20:紅しょうが

 二〇〇七年五月二〇日 日曜日

 七本槍南商店街 楽器店兼リハーサルスタジオ EDITIONエディション


 今日はEDITIONでのアルバイト終えたらそのまま地下スタジオでsty-xステュクス復活イベントバンドの練習だ。あぁもう、言いにくいったらない。

「ねぇりょうさん、バンド名決めないの?」

「あぁ、オレらのか」

 バイトも終わり、いつものスタジオに入り、防音ドアを締め切ると私はドラムセットについた諒さんに言った。いつまでもバンド名称が『sty-x復活イベントバンド』では不便で仕方がない。

「うん。別に人に話すこととかないにしても、何か便器上欲しくない?」

「確かにsty-x復活イベント用前座バンドって少し不便ですよね」

 私よりも先にスタジオに入っていた夕衣ゆいもそう言ってギターケースからギターを取り出した。

「言われてみりゃそうだなぁ」

「うーん、バンド名か……」

 諒さんとたかさんが続けて二人同時に唸り始める。

「オレそういうのパス。任せた」

 早くも諒さんがギブアップをして貴さんに投げる。なんだか貴さんっていつも損な役回りをしている気がする。このバンドで一度きり、たった一度しか披露しないオリジナルソングも貴さんが創ってくれた。

「何かねぇ?」

 と思ったら貴さんも私らに振ってきた。私はもともとネーミングが苦手だ。私のバンドKool Lipsクールリップスは私が付けた名前だけれど、あくまでも私個人の中では奇跡のネーミングだと思う。

「そういえば-P.S.Y-サイって誰が考えたんですか?」

「元々は大輔だいすけ。選んだんがおれ」

「え?」

 一人ではない、なんてことがあるのか。

「金へんに殺す、って書いてサイって読むんだけどさ」

「あ、なんかロゴありましたよね」

 言われて私もぴんときた。確か二枚目のアルバムはでかでかとその字が使われていたはずだ。

「そ。前まで使ってた。PSYでサイってのはもう決まってて、大輔が漢字一文字でも表せたら良いなぁ、ってなったんで、おれが漢字辞典で探したのがその字。ちなみにユニコード93A9で出るぜ」

 やっぱり貴さんは勤勉だ。

「へぇ。でも今使ってないのは?」

「ちょっと一部で流行ったんだか何だかの良く判んねぇアニメでその字が使われて少し話題になっちゃったのと、ドキュンっぽいから排除した」

「まぁちょっとね……」

 私らのような学生バンドであればネーミングでどちらが先かなど全く気にしないけれど、プロともなるとやはりその辺は気になるのだろうし、実際やりすぎるとクレームの元にもなってしまうのかもしれない。

「ただアメリカとかヨーロッパ圏内って局地的に漢字が流行ってたりすっから、そういうとこで売ってるCDやらは漢字のロゴは今でも使わせてる」

「へぇ、なるほど」

 外人の奇抜なセンス炸裂な話だ。漢字一文字をタトゥーで彫ったりしているのは私もテレビで見たことがある。中には『ぬ』というひらがなを掘っている人もいた。

「で、後付けでPissheadピスヘッド Straggler'sストラグラーズ Yowlヨウルって単語無理矢理並べて、飲んだくれPisshead敗残兵のStragglers's遠吠えYowl、って意味もつけたんだよ」

「後付け?」

 最初から何か意味があってのPSYではなかったのか。まぁでもバンド名なんて得てしてそんなものだ。Kool Lipsだって完全に思い付きだったし。

「そ。高校ん時はさ、ノリでPSYでサイって音がいいじゃん、てだけだったんだけど、プロんなるとどういう意味があって?とか色々聞かれたりするし、その場でノリ、とか説明すんのもいちいちダリィし何でもいいから考えとくかってな」

「あ~なるほど」

 テレビの歌番組に限らず、ラジオ出演した時などもそうした話題になることはあるのだろう。まだ売れ始めのバンドなんかはそうした部分の露出が少ないため、バンド名の由来なども訊かれることが多いのは何となく判る。

「という訳で、夕衣さん、任せました」

「え、何でわたしですか!」

 ギターのセッティングをしていた夕衣がぐり、と貴さんに視線を向ける。

「何か素敵な女神様の名前つけようぜ」

 諒さんも貴さんに便乗してそう笑った。

「sty-xはステキって感じの女神じゃないけどね」

 本来の綴りはStyxで、確か河の女神。でもその水が猛毒だったり、不死の霊薬だったりとか書かれていたような気がする。

「じゃ、じゃあrobigoロービーゴーとか」

「ロービーゴーは却下だな」

 折角即答した夕衣の案を速攻で却下する谷崎諒。うはー、血も涙もない。

「え!」

「や、ちがう、駅向こうに知り合いのライブバーがあんだけどさ、そこの名前がRo.bi.goロービーゴーなんだ」

 諒さんの言葉を貴さんがすかさずフォローした。なるほど気に入らなくて却下した訳ではないのか。

「あ、そうなんですか」

「あの店知り合いだったんだ」

 言われて思い出したけれど、確かにそんな名前だった。女神の名前だったなんて全然知らなかったな。

「おめー入り浸ってそうだな」

「や、あの店は行ってない」

 言われると思った。でも本当にそのお店には行っていない。

「何で?」

「同級生の店なのよ。喋ったことない奴だけどさ、大分前に一回ライブ申し込んだら断られたから。……多分私のせいで」

 それも悪名の方で。まだKool Lipsも始める前だったし。

「同級生?」

「そ。小材こざいってやつなんだけど」

 クローマチックチューナーでチューニングをしながら夕衣が訊いてきたので即答する。名前くらいは知っているだろう。

「あ、小材さん知ってるよ。わたしも喋ったことはないけど。でもライブ来てくれてたんだよね」

 夕衣の言う通り、小材はIshtarのライブには来てくれていたようだった。

「まぁ二十谺はつかとは仲良いみたいだからね」

 そう。別に私がどうのこうのではなく、二十谺と仲が良いからだ。ちなみに私は小材本人には何もされていないし、何も言われていないので、お互いに別に喋ったことないだけ、という感覚だと思っている。向こうがどう思っているかは知らないし、知ったことではないけれども。

