29:カルボナーラ

 二〇〇七年六月三〇日 土曜日

 東京都 渋谷区 MKNホール


「お、いいじゃんいいじゃん!」

 ばん、と衣裳部屋の扉を開けて登場したのは香織かおりさんだった。莉徒りずはもう大体の衣装を決めていたけれど、今わたしは殆ど下着姿と変わらなかったので、思わず悲鳴を上げそうになってしまった。

「あ、か、香織さん。リハ終わったんですか?」

 廊下はかなりの数の人が往来している。こんな下着姿も同然の格好を誰にも見られなかったのは運が良かった。

「終わったよー。今他の連中が史織しおり千織ちおりを外に連れ出してるとこ」

 なるほど。計画は手筈通りという訳だ。

「おぉ、じゃあ私らもリハ入っても大丈夫ですかね」

「もう少し待った方がいいわね。ま、衣装決めんのもまだもうちょい時間かかるでしょ」

 わたしの姿を見て香織さんがウィンクした。

「ですね。本番、宜しくお願いします!」

 ほとんど下着姿のままで失礼だったかもしれないけれど、今言っておかなければ言う機会がないかもしれないと思って、私は思い切って頭を下げた。

「何言ってんのよ、こっちがお願いしてんのよ。こっちこそ、宜しくお願いします」

 そう柔らかく笑って、香織さんはわたし達に頭を下げた。

「や、ちょ、そんな!」

「何よ、大御所はアタマ下げないとでも持ってんの?」

 好きで大御所なんて呼ばれてる訳じゃないけどさ、と憮然として香織さんが言う。出会ったばかりでまだ判らないけれど、きっと香織さんもたかさんやりょうさんと同じように礼節を重んじるところではしっかり重んじる人なのだろう。だから諒さんたちと香織さんたちが出会ってから十何年経った今でも、諒さんも貴さんも可愛がられているのではないだろうか。

「や、そ、そうじゃなくて!」

「いついかなる時も礼節は軽んじるべからず、よ。一緒にやってくれるのがあんたらみたいな子でほんとに良かったわ」

「香織さん……」

 ふわぁ、カッコイイ。わたしはちょっとなれそうもないけれど、これはきっと莉徒の目指す道だ。頑張れ莉徒。夕香ゆうかさんと香織さんを超えるほどのいい女になるんだ!超ハードル高そうだけれども、わたしのハードルだって負けず劣らず高すぎる。

「お、姐さんのカッコ良さに惚れたか?」

「わ、わたしノン気なので……」

 くい、と人差し指に私の顎を乗せて、香織さんは目を細めた。ま、まさか今まで出会うことのなかった、ホンキのホンモノのアレか……。

「それは残念ねぇ。コッチ側の子なら得も言われぬ快楽に溺れさせてあげたのに……」

「ひ、え」

 ふぅ、と耳に息を吹きかけて香織さんはいやに艶っぽい声で言った。艶っぽい声って今まで良く判っていなかったけれど、今学んだ。これが艶っぽい声だ。間違いない。多分きっと絶対。

「ええええええええ!」

 とんとんとん、と三歩わたしから離れてから、莉徒が頓狂な声を上げた。

「うるさいわね冗談に決まってんでしょ」

「ほ、ほんとですか……?」

 それにしてはもの凄く本気っぽかったけれど、ついに本物に出会ったのか、とビビるくらいに。

「結婚して子供もいるんだけど、アタシ」

「あ、あぁそっか」

 苦笑しつつ香織さんは言うけれど、油断はできないわ。

「や、待って莉徒!バイと言う可能性も……」

「ねーよ」

「いたっ」

 ぼす、とわたしの頭に軽くチョップして香織さんは笑った。

「面白いわねあんた達。後で携番教えなさいよ。今度呑みに行きましょ」

「え、い、いんですか!」

 これは意外や意外。まさかsty-xステュクスの香織さんと呑みに行くことになろうとは。

「何よ、アタシだって若い友達が欲しいのよ」

 チョップの手から平手に変えて、その手が二度、私の頭の上で跳ねた。

「こ、こちらこそ是非!」

「おっけー、んじゃ後でねん」

 部屋を出て行くときに香織さんがドアを開けた瞬間、偶然すぐ外にいた貴さんの視線が飛び込んできた。貴さんは驚いてわぁー!と言ったけれど、視線を逸らすどころかわたしの全身をなめまわすように、いやきっとそんな時間は実際僅か数秒もなかったと思うけれども、ともかくなんだ、見られた。

「きゃあー!」


「広い!」

 リハーサルの為にステージに上がってまず思った。わたしと莉徒はほぼ同時に声を上げていた。

 MKNホールってこんなにステージ広いんだ!とてつもなく広い。客席の一番遠いところが凄く遠い(?)。すごい、こんなに広いステージでなんてライブしたことない。さすがにマックス三六〇〇人収容可能なホールは違うなぁ。

 ここにお客さんがたくさんいることを想像するとなんだか緊張してくる。

「やー、眼福でしたなぁ……」

 貴さんが呟くように言った。その顔はどこかニヤけている。

 折角の心地良い緊張感もぶち壊しですよ。

「ちょ、貴さん!」

「まさか夕衣ゆいさんのあられもない姿を目にする日が来ようとは……」

 生きてて良かった……。とまで言う始末。確かにあられもない姿ではあったけれど、裸を見られたという訳でもない。そう、水着姿を見られたのだとでも思えば良いんだ。下着姿も水着姿も女のわたしからしてみれば大差ない。ただ、下着姿は見られたくない。

 矛盾はしていない。断じて!

