31:テッポー

 二〇〇七年六月三〇日 土曜日

 東京都 渋谷区 MKNホール 楽屋


「おぉぉぉぉぉ!」

 とは莉徒りず。歓喜の声だ。

「ああああああああ?ええええええええ?」

 とはわたし。大パニック。やばい。

 原因はひとつ。

「こいつら、ひびきの大ファンなんだって」

 そう、わたしたちが愛してやまないソロアーティスト、早宮はやみや響さんがわたし達の目の前にいる。わたしの目の前に立っている。興奮しすぎて二度同じことを考えてしまった。

 sty-xステュクスのステージも終わり、あとはプロの方々の判断待ち、という状態になり、控室で小休止をしていたのだけれど。

「知ってまーす。涼子りょうこさんから写メ見せてもらってますよ。わぁ、生夕衣ゆいちゃんかわいい!」

 そう言って響さんはわたしに抱きついてきた。

「莉徒、わたし倒れる。嬉しさのあまり死ぬ」

 首が座っていない子供のように頭がぐらんぐらんする。正気を保っているのが奇跡かもしれない。

「生きろ!」

 先ほどまで疲れて寝てしまっていた莉徒が今はすごく元気だ。わたしは疲れではなくショックで倒れかねない。

「私が抱きついたせいで倒れられたショックでもう歌えない……」

「倒れぬ!あぁ、い、いや、じゃなくて、かかか、髪奈かみな夕衣です!」

 い、いけない、自己紹介もろくにできない女だと思われたくない。

「うん知ってる。私は早宮響。よろしくね。こっちは莉徒ちゃんね。二人とも可愛いね!」

「ふわぁ……」

 わたしに抱きついたまま莉徒にそう言って、響さんはにっこりと笑顔になった。うわぁ、流石は元アイドル。超凄くとても可愛い。

「今度夕衣ちゃんが歌うライブ、絶対行くからね!」

「あぁだめ……。嬉しすぎて死ぬかも」

 はう、と吐息が漏れる。

「せ、せめて乳を揉んでからにしろ」

 それならばもはや死んでも本望だ。いやいやそんな恐れ多いことできる訳がない。

「え?」

「響さん、その女、乳揉み癖があるので気を付けて下さい。一応名誉のために言っておきますが、ノン気です」

 やめて!何言ってるの!確かに違うとは断言できない部分は無きにしも非ずだけれども!

「えぇ、そうなの?」

「ちちちちがいます!」

 い、いやノン気なのはホントです!乳揉み癖なんて断じて……!あるかもしれないけどでも!

「何が違うかー!」

 何故この親友はわたしを貶めようとするのだろうかと言ってやろうと思ったら、響さんはおもむろにわたしの頭を抱えて、自分の胸に押し当てた。な、な、なんという、これ、なんという……。

「あわわわわわーあわー!」

 早宮響の胸!

「ちょ、なに、響、おれも!」

「涼子さんに言い付けて良いなら存分に」

「……うぅっ」

 たかさんが混ざりたいのかそんなことを言うけれど、これは今だけはわたしの物だ!

「でも私、元G'sジーズの人に要求されたら断る権利なんてないから……。涼子さんには一生黙ってます。好きにしてください」

「うわー!またじゃん!ちょお人聞き悪ぃ!」

 そう言えば響さんはThe Guardian's Blueザ ガーディアンズ ブルーの尽力によって、アイドルではなくシンガーとして活躍できるようになった。別にそれは弱みでも何でもないとは思うけれど、響さんなりにずっと感謝していることなのだろうことは何となく貴さんとのやり取りで判ってしまった。

「オレまで巻き込むんじゃねーよ!」

「ど、どうしたら……。どうしたらこうなれる……」

 響さんの胸に顔を埋めながらわたしはそう考える。どうしたら……。

「私そんなに大きい方じゃないよ」

 響さんはそんなことをこともなげに言う。確かに巨乳と呼ばれるほどの大きさではないのかもしれないけれど、均整の取れた、つまり少しスレンダーではあるけれど、とてもスタイルが良い。アイドルの頃にはグラビアもやっていたから、当時のスタイルを保っているのならば、今もってナイスバディーのはずだ。蛇足だけれど、当時のグラビア写真集はマニアの間で高値で取引されているらしい。

「や、だって良い匂いとか!」

「香水です」

 苦笑のまま言う。それは確かに言われてみればその通りなのだけれど、響さんくらいになると、こんないい匂いも体内で生成していそうな気がする。

「つーかあんた、天下の響さんに良くそんなこと話せるわね」

「パニックの成せる業です」

「今パニくってんのそれ!」

 パニくっていなかったらまともに顔も見られないです。ライブの高揚感もなんだかそのまま引きずっちゃってるし、実は今わたし自身がどんな精神状態なのか判っていない。

「ま、まぁともかく落ち着きなさいよみんな……」

 ずっと成り行きを見守っていた美奈みなさんが言って苦笑した。きっと呆れてるんだろうなぁ。

「で、でも響さんに聞いてもらってたなんて感激です!」

 やっと響さんが解放してくれたので、わたしはそう言って頭を下げた。もしかしたら響さんだけではなくて、もっと他の有名人もいたかもしれない。

「お前ってsty-xステュクスの姐さんたちと繋がりあったっけ?」

「G's Blueという繋がりがありますよ」

 りょうさんの問いに、響さんは笑顔のままで答えた。最初にこのライブに誰か有名人が来るかと訊いた時に響さんは繋がりが薄いから来ないというようなことを確か言っていたはずだ。けれど諒さんや貴さんが絡んでいるのならば、sty-xとの繋がりが薄かろうが響さんが顔を出すのは当然なのかもしれない。