「あぁ、そうなんだ」

「ま、別にこっちから敵視しやしないけど、向こうが煙たがってたら態々近付く必要もないしね」

「なるほどね」

 仲良くなりたい相手、仲良くなれそうな相手とは空気感で多少なりとも通じ合えている気がする。だから、小材とも話してみれば案外そんな仲になれるかもしれない。ただ悪名というのは厄介だ。私だってたとえば女たらしな男の噂を聞けば、その本人と相対した時に、別に噂は噂、と割り切れるだろうけれど、きっと心の片隅にこいつは悪い噂を持っているやつだ、という気持ちが絶対に残る気がする。私は自分がそうだったから、極力悪い噂なんかは聞いても気にしないように努めてはいるけれど、人間の深層心理とか言う小難しい何某はやっぱり私自身がコントロールするのは難しいのでは、とも思うのだ。

「あぁ穂美ほのみもお前らと同じ学校か」

「穂美?」

「そ。小材穂美っつーんだよ。まぁおれたちも穂美とはそんなに親しい訳じゃないけどな。あの店は親の方とは呑み友達だからな」

「そうなんだ。でも確か小材のバンドはいいバンドだったよね」

「んだな。中々音もしっかりしてるし」

 貴さんも言いながらやっとベースをケースから出した。

「小材さんのバンド?」

「そ。確かIxtabイシュタムって、これも女神の名前だけど」

 こっちは確か自殺だのなんだの、かなり不吉な女神だった気がした。ギターボーカルは瑞原みずはらっていう、こちらも同級生の男だ。軽音楽部には所属していなかったし、対バンもしたことがないので、やっぱり小材と同じく話したことはないけれど、何と言うか、拓さんとは別の意味で能天気というか、どっしり構えているというのか、そんな印象がある。

「へぇー。見てみたいな」

「んじゃ今度一緒に行く?」

 二十谺との付き合いでIshtarのライブにきてくれたのだとしても、バンドとしては持ちつ持たれつだ。小材が私たちのバンドを見に来てくれたことには変わりない。ならば私だって別に怨恨も何もないのだから、奴らのライブに行っても良いはずだ。

「え、でも」

「敵視しないつったじゃん」

「あ、そうか。じゃあ行こ」

 私の他人とのスタンスの取り方を良く知る夕衣が即座に理解して頷く。私のそういったスタンスの取り方は、ある意味英介えいすけとも似ているからなのか、それとも夕衣がそういった人間と付き合い易いと感じているからなのかは判らないけれど、こうして一種面倒臭い人間に分類される私のような人間の機微を感じ取ってくれるのは本当にありがたい。

「おっけ」

「で、バンド名は?」

 シールドケーブルをベースに差し込みながら貴さんが話を戻した。

「い、いやわたし別に女神に詳しい訳じゃないんで……」

「女神の曲名いっぱい創ってるくせに……」

 そう誤解されるのは当たり前だ。夕衣は自分の生き方にまつわる歌詞を書いた曲には女神の名前をつけて、それをイシュターシリーズと総じている。今のところ、Ishtar FeatherイシュターフェザーAiysytアイイシットEdainエディンMedb HeartメイヴハートNereides Blueネレイデスブルーと五曲にまで増えた。それでも夕衣本人は特に神話に詳しい訳でも好きな訳でもなく、ただ単に、少し変わった、神秘的な音がする女神の名前を気に入って付けているだけなのだ。曲のタイトルにする女神がどういった女神なのかを考えるようになったのは、Edain以降だ。

「でも最近それっぽい本とか読んでるじゃん」

「ま、まぁはっちゃんに少し影響されたからね。貴さんが言う通り、女神の名前を使った曲を創ってるのに全く知らないのもどうかと思って」

「勉強熱心だなぁ」

 うんうん、と貴さんが二度頷いた。語るに落ちるとはこのこと。墓穴を掘ったな、髪奈かみな夕衣。

「じゃあやっぱ夕衣に任せよう」

「え」

「んだね。決まんなかったらユイユイズね」

 そういかにも楽しげに笑ってやって私も貴さんの意見に同意する。

「あ、明日には決めます!」


 同日


 時間にして一九時。諒さんと貴さんは上がり、私と夕衣だけがスタジオに残った。諒さんと貴さんはこの後に都心の方へ行って-P.S.Y-サイのメンバーと合流した後に雑誌の取材を受けるらしい。私と夕衣は先週話し合いをした彩霞あやか先輩のバンドの練習だ。そのままスタジオは貸してくれるというので、ありがたく厚意に甘えさせてもらった。と言ってもスタジオに入りっぱなしではなく、私と夕衣も一旦晩御飯を食べに外に出た。今日はかねてより夕衣が行きたがっていた牛丼屋だ。夕衣は牛丼屋にはまだ一度しか行ったことがなかったらしい。ま、判らないでもない。私は牛丼屋だろうがラーメン屋だろうが平気で一人で入ってしまうけれど、普通の女の子は少し抵抗があるらしい。夕衣が入ったことのある一度、というのも英介とのデートで、なんと夕衣から連れて行ってほしい、と頼んだそうなのだ。まぁ英介も裕福ではないから夕衣の気遣いもあったんだろうけれど。

