。
それでつい、わざわざ颯馬に言わなくてもいいことまで言ってしまう。
「漫画の評判はいいみたいなんだけどね、そのうち印税収入はなくなるかもしれない。原稿自体はまだ出版社に買ってもらえそうだから、稿料だけなら入ってくるだろうけど」
「……それ、どういうこと? 漫画を描いていても印税が入ってこないって」
コンロの火力を調節しながら、颯馬は
結菜は仕方なく、今後の仕事の見通しを、順序立てて教えた。
稿料と印税の差異から説明せねばならなかったので、多少骨は折れたが……
ひと通り話し終える頃には、結菜の今置かれている状況が
「なるほどね。たしかに『アメジスト』みたいな雑誌というと、たぶん僕もあと二、三冊ぐらいしか知らないな。不定期刊行のコンビニ本みたいなやつなら、たまに他にも見掛けるけど。そもそも普通の漫画雑誌でさえ、あまり買って読む機会がないもんなあ」
颯馬は、料理を皿に盛り付けると、考え深そうに唸った。
「オカルトネタって、現代じゃインターネット上だけでも無料で
「まあ『アメジスト』の誌風は純粋なオカルトというより、スピリチュアル寄りだっていう読者もいるけどね。女性購買層が多いし。裏を返すとだからこそ、他誌とは差別化できていて、そのおかげで辛うじて生き残っているんだっていう……」
結菜は、溜め息混じりに補足して言った。
再び颯馬は「なるほど」とつぶやき、ダイニングテーブルへ料理を運んでくる。
皿の上には、出来立てのハンバーグが乗せられ、湯気を立ち昇らせていた。
焼かれた肉が
甘い香りが
バゲットとバターも、コーヒーと共に
「それで結さんとしては、これからどうするつもりなの」
颯馬は、サラダを個別に取り分けると、ドレッシングを掛けながら言った。
「将来漫画が単行本化されなくなっても、まだ『アメジスト』で描き続けるわけ?」
「そうだねぇ。差し当たってはWeb掲載のみでも、漫画の仕事がなくなるよりはいいし……」
ひとまずタブレットをテーブルの隅へ押しやって、結菜もナイフとフォークを手に持った。
「頂きまーす」と言ってから、ハンバーグの真ん中に刃を入れる。閉じ込められていた肉汁が内側から染み出し、皿の上でデミグラスソースと混じり合った。
さらに肉をひと口大に切って、口の中へ運ぶ。
相変わらず颯馬の料理は、しっかり美味しい。
「せめて何かしら商業活動していないと、そのあいだはただのフリーターになっちゃうから」
結菜は、舌の上でハンバーグを賞味しつつ、大小二つの不安を
ちいさい方は、昼食にカロリー高めの料理を食べて、太らないだろうかという不安。
そうして大きい方は当然、漫画家としての身の振り方に関する不安である。
――さて、これから先、どうやって漫画家を続けていこうか?
やはり常識的に考えれば、このまま『アメジスト』の仕事だけで満足していては良くない。
漫画家にとって、単行本を刊行することは、客観的に一番わかりやすい実績だと思う。
その見込みが将来薄くなるのなら、おそらく職業的な打撃は収入面に止まらない。
もっとも、今の仕事を突然放り出すわけにもいかないのは、颯馬に話して聞かせた通りだ。
だから結菜としては、現状を維持しつつも、新規の発注を取り付けてこなければいけない。
つまり、『アメジスト』の原稿を描く傍ら、他の出版社に営業を仕掛けることになるだろう。
あとはインターネットを利用し、SNSにサンプル原稿を投稿するのもいいかもしれない。
……ただしいずれの方針も、成果を出すのはそう容易ではない。
実は過去にも、結菜は『アメジスト』の仕事をこなす一方で、何度か他社へ原稿を売り込もうとしたことがあったのだ。Web上にオリジナル漫画を無料公開してみたことだってある。
商業連載の合間も、決して骨董品店のアルバイトしかしてこなかったわけではない。
しかし結果として数回、ホラー小説の挿絵を担当できたことはあるが、継続的な仕事の依頼に発展した試しはなかった。
思ったほど次につながらず、自らの未熟さを痛感させられるばかりだった。
――やっぱりホラー漫画っていうのが、根本的に少し厳しいのかなあ。そもそもあまり一般的なジャンルじゃないし……。
結菜にとって
純粋に技術的な面だけで言えば、彼女は漫画家としてオンリーワンの存在ではない。
もちろん
そう思うようにいかないことは、過去に少女漫画家を目指して
――ていうか今更方向性を変えたところで、ウケるものが描けそうな気もしない……。
結菜は、サラダに和風ドレッシングを掛けながら、頭を抱えたくなっていた。
世間はいったい「暗黒城結子」に何を求めているのだろうか、と改めて考えてみる。
そうしてすぐ、実はペンネームからして問題があるのかもしれない、と思い至った。
ますます憂鬱さは
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