涼子りょうこさんに言い付けますからね!」

「なんで!事故じゃん!」

 足元のコンプレッサーのつまみをいじっていた貴さんが顔を上げた。別に覗いた訳でもないし、貴さんが悪い訳ではないけれど、眼福だなんて言うからです。

「事故でも何でも見られたことには変わりません!」

「眼福だと言っておろうが……」

「そう言う問題じゃなくて!」

 それは確かに、汚物を見てしまったと言われるよりも、眼福だったと言われた方が女としては断然良いけれど、それを貴さんに言われることが問題なの!

「あれを英介えいすけが堪能する前にやっぱりあいつは抹殺すべきか……」

 物騒なことを。というか、そうか、そういう考え方か……。

 ライブ終わったらわたし、英介の物になっちゃうのか……。

 はっ!

「……だ、だからって貴さんの物にはなりませんから!」

 例え英介が抹殺されても。

「え!なんないの!」

「ならないでしょ……」

 なる訳がないでしょうよ。

「そもそもドアの向こうは廊下。人の往来は当たり前。なのにあんなとこであんな姿だった夕衣さんもいけないと水沢みずさわ君は思います!」

「そ、それは……」

 確かにわたしはかなりドアに近い位置で色々と打ち合わせをしていた。香織さんが入ってきたときも、人の往来が多かったことは確認している。ドア一枚隔てた向こうは廊下だと、確かに判っていた。

「それになぁ、可愛い女の子のあんな姿、どんなに好きな人がいても、彼女がいても、奥さんがいても、見てしまうのは男のサガ!や、もう習性!お腹がすいたら腹が鳴る、という人間の習性を、夕衣さんは悪だと責めるつもりですか!」

 かちゃかちゃと機材をいじりながら、ずっと下を向いたままだけど貴さんが声を大きくした。

「や、そこは違います」

 完全に違うかどうかは実は女のわたしには判りかねるけれども。でもそうした、いわゆる男の言い訳的なことって、本当に事実実態に基づいているのかしら。

「違うかー」

 あっさり私の言葉を肯定した。いやもう貴さんのことだから、きっとどっちでも、何でも良いんだろうな。

「ま、まぁ裸を見られた訳ではないですから、もう仕方がないと諦めますが!」

「これが、英介に……」

 じろり、とわたしのどこかを見て貴さんが呟く。

「そ、そういう言い方やめて下さい!」

 どんな風なのか想像もつかないのに。このライブが終わったら、わたしだって覚悟を決めなきゃって思ってるのに、そういう風に煽るのはやめて頂きたい。

「えー、夕衣にゃん顔真っ赤」

 仕方ない。かくなる上は。

「……クロックア」

「ぎゃー!嘘です!からかいすぎました!ごめんなさい!」

 左の腰のあたりに手を当てると、途端に貴さんは喚き出す。

髪奈かみな夕衣が有する剣聖技、ブレストツイスターは、相手が男性でもかなりのダメージを与えることができるのだ』

 ナレーションっぽくそう言ってやる。ナレーションはかなり、なんて曖昧な言葉は使わないか。

「や、知ってる」

「あなたには、涼子さんという過分にすぎる相手がいるのです。慎みなさい」

 ちょっと貴さんには言い過ぎかもしれないけれど、涼子さんと釣り合う男の人なんてこの世にはいない。貴さんでギリギリセーフだ。

「そうだなぁ……。それ言われると確かに辛いなぁ」

 いや、嘘です。そんなことはないです。涼子さんには貴さんこそがお似合いの男性です。

「男には、やらなければならないことが二つある……。一つは愛する者に笑顔をもたらすこと。もう一つはその笑顔を生涯守り抜くことだ!」

 つい、と人差し指を天井に向けて、私は言ってやる。世の男性よ心して聞け。などと某キャラクターの真似をしつつわたしは言ってやった。

「何キャラだ!」

「おばあちゃんが言ってたのよ!」

 だっていつもそう言ってるもん。わたしのおばあちゃんじゃないけれど。

「涼子のことを?嘘つくなー!」

 もちろんわたしのおばあちゃんが涼子さんのことなど知っているはずもない。貴さんの言うことはもっともだけれど、そこはそれ、ノリというものがある。

「漫才してないで早くセッティングしろー」

 ドラムセットのアチコチの蝶ネジを調整しながら諒さんが苦笑した。でも今まで黙っていたということはずっと聞いていたのだろうか。

「どうでしたか、髪奈、水沢の夫婦漫才は」

「中々面白かったわよ。MCで是非やってほしいくらいに」

 ずっとセッティングに集中していた莉徒も笑顔で言う。夫婦じゃないから。

「おぉ、概ね好評。おーっし、コーコいいかー?」

「はぃーん」

 すく、と立ち上がって貴さんはベースを肩にかけた。うわ、もうこの人、ベース持つとなんでこんなにカッコイイんだろう。どうん、とグリッサンドをしてから何かのフレーズを弾きはじめる。洸子こうこさんの方を見ると、喋り方からは想像もつかないくらい手早く、細やかに音卓を操作している。うおぉ、スゴイ。PAさんはいつもステージから離れているところで、手元も見えないけれど、今日はステージの結構真ん前で音卓を操作しているのが見える。この後そのPAブースごと移動するのかな……。