「そんだけ?」

 わたしと似たようなことを思ったのか、貴さんが問い返した。

「実は千織ちおりさんには何度かお世話になってます」

「あぁそっか、そういやあったな、そういうことも」

 同じキーボーディスト同士で何か一緒に仕事をしたのだろうか。響さんほど長く音楽をやっていれば、大御所である千織さんとはどこかで出会っているのかもしれないな。

「はい。それに千織さんとの関係がなくたって挨拶に行かないなんて私の流儀に反しますから!」

「相変わらず律儀な子だなぁ」

 それだけ貴さんや諒さんに感謝の気持ちがあるっていうことなのかもしれない。大好きで尊敬するアーティストがこういう人で本当に嬉しいな。

「それにしても莉徒ちゃんは歌うまいねー。何だか聞いてて元気でてきちゃった」

「はわー!有難うございます!」

 やっぱり莉徒は凄い。響さんに褒められるなんて!諒さんや貴さんに認められる、ということも充分凄すぎることなのだけれど、響さんに言われるとその嬉しさも倍増だ。いや倍どころではない。わたしだったら卒倒するかもしれない。

「この違い……」

「黙れじじいども」

 ぶぅ、と文句を言い出した諒さんと貴さんを莉徒が一括して黙らせる。

「……」

「今度は夕衣ちゃんの生歌も絶対聞かなきゃ」

 い、う、あ、きっと多分絶対必ずまともに歌えなくなります。

「響はアレ聞いてんだろ?」

「アレ?」

Ishtar Featherイシュターフェザー

 そういえば涼子さんが響さんに横流ししたと言っていたのを思い出す。もう嬉しいやら恥ずかしいやら、訳が判りません。

「うん。聞いてますよ。今でもアイポに入ってます。実はこの間シークレットライブのアンコールでコピーしちゃった」

 ぺろ、と舌を出して響さんは照れくさそうに笑った。その二秒後、完全に血の気が引いたわたしの身体が不自然に傾いた。だめ、立っていられない。

「夕衣ー!」

 すんでのところで美奈さんに支えられて倒れるのは回避できたけれど、今のは本気で危なかった……。

「うあ、あぶないあぶない……」

「あぶないあぶないじゃねぇよ。完全に腰抜かしてんじゃん」

 わたしの体重を支えきれそうもなかった美奈さんに代わって諒さんがわたしの体を支えてソファーに座らせてくれた。

「だってあの響さんがですよ!わたしなんかの曲を、コピーだなんてぇ!」

 信じられない。わたしの曲は響さんの曲が元になっているものが多い。Ishtar Featherだって元は響さんの楽曲に憧れて創った曲だ。そんなIshtar Featherを響さんが歌ってくれただなんて。わたしは何故そのライブに行っていなかったの!それがシークレットライブだったとしても!どうにかして!

「親友がどんどん伝説化して行く」

「私なんか、なんて言っちゃだめよ夕衣ちゃん」

「で、でも」

 つん、とわたしの額を人差し指で突付いて響さんは優しく笑った。

「自分を貶めた言葉は誰も幸せにできないし、誰も幸せにならないから」

 うん、と頷いて響さんは強い笑顔に変えて言った。これは幾度も聞いてきた言葉だ。わたしは莉徒とは違って自分に自信が持てないところがいくつもある。莉徒も自身がいじけていた、という頃には良く思ったことらしいけれど、周りの何かのせいで自分を貶めるなんて勿体無い、と言っていた。貶めようとする人間はきっといくらでもいるだろうけれど、言いたい奴には言わせておけば良いのだ。そんな奴らのために自分が悩んで落ち込むことになんて何の意味もない、と。

「自分の歌を誰かに聞かせて、聞いてくれた人に何かを感じて欲しいって思うなら、そんな言い方はしちゃダメ」

「は、はい!」

 わたしと同時に貴さんまで返事をする。

「なんでお前まで……」

 苦笑して諒さんが言った。

「やぁ、何か、響もやっぱりちゃんと大人になったな、ってさ」

「受け売りです」

 へへ、とまた可愛らしく照れ笑いをする。受け売りでも何でも自分のこととして昇華できればそれはその人の言葉になる、ってわたしは信じている。だから、響さんの楽曲を基にしたIshtar Featherでも、わたしは今でも演奏するのだ。

光夜こうやだろ」

「はい……」

 そうか。樹﨑きざき光夜さんの言葉だったんだ。響さんがシンガーソングライターになったきっかけは、樹﨑光夜さんだった。だからきっと、響さんの中でも本当に大切な言葉なんだろうな。

「昔作曲合宿やった時、言ってたな、そう言えばさ」

「ずっと忘れられません。この言葉があったから私は今までやってこられたと思ってますし」

「かもな」

 そんな大切な言葉をわたしに贈ってくれた。これがどういうことなのか、わたしはしっかり受け止めないといけないんだ。

「その辺の話はおれも同じかもな」

「貴さんも?」

「あぁ。最初にThe Guardian's Blueが集まった時、素人だったのはおれと少平しょうへいだけだったんだ」

 古い雑誌で読んだことはある。貴さんや諒さんと知り合ったばかりの頃に、色々とThe Guardian's Blueのことを調べたことがある。光夜さんがバンドを立ち上げた時に、諒さんは最初からプロとしてドラムを叩いていたし、淳也じゅんやさんはインディーズ界ナンバーワン、とまで言われていたバンドに所属していた。少平さんは高校生ギタリストとしても脚光を浴びたし、事実当時の音源を聞けば、少平さんのギターセンスはとてつもないものだったとすぐに判る。

