10:穢れた魂魄、穢れなき慈悲心。


 新たな漫画のネームは、編集部内での反応も上々らしかった。


 四〇ページ分の画像ファイルをメールで送ると、然程さほど待たずにスマホに着信が入った。

 提出物の出来栄えが良い場合は、担当編集者の小倉も大抵上機嫌で連絡を寄越よこす。

 次の会議で無事通れば、新作は翌々月発売の雑誌で掲載を目指すことになるそうだ。


 正式な打ち合わせは後日改めて行うことになったものの、

「差し当たり、原稿作業に入る準備を進めておいてください」

 と、電話口で伝えられた。



 そこで次の金曜日、結菜は再び陽乃丘へ向かうことにした。


 新作漫画は「鈴風橋のお化け」に関する都市伝説を、作劇上の参考としている。

 先日の「取材」を終えて、ストーリー面の素材には充分に得るものがあったが、まだ作画用の資料には不足を感じていた。具体的に言えば、あの日は鈴風橋を訪れたのが夕方以降で、日中の景色を写真に収める機会がなかったせいだった。


 さて、その日は午前一〇時頃にベッドを抜け出した。

 不規則な生活を続けているため、結菜には例によって起床するのが辛い時刻である。

 颯馬から与えられた置時計に頼って、アラーム音と共に無理やり意識を覚醒させた。

 ちなみに骨董品店のアルバイトには、午後四時から入るシフトになっている。

 いつも通りに朝昼兼用の食事を済ませ、シャワーを浴びて被服を着替えた。


 しばらくすると、インターフォンが室内に鳴り響く。

 玄関ドアを開けると、颯馬が気安く挨拶あいさつを寄越した。

 本日の外出に際しても、結菜に同行を申し出ていたからだ。

 出先で「鈴風橋のお化け」について、何か話がしたいらしい。

 昼食は、早めに済ませたという。



 正午過ぎにマンションを離れ、交通機関を乗り継いで移動した。

 陽乃丘に到着すると、二人で街路を歩いて鈴風橋を目指す。


「あれから、吉瀬さんの様子はどう?」


 結菜は、かたわらの颯馬に問い掛けてみた。

 先日の「取材」を終えて以来、吉瀬桂太のことを心配していたからだ。

 心霊現象を体験すると、良くも悪くも心境が変化してしまう場合もある。

 接触した怪異が亡き幼馴染となれば、猶更なおさらあり得ることだった。


「桂太なら、さいわい元気でやっているよ。昨日はサークルで野球の試合にも出ていたみたいだ。しっかり左腕に例のリストバンドも着けていたらしい」


 颯馬は、穏やかな面持ちで言った。


「さすがに体育会系の人間はメンタルが強いね。とはいえ当人も言っていた通り、香弥さんの思い出は今後もずっと胸の奥に抱えていくんだろうけど」


 結菜は「そっか。そうだよね……」とつぶやき、ほんの少し考え込んだ。



 名取香弥の霊体が消滅した夜のこと。

 あのあと桂太は亡き幼馴染との間柄を、改めて訥々とつとつと話していた。

 帰路の途中で別れるまでのあいだ、問わず語りに教えてくれた。


 ――オレと香弥は、安っぽい恋愛ドラマそのままみたいな関係だったよ。


 そうつぶやいたとき、桂太の口調はひどく自嘲的だった。


 桂太も香弥も、互いに好意を抱いていたことには「疑う余地がない」と、言い切っていた。

 怪異を除霊した際にも自ら言及していたが、客観的にもたしかそうなことだと思われた。

 ただし香弥が事故死したことで結局、恋愛感情を伝え合う機会を永遠にいっしたわけだ。


 ――オレも香弥も青臭いガキだったんだよな、たぶん。


 桂太の言葉には、深い悔恨かいこんにじんでいた。


 幼馴染の二人が意思の疎通そつうを欠いていたことに関して、明確な理由はなかったらしい。

「双方が昔から身近な存在だったせいで、かえって相手の心情に踏み込みにくくなっていた」