「今日はスラップナシだから、音色はこんだけなー」

 ある程度ベースを弾くと、その手を止めて貴さんはマイクを通して言った。

「了解ー。コーラスは?」

「おー、はっ!はっ!チェックチェック、ワントゥーはっ!あーあーあー、おーおー。夕衣さんの水色ブラに萌えー」

「こらぁっ!」

 とんでもないことをマイクテストで言わないで欲しい。

「あーあーあー、口が滑りました、はっ!」

 まったくもう。

 でもリハーサルの手順としては通常のライブとあまり変わらないかな。貴さんと洸子さんのやり取りがナチュラルすぎて、逆にどうして良いか判らないけれど。

「おけーっす!じゃあ次は莉徒ちゃーん」

「何したらいいですか?」

 やっぱり莉徒も勝手が判らなかったみたいだ。

「普通のハコと一緒でいいよー。一番メインで使う音で何か弾いててぇー」

「はーい」

 そう答えて、莉徒はsty-xの楽曲Sprigganスプリガンのリフレクションを弾き始める。やっぱり巧い。緊張している感じもしないし、さすがだなぁ。莉徒は一旦エフェクターのゲインを少し下げて、再びリフレクションを弾きはじめる。

「んじゃブースト行きまーす」

 続けて、メインの歪みの隣にあるブースター用に繋げてあるエフェクターを踏み込むとソロっぽいフレーズを弾く。ブースターとして使っているディストーションオーバードライブは少し音が大きくなって、歪みも少し強くなるように設定してあるようだ。

「あーぃ。いいよ、他は?ディレイとかリバーブかけるんならコッチでやるよぉ」

 音卓を操作して洸子さんが続ける。当たり前なのかもしれないけれど、私たちが普段使っているライブハウスにいるPAさんよりも仕事が早い。

「お、ホントですか。じゃあうすめにリバーブお願いしまっす」

「あーぃりょうかぁい。弾いてみて」

 もう一度ソロを弾いて止める。

「ここ、ソロん時って、洸子さんの方で突けます?」

 突く、というのは文字通り、音卓のボリュームを指で突っついて少し音量を上げることだ。普段わたしたちが利用しているライブハウスでも、アドリブというか、臨機応変にPAさんがソロの時だけ突いてくれたりもする。

「できるよぉー」

「じゃあ状況に応じてお願いしまっす」

 また、ギターソロに限らず、ギターが二人いる場合などは、どちらかのギターを突いて、どちらかのギターを抑える、なんていうこともやってくれる。それに今回は専属のPAさんだ。やる楽曲は頭に入っているだろうから、突き所もバッチリ押さえているということだ。物凄い贅沢な環境でライブできるんだ。

「うん、おっけ。他はぁ?」

「今んとこないっす、有難うございまーす」

 ばちん、とクローマチックチューナーを踏み込んで莉徒は音を止めた。

「じゃあマイクー」

「はぁい。チェックチェック、ワントゥーハッ!ハッ!ハッ!アー!ウーアー」

 喋っている声とはかなり違うのはいつものことだけれど、洸子さんはそれを知らない。一瞬目を丸くしていた。

「おぉ、莉徒ちゃん歌う時の声って結構変わるね」

「そうなんですよねー」

 莉徒が尊敬している歌手、冴波さなみみずかさんやWilde Frauヴィルデフラウ久保田美希くぼたみきさんに声質が良く似ている。声そのものではなくて声の出し方とか。みずかさんも美希さんも莉徒と同じで喋っている時の声は低めだけれど、歌うとハスキーな高音域になる。

「もうちょぉい」

「あぃ。ハッ!ハッ!アーアーアーウーウーウーハーアーチェック、チェック」

「はぁーい、おっけぇー」

 笑顔になって洸子さんはサムズアップ。莉徒もそれを笑顔で返すと、ギターをスタンドに置いた。

「ありがとうございまーす」

「あいー。……じゃあ次、夕衣ちゃーん」

「お願いします」

 わたしも最初はバッキング用の音で-P.S.Y-サイの楽曲Fox Ⅲフォックススリーのリフレクションを弾く。この曲は私がギターソロを弾くので、少し緊張してしまう。

「……おっけー。ソロは?」

「ちょっとブーストします」

 洸子さんの声でリフレクションを止めて、足元のエフェクターを操作する。歪みは英介に借りたMarshallマーシャルThe Jackhammerザ ジャックハンマーでオーバードライブモードだ。The Jackhammerはオーバードライブとディストーションのどちらかを選べる歪みのエフェクターで、わたしは音のエッジが立ち辛い、というか、重くて丸い音のディストーションよりも、音がはっきりと判るオーバードライブを使っている。空間系等のエフェクトはいつも使っているマルチエフェクターのGFX-4ジーエフエックスフォーで創っているけれど、今回は殆ど空間系は使用していない。ただソロの時はやっぱり少しブーストするので、元々GFX-4に内蔵されているブースターとペダルでのボリュームアップを使っている。

