03:彼の名を呼ぶ怪異の声



【鈴風橋】というのは、藍ヶ崎市陽乃丘ひのおかにある古い石橋のことらしい。


 住宅街の外れ、付近に山林をのぞむ場所で、名もない小川の上にかっているそうだ。

 周囲の河川敷は、近辺に住む子供たちにとって、昔から馴染み深い遊び場なのだとか。


 ところが去年の夏頃から、その橋にまつわる怪異譚がささやかれるようになった――

 噂によれば『鈴風橋を日没以降に渡っていると、お化けに足を引っ張られる』という。



「まあ正直言って、いかにも小学生の考えそうな『怖い話』って感じの噂です」


 桂太は、怪奇現象の概略に関して、神妙な面持ちで説明した。


「だからオレも初めて耳にしたときには、かなりバカにしていたんですが……」


「何かきっかけがあって、現在では安易に作り話とは思えなくなったわけですか?」


 結菜があとを引き取ってくと、桂太は深くうなずく。


「ええはい、まさにそういったところです。いまだに自分でも信じられないのですが」




 それから桂太は、以前に自分が体験した奇妙な出来事について話しはじめた。


 数ヶ月ほど前のこと、桂太は噂の鈴風橋を自転車で渡る機会があったそうだ。

 川向うの地域に親戚の家があって、その日は両親から頼まれた荷物を届けるため、橋の上を往復せねばならなかった。行きはまだ明るい時間帯だったが、帰り道では陽が暮れはじめていた。


 不可思議な現象と遭遇したのは、帰路を急いでいた途中でのことだった。


 鈴風橋を中程まで渡った際、桂太は片側の欄干らんかん寄りに少女が歩いているのを見掛けた。

 八、九歳ぐらいで、年齢相応の背丈と見て取れる子供だ。彼と同じく帰宅途中らしかった。

 桂太は、少女を自転車で追い越し、ひと足先に石橋を渡り切ってしまおうとした。


 ところがその脇をすり抜けようとした瞬間、少女が不意に橋の上で転倒した――

 足場の橋はごく平坦な石畳いしだたみで、つまづくような石ころひとつ落ちていなかったにもかかわらず。

 しかも少女が転んだ際の体勢は、傍目はためにも酷く不自然に見えた。

 まるで何者かに足元をすくわれ、平衡を崩されたかのようだった。



 桂太は驚き、自転車から降りた。

 不可解な事故を目撃し、そのまま無視して立ち去れなかった。

 転んだ少女に歩み寄って、大丈夫かといたわりの声を掛ける。


 不幸中の幸いというべきか、少女には目立った怪我もないようだった。

 もっとも瞳の端に涙を溜め、かなり動揺した様子で、今にも泣き出しそうにしていた。

 見た目より傷が痛むのかと思って心配していると、少女はしぼり出すように言った。


 ――本当に出た、「鈴風橋のお化け」が出たんだ……! 




 そこまで訥々とつとつと語ったところで、桂太はゆっくり呼気を吐いた。

 もう一度コップへ手を伸ばし、喉を鳴らしてコーラを飲み込む。

 そのあと少し待ってから、結菜は控え目に問い掛けた。


「じゃあ吉瀬さんは、そのとき実際に自分の目で怪奇現象を見た、ということですか」


「そうです。実は女の子の言葉を聞くまで、そんな怪談が小学生のあいだで流行っていることなんか、オレはちっとも知らなかったんですけどね」


 桂太は、溜め息混じりに返答し、自分の左腕を右の手のひらでさすった。

 肘と手首の中間に一部分だけ、肌の日焼けしていないところがある。


「ただいずれにしろ、それで即座にあの日の出来事を怪奇現象だと考えたわけじゃありません。たとえ状況に不可解な要素があったにしろ、目の前で女の子が転んだだけですからね」


