09:怪異具現化


「広く知られる猫憑ねこつきの俗信というのは、猫が死に際して人間に憑依ひょういするというものだ。これは取り分け年老いた猫が、化け猫や猫又ねこまたと呼ばれる妖怪と化すことで生ずるという説がある。ただそうでなくても昔から、猫が元来執念深いせいで起きる現象だと考えられているようだね」


 颯馬は、怪異にまつわる民間伝承を、手短に説明した。


「一方で妖怪というのは、地域や時代によって類似した存在でも性質がよく変化する。異なる別の怪異になる場合も少なくないんだよ。さっき話題にした『すねこすり』と『すねっころがし』もそうだし、事物の因果関係が逆転してしまった霊が存在してもおかしくないと思う」


 ゆえに憑依霊も、たしか動物から人間に憑くばかりでなく、その逆があり得たはずだ――

 颯馬は、そう続けて主張した。きっと香弥さんの場合もそうなのだろう、と。


 ところで中国では、「猫が三年以上生きると人間を惑わす」という逸話があるらしい。

 これは猫又俗信の起源という説もあり、颯馬は注目すべき民間伝承だという。

 あくまで偶然の一致ではあるだろうが、ここにも「三」の数字がからんでいるからだ。

 三年生きた猫は怪異に化け、名取香弥は死後三年経過して「鈴風橋のお化け」となった。

 桂太の幼馴染にとっても何かしらの理由で、おそらく三年が節目ハレの時期となっており、そこに怪異譚が生まれたのかもしれない――……


 颯馬は、どうやら彼なりの持論によると、おおむねそういった見解を持っているらしかった。


「つまり死後三年を過ぎて尚、香弥さんには消せない想念があったんだろう。しかしそれが浄化されなかったため、穢れケガレが溜まって怪異化してしまったわけだね」


「そ、そんな――本当にそうなのか颯馬? だとしたら、いったいどうすれば……」


 颯馬の話を聞いて、桂太はひどく動揺した様子だった。

 その反応から、猫と名取香弥を同一視し、怪異の正体を信じて疑っていないのがわかる。

 暗がりの中で今一度、廃材の山を振り返り、白い猫に畏怖いふするような視線をそそいでいた。



 ……不意にそのとき。

 人間の知覚へ訴えるような声音が聞こえてきた。


(――ねぇケイタ、こっち見て)


 結菜が「霊視」した際も、どこからか耳に届いた言葉だった。

 これで桂太は、おそらく三度聞いたことになるはずの声だ。

 空気を伝播でんぱしているわけではないのに、なぜか聞こえてくる声。

 耳の奥で、いんいんと鳴り響き、まるで脳をさぶってくる声……。


(ねぇ、ケイタ……)


 肌が粟立つような声音は、尚も知覚を刺激してくる。


(わっ、わたし――わたし、わたし……)


「おい、香弥! 香弥なんだろ、なあ香弥!」


 桂太は、廃材の上に座る白猫へ向かって、耐えかねたように叫んだ。

 結菜だけでなく、同行している二人も聴覚情報を共有しているのだ。


「どうして化けて出たりしたんだよ……。そりゃあきっと、おまえだってまだまだ生きていたかったろうし、やり残したことは沢山あっただろうけどさ……」



 白猫は語り掛けられても、やはり置き物のように身体を硬直させたままだ。

 しかし直後に冷たい微風が生じて、高架下付近にゆるく吹き付けた気がした。


 そうして結菜は、猫の背後の空間を見て、思わず息をんだ。


 薄暗い宙を、無数の青白いが舞っていたからだ。

 それは時折、懐中電灯の光を反射して光り、粉雪のようにも目に映った。

 踊るようにただよい、集まりながら、徐々にひとつの像を形成しようとしている。

 呆然ぼうぜんと眺めるうち、それが一瞬、少女の姿を取ったかに感じられた。


「……香弥さんの霊が、自力で現世うつしよに具現化しようとしているみたいだね」


 かたわらで、颯馬がぼそりとつぶやく。

 結菜はそれを聞いて、ああ、颯くんにもあれがわかるんだ、と知った。

 颯馬は、人並みの弱い霊感しか持っていない。なのに「えている」という。

 しかららば今は同じ怪異の像を、おそらく桂太も視認しているはずだ。


 怪異の声を聞くのと同じく、現在は結菜とより高度な知覚を共有しているのかもしれない。


 さもなくば、「霊視」した際に言及した「霊能力者以外にも知覚可能な怪異」――

 名取香弥の霊は、強い執着によって、そうした存在になりつつあるのだろう。



(――ケイタ、ケイタ……わたし、わたしを見て……)