「おーおー、いいね。あぃおっけー。空間系入れてるみたいだけど、そのままでいい?」

 笑顔でそう言ってくれる。PAさんにそう言われるとなんだかとても安心できる。

「はい。創ったのに組み込んじゃってるんで」

「おっけぃ、じゃ莉徒ちゃんと一緒でソロん時は適当に突くねぇ。じゃあ声ぇー」

「はいー。ハーハーハー、ワンツーワンツー。チェックチェック」

 わたしは実は貴さんや莉徒がやっているハッ!というのが恥ずかしくてできない。わたしの歌にはそんなに声を張り上げたり、大きく声を出したりする曲がないので、必要もないのだけれど、マイクテストとしてはそういったパ、とかバ、というような破裂音の音域もあった方が良いのだろう。

「おっけーぃ。じゃあバンドでー」

 あれ、諒さんのはやらないのかな。わたしは洸子さんに頭を下げると、みんなの顔を見回した。

「おっけ。んじゃSprigganで」

 当の諒さんがそう言って、カウントを入れる。うぉ、行動が早い。莉徒が慌ててギターを肩にかけた。莉徒のギターのポジションが落ち着いたのを確認すると、カウントに合わせて演奏がスタートする。洸子さんが音卓を操作するとドラムの音が大きくなったり少し小さくなったりする。そうか、ある程度の調整はすでに済ませて置いてあったのだろう。軽く合わせておいて、あとはバンド演奏の時で調整するやり方なのかもしれない。わたしたちが普段使っているライブハウスではそんなやり方をしているドラマーさんは見たことがないけれど。

『ワンメロ終わったらソロなー』

 コーラスマイクを通して貴さんが言うと、私と莉徒がその言葉にうなずいた。本来Sprigganは二コーラス回した後にギターソロが入るけれど、こうした短縮はわたしたちも良くやる。

 莉徒のソロでもバランスを調整して、ソロが終わると諒さんがドラムを止めた。わたしたち竿モノ隊もそれに続く。

「ん、いいな。次、Fox IIIで」

「はぃーん」

 洸子さんの声の後にカウント。これもきっと一コーラスでソロだろう。きちんと心の準備をしておかないと。 一サビの後半で貴さんが私にアイコンタクト。やっぱりソロだ。

(ん、いい感じかも)

 今のところ少し緊張はしているけれど、モニタースピーカーから返ってくる中音はしっかり聞こえているし、曲を見失うほどではない。運指もしっかりしている。周りの音も良く聞こえているからミスなく弾けている。ソロが終わってまた諒さんがドラムをストップする。

「莉徒の声少しくれ」

「あーぃ」

「あ、こっちも下さい」

 莉徒の声をしっかり聞いていないと、もしも緊張してしまったら曲中でミスをしてしまった時に手が迷子になってしまうかもしれない。

「夕衣の音、少し返せます?」

「おっけーおっけー。もっかいやってみてぇー」

 つつつ、と音卓を手早く操作して洸子さんがにこり、と笑顔を返す。うわぁ、楽しそうに仕事するなぁこの人。

「おっし、んじゃもっかいFox III。今度は二サビからソロまで」

「はぁーい」

 諒さんのカウントの後、二回目、つまり二コーラス目のサビを演奏した後に、通常通りギターソロに入って演奏をストップさせる。

「うん、いいな。他は?」

「おっけー」

「大丈夫です」

「わたしもオッケーです」

 諒さんの声にみんなが口々に答えた。これで音量バランスは大体大丈夫なはずだから、そうなってしまうともうあまりやることはなくなってしまう。

「よしゃー!」

 満面の笑みで洸子さんが両手を上げた。何に対しての喜びなのかは判らないけれど、恐らくは諒さんと貴さんから注文が飛ばなかったことかもしれない。もしもわたしがPAさんだったとしたら、やっぱりプロからの注文は何も言われなくてもクリアするということに誇りを持つだろうから。

「んじゃ本番宜しく!」

「はぁーぃ。まだ時間あるけどぉ、何か通してやっときますぅ?」

「あーそうだな。時間どんくらい?」

「まだ二〇分くらいありますぅ」

 貴さんの問いにそう答える。おぉ、それはありがたい。少しでもステージに慣れておきたいし、やれることはやっておきたい。

「お、そりゃもったいねぇな。色々やっとくか」

「あ、じゃあバイバイロックンロールやりましょう!」

 今回だけの、貴さんが創ってくれたオリジナルソング。勿論アレンジはわたしたちも一緒にやった。

「じゃあまずそれ一曲流すか」

「うーぃ」

 諒さんが言って貴さんが手を上げると、カウントがスタートした。


「えーぃ、取ってきてやったぞー。開けちくりー」

 リハーサルを終えて、衣装に着替えたわたしたちはあまり館内もうろうろできず、結局控室でひたすら待機だった。

 しばらくしてからドアの外から貴さんのくぐもった声が聞こえてきたので、美奈みなさんがドアを開けた。美奈さんは一度きとんとお話をしたい相手だけれども……、今はまだ無理そうだ。

「どしたの?」

「けーたりんぐ」

 美奈さんが貴さんからトレーを受け取って、テーブルに置いてくれた。小さなお皿にホワイトソースっぽいパスタと恐らくは……。

「おぉー!ローストビーフ?」

「と、カルボナーラ」

 女の子はみんなカルボナーラ好きだよな、とひとり納得しながら貴さんは頷いた。勿論大好きですけれど、わたしは涼子さんのナポリタンの方が好きです。

「きゃあ貴さん大好き!」

「告られた!」

 んーちゅちゅ、と唇をとがらせて莉徒がはしゃいだ。

「付き合ってやるからあの涼子とかいう女とさっさか別れな!」

 さっさか?