「そういやそうだったな。少平はあの時から超高校級だったけどさ、お前はセンス以外の単純な弾きの部分で言えば、社会人バンドの中ではまぁそこそこ巧い、程度だったしな」

「つって声かけてきたのはお前じゃんか。ま、実力なんざあの頃からさして変わりゃしねぇよ。考え方は全く変わったけど。それより夕衣と莉徒はまたバンド創るんだろ?」

 諒さんの言葉はとりあえず受け止めているものの、やはり光夜さんの話ともなると、話題を逸らす。でもそのうち話してくれると言うのだから、その日を待つしかない。わたしなど足元にも及ばない、立派な大人が話すことに躊躇してしまうほどの話題だ。わたし達が無理に聞き出すことはきっとできないだろうし。

「あ、はい。やりますよ。その時は私と夕衣でツインボーカルやると思うんで」

 莉徒は貴さんが逸らした話の方へ乗ることにしたようだ。

「ホント?絶っ対!行くから、ライブの日にち決まったら真っ先に教えてよね!絶対その日オフにするから!」

「や、だ、だ、だめです……」

 響さんの言葉や気持ちは本当に、とてもありがたいけれど、でも、それを響さんに聞かせるというのはまたわたしにとっては全然別の話だ。

「なんで!」

 目ん玉むき出しになっても可愛い響さんの当然の反応だろうけれど、流石に響さんにわたしの曲や生唄を聞かせる勇気は無い。

「だ、だって憧れの人がライブに来るなんて判ったらマトモに演奏できない……」

 言ったわたしの視界の隅で、莉徒がぽん、と手を打ち合わせた。

「あー、判った。諒さんもしかしてさ、さっきリハ前にただしさん達に耳打ちしてたのって、この話?」

「え?」

 そういえば確かに諒さんはリハーサル前に川北かわきた忠さんや朝見大輔あさみだいすけさんに耳打ちしていた。それはわたし達には関係のないアレコレなのかと思っていたけれど、何のことだったのだろう。

「あぁ、そうそう。響が来ることは夕衣に言うなっつっといたんだ」

「そうだったんだ」

 そ、そうだったんだ!

「初めから知ってたら多分今日マトモにはできなかったかもです……」

 それを諒さんも貴さんも判っていたということなのだろう。だから、もしもわたしの演奏を響さんが聞きにきたとしたら、やはり同じことになってしまうような気がする。

「や、夕衣なら大丈夫だと思うぜ」

 莉徒が言うところの、わたしの妙なクソ度胸は確かに認めるところだけれど、目の前に憧れのミュージシャンがいたとしたら、そんなものなど絶対に吹き飛んでしまう。莉徒は知らないだけだ。わたしは緊張して緊張して演奏を駄目にしてしまったことは何度もある。だからけいちゃんと組んだ時も、これから組む紗枝さえちゃんのことも、どうにかできるのなら、どうにか力になりたいって思っていた。

「わ、判らないじゃないですか」

「で、判んないから夕衣の歌を本当に聴きたがってる人を遠ざける?」

「うぅ……」

 それを言われるとわたしも辛い。

 きっと本当に聞かせたい人、聞いて欲しい人からプレッシャーを感じるのは、恐らく弾き手としては良いことなのだと思う。緊張感を保てない演奏者の演奏なんて聴く気にはなれないし。

 莉徒の凄いところは、その緊張感やプレッシャーを受け入れてもなお、ステージで笑顔になれるところだ。

「ハラ決めろ、夕衣」

「夕衣ちゃんが私に聞かせたくないって思ってるんだったら、しょうがないよ……」

 た、たぶんこれは響さんの演技だ。意外だったけれど、こんなに明るくて楽しい人だったとは知らなかった。だから、これもノリでやっているのは何となく判るのだけれど、何せ相手はあの早宮響さんだ。

「ちちちちちがいます!だ、だってわたしの曲なん、わたしの曲、響さんの曲のオマージュっぽいのも多いし……。ウソです!パクりも多いです!」

 もう言ってしまおう。どうせ響さんはIshtar Featherを聞いてしまっているんだ。今更嘘をついたって始まらない。

「そんなもん当たり前だろ。まだ十九だぜ」

「十九で早宮響を超える曲創ってたらビビるわ」

 貴さんと諒さんが口々に言う。ひ、他人事だと思っていませんか。

「私にコピーまでさせといて……」

「そらそうだ。夕衣の曲は響のオマージュとかパクリがあるかもしれないが、響は夕衣のコピーしちゃってんだからな」

「おー、そうだ。超えるどころか、響にマネまでさせちまったのか」

「そうよ。夕衣ちゃんが聞かせてくれないんなら、わたしだってもう夕衣ちゃんには聞かせてあげないんだから!」

 え、意味は全く判らないけれどそれは困る。非常に困る。わたしの人生のきっと半分以上は早宮響でできているくらいなのに。こうなったらもう自棄だ。

「……わ、わかりました!憧れの人だろうと何だろうとやったります!かかってこいです!」

 半ば自棄になりつつわたしはそう断言する。きっと自分でも顔が真っ赤なのだろうことが判るくらい恥ずかしい。それにきっともしも次にやるとしたらMedbメイヴだ。頼もしい相棒だって一緒だ。きっと莉徒だってかかってこい、って思ってるに違いないから。