「ところが事件はそれだけじゃ済まなかった。……たしかそうだったよね、桂太?」


 颯馬は、会話の流れを誘導するようにたずねた。

 当時の状況を、事前に詳しく聞いているのだろう。

 桂太はうなずき、「うん、その通りだ」と応じる。



「むしろ問題はそのあとだったんです。いまだにオレ自身も信じられないのですが――どこからか突然、オレのことを呼ぶ声が聞こえてきたんです」


「……吉瀬さんを? 他の誰のことでもなく、ですか」


「その点は、まず間違いありません。なぜって、オレを名指しで呼んでいたからです」


 結菜の問い掛けに対して、桂太は苦々しく答えた。



「――『ねぇケイタ、こっち見て』……あのとき、たしかにそういう言葉が耳に入りました」



 不思議な声音が聞こえた直後――

 桂太は、転んだ少女の無事を確認しつつも、素早く周囲を見回したという。

 しかしながら橋の上には、彼と女の子以外に誰もおらず、近付くものも見て取れない。

 ただただ古びた街灯に光が宿りはじめ、薄暗い周辺を照らしているだけだったそうだ。


 それから桂太は、行き合った少女と連れ立って、石橋を渡り切った。

 別れ際に二人が遭遇した出来事について話すと、女の子はいましがた口走った「鈴風橋のお化け」のことを教えてくれた。


 昨年の夏頃から地元の子供たちのあいだでは、そういう怪異譚が話題になっている。

 自分が今晩ここで転倒してしまったのも、きっと噂のお化けの仕業しわざに違いないと思う。

 なぜなら転ぶ直前、足首が冷たい手のようなものに掴まれた感触がしたから――……。


 少女はやり取りしているあいだ、ずっとおびえた様子で顔が蒼褪あおざめていたらしい。



「おまけに女の子は、元々知っていたことの他にも、とんでもないことを教えてくれましてね……」


 桂太は、左右の手を組み合わせると、テーブルの上に両肘を付く。

 そのまま猫背気味の姿勢になり、うつむいて視線を下へ落とした。


「その子はオレが聞いたはずの不思議な声を、橋の上で聞いた覚えがないっていうんですよ」



 ほんのわずかな沈黙が生まれた。


 結菜は、ダージリンティーをまたひと口すすった。

 ちょっと考えてから、気になった点をたずねる。


「どこからか聞こえた声というのは、吉瀬さんの気のせいではないんですよね?」


「自分では聞き違いなんてことはなかった、と思っています」


「では橋の上で出会った女の子が、逆にその声を聞き逃したんだと思いますか」


「いえ、それはオレには判定できません。だけど嘘を吐く理由もないでしょう」


「その、『鈴風橋のお化け』というのは、子供たちのあいだでどの程度有名な話なんでしょうか」


「そいつは実のところオレも気になって、改めて近所に住む他の小学生に訊いてみたことがあります。たしかに陽乃丘の子供には、密かに知れ渡っている都市伝説みたいでした。狭い土地の噂ですから、まだインターネットで拡散されるほどのトピックじゃないみたいですが」