「だが断る!」

「フられた!」

 がー、と口を開けて貴さんがわたしを見る。何を突っ込めと……?

「いいから、食わねぇのか?そんなら諒さんの、食っちゃうぞもう!」

 ローストビーフに手を伸ばして、諒さんが一枚つまみ食いをする。

「おーうんめえ!」

「いーやー!食べるわよ!」

 が、とトレーを確保して莉徒がフォークを突き刺した。あ、わ、わたしも!

「いただきまーす!」

「おいすぃー!」

 カルボナーラ久しぶりに食べた。うん、カルボナーラもおいしいな。

「だめね。涼子さんのカルボナーラの足元にも及ばないわ」

「え、食べたことあるの?」

 わたしといる時はあまり食べていないような気がしたというか、記憶にないけれど。何となく莉徒はサンドウィッチを良く食べている記憶がある。

「そりゃあるでしょ。あんたがナポリタンしか食べないだけじゃないの」

「そ、そう言えばそうだった……」

 莉徒とわたしでは年季が違う。わたしの方が全然食べていないのは確かだ。パスタと言えば神のナポリタン、という真実がそこにあるのだから、こればかりは仕方がない。

「なにぃ?嫌いなものは食べなくていいけど、好きなものは制覇しろよー。常連だろー」

「私は結構制覇に近いわよ」

「わ、わたしは全然です……」

 お店云々よりも、涼子さんが作ったものは何でもおいしい、ということをみんなに知ってもらいたいのだろう。

「まぁ好きなもん食ったらいいじゃねぇかよ。何食ったってうめぇんだから」

「それもそうだなぁ」

 実も蓋もない言い方だけれど、確かに諒さんの言う通りだ。ただ、わたしのように少数のメニューしか知らないよりも、莉徒のように色々な味を知っている方が、選ぶ楽しみだって増える。おいしいものを食べている時はとても幸せだけれど、それを選んでいる時間だってとても贅沢で、楽しい時間だ。

「でも他にも絶対おいしいって思うものもあるって判ってるんですけど……」

 だから、少しずつでもいろいろ試して行きたいな。まずはシュークリームだけから、ミルクレープがレギュラー入りしたし、この間食べたシフォンケーキもとってもおいしかったし。

「ま、貴さんだってからあげしか食べてないから大丈夫よ」

「他のもんだって食べてるよ!」

 目玉をひん剥いて貴さんが抗議した。ちょっと面白い。

「チェキンカツとぉ?ササミフライィ?だったっけぇ?」

「なんそのばかにした言い方ぁ」

 ウワァと嘆きながら貴さんが莉徒のトレーのローストビーフに手を伸ばす。莉徒は貴さんに取られる前にひょい、と口に運ぶとにやり、と悪い笑顔になった。

「い、いやそれしか食べてない訳じゃないでしょ」

 さすがにそんな食生活は涼子さんが許さないはず。仕事中の外食はどうしようもないにしても、家でご飯を食べる時は絶対に菜食メインになっているような気がするけれど、きっと貴さんには甘々な涼子さんのことだから、何かしらは貴さんの好物を織り交ぜているんだろうなぁ。

「サラダだって食べるよ!年三回くらい!」

「少なっ!血管詰まって死ぬわよじじい!」

 じじい、って!莉徒の言い方が凄かったので思わず笑ってしまった。

 でもさすがに年三回はないと思うけれど、あまり野菜は食べていないような気がする。諒さんも。

「生野菜あんまり好きじゃない……」

「子供か」

 ということは温野菜メインなのかな。涼子さんだったら絶対に野菜を摂るように何かと工夫していると思うし。

「あんま食いすぎるとお腹いっぱい声になっちまうぞ」

「ちょっとしか持ってきてねぇよ」

 確かにお腹いっぱい声はちょっといただけないけれど、貴さんが言う通り、それほど量は多くない。全部食べてもお腹いっぱいにはならないだろう。

「や、お前のちょっととコムスメらのちょっとは違くねぇか?」

「大丈夫ですよ。ほんとにちょっとなんで」

 そう諒さんに言うと、なぜか貴さんが自慢げに胸を張った。

「おれユイユイのことなら何でも知ってるんだ」

 ほう、そうきますか。ならば。

「わたしも貴さんの初体験の話とか知ってます」

「ウワーヤメローオマエー」

 貴さんは大仰に両腕を開いて、片言のようにそう言った。きっとこれはわざとなんだろうな。わたしたちが緊張しないために色々と考えてくれているんだ。

「ふむ、ま、ケータリングで涼子さんの味以上のものを期待する方が間違ってるわね。おいしかった!」

「どっちなんだよ……」

 苦笑しつつ諒さんが言う。確かに。

「貴さんのからあげ基準と同じ的な」

「え?」

 どういうこと?