「それでこそ私の親友」

 ほら。そう言って莉徒はわたしに抱きついてきた。

「大体もうプロのステージ経験しちゃってんだからなぁ、何を今更、だよ」

 苦笑しつつ諒さんが呆れたように言った。

「そうだよ夕衣ちゃん。私のことそんなに敬ってくれるの、本当に嬉しいけれど、貴さんも諒さんもsty-xの皆さんも私から見たって神様みたいな雲の上の存在なんだよ」

「そ、そっか」

 そういう人達と同じステージどころか、一緒にバンドまで組んでしまったのだから。あまり自覚はしていなかったけれど、わたしたちって実はとんでもないことをやらかしちゃったんだ。

「プロもアマも一緒だけどさ、夕衣、おれ達はお客さんを選べないんだぜ」

「はい。ハラ決めました!わたしはプロじゃないですけど、でも貴さんや諒さんの家族です」

「良く言った!」

 ぱん、とソファーに半分横たわっているわたしのお尻を叩いて諒さんが豪快に笑った。わたし達のようなちっぽけな人間の力でも、こんな凄い人達を笑顔にできるんだ、と改めて判った気がする。わたしは恐らく、自分の見積もりはある程度正しくできていると思う。それに音楽の持つ力も良く知っている。きっと現代人が唯一使える魔法の力だ。その魔法の力があれば、魔法の力を正しく使えれば、どんな人だって笑顔にできる。わたしはそれを再認識した。

「おぉーし、んじゃお前らガキどもが滅多に食えねぇような焼肉に連れてってやる!打ち上げだ!」

 肉!ニク!やきにく!

「やったー!」

 わたしたちのようなコムスメだけではまださすがに格安の焼肉屋以外は入れないし、入ったこともない。焼肉屋ではないけれど、赤提灯をぶら下げたお店や、炉端焼きを謳っているお店も入ったことがない。でも時々お父さんが連れて行ってくれることもあるので、ある程度は知ってるのよ!

「ハツ!カシラ!ハラミ!テッポー!」

「ホルモンじゃねーし……」

 え?


 打ち上げが終わり、諒さんと貴さんが会計後の請求額を見て泣きそうになっていたのを尻目に、わたしたちは帰路についた。どのみち経費で落とせるからあまり気にしないでいいわよ、と美奈さんに言われたけれど、それでも株式会社GRAMの出費であることには変わらないのでは……。とも思ったのだけれど、そこはわたしが心配しても始まらない。それに色々と後処理もあるということだったので、わたしたちはEDITIONエディションまで送ってもらって後は徒歩だ。楽器はまた後から届けてくれるというVIP待遇。美奈さんの車も含め、わたしと莉徒、英介えいすけ美朝みあさちゃん、はっちゃんが車に乗せてもらった。打ち上げはそれこそ、美朝ちゃん、紗枝ちゃん、彩霞あやかさん、すーちゃん、英里えりちゃん、小材こざいさん、三澄みすみさん、瑞原みずはら君、さつきちゃん、圭ちゃん、シズ君、伊口いぐち君、山雀やまがらさん、瑞葉みずはちゃん、風野かざの君、」十五谺いさかちゃん、相田あいだ君、香憐かれんさん、涼子さん、夕香ゆうかさん、それに響さんと、とにかく大勢来てくれたのだけれど。

「あんなおいしい焼き肉初めて食べたー」

 心地良い疲労感と共にわたしは言った。極上という言葉は、ああいう焼き肉に使う言葉だったんだ。まだ二十歳にもなっていないコムスメがあんな贅沢品、知っちゃって良かったのか、考えると少し怖い。

「私もー。でももうしばらく肉はいいやー」

「莉徒すごい食べてたもんね」

 ぽんとお腹を叩きながら莉徒が言うと、美朝ちゃんもお腹をさすりながら言った。そう言う美朝ちゃんも凄く食べてた気がする。きっと、今測ったら胸よりお腹の方が出ているに違いない……。わたしと莉徒は。

「俺は夕衣莉徒アサの合計分は食った!」

 確かにこっちの食欲がなくなるくらいの食べっぷりだった。

「食いすぎ、って怒られてたじゃないの」

「怒られるくらいだったら食うさ。肉という肉を!」

 英介は高校時代から節約に節約を重ねて大学進学の貯金をしていたりしたので、人に奢ってもらえるとなると遠慮がない、言ってしまえばちょっと意地汚いところがある。今日はずっと目上の人がご馳走してくれると言うので、歯止めが利かなくなっていたような気もする。

「さて、次はMedbメイヴだね」

 話題を切り替えて莉徒は言う。わたしもそうだけれど、莉徒はMedbがスタートするのを心待ちにしている。

「うん。初心者ですけど宜しくお願いします」

 ぺこり、と美朝ちゃんが頭を下げる。勘違いしてもらっては困る。美朝ちゃんが初心者で組む相手がいないだろうからMedbをやる訳ではない。だから言ってあげる。

「こちらこそだよね、莉徒」

「んだね。私らが誘ったようなもんだしね。逆に付き合ってくれてありがと、ってなもんなんだけど」

 笑顔で莉徒は言った。Ishtarの時がそうだったのだけれど、莉徒はきっと誰にもメンバーに気兼ねしたくないし、遠慮もしたくないんだ。それはわたしも同じ。決してまだ巧く緊張がほぐれない紗枝ちゃんや、初心者の美朝ちゃんの面倒を見るために組むバンドではない。