 と、桂太は当事者なりの見方を打ち明けていた。


 そうした背景全般が「安っぽい」し、「青臭い」ということなのだろう……。



 鈴風橋にたどり着くと、結菜は早速デジタルカメラを取り出した。

 作画資料用を確保するため、次々とシャッターを切っていく。

 やや引いた位置から石橋全体を写真に収める他、近接して欄干らんかんを撮影したりもした。

 構造物全体のスケール感を把握するだけでなく、細部の形状も記録せねばならない。


 加えて付近を歩き回りながら、周辺地域の景観もデジカメでっておく。

 漫画の中でも、怪異の出現場所は「住宅街の外れにかる橋」という設定だからだ。

 物語の舞台と地続きになっている景色も、作画を開始すれば必ず必要になってくる。


 空は高く、気温も適度に暖かくて、心地よかった。

 日没以降に訪れた際とは、目に映る光景の印象も違う。

 地方都市に特有の穏やかさが、街並みから感じられた。


 時折そよぐ風もさわやかで、絶好の写真撮影日和だった。



「やっぱり香弥さんも、後悔していたのかな」


 土手の上から河川敷の写真を撮ったあと、結菜は思わず憶測を吐露していた。

 近辺の情景を撮影するうち、想像力を刺激され、感傷的になっていたせいだ。


「自分の気持ちを、好きな男の子に伝えられなかったことで」


「……さあね。個人的には、そうでもない気がするけど」


 颯馬は、かたわらでたたずみながら、妙に落ち着いた声音で返事した。

 それがやや意外な回答だったので、結菜は軽い驚きを覚えた。

 振り返って様子を窺ったものの、颯馬は平静さを崩していない。


「名取香弥さんは元々、かなり内向的な女の子だったそうだからね。根本的に自分から告白するような勇気はなかったんじゃないかな」


「でも吉瀬さんとはお互い、両想いだったんでしょう? だったら……」


「気持ちが通じ合っていることに確信があるのと、それを伝えられるかどうかは別だよ」


 結菜は反論を試みたが、颯馬の見解は変わらないようだった。


「だから香弥さんは、いずれ桂太から告白して欲しいとは願い続けていただろうけどね。だけどずっと受け身で、それは亡くなる瞬間も変わらなかったんじゃないか、って気がする」



 河川敷の撮影を済ませると、二人は鈴風橋の上まで引き返した。

 この辺りは今日もあまり交通量が多くない。道行く人も車もまばらだ。

 石橋の真ん中付近で、結菜と颯馬は片側の欄干へ歩み寄った。

 手摺てすりと鉄柵の向こうには、手前に流れ来る川面が見下ろせる。


「自分から気持ちを伝えられなかったことについて、もし本当にいていなかったのなら」


 結菜は、ゆるやかな川の水流をじっと見詰めた。


 今日、颯馬は「鈴風橋のお化け」について話したいことがある、と言っていた。

 丁度話題が怪異の件に触れたので、結菜はそちらへ水を向けることにした。


「香弥さんにとっての未練って、何だったのかな。何が彼女をあんな――つまり、人に害をすような、『悪い霊』にしてしまったのかしら……」


 颯馬の指摘で生じた疑問を、言葉に出して反芻はんすうしてみる。


 怪異の多くは、現実の不条理に対する、未練や怨念から生まれる。

 名取香弥は、鈴風橋の上からあやまって転落し、溺死できしして、怪異化してしまった。

 そうして、いまわのきわの心残りは、桂太に想いを伝える機会をいっしたこと――

 結菜は、漠然とそう思い込んでいた。


 無論同じ日に野球観戦できなかったことも、未練であるには違いないだろう。

 実際に香弥の霊は、何度も「見たかった」と繰り返し、無念を訴えていたはずだ。

 だがそれも自らの思慕を、桂太に告げられなかったからこそではないのか……? 