「そこいらの呑み屋で食べたからあげが世界一おいしいんでしょ?」

「まぁからあげだからなぁ」

 訳の判らない理屈を尤もそうに言う。

「でも涼子さんのは宇宙一、なんでしょ?」

「当然です!おまえらだって食べただろうが!」

「あぁ、そういうことか」

 貴さんが涼子さんが作った以外のからあげを世界一、とまで賞する意味はまったく不明だけれど。そこいらのお店で食べるからあげは確かにおいしいのだろう。涼子さんのからあげがもっとおいしいのは事実だけれど。

「もうそろそろ出番かしら。ちょっと様子見てくるわね」

 同じく苦笑していた美奈さんが自分の腕時計を見てそう言った。

「お、じゃあオレも行ってくらぁ」

 ソファーの背もたれに体重をかけていた諒さんがす、と姿勢を正す。そっか、諒さんは立場的には社長なんだった。いつもフランクに接してくれているから、ついそのことを忘れてしまう。

「おー、よろしく」

 部屋を出て行く美奈さんと諒さんに声をかけて、貴さんは空いているソファーに腰かけた。わたしたちのフォローもあるのだろうから、きっと貴さんはこのまま部屋に残っているのだろう。これはもしかしたらチャンスかもしれない。

「ね、貴さん、美奈さんってあの言枝ことえ美奈さんでしょ?」

 ややあって莉徒が口を開いた。やっぱり莉徒も気になってたんだ。さっきわたしが莉徒に訊こうと思ったとき、莉徒はその話をとりあえず保留した。だから莉徒も気にはなっていたんだろうと思っていたけれど。わたしが貴さんに訊こうと思っていたのはまさにそのことだった。

「ん、まぁそう」

「……」

 歯切れが悪い。やっぱりあまり人に吹聴するような話ではないのかもしれない。わたしたちが知っていることなど恐らくはマスコミが捻じ曲げた、たった一面の、作られた事実だけのはずだ。

「やっぱり……」

「何だ、知ってんのか」

 わたしの呟きを受けて貴さんは、無表情に言った。

「だって岬野美樹さきのみきと張ってた頃とかあったじゃん」

「まぁな。でもお前ら低学年の頃とかだろ、それって」

「ですね。でも音楽は判らないなりに聞いてましたよ」

「そっか」

 今思えば音楽というものに興味を持ち始めた頃かもしれない。まだその頃は自分が音楽の授業以外で楽器を演奏することなど考えてもいなかった頃だけれど。

「私アルバム持ってる……」

「そっか」

 わたしは持っていないけれど、存在は知っている。莉徒が持ってるそれは、最初で最後のオリジナルアルバムだ。

「興味本位で訊いて良い話じゃないことは判るんだけど……」

「自殺未遂、の真相か?」

「はい」

 貴さんの言葉にわたしも頷いた。言枝美奈さんは、当時アイドルから脱却して歌手になったばかりの岬野美樹さんとも人気を二分していたシンガーだった人だ。でも美奈さんはある時を境に、突然音楽シーンから姿を消した。後にそれが、自殺未遂だったことが明らかにされてしまうのだけれど、美奈子さんがもしも音楽を続けていたら、わたしだって聞き続けていたかもしれない人だ。

「当時のマネージャーとな、付き合ってたんだよ。そのマネージャーは業界人としちゃかなりキャリアもあったらしくてさ」

 そうか、美奈子さんの時はまだThe Guardian's Blueガーディアンズブルーは結成されていなかったんだ。だから貴さんはプロのバンド者ではなかったし、諒さんはフリーのスタジオミュージシャンだった頃の話だ。

「その人との破局、ですか」

 有り体、と言えばそうなのかもしれないけれど、それはわたしが業界の暗い部分の噂を都市伝説的に知っているだけに過ぎない。要するに噂話を知っている程度で、それを有り体だと思っているということは、それが事実か真実かも判ってはいないということだ。

「ま、平たく言えばな。美奈もな、当時の美樹さんや響と同じで、アイドル辞めたがってたらしいんだ。ちゃんと歌手でやっていきたいってな。でもそのマネージャーが許さなかった。それとは別にそいつ、浮気もしててな。浮気相手もまぁ歌手志望のアイドルだったんだけど、そいつにはかなり裏金横流しして、随分とバックアップもしてたらしいんだ」

 自殺まで考えてしまうほど人のことを想う気持ち。そんな気持ちを裏切って動く裏金。全てがわたしの想像を超えている。強く何かを願い、成就されなかった時、死を選んでしまった従姉がいたわたしでも、判らないことだらけだ。

「その、美奈さんがその人と付き合ったのって、いわゆる業界でのし上がるため、とか、そういうことだったんですか?」

「さぁな。そういう噂もあったけど。そこまでおれ達も土足で踏み込める訳じゃねんだよ」

「そっか、そうですね」

 スターダムに上り詰めるためには自分の身体でさえも売り物にする、ということは実際にあるのかどうかは判らない。枕営業なんて言葉も業界の噂としては耳に入ることもある程度でそれが事実なのかどうかは知りようがない。