「ああ、見てる。見てるさ香弥、おまえのことをちゃんと……」


 猫をしろとする怪異の声に対して、桂太は真摯しんしに返事する。

 それを受けてか、香弥の霊の言葉も変化が生まれはじめた。


(わたし、見たかった……ケイタの、野球。あの日……)


「野球? ……そうか、あの日の試合のことか。香弥は応援に来てくれようとしていたもんな」


 桂太は一、二歩、猫が座る廃材の山へ歩み寄りながら言った。

 猫の傍らに舞う粒子を凝視し、やや息を荒げて話し続けている。

 亡き幼馴染と対話していることで、興奮を覚えているようだった。


 そうする間になぜか、結菜はまた夜風が強くなるのを感じた。

 辺りの外気は一段と冷え込み、やけに肌寒さが増している。


 だが桂太には、そうした身の回りの変化に気付く様子がない。

 ますます夢中で、名取香弥の霊とやり取りを続けていた。


「オレもあのとき、おまえに観戦して欲しかった。でも何とか初戦には勝てたけど、あの夏は結局三回戦で敗退しちまってさ……。もし香弥が生きていて、ずっと応援してくれていたら違う結果になっていたのかな。いや、こんなこと言ったって、おまえを困らせるだけだろうけど……」


(わたし、見れなかった……見たかった、ケイタも、見て欲しかった……)


「うん、そうだとも香弥。観戦していて欲しかったよ、決まっているじゃないか」


(ケイタ、見て。ねぇ見て……ケイタ、こっち見て……)


「見てるさ。ちゃんと見てる」


(ずっと見て……)


「ずっと見てるよ香弥。だって、オレは――」


 そこでいったん、桂太は言葉が詰まった。

 だが声を振り絞るようにして、先を続ける。


「ずっとオレは昔から、おまえのことが――……!」



 尚も会話を交わす最中。

 猫の傍らから、青白い粒子の集合が移動しはじめた。

 廃材の山を離れ、桂太の方へ緩やかに接近してくる。


 目線の高さまで舞い降りると、粒子はちかちかとひらめき――

 明滅する都度、暗闇に少女の幻影を浮かび上がらせた。


 名取香弥の霊体が、そこに今たしかな量感を持って現出している。

 いましがたの写真に写っていたのと同じ、ずぶ濡れの妖しい姿だ。


 桂太は、すっかり魅入られたようにして、怪異へ歩み寄ろうとした。

 その目は、亡き幼馴染を真っ直ぐに見詰めているようで、妙にうつろでもある。

 足はふらつき、重心が定まっていない。不可視の糸であやつられているようだ。


 夜の空気が、殊更ことさらに冷たい。

 結菜は、高架下に漂う異質な気配にたじろぎ、不穏なものを感じていた。

 単に心霊現象と遭遇している、という状況に止まらない不気味さだ……。



「ねぇ香弥さん、君にはこれが何だかわかるだろう!」


 と、颯馬が突然、よく通る声で怪異に語り掛けた。

 懐中電灯を持つ側と反対の手を、顔の高さにかかげている。

 その手の中に握られているのは、黒いリストバンドだった。

 桂太から借り受けた、「KK」という刺繍ししゅうが入ったものだ。


「かつて君が桂太へ贈った品だ。覚えているよね?」


 颯馬は、呼び掛け続けながら、霊体と化した香弥の前へ進み出た。

 丁度、桂太と怪異のあいだに立って、割って入った格好になった。


 宙を舞う粒子は、颯馬の言葉に反応するように明滅した。

 それに合わせて、名取香弥の霊体が顔を上げる。

 無機質な面差しだが、瞳に好奇の光がのぞいたかに見えた。


(――贈った……わたし、ケイタに、贈ったもの……)


「そうさ。桂太は今でも野球するときには、ずっとこれを着けているんだ」


 香弥の囁きに同調するようにして、颯馬は力強く首肯した。

 リストバンドを前に差し出し、怪異にそれを認識させようとする。

 草臥くたびれた装具の有様と、刺繍の文字が露わになった。


(ケイタ、今でも……ずっと、着けてくれて……)


 香弥の霊体も、緩い所作で片手を前に伸ばしてきた。

 颯馬の手のひらに乗ったリストバンドを、華奢きゃしゃな指先で触れる。

 そこから電撃が走ったかのごとく、怪異の姿が瞬間的に震えた。


「桂太は絶対、今後も君を忘れない。桂太のことは心配ないよ――」


 颯馬は、優しい口調でけ合う。


「だから香弥さん、安心して欲しい」



 その直後、心なしか外気の肌寒さがやわらいだ。


 改めて怪異の様子をうかがうと、青白い粒子の明滅が加速している。

 香弥の霊体は、像の形状が乱れ、急に姿が透き通りはじめた。

 次いで、宙の一箇所に集合していた粒子が、徐々に四方へ遊離していく。

 名取香弥の霊が怪異としての実体を失いつつあるんだ、と結菜は思った。


(……ねぇケイタ、わたしーー)