「あはは、そっか。でも私、バンド組むの初めてだし、凄い楽しみだから」

「わたしだっておんなじだよ」

 勝手が判らない点での宜しくお願いします、なら私も大歓迎だ。

「とにかく最初は紗枝がリラックスして叩けるような環境を作らなきゃね」

「うん」

 ストレスフリーではバンドはできない。でもできるだけストレスを溜めないように色々な案を出して、色々な行動をするのは、バンド力を高める事につながるはずだ。

「学校も同じなんだし、いっぱい遊びに行こうよ」

「だね」

 美朝ちゃんが嬉しそうに言って、私が頷く。

「私学校違うけど一緒に遊んでくれますか……」

 一段と低い声ではっちゃんがそんなことを言う。そうだった、はっちゃんは学校が違うんだった。

「あ、当たり前じゃないの!」

「そうだよ!わたしはコレになるまではっちゃんを手放さないわ!」

 がし、とはっちゃんの胸を掴んでわたしは言った。

「じゃあ一生じゃねーか」

「!」

 ぼそりと言った英介を睨みつける。

「ま、夕衣がそう言うなら一生付き合ってあげようじゃないの」

 はっ!今は英介の茶々に付き合ってる場合じゃないわ!

「えぅ?わーいヤッター」

 更にはっちゃんの胸に顔をうずめようとしたけれど引き剥がされた。

「やーしっかしガチのプロって怖いわー」

 ふぃー、と短く嘆息して莉徒は言った。確かにアレは二度とできない経験かもしれない。男の人と本気でぶつかり合うなんて、音楽以外では中々できないような気がする。

「あぁ、最後の曲のアウトロか」

「あれ、見てて判った?」

 英介の言葉に莉徒がそう返す。傍から見ていても判るくらいだったんだ。

「おー。まぁ多分バンド者にしか判んねぇと思うけど、お前貴さんに喧嘩売ったろ」

「や、なんか本気の諒さんに余裕ぶっこいてたのがちょっとムカついたのよ。お前も本気で潰しに来いよ!って思っちゃった」

 凄かった。貴さんに中指立てるなんて、普段では絶対……いや、莉徒ならするか。でも演奏中だったら普段は莉徒だってできないと思う。

「わたしは食われてたかなぁ」

「や、そんなことなかったわよ。今度からあいつらとバンドするのよ私、ってちょっと誇らしかったわ」

 はっちゃんが嬉しいことを言ってくれる。自信はないけれど、あの時わたしは精一杯だった。精一杯ギターを弾くという感覚を、初めて味わった気がする。わたしの曲はアップテンポのものは少ないし、弾き語りが基本だからあんな風に我武者羅にギターを弾くことなどまずない。でも、大事なことなんだ、って判った。それがきっとはっちゃんには伝わったんだ。

「はー、ありがたいね」

「んだね。二十谺も英介も美朝も、もし次何かあってあの人達と組む機会があったら、絶対遠慮しちゃだめよ」

 今回は本当に良い経験だった。練習もキツくてボロカスに言われることを覚悟していたけれど、あの二人はわたし達を褒めて伸ばしてくれた。それはプロでやって行くこととは違うことだとは思うけれど、それでもわたしはこの数ヶ月で凄くステップアップできたんじゃないかって思う。だから、美朝ちゃんもはっちゃんも英介も、もしもこんな機会が訪れたら、萎縮なんてしないで精一杯の自分をぶつけてほしい。そうすれば、きっと色々判ることがあると思う。

「まぁ私はないでしょ、ベースだし」

「や、でも貴さんって何でも楽器やるぜ」

 鍵盤はできないらしいけれど、ギターもドラムもできるそうだ。出演するステージによるかもしれないけれど、はっちゃんと組めると判ったら、貴さんはすんなりギターを弾きそうな気がする。それに今日初めて会ったけれど、忠さんや大輔さんも一緒に混ざりたいって言いそうな気がする。

「そうだね。はっちゃんと組めるならおれギターやるわー、とか言いそう」

「言いそう言いそう」

「でもあんな凄ぇ人達が良く俺らのこと構ってくれるよな」

「まぁそこはきっと運が良かったんだろうね」

「運?」

 莉徒の言葉に美朝ちゃんが首をかしげた。わたしは、少し判る。でもその運はきっと大げさに言ってしまえば必然であって、運命だったんだと思う。だからその、運命の運だ。

「だってさ、いろいろ言ったらきりないけど、まずはあの人達がこの街に住んでて、喫茶店と楽器屋、スタジオをやってたことでしょ、次に瑞葉が貴さんの従妹だったこと、それに私らがバンドをやってて、こうして出会えたこと、まぁ、自分で言うのも寒いけど、学生なりに、真剣にバンドに向き合ってること」

 色んな偶然が重なって今わたしたちを取り巻く環境ができている。それは誰の、どんな環境でも一緒だけれど。何か一つボタンを掛け違えれば、掛け違えたなりの環境が、様々な状況と運で出来上がる。

「最後のは私らのパーソナリティなところもあるけど、確かに凄い運だよね」

 でもわたし達が真剣に、学生なりにだけれど、真剣に音楽に向き合っていなければ、きっと諒さんや貴さんはわたし達にこんな依頼はしてこなかったはずだ。自分達の行動が引き入れた運、というのもきっとあるんだと思う。