 質問される都度、桂太は律儀に回答する。


 だが次いで、にわかに何かしら躊躇するような素振りを見せた。

 その上で、決然とした口調になり、思い掛けない言葉を続ける。


「……実はオレ、あのとき不思議な声が自分にだけ聞こえて、どうして女の子には聞こえなかったのかわかる気がするんです」


「どういうことですか。何か理由に心当たりが?」


「一応あります。でもそれを理由と言っていいかはわかりません、それこそ迷信じみていますから」


 結菜が重ねて訊くと、桂太は恥じ入るように眉根を寄せた。

 最初に自分から「迷信は信用しない」と主張したにもかかわらず、それ以外に怪異を理解する手段が見当たらないせいで、苛立いらだっているようだった。


「これはかなり話が前後してしまうんですけどね。オレにとって、あの橋って凄く因縁みたいなものがある場所なんです」


「因縁みたいなもの?」と、結菜は鸚鵡返おうむがえしに確認する。

 桂太は、静かに首肯してから、おもむろに続けた。



「まだオレが高校二年生だった夏、鈴風橋では同級生の女子生徒が一人死んでいるんです。オレとは小学生時代からの幼馴染で、名取なとり香弥かやっていう名前の子でした」



 名取香弥は、内気で可愛らしい女の子だったという。

 背丈は比較的低く、ほっそりしていて、どこかはかなげな雰囲気の持ち主だったようだ。

 家庭的で、料理や裁縫さいほうが得意だった、というふうにも桂太は生前の印象を語る。


 しかし四年ほど前の夏、鈴風橋の上から川の中へ転落した。

 当時辺りには人気がなく、救助を求めることもできなかったらしい。

 そのまま溺死できししてしまい、遺体が発見されたのは翌日の朝だった。

 自殺の可能性も疑われたものの、遺書の類は発見されなかった。

 事件性も認められず、警察は事故死と断定したそうだった。



「今にして思い出してみると、あの不思議な出来事に出くわした日――」


 桂太は、やや伏し目気味な表情になって言った。


「鈴風橋で聞こえたのは、死んだ香弥の声だったんじゃないかという気がするんです。正直そんな現実離れしたことを認めたくはないんですが……。仮にそうだとしたら、あの声が自分を名指しで呼んだことも、自分だけに聞こえたことにも、それなりに因果関係が連想できると思って」


 結菜は、テーブル上のカップを両手で包み、中身の紅茶に視線を注いだ。

 薄く色付いた液面を見詰めながら、頭の中で今聞いた話を整理してみる。


 陽乃丘には「鈴風橋のお化け」と呼ばれる怪異が出現するらしい。

 怪奇現象の発生場所である鈴風橋では、四年ほど前に名取香弥という女子高生が死んだ。

 吉瀬桂太は、かつて香弥と幼馴染の関係にあり、彼女の死に怪奇現象の原因があるかもしれないと考えている――

 言い換えれば「鈴風橋のお化け」の正体こそ、死んだ名取香弥なのかもしれない。


 その可能性に気付いてしまったせいで、桂太は怪異のことが気掛かりなのだろう。

 そうして迷信嫌いにもかかわらず、颯馬を通じて結菜に相談を持ち掛けたわけだ。



「どうかな結さん、今の話を聞いてみて」


 颯馬は隣の席で、ブレンドコーヒーを啜りながら言った。


「所々判断が難しい要素もあるとは思うけど……」


 結菜は、ひとまず「そうだね……」とだけ返事してから、再び少し考え込む。


 この怪奇現象に関与するか否かについて、なぜ颯馬が「よく考えてから決めて欲しい」と言っていたのかはわかった気がする。

「鈴風橋のお化け」は、該当する場所で通行人を転倒させるという、人に害をす怪異だ。

 かてて加えて何某なにがしか、死者の未練や怨念の類から発生したものである見込みが強い。

 現状では幸いにして、遭遇した人物が死に至らしめられたような話はなさそうだが、「悪い霊」の一種に属する可能性は、否定できそうもなかった。

 それは接触が必ずしも安全とは限らない、ということを意味する。



 ……とはいえ不謹慎だが、一方でホラー漫画の題材としてはどうか。

 かなり魅力的な怪奇現象のように感じられる。都市伝説として地域色が強いため、まだWeb上では共有されていそうもないのがいい。

 現代怪異譚のひとつとして、収集する意義は大きいだろう。


 もちろん名取香弥という故人に直接関わる件なので、立ち入ることに抵抗感がなくはない。

 だが仮に怪異の正体を特定し、心霊現象を沈静化できれば、異常事態の回復に寄与したことになるのではなかろうか。

 そうすれば吉瀬桂太の苦悩にしても、きっと救われるはずだ――……



「……吉瀬さんの話を聞くうち、私も『鈴風橋のお化け』のことが気になってきちゃった」


 結菜は、自分の興味を素直に打ち明ける。

 多少の危険は承知で、「鈴風橋のお化け」の実態を突き止めてみたかった。

 それに人助けになるかもしれないなら、たぶん行動する価値はあると思う。


「それじゃ結さん、試しにこの件を詳しく調べてみる?」


「うん、そうしたい。漫画の『取材』も兼ねて、だけど」


 颯馬から確認を求められ、結菜は改めて首肯してみせる。


 すでに気持ちは固まった。

 これはひるがえってみれば、怪異と接触できるかもしれない、貴重な機会だ。

 ここからは自分の霊感と、かたわらで支えてくれる颯馬の存在が頼りだった。


「そうですか。でしたらひとつ、よろしくお願いします天城さん」


 結菜が正式に怪異の件を引き受けると、桂太は生真面目そうに頭を下げた。

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