 当惑を覚えていると、颯馬が溜め息混じりにつぶやいた。



「たぶん僕は、嫉妬しっとか、独占欲が原因なんじゃないかと思う」



 結菜は、反射的に「嫉妬か、独占欲……?」と、鸚鵡返おうむがえしにたずねる。

 それに颯馬はゆっくり首肯し、ボトムスのポケットへ手を突っ込んだ。


「長年一緒に過ごした二人にとって、告白は単なる意思の確認作業にしかすぎない。少なくとも桂太と香弥さんのあいだでは、すでに互いの好意を認識し合っていたと思う」


「で、でも正式に付き合っていたわけじゃないんでしょう?」


「それはそうだろうね。とはいえこの場合の要点は――もしかすると香弥さんは生前、とっくに桂太と自分が恋人みたいな関係だって、勝手に思い込んでいたかもしれないってことさ」


 いささかきょかれて、結菜は咄嗟とっさに次の言葉が出てこなかった。

 颯馬は隣で彼女にならって、輝く川面を眺め、まぶしそうに眼を細める。

 水の流れが陽光を照り返し、きらきらときらめいていた。



「どこへ行っても、桂太はみんなから好かれるタイプの男なんだ」


 わずかに間をはさんでから、颯馬は先を続けた。

 快晴の天候とは裏腹で、沈んだ声音だった。


「明るい性格のスポーツマンで、人付き合いがいいからね。それでいて、四年前に亡くなった幼馴染の贈り物を、いまだに大切にしているような律義さもある」


「ということは、その……吉瀬さんって、他の女の子からもよく好かれるの?」


「それはもう、かなりのものだね。僕なんかよりも、間違いなくモテるよ」


 結菜がたしかめるように訊くと、颯馬は苦笑混じりに即答した。

 そうして、吉瀬家のリビングで戸棚に並ぶフォトフレームを見た際、

「桂太の人望が厚いのは、どうやら高校時代も変わらなかったようだ」

 と、密かに確信を得ていたらしい。


「あの棚に飾られていた集合写真には、野球部員だけじゃなく、女子生徒も一緒に写っていた。しかもその中には、桂太が着ているユニフォームの裾をつかんで、引っ張っているような子までいたんだ。多少お道化おどけた調子で誤魔化していたみたいだけど、随分ずいぶんと親密さを主張しているように感じた」


「……えっと。それってやっぱり、その女の子も吉瀬さんに好意を持っていたってこと?」


「きっと香弥さんほど真剣な感情じゃなかったと思うし、桂太は写真の女子たちを単なるクラスメイトだと考えていたようだけどね」


 つまり、桂太が野球に打ち込む姿を目にして、憧れていた女子は香弥以外にも存在していた。

 それぐらいのことは、香弥も生前に察していたのではないか? 幼馴染同士で共有した時間の長さを踏まえれば、そう考える方が自然だろう。


 ゆえに香弥は地区予選一回戦から、桂太の試合を観戦するために球場へおもむこうとした。

 チームが勝ち進んでいない段階で現地へ駆け付けるのは、高校野球だと比較的珍しい。

 しかし「自分も他の子に劣らず、応援している」と、対抗心を示そうとしたのだと思う――

 当時の香弥の心理状態について、颯馬はそうした見解を持っているようだった。



「なぜ香弥さんが三年経過して怪異化したかの理由も、実は新たに気付いたことがあるんだ」


 颯馬は、さらに続ける。


「三年の三が出産のサンで、日常が枯れる、だから三年でケガレ――なんて俗信に絡めた類推を、意地でもこじ付けようってわけじゃないんだけどね。香弥さんにとってサンと言えば、背番号の三だったのかもしれない」


「それって、ユニフォームの数字だよね。吉瀬さん、野球部では背番号三だったの?」


「桂太の自宅で、リビングの出窓にグローブがあったのを見たよね。あれは内野手向けのものの中でも、ファーストミットっていう一塁手用グローブなんだ」


 結菜は、観葉植物のそばに置かれていた野球用品を思い出す。

 たしかにあのとき見たグローブは、ちょっと独特な形状だった気がした。

 彼女も野球にくわしければ、あれがファーストミットだとわかったのだろう。


「高校野球では、背番号が守備位置である程度固定化されている場合が多くてね。一番は投手、二番は捕手で、三番は一塁手の番号なのさ。そうして桂太は当時から一塁手だった」