「うん、おいしい!」

「うん、うまい」

 夕衣は生卵を混ぜてそのままかける派だ。私は生卵にはお醤油を少々かけて、紅しょうがも少々。それから七味唐辛子も少々。辛いものはあまり得意ではないけれどこの牛丼屋さんの七味唐辛子は風味があってとてもおいしい。

「紅しょうが、おいしい?」

「少しならね。焼きそばとかと一緒よ。たまに山ほどのっけて食べてる人いるけど、あれは牛丼じゃなくて紅しょうがが好きな人なんじゃないかと思うわ」

「どれ……」

 ひょい、と私のどんぶりの端っこに乗っている紅しょうがを夕衣は橋で取り上げた。

「なんで私のから取る……」

 とは言いつつも、何故かそれが少し嬉しい。そのままひょいと口に入れて牛丼も一口食べる。

「や、何となく。……あー、そうね、甘味はないけどお寿司のがりみたいな感じかな」

「まぁそうね」

 夕衣の言う通りがりのような甘味は勿論ないけれど、薬味としての感覚は同じだ。私も一口。

「でもこの量はちょっと多いよね……」

「確かに」

 食べられないほどの量ではないけれど、私や夕衣では並盛りでも食べ切ったら満腹だ。このまま歌うのは正直きついけれど、今日のボーカルは彩霞先輩だ。

「ここの他にもさ、牛丼屋さんあるでしょ」

「あるね」

 この街は小学校、中学校、高校、大学、と学校が多い。学生向けの安くておいしいチェーン店は駅周辺にはたくさんある。

「やっぱり味、違うのかなぁ」

「私らみたいにたまにしか食べない人間には判んないんじゃない?だとしたら早い、安い、旨いが一番でしょ」

 と、選んだのは恐らくは一番の有名店。注文から一口目が胃に納まるまで僅か数十秒。ま、それはどこのお店もあまり変わらない気もするけれど。

「なるほど。でも全部行ってみたい。あと二軒だよね」

「ん」

 引き続き牛丼を食べながら私は頷いた。そうか夕衣は牛丼好きか。こういうお店で食べる牛丼とコンビニエンスストアやスーパーマーケットで売っている牛丼はかなり味が違うから、判らなくもない。

「じゃあ今度行こう」

「確かもう一軒は更に小さいやつがあった気がする」

「おぉーいいね」

 確かテレビCMで見た。割とお金もかかりそうな俳優さんを何人も起用していたし、なにやらシンプルとは呼べない変り種の牛丼も多かったように思う。

「でもそれだと少なすぎる気もしないでもない」

「ふーん、そっか。でもそしたらまぁ何か別のもの食べればいいし」

「まぁ、ね。うふぃー!食ったぁ!」

 腹いっぱいだぁ……。

「早っ!ちょ、待って」

 湯飲みに残ったお茶をゆっくりと飲みながら私は夕衣が食べ終わるまで待った。


 スタジオに戻ると、彩霞先輩、二十谺、美朝みあさがもう来ていた。

「よっす、先輩、二十谺、美朝」

「あ、莉徒りず、夕衣ちゃん」

 そして彼女らは私たちが入るスタジオの防音ドアの両サイドに張り付いている。な、何だ……。

「おーっす」

 能天気に手を振りながら彩霞先輩は言ったけれども、それでもそこから動かなかった。

「なにやってんですか?」

「ちょ、見つかる」

 二十谺がぐい、と私を引っ張って自分の隣に収めた。ドアの左サイドには彩霞先輩と美朝がいる。

「え?」

「夕衣も、こっちきて」

 訳も判らず二十谺に引っ張られるまま声を上げると、夕衣も彩霞先輩に引っ張られた。

「中は見なくていいから、音聞いて」

 唇の前に人差し指を立てて彩霞先輩は言うけれど、姿さえ見えなければ中には声は聞こえないはずだ。それに中の人物はドラムを叩いている。それも結構正確なビートを刻んでいる。

「ん、紗枝さえ、入ってるんですか?」

「そう。中は見ないで、音だけ聞いて」

「どれどれ……」

 カベに張り付いて私は中の音に集中する。ビートは正確だしアクセントショットもハッキリしている。正直言って中々巧い。このレベルならば彩霞先輩のバンドでも充分使えるレベルなのではないだろうか。