史織しおりがsty-xのギタリストだったってことも含めてね」

「確かに」

「こんな幸運が続いて、いっぱい素敵な人に出会えて、楽しく音楽ができて、その環境も凄く恵まれてるんだよね」

 史織さんとも一緒にバンドができた。圭ちゃんやさつきちゃん。変わっているけれど、とても面白い子達と知り合えた。彩霞さんと紗枝ちゃんにも出会えた。美朝ちゃんは音楽を始めて、今まで以上に仲良くなれた。それに小材さんや瑞原君、三澄さんともまだ少しだけれど仲良くなれた。

「そ。だからさ、やっぱ大事にしていかないとね」

 本当に莉徒の言う通りだ。

「俺さ、思うんだけど、もし音楽やってなかったら、とか」

「私もそれ、たまに考える」

「どういうこと?」

 英介が言って、莉徒が頷く。もしもやたらればの話はしていても不毛なだけだとは思うけれど。

「俺はこの先、って話なんだけどさ、多分俺はこの先ずっと楽器弾けなくなるまでギターはやっていくと思うんだ。けど、もしそうじゃなかったらってな」

「仕事して、定年になった時とかだよね」

 あ、なるほど。でもそれならば悩みとかそう言う話ではないはず。

「そ。仕事がなくなった時、俺、何も残ってねぇ、ってなりたくねんだよな」

 ふと気付いて、仕事以外に何もない人生だったな、と思いたくない。きっとそれは誰もが思っていることかもしれない。

「それはあるかも。私さ、もし史織にsty-x復活の話が来なかったら、史織ってそうなっててもおかしくなかったんじゃないかって思うんだ。私が学校行ってる時とか、私に隠れてギター弾いてたんだって。それ聞いたらもうなんか、絶対史織の力になりたいって思っちゃってさ」

 わたしもその話を聞いた時は身につまされる思いだった。わたしのお母さんは史織さんのような隠していた趣味はないけれど、わたしは好き勝手に音楽をやらせてもらって、もしかしたらお母さんも羨ましい、とかどこかで思っているのかもしれないと。

「なるほどなぁ」

「あんなギターの腕があってさ、でも私や逢太には内緒にしてて、弾く機会もなくて、ずっと燻ってるのも判らないで、私や逢太は好き勝手にライブしてたりさ、ホントはずっとバンド組んだりライブしたりしたかったはずなんだよね」

「あの生き生きした姿見ると、まぁ確かにそうね」

 はっちゃんが言う。はっちゃんは|Phoeni-x(フィニクス)のライブも見ているから、史織さんがどれだけギターを楽しそうに弾いていたかを良く知っている。

「でもずーっと私たちの母親であり続けたんだよ。もしもsty-x復活の話がなかったり、復活の話が二代目のギタリストに行ってたとしたら、史織はずっと何もないただの主婦のまんまだったんだよね」

 ぶるる、と身が震えた。

「そう考えると恐ろしいな。そら確かに史織さんの善意なのかもしんないけどさ、仮にそれを親の死に目で知ったとしたら、一生後悔するよな……」

 どうせならば一生隠しておいてほしいことだけれど、知らないままばかみたいに笑っているのも嫌だ。史織さんはもしも復帰できなかったとしたら、一生莉徒にはsty-xのギタリストだったことを隠し通したと思う。でもそれは知ってしまった今だから言えることだけれど、莉徒はそれでは絶対納得しないだろうな。矛盾した話だけれど。

「そうだね……」

「だからさ、やりたいことなんてできることだけじゃん。カンタンな話でさ、だから、これは史織にも言えることなんだけど、やりたいことはちゃんとやろうよ、って思うよ」

「だなぁ」

 でもそれもなかなかできない人だっている。わたし達にはその理由は知り得ないけれど、本人にしてみればそれはとても大きな理由で、簡単には瓦解しない問題なのだ。美朝ちゃんだってキーボードを始めたけれど、きっと一大決心だったはずだもの。

「そうすれば年喰って、働けなくなったとしても、年金で細々と毎日暮らすだけ、なんてことなくなるって」

 確かに無趣味で、時折年金が出たら孫にお小遣いを上げるだけのおばあちゃんにはなりたくないかな。そういう人が悪いって言う訳ではないけれど、わたしはおばあちゃんになったってギターを弾きたいし、歌いたい。

「まぁ年金貰えっかも判んねぇけどな」

「え!そうなの!」

 莉徒がまさかの声を上げる。もう随分と前から大きな問題として取沙汰されているのに……。

「お前、ニュースくれぇ見ろよ……」

「見てるわよ!」

 たまたまついていたテレビがニュースだっただけでは、ニュースを見ているということにはなりませんよ、柚机ゆずきさん。

「嘘つけ。だから胸がでっかくならねんだ」

 きゅぴぃーばりばりばり。

「キャストオフ」

「ハイパーキャストオフ」

「ハイパークロックアップ」

 わたし、莉徒、美朝ちゃんまでもが腰のベルトの辺りに手を当ててそう呟いた。

「えっ嘘だろ!……いって、いってぇ!」

 でも蹴ったのは莉徒とわたしだけ。さすがに美朝ちゃんには英介を容赦なく蹴り飛ばすのはまだ無理だったみたい。

「ま、まぁ樋村が悪いわね」

 ぷくく、と笑いをこらえながらはっちゃんが言った。

「いいなぁはっちゃんは余裕で」

 ぺた、と自分の胸を触ってわたしは言う。一九歳でこの大きさだともう本当に、絶対必ず、このままなのかしら。

「ま、まぁ、夕衣が宮野木みやのぎくらいになってくれれば、悔いはない……」

「そんなに悔いてるの!」

 比べる次元が違いすぎやしないですか。せめて紗枝ちゃ……美朝ちゃんで!美朝ちゃんの大きさで!