 ――その背番号が入ったユニフォームを、他の女子生徒が親しげに引っ張っていたのか。


 結菜は、にわかに垣間見えた真相に接し、戦慄を覚えた。


 颯馬の仮説が正しければ、きっと名取香弥は生前にあの写真を見ていたに違いない。

 それによって、他の少女への嫉妬心、あるいは桂太に対する独占欲が生まれたわけだ。

 死に際しては、諸々の暗い感情が執着へ変質し、三年後の怪異化をうながしたのだろう。

「三」はそれだけ、名取香弥にとって特別な数字だったのかもしれない。



「それと他にも、今回の怪異とこじ付けられそうな俗信がある。京都宇治川うじがわには『橋姫はしひめ伝説』というのがあってね。これは水神信仰の一種から生まれたものらしいんだけど、非常に嫉妬深い怪異だと言われているんだ」


 颯馬は顔を上げ、川面から視線を引きがした。

 上流の遠景へ目を向けながら、尚も言葉を継ぐ。


「『橋』のハシは、転じて『し』になるからってことらしい。鈴風橋に出没する怪異も、『愛しさ余って人に害を為す』とすれば、嫉妬に狂った霊のひとつとして理解できるかもしれない」



 結菜も釣られるようにして、遠景を眺めた。

 山々の白み掛かった稜線りょうせんを、左から右へ目でなぞる。

 空と雲に馴染んで、やや地上との境界が曖昧あいまいに見えた。


 うつろな輪郭は、容易に看取し得ないものがあることを、沈黙のうちに告げているようだ――

 日頃大人しかったという少女の心根ひとつでさえ、推し量るには充分困難なのだ、と。


「鈴風橋の上で『霊視』したとき、結さんはふらついて倒れそうになったよね」


 颯馬は、見るともなしに遠景を見たままで言った。


「あれって、たぶん『霊視』で疲れたせいだけじゃなく、香弥さんの霊に足を引っ張られたせいだと思う。それとひょっとして、その前にも橋を渡った際につまづきそうにならなかった?」


 問い掛けられて、結菜は「うん……」と短く答えた。

 彼女があのとき転んだり躓き掛けたことも、ちゃんと気付いていたらしい。

 最初はそれとわからなかったのかもしれないが、違和感はあったのだろう。

 颯馬は、結菜の反応をたしかめた上で続けた。


「ただし僕は同じ場所にいても転倒しなかった。他に橋の上で転んだ人物と言うと、以前に桂太が出会ったという女の子のことしかわからないけど――少なくとも僕が見た範囲で転倒しているのは、結さんだけなんだよ」


「……それはもしかして心霊現象が、香弥さんの嫉妬で発生しているからってことなの?」


「僕はそう考えている。橋の上で桂太に接近した女性だけが、怪異にねらわれたんだって」


 結菜はようやく、夜間に鈴風橋を渡ったとき、なぜ颯馬が自分の手を取ったのかを悟った。

 あれ以前の状況も踏まえ、「香弥の霊が足を引っ張る可能性がある」と考えたからだった。


 無論、手をつないでいれば転ばずに済む、ということではない。

 颯馬と触れ合う状態を演出して、結菜が親密な異性は桂太ではない、と香弥の霊に対して示すことが重要だったわけだ。それにより、怪異の嫉妬心を刺激せずに済んだ。


 もっとも結菜が「霊視」直後に倒れた際、実は颯馬が彼女の身体を支える状況があった。

 だからひょっとしたら、すでにあの時点で香弥の霊の誤解は解けていたのかもしれない……

 だが、念のために用心したのだろう。



「もし事故があった日、ここで香弥さんが足を滑らせなかったら」


 結菜は、長い癖毛気味の髪を、微風に遊ばせながら言った。


「転落事故で溺死することもなく、その後に怪異化することもなかったのにね。そうすれば、吉瀬さんも幼馴染のことで思い悩んだりしなかったはず」


 それはあくまで、詮無せんない仮定に過ぎなかった。

 思い付きから漏らしただけの言葉であり、取るに足りない妄想でしかない。

 ただ可能性のひとつとして、あり得たかもしれない状況ではないだろうか? 