 怪異のざらついた声が、耳の奥に響く。

 電気的な雑音をともなったような呻きだ。



(ずっとケイタのこと、見ていたからーー……)



 ほどなく、青白い粒子は夜の闇にけて消えた。

 高架下から張り詰めた雰囲気が失せ、不気味な気配も感じられなくなった。

 それから川のせせらぎに紛れて、にゃあ、というか細い鳴き声が聞こえてきた。


 廃材の山を見ると、白い猫が身をひるがえし、地面へ飛び降りていた。

 懐中電灯の光に今頃になって驚き、おびえて逃げ出そうとしているらしい。

 高架下の奥へ駆け出し、そのまま草木の中にもぐり込んで、姿をくらます。


 結菜はそれを見て、名取香弥の霊が消滅したことを悟った。

 あの白猫も、怪異の憑依から解放され、己を取り戻したのだ。




「……オレは――オレは今、たった今まで、香弥と話をしていて……」


 しばらくしてから、桂太がかすれた声を漏らした。

 颯馬と怪異がやり取りする最中、桂太は自失のていで立ち尽くしていたのだが――

 いまだに呆気に取られた様子で、名取香弥の霊が消えた場所を見詰めていた。


「でもあいつは、もういなくなっちまった……」


「たぶん香弥さんの霊は、浄化されたと思う。心残りがなくなったんだ」


 颯馬は、自分の見立てを静かに述べた。

 その判定の正しさを、結菜も密かに確信していた。

 霊感に訴える不気味さが、周囲から霧散している。


「それから、これは返しておくよ。香弥さんのためにも大事にしてあげてくれ」


 そう言って、颯馬は借りていたリストバンドを手渡した。

 桂太は、思い出の品を受け取ると、強く握り締める。

 幾分かの間をはさんだのち、ようやく「ああ、そうだな……」と言った。

 そうしてうつむき、低くもった声音で、ゆっくり言葉の先を継いだ。


「実はオレさ。もし香弥が化けて出たんだとしたら、それはオレのせいなんだろうなって。何となく今回の件で颯馬や天城さんに相談する前から、そう思っていたよ。あいつはあんなふうになってからも、オレの名前を呼んでいたし、『こっち見て』って言っていたもんな」


 桂太は、やや背中を丸めて、肩を細かく震わせていた。

 スポーツできたえた大柄な身体が、今だけは酷くちいさく感じられる。

 いったん言葉を切った際、そこにかすかな嗚咽おえつが混じっていた。


 結菜と颯馬は、ただかたわらで口をつぐんでいることしかできなかった。

 迷信嫌いの桂太が、霊能力者を頼ろうとした真意が垣間見えた。



「子供の頃から、ずっとオレも香弥が好きだったんだ」


 桂太は、いまや隠そうともせず、悲痛な声音で打ち明けた。

 ただし自らの心情を、誰より伝えるべき相手はもういない。


「たぶんこれからも好きだ。いつか他の誰かを、あいつより好きになることがあったとしても……」



 颯馬は黙り込んだまま、桂太の傍らを離れた。

 高架下の影から、河川敷へ出て立ち止まり、頭上をあおぐ。

 夜空に輝く砂粒のような星々を、目を凝らして見詰めた。

 そうすることで、はかない祈りを死者へ届けようとしているのかもしれなかった。



 結菜は、さびしい結末に立ち会いながら、しかし微妙な引っ掛かりを感じていた。


 亡くなった名取香弥にとっては、吉瀬桂太との関係性が現世への未練になっていた。

 その点にほぼ疑いはない。おそらく強い恋愛感情が、香弥を怪異化させたのだろう。


 ただ一方で、香弥の霊は人に害をす、危険な「悪い霊」だった。

 取り分け消滅の直前、香弥は桂太を幻惑しつつあったように見えた……

 そう、あたかも「死者の側へ生者の魂を引っ張り込もう」とするかのように。


 ――あのとき颯くんが割って入らなかったら、呪殺されていたかもしれない。


 結菜は、まだそこに何か、「鈴風橋のお化け」に対する不可解さを覚えてしまう。

 とはいえ自分の中にある謎の正体を、ただちに言語化することもできなかった。

 それにもっと言えば他にも、細々とした疑問は少なからずある――……



 だが今回の「取材」はとにかく、ここでひとまず幕切れとなった。

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