「や、嘘。これはこれでいいよなぁ」

「え、何、触ったの!」

 ば、とわたしは自分の胸を両腕で隠すようなしぐさをしてしまった。ま、まさか寝ている隙に触っただとかそんなことだろうか。いや待ってわたしは英介の前で居眠りなんてしたことない。それに多分だけど、英介は寝込みを襲うようなことはしない。……気がする。

「まぁこれと同等の物なら……」

「……あぁ」

 わたしは英介の言ったことをすぐに理解した。

「……それ私じゃないの!」

 ややあって莉徒が大声を上げた。莉徒も胸を隠すような仕草で、顔を真っ赤にしている。いつもの莉徒らしくなくてちょっと面白い。あぁこれを面白いと思ってしまうあたり、わたしも成長したなぁ、と何だか変な実感をしてしまう。

「うむ。中々良いぞ」

「ばっ!ばっかじゃないの!こいつ!まじで!ばっかじゃないの!」

 おぉ、取り乱してる。元彼女なんだから当たり前のことだとは思うけれど、莉徒から色々と話を聞いて慣れてしまっているのはわたしだけなのかな。

「お、おぉ!そ、そんな昔の話で怒るんじゃねぇよ!」

 英介もわたしと同じ感覚だったのだろうか。何となく莉徒もそう言う話で照れることがあるのは意外だなぁ。少し莉徒のことを誤解していた部分もあったかもしれないな。

「何あんたほっとしてんの?」

「え、や、やぁ、これじゃヤなのかと思ってたから……」

 委細説明する訳にもいかず、わたしは自分の胸を押さえっぱなしだったので慌ててはっちゃんにそう言い訳をする。本当のことではあったけれども。

「ヤだなんて一言も言ってねーだろうが!」

 確かに言ってはいないけれど、英介は大きい胸が好きだ。まったく失礼な男だ。

「ま、男は揉めりゃなんだっていいのよね」

「そこに乳があれば揉むさ」

 それが男!と胸を張って言うけれど、そんなにえばって言うことではない。

「揉んでも良い人と時と場所、選んでね……。ホント、犯罪者になったらさすがに付き合えないから……」

 世の男の人がみんなそうだとは思いたくはないけれど、貴さんも諒さんも、そう言えばシズ君も、胸の話となるとみんな目を輝かせていたような気がする。

「そこまでじゃねーよ!」

 目玉をひん剥いて、という表現が正しい、といった表情で英介は反論するけれど、わたしだって本気でそうは思っていない。こんなだけれど、英介はちゃんとしてる。というフォローも中々失礼かもしれないかな。

「まぁそれも終わりじゃん。何?明日?」

「何が?」

 終わり?明日?

「明日夕衣のロストバージン?」

 それか!い、いや覚悟はしていたことではあったけれど、ライブ終わったばっかりだから失念していました。というか、そんなことをみんなの前で……。

「……」

 携帯電話を操作して、着メロを流す。ピコ、プゥゥゥンという音の後に『EXCEED CHARGEエクシード チャージ』という合成音声。

「えー!何その着メロ!どこで手に入れいぃぎゃあー!!」

 直後わたしは喋っている途中の莉徒の胸を鷲掴んで、捻り上げる。久々に決まった。我が剣聖技、クリムゾンブレストツイスター。

「たまに莉徒ってホントに同じ女なのかな、って疑うほどデリカシーないよね……」

 美朝ちゃんが呆れて莉徒に言う。全く持って美朝ちゃんの言う通りだ。わたしは同意の意を込めて、うんうんと頷いた。

「ま、まぁこの件に関しては、かなり英介の味方だし……」

 ずれたのであろうブラジャーの位置をTシャツの上からせっせと直しながら莉徒が言う。

「……」

「それを言われると夕衣もキツイね」

 た、確かに。

「別にライブ終わったんだから早くヤらせろなんて言わねぇよ」

 英介が苦笑してそう言ってくれたけれど、正直今こうなってしまっては英介の問題ではない。わたしの覚悟の問題だ。

「だってよ、夕衣」

「うぅ……」

「でも言わないとずっとできないわよ」

 う、莉徒め。でも確かに莉徒の言う通りかもしれない。だってわたしからして、なんて絶対言えないし。

「まぁそらしゃーない。惚気に聞こえっかもだけどさ、惚れたら負けですわ」

 小さく、じゃあ私の時は何だったのよ、と莉徒が呟いたけれど、とりあえず無視。

「だってよ、夕衣」

「うぅううう!」

 それにしてもこんな話、みんなですることだろうか。何も反論できないのが悔しい。

「でもそれ気持ちが続く限りは、って縛りつくよね」

「そら別にヤるヤれねぇ抜きにしても同じだろうよ」

 でも、だって、だからって……。

「だってよ、夕衣」

「ヤれないままなのが続いたらまぁ限界来るのは早いよね」

「まぁそら互いの確認ってのもできないしな」

「だっ」

 だってよ、と言いかけたはっちゃんの言葉を遮って、わたしはそのまま仰向けに寝転がった。こうなったらもう自棄だ。そうでもしないときっとこのまま決心がつかない気がする。

「うぅ判ったわよ!もうお持ち帰りでも拉致でもなんでも好きにしろぉー!」

「ゆ、夕衣ちゃん」

 あわわ、と美朝ちゃんが駆け寄ってくれたけれど、もうわたしはここから動かないわ!