 特に歌手やバンドの世界ではそんなことはないと信じたいけれど、アイドルともなればまた世界も違ってくるのだろうことくらいの想像しかできない。

「でまぁそいつ、事務所鞍替えして、そのアイドルのマネージャーんなって、美奈とは破局。美奈はなんも聞かされてなかったらしくてさ。どうやって手に入れたんやら、眠剤大量に飲んで三途の川の一歩手前だったって訳だ」

 だとしたら、自分を売り込むためにそのマネージャーに身体を開いた訳ではないような気がする。売れる為なら身体でも開く、という気持ちなら、別れたとして自殺にまで考えは及ばないはずだ。そして貴さんもそれをそう信じようとしているような気がする。

「歌うの辞めちゃったのは?」

 きっとわたしたちは愚か、貴さんや諒さんにだって判らない、何かがあったからに決まってる。知りたい気持ちもあるけれど、それはきっと美奈さんにしか判らない。いや、もしかしたら美奈さん自身にも判らないことなのかもしれない。

「本人の意思。まぁ、あとはヤツのせいってのもあって……」

「ヤツって……樹崎光夜きざきこうやのこと?」

 ついに、その名を莉徒が出した。きっと莉徒も同じだったんだ。本当はわたしもずっと気になっていた。かつて貴さんと諒さんが所属していたThe Guardian's Blueの立役者であり、ボーカリスト、つまりバンドの顔でもあった人。The Guardian's Blueを結成する前でもソロアーティストとして知名度もあった人だから、当時はかなりの話題になった。そんな有名すぎるほど有名な人と同じバンドにいて、三年も活動していたのに。私は貴さんや諒さんと知り合えてから約一年間、二人の口からその名を聞いたことはただの一度もなかった。

「ま、そうなんだけどさ。何度も、何年も復帰しろって言い続けてんだけどね」

「……」

「そうなんですか……」

 やっぱり貴さんは樹崎光夜さんのことになると、お茶を濁す。諒さんだってきっと同じだ。だから、今までにも、不自然なほどに樹崎光夜の名前が会話に挙がらない。The Guardian's Blueのことや、同じバンドに所属していた草羽少平くさばしょうへいさんや大沢淳也おおさわじゅんやさんの名前は何度も挙がっているのに。

「更に言うならその美奈のマネジな、元、早宮響はやみやひびきのマネジでもある」

「え!」

 だとすると、響さんも美奈さんと同じような道を辿っていたのかもしれなかったのか。

 もしもそうなっていたら、きっと今のわたしは存在していない。ディーヴァだと言われることもなく、この街に来たとしたって、莉徒とも仲良くなれず、英介とだって付き合えなかったはずだ。大げさではなく、今のわたしがあるのは早宮響さんの音楽のおかげだ。

「響も最初はアイドルやってたんだけどさ」

「ですよね」

 その頃の曲は一応持ってはいるけれど、あまり聞いていない。アイドルの頃の響さんはあまり良い歌に恵まれず、歌唱力は高かったのに殆ど売れていなかったのだ。

「歌手んなりたい、ってSounpsayzerサウンサイザーに移籍したんだ」

「そこまでは知りませんでした」

 そのマネージャーが良く許してくれたなぁ。人を一人、自殺未遂にまで追い込んだほどの人なのに。

「ま、響は別にそのマネージャーに惚れてたとかそういうのはなかったからさ、半分はあのばかが脅しかけたってのもあった。幸いにもその頃のおれたちはデビュー間もなかったけどヤツの顔もあったし、爆発的に売れ始めた頃だったから勢いもあってね。そのくらいの脅しはできるようになってたんだ」

 あのばか、とかヤツっていうのはきっと樹崎光夜さんのことだろう。

「美奈さんのことで?」

「あぁ。おれは後から聞いた話だけど、響の移籍交渉には美奈も同席してたらしい」

「美奈さんが……」

 だとしたら、きっと美奈さんだって辛かっただろうな。響さんはもしかしたら、美奈さんに守られたのかな。

「あいつは、自分と同じ目に遭わないように響を助けたんだよ」

「そうだったんだ……」

 わたしの想像もあながち的外れではなかったみたいだ。だとすれば、今のわたしがあるのは、美奈さんのおかげということもあるんだ。私が全然知らないところで、関わりすらもないと思っていたようなところで、わたしの、大げさに言ってしまえば人生を左右する出来事が起きていたなんて。

「結局、唄を捨てようとしても、音楽からは離れて生きられなかったんだ。……誰も彼も」

「……」

 独白にも似た貴さんの言葉は、もしかしたら貴さん自身にも向けられているのかもしれない。

 当たり前のことだけれど、わたしはThe Guardian's Blueが解散してから、-P.S.Y-が発足されるまでの約二年間、貴さんや諒さんがどうしていたのかを知らない。恐らく、The Guardian's Blueの解散は望まぬ解散だったのだろうことは判る。そんな解散を強いられて、貴さんや諒さんだって失意があったのだろうことも想像はできる。

「でもな、美奈、Sounpsyzer辞めてウチにきてから、時々ストリート出るようになったんだ」

「そうなんだ!」

 それはなんというか、嬉しい話だ。さっき初めて美奈さんに会った時に感じたあの明るさは、長い年月をかけて美奈さんが自分自身に整理をつけられたから生まれた明るさなのかもしれない。想像の域は出ないけれど、でも、わたしの想像通りだったらそれは素敵なことだな、って思う。