「わ、中々……」

「でしょ?」

 にやり、と満足そうな笑みで彩霞先輩は言った。

「で、隠れてんのはなんで?」

「もういい?大体紗枝がどんだけ叩けるかは判った?」

「うん、まぁ大体、ですけど」

 これだけでは細かいところまでは判断しにくいけれど。

「じゃあそうね、夕衣がいいかな。ドアの前、立って」

「え?」

 くい、と夕衣の袖を引いて、防音ドアに設えられている丸窓の前に夕衣を立たせた。

「紗枝から見える位置に」

「え、あ、はい」

 にゅ、と少し首を伸ばしてスタジオの中を覗くように夕衣が動いた。

「あ、止まった」

「あー、止まっちゃうかぁ。じゃあしょうがない、中入ろ」

「え?どういうことですか?」

 彩霞先輩が何をしたかったのかは判らない。二十谺や美朝が何も言わないということは二人は彩霞先輩から説明を受けているのだろう。

「まぁ説明すんのもいいけど、百聞は一見にしかず」

「なるほど。じゃ入ろ」

 私が言うと夕衣がレバーハンドルをがちゃこ、と回した。

「こんばんは、紗枝ちゃん」

「ちーっす紗枝、中々やるじゃん」

 私と夕衣が入るなり紗枝に声をかけた。紗枝はがたた、と立ち上がってべっこりと私たちに頭を下げた。ううむ、やっぱりこう、何と言うか後輩キャラみたいなのは紗枝の地なのか。

「え、あ、お、おはようございます」

「もう夜だよ紗枝ちゃん」

 苦笑しながら美朝が言う。美朝の人当たりはいつも柔らかいなぁ。羨ましい。

「身体はほぐれた?紗枝」

「あ、は、はい……。で、でも……」

「ま、とりあえず全員セッティング!」

 何かを言い募ろうとした紗枝をいなして彩霞先輩はみんなにそう言った。百聞は一見にしかず、と承諾してしまった私たちは従う他ない。

「はぁい」


「うっし、おけ」

 マスターのバランスは全員が揃ってからで良いだろう。私はEX-Ⅳにブルースドライバー。アンプは今回もMarshallマーシャルだ。空間系は今日は持ってきていない。夕衣もいつも通り、ストラトにマルチエフェクター。あれ、今日はあれ何だ?スクリーマーか?緑色のコンパクトを一つ、足元に置いている。少し近付いてみると、やっぱりチューブスクリーマーだった。そういえば持っているという話は前に聞いてたっけ。

「こっちはとっくに」

 クローマチックチューナーだけの二十谺はボーン、とE弦を鳴らした。

「わたしもオッケ」

 じゃらん、とクランチ気味のCを鳴らしながら夕衣も頷く。おぉ。いい音だなぁ。さすがはIbanezアイバニーズのスクリーマーだ。確かPhoeni-xのライブの時は英介に借りたThe JackHammerザ ジャックハンマーを使っていたはずだけれど、音創り的にsty-xのStorm Bringerではなく、ROGER AND AREXのトランジスタに合わせてきたのかもしれない。

「私も大丈夫」

 ぽんぽん、と美朝もCを鳴らしながら言った。今日はこのスタジオでレンタルしたTRITONトライトンだ。行く行くはデフォルトをRolandローランドに替えるって夕香ゆうかさんが言っていたけど、KORGコルグの方が需要はあるのではなかろうか。まぁトップの判断なのでアルバイト風情が、しかも良く知りもしないキーボードのことについてあれこれ言える筈もないのだけれども。

「よーっしゃ」

「ちょっと待った先輩」

 私たちがセッティングしている間、ハイハット一つ鳴らさなかった紗枝を見て私は言った。

「ん?」

「紗枝は?」

「お、おっけぃ、です」

 しゃん、とハイハットを小さく一つ鳴らす。な、何だ……。

「んじゃStorm Bringerストームブリンガーからやろっか」

「い、いきなりですか……」

 紗枝が目を丸くする。

「いきなりも何も今日は二曲だけなんだから」

「そ、そうですね。よ、よろしくお願いします」

「こ、こちらこそ……」

 紗枝がばか丁寧にお辞儀をしてくるので、ついついつられて私も頭を下げた。

「じゃあカウント!」

 彩霞先輩が言って、紗枝がしゃんしゃんしゃんしゃん、と四つのハイハット。ドン、とベースドラムと同時にクラッシュシンバルが鳴り……。

「!」

「?」

 変則な、とても不規則なエイトビートが流れ出した。どうした。さっきのエイトビートはどうなった。私と夕衣と二十谺、美朝がアイコンタクト。

 それでも何とか根性でStorm Bringerのリフを、夕衣と弾き切る。この一週間で夕衣も随分弾き込んできたみたいだけれど、不規則なドラムのおかげで弾き難いったらない。みかん箱の中に腐ったみかんが入っていると他の正常なみかんをも腐らせる金ぱっつぁんのアレと同じだ。私も美朝も、練習の虫である夕衣でさえも、腐って行く。

 彩霞先輩をチラ見すると、止めるつもりはないようだ。このまま一曲行くしかないが、この不安定さはどうした物か。

 二コーラス回した直後からギターソロだ。そしてギターソロの後には、短いけれどベースソロもある。そのベースソロはドラムはハイハットの刻みだけなので、さすがに不安定にはなるまい。

「!」

 カウント取りのハイハットですら揺れている。二十谺の顔が険しくなる。ピッキングをわざと大振りにして、紗枝にリズムを取らせるようにしているけれど、紗枝はそれをまるで見ていない。

 その後何とかサビを二回しして、アウトロ、曲が終了。

 ざん、と音を切って彩霞先輩が私たちを見回す。

「どう?」

「や、どうも何も……」

 これが紗枝の実力とは思えないけれど、ふざけてやっていた感じはもちろんない。ふざけてこれができるのであれば大した度胸だとは思うけれど、もしもそうなら問答無用で翔乱脚だ。そしてやっぱりわざとではない証拠のように紗枝は割と大きめの体をこれでもかと竦ませて下を向いたまま、一切口を開こうとしない。