 ……結菜はそう考えたのだが、颯馬の賛同は得られなかった。


「そうかな。香弥さんの事故に関しては、客観的にどうとらえるべきなのか……」


 颯馬は、どこか浮かない口調で言った。


「個人的には香弥さんの事故を、本当にただ『不運な出来事だった』というだけで片付けていいのかは、ちょっと疑問を感じている」


 結菜は「どういうこと?」と問い掛け、年下の青年を振り返った。

 自分へ向けられた視線に気付き、颯馬も横目で彼女を見る。


「結さんが『霊視』した場面のスケッチを見たとき、僕は二枚目と三枚目のあいだに何か奇妙な違和感を覚えたんだ。……香弥さんが事故当時、誤って転倒し、橋の上から落下したという部分に関しては、決して異論はないけどね」


 颯馬の声音は、殊更ことさらに沈痛な響きを増していた。


「でも香弥さんは、? だってここは交通量が少ないから車とすれ違う心配はないし、走って足元がおろそかになっていたわけでもないんだ」


 むしろ事故直前、名取香弥は橋の上で佇立ちょりつしていた。

 そうして左右の手で、あの白猫を抱き上げていたのだ。

 それは二枚目のスケッチが証明している。


 しからば何がどうして、そうした状態から香弥は転倒してしまったのだろうか――

 しかも欄干を乗り越え、橋の縁を囲う木柵を破損させるほどの勢いを伴って! 


 ……この謎について、颯馬はひとつの推論を持っているという。



「香弥さんはね。子猫を橋の上から、川の中に投げ捨てようとしたんじゃないかと思うんだ」



 結菜は、瞬間的に言葉を失った。

 あまりに意外な見解だ。颯馬の顔を覗き込み、発言が本意か否かを探る。

 しかし颯馬は、真剣そのものの面持ちだった。冗談を言った様子はない。


「スケッチの二、三枚目のあいだに発生した出来事については、結さんも視点の異常という部分でしか状況を説明できていなかったよね。たとえ『霊視』で過去の香弥さんと視覚を共有していたにしろ、彼女が何をどうしようとしていたかまで把握できるわけじゃないから、それは仕方がない。だけど他の様々な要素も勘案すると、僕には香弥さんがそうしたとしか思えないんだよ」


「でっ、でも――どうして香弥さんは、子猫を川に投げ捨てようとしたの……?」


 結菜は、狼狽ろうばいして問いたださずにいられなかった。


「だって香弥さんは、捨て猫に餌をやって可愛がるような、優しい女の子だったんでしょう」


「それもやっぱり、紗弥さんの嫉妬深さのせいかもしれない」


 半ばまぶたを伏せ、颯馬はかぶりを左右に振る。


「……と、同時に桂太がみんなに好かれやすい男だったせいだとも思う」



 その答えが意味するところを咄嗟に理解できず、またもや結菜は当惑させられた。


 颯馬は、欄干に背を向け、頭上の蒼穹そうきゅうを仰ぐ。

 白い雲が泳ぐのを眺めながら、淡々と続けた。


「桂太は、香弥さんが昔可愛がっていた捨て犬や捨て猫から、自分もよくなつかれたと言っていたよね。さらには近所の飼い犬からも、知り合いの家の前を通り掛かっただけで愛想を振りまかれていた。これはあいつの天分みたいなものさ」


 特に立場が弱くて、誰かにすがらずにいられないような相手から、非常に好かれやすい――

 颯馬は、桂太を取り巻く事物の関係性から、そうした傾向が見て取れると率直に述べた。

 かてて加えて、それは人間だけに限らず、動物にも当てはまるらしい、と。


 桂太の実直そうな物腰、やや不器用だが誠実で優しそうな雰囲気……

 結菜は、そういった印象を思い出し、颯馬の指摘に納得させられた。

 たしかに桂太には、大柄な体躯たいくも手伝って、頼り甲斐を感じる。


「もちろん桂太自身は、誰から好かれる場合にも、意図的に相手の好意を引こうとして振る舞っているわけじゃない。常に天然で、人間にしろ動物にしろ、分けへだてなく接する。しかし取り分け動物に対しては、人間とのコミュニケーション以上に利害関係の入る余地がない……」


 子猫に対する無条件の優しさを、かつて香弥はそこに感じ取っていたのではないか。

 打算や駆け引きなどがなく、純粋な、ちいさく弱いものへの庇護欲。それでいて当人には当たり前で、自覚のない、日常で枯れることがない――

 すなわち、けがれなき慈悲心のようなもの。

 それがもし、香弥の嫉妬心を刺激していたとしたら? 

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