「良く言った!んじゃ私らはこれで。あとは宜しくねん」

 ぐるりといきなり私に背を向けて莉徒が言った。はっちゃんもすぐ横で手を振っている。

「えっな、なんで?」

「え!あんた私らに見られながらがご希望?」

「冗談じゃねー!さっさと帰れ!」

 わぁ、と英介が喚く。あぁ、喚くってこういうことなんだ。喚くのお手本。樋村ひむら英介。あぁもう、考えていることが支離滅裂だわ。

「言われなくてもね」

「うあ、あ、ちょ……」

「んじゃ明日ねーん。ふひっ」

 言って莉徒、はっちゃん、美朝ちゃんまでもがさっさと私から離れて行く。い、いや、なんか急にそんな、あれ、わたしもうこれで英介にお持ち帰り……。いや半ば自棄とは言えわたし自身が決めたことだ。英介に半年以上も我慢させて、どこかでわたしだってわたし自身に何様だ、と思っていたところはある。英介からの愛情を盲信して、胡坐をかいていた部分だってある。そんなものがいつまで続くか判らないことだって判っていた。

「ほら立て。拉致もお持ち帰りもしねーから安心しろ」

 あ、あれ。

「い、いいよ……。お持ち帰られるよ」

 いい加減わたしだって、与えられるだけで何もできない女なんて嫌だ。

「何意地んなってんだよ。ちゃんと送ってってやっから」

「わ」

 そう言いながら英介はわたしを抱え上げた。いわゆるお姫様抱っこだ。うわ、は、恥ずかしい。

「英介んち行く!」

「子供か」

 英介が苦笑する。

「子供だよ!だけど英介の彼女なんだから!」

 もうこうなったら見栄も恥も外聞もない。

「ふーん……」

 と思ったらわたしの脇に回した腕をさらにぐい、と延ばして、英介はわたしの胸を触った。

「え、やっ、あっ!」

 全身に電流が走ったような感覚に、体が飛び跳ねるように揺れた。異性に触られたことがなかったからびっくりした。莉徒やはっちゃんには何度も触られたことはあったけれど、全然感覚が違った。

「今俺んち行ったらこれよかもっとすんげぇことすっけど、いいのか?」

 にやり、といやらしいのか悪いのか、とにかく笑顔になって英介は言う。そ、それはつまり結局のところそうなる訳なんだから。

「……い、いいよ!」

「だめだ」

 え。

「なんで?」

 英介の即答に面食らってしまった。今まで冗談交じりとは言え、いつもわたしとしたい、って言っていたのに。

「お前今日、すっげぇ頑張ったよな」

「うん……」

 歩きながら英介は言う。私は恐らく十九歳女性の平均体重をかなり下回っているとはいえ、人ひとり分の体重はちゃんとある。重くないのかな。

早宮はやみや響にも会って、すっげぇ緊張したよな」

「うん」

 まさか憧れの響さんに出会えて、会話までできるなんて夢にも思っていなかった。

「もう正直、歩くのも辛いくらいくったくただよな」

「……う、うん」

 そ、そうか。でも、またわたしは英介に優しくされるだけなのかな。そういうの、もう本当に終わりにしないとだめなんじゃないのかな。

「今のお前は普通じゃねんだよ。お前が初めてじゃなかったら、疲れてる時のが実は気持ちいんだってよ、ぐっへっへとか言ってお持ち帰るけれども」

 冗談めかして言ってはいるけれど、きっと今は茶化せない。だって目が真剣だ。

「そういう、普通の状態じゃねぇ、それも疲労マックスの時になんてお前の大事な初めて、もらえねぇだろ」

「……」

 そっか。

「しかもお前、仮にだぜ、今日無理にして途中でお前が寝ちゃったとしたら、台無しじゃね?」

「……でも、だけど」

 変に自棄になっている時とか、精神状態が不安定な時にはしたくない、っていうことなんだ。わたしにとって、英介とエッチすることは凄く重要なことだし大切なことだけれど、英介にとっては何でもない、というより、ただ気持ち良いことをしたいだけだとか、軽いことなんだと思い込みすぎていたのかもしれない。

「あんなにしたがってたのになんでそんなあっさり引き下がるか、か?」

 英介も判っちゃってるんだ。

「したくない?」

 判っていながら訊いてしまった。わたしも流石に意地悪な質問だと思ったけれど、でも、ちゃんと、明確に、言葉で欲しかった。

「超したい。法的に許されなくても、お前が今イイ、つってくれんなら、ホントは押し倒したいくらい、超したい」

「……でしょ。だから、いいよって言ってるのに」

 でもそれをしないのが、わたしの彼氏、樋村英介なんだ。昔はしたのかもしれないけれど、でも今の、わたしの彼氏である、英介はそんなことしない。

「好きだから超してぇけど、やっぱ好きだから、超我慢する」

「……」

 返事の代わりに、思い切って英介に顔を寄せる。お姫様抱っこのせいで、それ以上無理だったけれど、英介がちゃんと気づいてくれて、キスをしてくれた。

「……帰るぞ」

 夜道でも判るくらい赤面して、英介は照れ臭そうに言った。

「……うん」

 じゃああとほんの少しだけお預けね。本当に、ほんのちょっとだけ。


 31:テッポー 終り

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