「……」

「どういうことなんですか?」

 二十谺が彩霞先輩に訊ねる。

「見ての通り。紗枝」

「……ぃ」

「大きな声ではきはきとぉ!」

 いつだったか私が史織に言ったことを彩霞先輩が言う。元々こっちがオリジナルだけれども。

「は、はいぃ!」

「うわ、ちょ、ま」

 ばば、と顔を挙げた紗枝の瞳は涙に濡れていた。私は面食らって二の句を告げられない。

「ちょ、なんで紗枝ちゃん?」

「いっからいっから」

 からからと笑って彩霞先輩は言った。その昔、まだ私が紅顔の美少女だった頃、私にもこういった経験は何度かあった。

「お前さ、このレベルでライブなんかやれると思ってんの?」

「ちょ……」

 私たちに言った能天気な雰囲気など微塵も感じさせずに、どぎつい言葉を発する彩霞先輩。夕衣が待ったをかけようとしたので、私がその夕衣を制止した。

「莉徒」

「いいから」

 彩霞先輩がどういう人間なのかを見る良い機会だ。まぁ彩霞先輩はこのバンドには今日だけしか参加しないし、早々絡むこともないかとは思うけれど。

「でも!」

 更に言い募ろうとした夕衣の唇に人差し指を軽く当てて、事の成り行きを見守る。

「紗枝、お前さ、あたしがこのバンドの話出した時に、自分でやりたいって言ったわよね」

 ドスの聞いた声で彩霞先輩は紗枝ににじり寄った。タバコが吸えたらきっとタバコ吸ってるだろうな。いやぁやっぱりこの女はおっかない。

「は、はい……」

「で、このデキな訳?お前の知ってる、できる曲選んだよね。お前の好きな曲選んだよね。それに皆が賛成してくれたんだよね。一週間も時間あったよね」

「す、すみませ……」

 謝る紗枝の声をわざと遮って彩霞先輩は更に声を高くする。

「集まってくれたみんなにどう顔向けする訳?あたしのツラ潰す気か?お前は」

「ひぐ……」

 もはやマジ泣きだ。私の時は泣きはしなかった。その代わりに、感情に任せて彩霞先輩を蹴り飛ばしたことがある。そのあと、本当に、男の喧嘩みたいにボコられたけど。

「莉徒はまぁあたしが強引に頼んだってのもあるけど、でもこうして態々来てくれてんの。それもあたしの頼みごとだから、あたしの後輩だからってね。夕衣だって自分から協力してくれたよ。んで二十谺、美朝はあたしだってこないだほぼ初対面なの判ってんでしょ。それでもお前を見てくれるっつうからみんなにお願いしたんだよ。判る?」

 ぱしん、と手でシンバルを叩いて紗枝を威嚇する。紗枝はもうビビッて動けないようだ。

 ……気の毒に。

「おー、てめえ聞いてんのかよ!」

「……」

 紗枝の手からドラムスティックを引っ手繰って、クラッシュシンバルを鳴らす。音の大きさに、紗枝がびくりと体を揺らした。隣で夕衣がく、と握り拳を握ったので、私は夕衣にこっそりと耳打ちした。

「演技」

「え?」

「多分だけど、全部演技だからもうチョイ待ってやって」

 怒り方がちょっと普通じゃない上にわざとらしい。それも過去にこんな経験がある私だから判るのかもしれないけれど、彩霞先輩、ちょっと楽しんでる節もある。まったく性悪な女だ。

「う、うん」

 す、と握り拳を開いて夕衣は頷いてくれた。

「あたしんことナメてんのか?お?そんな腐れたコンジョーならおまえ、ドラムなんかやめちまえよ!」

 どん、と軽くベースドラムの脇を蹴って、もう一度シンバルを叩いた。直接手を出さないのはやっぱり演技だからだろう。この女、マジギレしたら手に負えないんだから。

「……ばす」

「ばす?」

 紗枝が消え入りそうな声で何かを言った。おっと思わず口に出してしまった。

「はぁ?」

 更に挑発するように彩霞先輩は紗枝に言った。

「やりばすよ!ぢゃんど!やりばすがら!」

 ぐわ、と顔を挙げて、急に紗枝がキレ出した。もはや鼻水だか涙だか判らない液体で顔面はびっしょりな上に、あまり何を言っているか聞き取れない。あぁ、可愛い顔が台無しだ。ちなみに私が彩霞先輩に蹴りを入れたのはこのタイミングだった。

「おーっし言ったな!んじゃもっかい、やれっか紗枝!」

 大袈裟に笑って紗枝に言うと、今度は私たちの方へくるりと振り返ってウィンクした。やっぱり演技か。でもそれで紗枝の何かが変わるとは思えないな。

「あい!」

 言って、というか叫んで紗枝がカウントを叩く。自棄になっているからなのか先ほどよりも音がでかい。いきなりはじまったので、私達も慌ててコードを押さえる。

「……!」

「!」

 先ほどとは全然違う、ハッキリとしてそれでいて安定したエイトビート。さつき、けいに続いてこいつも強烈な癖を持った女だってことだ。なるほど彩霞先輩も手を焼いているのは充分に判った。私たちと合わせる前に、一人で叩いていたのがやはり紗枝の本当の実力なのだ。こうでもしないと本当の実力が出ないとなると、私が彩霞先輩の代わりをやるしかないのか。だとしたらかなり厄介な女であることには違いない。やはり彩霞先輩はとんでもない厄介ごとを持ってきたという訳だ。でも、と私は思う。