「おれらのマネジなんかやんなくていいから歌え、つってんだけどねぇ。……今のSounpsyzerの常務って判る?」

「流石にスタッフさんとか役員までは……」

 The Guardian' Blueのことですら、現役時代の活躍は記憶に薄いし、現行の-P.S.Y-ですら今日初めてマネージャーさんに会ったくらいなのだから。

「まぁそうだよな。高崎礼美たかさきあやみさんっつってな、当時G's Blueのチーフマネージャーだった人なんだけどさ。その人が、美奈が歌うんなら、すぐにでも良いマネジ紹介してくれる、つっててさ。そら美奈も当然知ってる話なんだけど」

「それでも、復帰はしないんですね」

 それは少し残念だな。

「……でも、いんじゃない?」

「莉徒」

 あっけらかんと莉徒は言った。でも本当は莉徒の言いたいことはわたしにも判る。でもわたしはそこまで自分の言葉や態度や、自身の佇まいに自信がなくて口に出せなかった。

「だって、歌いたい時に歌ってた方が幸せってのは、あるよ」

 うん。きっとそれはそうなんだ。美奈さんはそれこそ本当に業界の柵にがんじがらめに縛られて、四肢が裂けるような思いまでしてしまった。自由に歌うことが難しい世界で、歌うことが、プロとして復帰することが本当に幸せなことなのか、それは誰にも判らないことだ。

「……お前ら見てるとおれもそう思う時があるよ」

 少しの沈黙の後、貴さんが淋しそうに、でも笑顔になった。

「でしょ」

 莉徒は自分を疑わない。わたしも莉徒を見習わなくちゃ。この先も、ずっとずっとおばあちゃんになっても莉徒の親友でいるために。

「ねぇ貴さん、私らのこと家族って言ってくれたよね」

「ん」

 好機、なのかな。わたしはあまりそうは思わないけれど、莉徒はきっと今、必死なんだ。このバンドが終わっても、貴さんや諒さんと家族でいられるように。

「じゃあ思い切って訊くけど」

「莉徒」

 止まるはずもないことを判っていながら、一応は莉徒をたしなめる。

「でも」

「光夜のことか?」

 顔を上げて、貴さんは淋しそうな笑顔のままそう言った。

「うん……」

「ま、そいつぁそのうち話してやるよ。おれたちも隠してるって訳じゃねぇしさ。やっぱ気になってたのか?」

 苦笑なのか、自嘲なのか、判らない。でも貴さんは私たちに『笑顔』を向けてそう言ってくれた。

「うん。だって貴さんたちと出会ってからもう丸二年くらい経つけどさ、不自然なくらいに樹崎光夜の話が出てこなかった」

「ま、そうだな……」

 それはあえて避けていたからだ。わたしたちでもそれが判ってしまうほどに、貴さんや諒さんは樹崎光夜の話を避けてきた。でも貴さんがそのうち、と言うのだから、わたしたちはそれを信じるしかない。莉徒はまだ少し不服そうだけれど、わたしはあえて話の軌道を変えた。

「それはじゃあ行く行く聞かせてもらうとして、美奈さんと光夜さんって、どんな関係だったんですか?」

 光夜さんに関することではあるけれど、The Guardian's Blueのことではない。水沢みずさわ貴之と谷崎たにざき諒、そして樹崎光夜とThe Guardian's Blueの話ではない。

「まぁ美奈がだめんなってから、ずっと光夜がフォローしててな。多分、あいつは美奈のこと好きだったんだと思う」

 結局結ばれることはなかったということなのか。悲しい話だけれど、そういった現実もあるのだろう。涼子さんと貴さんだって本当に辛い現実を乗り越えてきた人達だ。だからこそそういった辛さも判ってしまうのかもしれない。

「美奈さんも?」

「多分、な」

 貴さんも土足で踏み込める話ではない、と言っていた。その時の貴さんと光夜さんの関係がどうだったのかは判らないけれど、きっと貴さんはあまり触れないようにしていたのではないだろうか。触れない、関わらないことが優しさになることだってあるから。

「そっか……」

「じゃあ私、美奈さんが歌う時は絶対聞きに行くから、その時は絶対連絡して、貴さん」

 莉徒が少し調子を取り戻してそう笑った。

「了ぉー解」

「わたしも!」

「ん。ありがとな」

 貴さんも少し調子を取り戻したようなので、わたしもそこに便乗することにした。

「んじゃま、美奈さんが嫉妬するくらいぶっとんだステージ、見せてやろうないじゃないのよ。ね、相棒!」

「うん!そうだね!」

 わたしの肩に腕を回してきて、莉徒がわざとらしくはしゃいだ。そこにはやっぱり親友として応えてあげなくちゃね。

「夕衣さん処女ラストステージだしね!」

 余計なことを……。水沢貴之。どうやらお前はオレの力を見くびっているようだな。

「……ハイパーキャストオ」

「ぎゃー!ごめんなさい!言い過ぎました!」

 腰には手を当てず、手の指の関節をぽきぽきと鳴らしながらわたしは言った。

「でもホントのことじゃないの」

 むふ、と口元に手を当てた我が親友に視線を向ける。

「ハイパークロックアップ!」

「あーっ!」


 29:カルボナーラ 終り

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