 紗枝の実力を引き出す方法があるのなら話は別だ。この方法が紗枝の実力を引き出す方法の一つ、ということならば、他にもやりようはあるかもしれないし。


「ってな訳。超絶問題児」

 演奏が終わると、ドラムの後ろに回って、紗枝の頭を抱きつつナデナデしながら彩霞先輩は笑った。これほど飴と鞭がてきめんな人物も珍しいな。もはや唖然とするしかない。

「こ、これは圭ちゃん以上ね……」

 夕衣もさすがに苦笑してそう言った。

「打開策は二つ。さっきみたいにブチ切れさせるか、この子が緊張しないくらい仲良くなるか」

 極端すぎるなぁ。でも。

「選択肢が二つあるだけ圭よりましだと思おう」

 圭は史織に解決策を教わらなければ今も問題児のままだったけれども。

「や、圭ちゃんは解決策も判ってるから今は別に問題ないでしょ」

 美朝が苦笑して言う。美朝は初ライブだったこともあったし、緊張していたようだけれど、背中バチーンでそこから解放されていたので、恐らくはそれほど緊張しいではないのだろう。

「でも私らが取れる方法なんか後者しかないでしょ」

 二十谺も苦笑だ。でもま、基本二十谺の言う通りだ。ただ私はやろうと思えば先ほどの彩霞先輩と同じことはできる。

 でもそれは彩霞先輩だから、彩霞先輩と紗枝の間に、私達では知り得ない信頼関係があるからできることなんだと思う。だから私は、やれるけどやりたくない。信頼関係がまだ出来上がっていない人間に、実力を引き出すためとはいえ、あれほどの暴言を吐かれれば誰だって良い思いはしない。

「ま、そうね。紗枝」

 幸い親密になれば、緊張はしないで済む、とのことだし(それがライブとなればまた別問題なのだろうけれども)ならばそれが一番の打開策だ。時間はかかるかもしれないが。私はできるだけ優しく紗枝の名を呼んだ。

「は、はい」

「聞いてるかもしれないけど、私と夕衣はあと一ヶ月くらいは正直バンドとしては中々活動できないの」

「は、はい、聞いてます」

 まだ少し涙声で紗枝は答える。ううやばい、こいつも可愛いな。オレの女候補だ。などと言っている場合ではない。

「でもちょっと遊んだりするくらいならまぁ割と時間はあると思う。つーか学生?働いてんの?」

 そもそも紗枝は同い年だとは聞いていたけれど、社会人なのか学生なのか、全く知らない。

「えと、瀬能せのう学園大学の……」

「同級生かよ!」

 うおい、と平手の甲を紗枝に向ける。まさか同じ学校だったなんて。いや、だからこそ彩霞先輩はこの街に住んでいる私に依頼してきたのだろう。

「ご、ごめ」

「莉徒」

 私を制する声。そうだ、人見知りで緊張しいでビビりだった。

「あ、ごめんごめん、今のは突込みだからいちいち気にしないでいいわよ」

 苦笑して私は紗枝に言った。すると今までだんまりを決め込んでいた彩霞先輩が口を開いた。

「ちょいと待った、莉徒」

「はい?」

「何、面倒見てくれんの?」

 あぁそうか、私はすっかりそのつもりでいた。

 彩霞先輩のあれほどの罵詈雑言を受けても、この子は誰のせいにもしなかった。口に出せなかっただけなのかもしれない。だけれど、もしも『まだ赤の他人に近い私たちに慣れていないから』だとか『練習する時間がなかった』だとか、自分以外の何かのせいにしていたのならば、あんなに涙をこぼして、俯いて、自分を責めてはいないはずだ。一種の潔さすら感じた紗枝の態度が、あんなにボロボロであっても私には毅然として見えたのだ。

「あぁーそうっすね、私は全然良いんだけど、あんたらは?」

 美朝、二十谺、夕衣をぐるりと見回して私は言う。答えはきっと決まっている。

「わたしも全然いいよ」

「私も。紗枝ちゃん可愛いし」

「うん、私も異存なし」

 三人とも良い笑顔で答えてくれた。本当にそう思っているのかは、私には判らない。優しいこいつらのことだから、私を立ててくれているということもあるかもしれない。でも私は信じることにしている。こいつらもこの難癖ある珍妙な女を、どこか気に入ってしまったのだ、と。

 それに私が訊くまでもなく、この三人は既に紗枝の緊張を解す方法などを模索していた。狙って考えた行動ではないのだろう。きっと問い詰めれば、あ、決める前にもう考えてた、などと言い出すのだろう。それはつまり既に受け入れていた、ということだ。

「か、変わり者……」

水城みずき彩霞の後輩とその親友たちですから」

 ない胸を張って私は言ってやった。

「……納得するとこじゃないよね、そこ」

「え、そうですか?」

 なんだかんだと面倒見の良い彩霞先輩は、もちろん今でも尊敬している。冗談で避けたりとかはしているけれど、本当に冗談だ。面倒事を持ってくる厄介な存在、と思ったのはほんの少し本当だけれども。

「言うようになったわねぇ」

「ま、これでも水城彩霞の一番弟子のつもりだし」

 彩霞先輩の優しさに敬服するつもりでわたしは言う。

「……まぁそうかもね。んじゃよろしく頼むわ。あたしも色々周ったんだけどさ、やっぱ時間がかかりすぎるし、紗枝もこの性格でしょ。大人しい紗枝にあたしみたいにがーっと怒鳴り散らせる奴もいなくてさ」

 私よりも多くのバンドやユニットを抱えているのだろうから、それはそうなのだろう。

「最後の砦が柚机莉徒だった、と」

「ま、そんなとこね。あたしに似てるとこもあるしさ」

 確かに否めないが、私はこの女ほど粗暴ではないし、もっとおしとやかなつもりだ。あくまでも水城彩霞個人と比べて、の話だけれど。

「げぇ」

「げぇ、つったかオマエ」

「言ってません」

 また紗枝のドラムスティックを引っ手繰って私に投げようとする。ほら、私はこんなにおっかなくない。

「じゃあ紗枝、こいつらはあんたのこと認めようとしてくれてる。それにどう応えるかはあんた次第だよ」

 ひとまず丸く収まりそうだからなのか、彩霞先輩は笑顔でそう言った。

「は、はい。あ、あの……よ、宜しくお願いします」

「こちらこそよろしくね、紗枝ちゃん。みんなでたっくさん楽しいこと、しよ」

 にっこりと笑顔になって美朝が言う。こういう時の美朝の笑顔は極上だ。本当に美朝には男がいないのだろうか。こんな女を放っておくなど愚の骨頂だ。世の男どもは屑野郎ばかりか。

「は、はい!」

 やっぱり人当りは美朝が一番良い。次は夕衣かな、やっぱり。

「ま、私らにはそんな気、遣わなくていいからさ」

「そ、怒ると怖いのは莉徒だけだから」

 ね、と夕衣も可愛らしい笑顔で言う。だが聞き捨てならぬ。

「いやあんたも怖い」

「嘘!はっちゃんのが怖いよ」

 まぁあまり夕衣が本気で怒ったところを見たことがないが、英介が一度本気で怒らせたらしく、偉く憔悴していたことがあった。

「私は莉徒がばかやんなきゃ怒らないわよ」

「……」

 たしかに、と夕衣が余計なところで同意した。

「だが、美朝よりでかい」

「?」

 私が言った言葉の意味を理解し損ねたのか、美朝と夕衣が不思議顔を作った。鈍い女どもめ。私がでかいの小さいの言うなんて胸のこと以外にありえないだろうが。

「紗枝、ちょっとこっち来て。一個だけ、儀式があるから」

「え、儀式?そんなのあったっけ?」

 ドラムの前に丸椅子を一つ置いて、とんとん、と手を置いて私は言った。ま、仲良くなるならやっぱりスキンシップよね。

「あ、あの……」

 ドラムセットから離れて紗枝はおずおずと出てきた。

「BKCだ」

 私はそう言うと、紗枝が座るのを待ってから、もう一つ丸椅子を出して紗枝の正面に座る。

「BKC?」

 二十谺だけが首をかしげ、夕衣と美朝はぽんと手を打った。

「あぁーそれね。大丈夫よ紗枝ちゃん、怖くないから」

「うんうん」

 言いながら二人は紗枝の背後につく。

「誰が行くの?」

「二号、行け!」

 夕衣が問うて私が告げる。二号はきょとんとしたまま動かない。

「……」

 夕衣と私がじっと美朝を凝視する。

「え、私!」

 自分を指差して美朝が声を高くした。お前以外に誰がいる。

「だってわたしが一号らしいから」

「そ、そっか。じゃあ遠慮なく……」

 夕衣の言葉に頷くと、美朝はぴったりと紗枝の背後に回り、両脇から腕を通し、紗枝の胸を揉み始めた。

「ひっひぃっ!」

「おぉー、さすがにはっちゃんほどじゃないけれど、手の収まりが……なぁにこれ気持ちいい」

「あ、やっ」

 夕衣の手つきはかなりエロイけれど美朝も中々のものだ。

「どらどら、オレにも揉ましてみ」

 そう言って今度は夕衣が紗枝の背後から胸をもみしだいた。

「おぉー、はっちゃんと美朝ちゃんのまさに中間クラス。収まりが良い!」

「あんたら何やってんの……?」

 目を丸くした彩霞先輩が言う。まぁ初めて見たんだからこればかりは仕方がない。

「だからBKC」

「だからなによそれ」

 今度は二十谺が言う。

バスト確認センター

「なんでKだけ日本語……」

 以前の夕衣と同じようなことを言って二十谺は呆れ顔をした。ふん、所詮ニュキョウ巨乳な奴には判るまい。

「はっちゃんも触ったらいいよ」

「私は同性に胸を揉みしだかれる鬱陶しさを良く知っている」

「えぇ!鬱陶しいって思ってたの!」

 夕衣が大げさに声を上げる。多分少しわざとだろう。

「空気読めない女か。でもまぁ男の子はこんくらいが好きなの多いんじゃないの?大きすぎず小さすぎず」

 ふむ、とすると二十谺は二十谺でそんな、あんなにも立派なものを持ちながら、鬱陶しいと思うこともある訳か。隣の芝生は青く見えると言うけれども。

「やーそれは違うでしょ。男はみんなはっちゃんクラスが好きだよ」

 夕衣は確信に満ちた表情で言う。それは男はみんなというよりも、英介がそうだからだろう。

「貴さんをのぞいてね」

「まぁあの人は特別だから」

 貴さんはいわゆるマイノリティだ。きっと。多分。世の中貧乳好きと巨乳好きを真っ二つに分けたとしたら、絶対に貴さんの軍勢は負けるに決まっている。

「どらどら」

 今度は私が正面から紗枝の胸を触る。

「あ、ちょ、や、やめて、ください……」

「おぉー、これは確かに気持ちいい。二十谺のとはまた違う良さがあるわ」

 手にきちんと納まるというのか何と言えば良いのか。

「紗枝、ちなみに言っとくけど、これでもみんなノン気だから」

「で、でも、あん」

 二十谺の言葉を聞いて紗枝が反論しようとしたが、その声が少し熱を帯びているような気がした。

「あ、やべ、声変わってきた、ストップ!」

「彩霞さん」

 私が胸から手を話すと、美朝と夕衣も少し紗枝から離れた。紗枝はたまらず自分の胸を隠すように自分の両腕を抱いた。

「なんだド変態ども」

「い、いや、私は違うでしょ……」

 呆れ顔の彩霞先輩に二十谺も呆れ顔を返す。

「まぁ二十谺はそうか。で、何?」

「紗枝はノン気?」

「聞いたことないけど、こないだまで彼氏いたよね、あんた」

 だからといってノン気とは限らない。そしてノン気ではなかったとしたら、BKCは二度とやるべきではない。夕衣は残念がるだろうけれど。

「は、はい。振られました、けど……。でも私もノン気です」

 それは何よりだ。私も流石にバイの女に悪ふざけはできない。

「紗枝ちゃんくらい可愛くても振られることってあるのか……」

 ぼそりと夕衣が言う。どんなに可愛くても、どんなに性格が良くても、ダメなときはダメなものだ。それを言うなら美朝だって一人でいるのが不思議なくらいだ。

「か、かわいくない、ですよ……」

「でも大丈夫!美朝なんてまだ処女だから!」

 す、と立ち上がって私は言った。

「え!マジか!」

「や、ちゃんとは訊いたことない」

 男と付き合ったことがないという話だけだ。

「でも男の人と付き合ったことないんだよね」

 そう夕衣も言う。そして美朝の性格から言って、処女捨てたがりのやりたがり女では絶対にない。だから、そう思ってはいるけれど。

「だからって処女とは限らんだろうがぁー!」

 ばしゃあんとシンバルを叩いて彩霞背先輩は叫んだ。

「え、あ、い、いや、その、したことない、です」

「はぁ、良かった……」

 お仲間がいて安心か、髪奈。しかし美朝とお前では決定的に違う点があるぞ。

「何で夕衣が安堵してんの」

 尤もなことを口にする彩霞先輩。だから私はさらりとそこを補足してやる。

「夕衣も処女だから」

「はぁ?だってあんたこないだ彼氏連れてきてたじゃん」

「だからって経験済みとは限らんだろうがぁー!」

 今度は夕衣が平手でライドシンバルを叩いた。あれはちょっと痛そうだけれど。

「もう半年お預け食ってんですよ、あいつ」

 苦笑しつつ私は言った。もう少しこの手の話で夕衣を追い詰めないと、本当にいつか英介が愛想を尽かしてしまう日が来るかもしれない。

「か、可哀想……。この鬼女きじょが!」

 かんかん、とシンバルのカップのあたりを叩いて彩霞先輩が夕衣を責め立てる。

「ちょ、やめて、デリケート……」

「まぁsty-xライブ終わったらするらしいから」

 というようなことを言っていたはずだ。

「まだ決めてない!」

「ひっでぇ女だ……」

 ぼそり、と二十谺も言う。

「浮気されても知らないぞ、あんなイケメン……」

「わ、判ってますよぉ」

 まぁ夕衣の弁を借りれば英介がイケメンだから付き合った訳ではない、ということだが、それは恐らく事実だろう。夕衣と出会ってからの英介は変わったし、英介は本当に夕衣を大切にしていると思う。

「ま、まぁ彩霞先輩、夕衣はそこ、今ガチで悩んでるから」

「そうなんだ」

 だからといって中学生でもあるまいし、という気持ちはある。確かに怖いという気持ちはあるけれど、その時、本当に好きな相手とだったら良いのではないか、と私は思う。

「付き合い始めてすぐ、あいつ北海道に行っちゃって、帰ってきたの四月なんですよ」

「あぁ、なるほどね。じゃあまぁ一概にひどいとは言えない、か」

 事情を話せば判らなくもないのだけれど。それにしても英介は良く我慢している。

「でもまぁもうそれから一月半だしねぇ」

「人様のことだからさ、口出しする気はないけどね。要は夕衣がどんだけあの彼氏のこと思ってるか、ってだけでしょ」

「ま、そうっすね」

「うう……」

 たまにはお灸をすえてやらないとね。

「夕衣さん……。あ、あの、そんなみんなで……」

 おずおずと紗枝が言った。お、こんな会話に混ざってくるならば打ち解けるのも意外に早いかもしれない。

「紗枝ちゃんっ」

「ひぃっ!」

 がば、と夕衣は紗枝を後ろから抱いて、やはり胸に手を伸ばす。

「はぁーもー、なんだよこの胸ぇ」

「な、何だと言われても……」

 ま、とりあえずお灸はここまでにしておこう。夕衣もクソ度胸は有るくせにけっこうデリケートな女だから、あまりやりすぎると本気で凹んでしまう。

「よっし、とにかく練習再開。紗枝、まだ続くか?」

「わ、判りません……」

 びくり、と背筋を伸ばして紗枝は言う。まぁ今日は初日だし、対処方法もあるのはあるのだから、気長に行くしかない。

「だめだったらまた泣かすかんな、てめえ」

「だから怖いっつーの」


 20:紅しょうが 終り

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