19:モンブラン
二〇〇七年五月十一日 金曜日
大学の学食。この間の
「
「うん、楽器って楽しいね」
オレンジジュースを一口飲んで、美朝ちゃんは笑顔になる。こんなに良い笑顔をしているということは本当に楽しみながらレッスンを受けているのだろう。
「今ってどんなことしてるの?」
「基本のバイエルっていうのと同時に、初心者の楽譜みたいなやつでジブリの曲とか、ゲームの音楽とか、私が好きな曲を練習してる」
バイエル……。なんだか聞いたことはある。エチュードとは何がどう違うのだろうか。わたしには違いがさっぱり判らない。
「へぇ。やっぱり好きな曲のコピーってやるんだね」
ギターでもベースでもキーボードでもそこは同じなんだ。
「結局はそれが上達につながるからね」
「コピーって個人的にやるんだったら楽しいよね」
「メンバー全員が好きだったらバンドでも楽しいわよね」
だとしてもライブではやらないけれど。わたしはもちろんコピーバンドそのものを否定するつもりはない。けれど、わたし自身がコピーバンドをやるつもりもない。いや、コピーバンドをするのは全然良いのだけれど、そのバンドでお金を取ってライブまではできない。
だからと言って、わたしの意見が正しいなどと言うつもりもない。ただ単に、オリジナルバンドならばライブはしたいけれど、コピーバンドではライブはしたくないというだけの、わたしの我儘だ。だからこの意見が否定されて、バンドに誘われなかったり、バンドから外されたとしても、それはそれで仕方のないことだと思っている。
「明後日、どうするの?」
「あぁ、
「うん」
彩霞さんの提案した臨時のバンドはとりあえずの顔合わせが明後日に決まった。これは莉徒もわたしも美朝ちゃんも関わっていることなので、この場で言っておいた方が良いだろう。
「とりあえず顔合わせだから、何か練習曲とかはその時に決めればいいよ」
確かにそうか。莉徒が言うほど彩霞さんがとんでもない性格には思えなかったけれど、それは今後判ってくることなのだろうか。
「もうさつきちゃんの時みたいな缶詰め、一夜漬けは勘弁してもらいたいね」
苦笑して美朝ちゃんも言った。でもそのおかげで美朝ちゃんの非凡さを知ることができたのだけれど。
「だね。とりあえず美朝が好きな何か、コピー上げようか」
「私?」
それはいい案だ。美朝ちゃん的には遠慮してしまうかもしれないけれど、そんな遠慮は無用だ。
「うん。美朝が好きな曲やろう」
「それがいいね」
「で、でもいいのかな、私みたいな初心者が……」
気後れする気持ちは判るけれど、何もその曲だけをずっとやって行く訳ではない。活動が軌道に乗ることができたら、オリジナル曲だって創って行くのだから。
「ばかね、初心者だからこそよ」
「美朝ちゃんが楽しいって思えなかったらバンド、やる意味ないよ」
最初の気持ちが一番大切だ。わたしたちは、もう好きな曲のコピーをやる以外にも楽しみ方をたくさん知っている。だからわたしたちになど気を回す必要もないのだ。
「そっか……。でも私まだ好きなアーティストの曲とか手つかずだよ」
不安になる気持ちは判る。新しいことにチャレンジするときには必ずそんな不安は付きまとってくる。でも、そんなことに怯えてしまったら、それ以上に楽しいことを知らないままになってしまう。
「だからやるんじゃない。いつまで待ったらソレやる気なの?」
「……あ、そっか」
練習して練習して、もうこれで万全だ、という手応えを感じるまでライブをしないバンドがいるという話も聞いたことがある。それはバンドの方針だろうから、わたしが口出しするようなことではないけれど、わたしが所属するバンドがそんな風だったら、わたしはすぐに辞めていると思う。それに美朝ちゃんはそんなところをもう飛び越しているはずなんだから。
「折角ライブ経験したんだから、どんどんチャレンジしていこうよ」
そう。美朝ちゃんはもう楽器経験わずか数日でステージに立っているのだ。これ以上の経験点はない。わたしだってそうだし、きっと莉徒だってそんな経験はしていないはずだから。
「そうだね、ありがと、二人とも」
こと、とオレンジジュースの入ったグラスを置いて、美朝ちゃんは微笑んだ。
「ふわぁ……。オ、オレの女になれ!」
その笑顔があまりにも可愛すぎて、莉徒が口走った。わたしだって負けてない。
「いやおれの!」
「何ぃ?おまえに美朝は渡さねぇ!」
莉徒がもはやそんな漫画が実在するのかと思うほど大昔の古典ネタをやってのけるので、わたしは違う方面からそれを切り崩した。
「貴様の……もの……ではあるまいっ!」
「そうだな……ならば海賊らしく……いただいてゆくっ!」
お、ついてきた。さすがは莉徒。最近貴さんに借りたロボット漫画だ。大変面白うございました。
「やめて!私のために争わないで!」
「おぉー!」
古典だけれど、美朝ちゃんがまさかのノリを見せてくれた。わたしと莉徒は一瞬の驚愕の後、拍手喝采を美朝ちゃんに送る。
「えっ」
いきなり寸劇が止まったことに驚いたのか、美朝ちゃんの紅潮した顔がわたしと莉徒を交互に見る。
「や、いいノリ!」
「恥ずかしい……」
「美朝もアホんなってきたわね!」
「えっ……」
あ、ちょっとショック受けてる。面白い。確かに美朝ちゃんは勉強はできるし機微にも敏感だ。アホだのバカだのという言葉とは無縁で生きてきただろうから。
「良い意味で!」
一応フォロー。判っているとは思うけれど。
「美朝ってつくづく努力の人ね」
「こんなノリにまで頑張って合わせてくれるなんて」
生真面目すぎるにもほどがある。こういった生真面目な性格が後々美朝ちゃんの身に不幸を招かなければ良いなぁ。美朝ちゃんは優しすぎるし、真面目すぎる。それに多分だけどストレスを表に出さないタイプの人だ。ちょいちょいガス抜きをしないといつかパンクしちゃうかもしれない。
「だ、だって
「いいじゃない、いいじゃない」
「これからバンドも一緒にやるんだしね!」
今まではきっと莉徒がそういうところを上手に突っついてきたのかもしれない。だけれど、これからはわたしだっている。今まで色々と気遣ってくれたお礼もしてあげなくちゃいけないし、何より、本当に美朝ちゃんとはもっと仲良くなりたいから。
「
「まぁあいつもノリはいいわね」
はっちゃんもノリは良いけれど、美朝ちゃんと同じで、わたしが胸を触ると、やっぱり抵抗する。そこだけが残念でならない。
「そうなんだ」
「そういえば美朝ちゃんてどんな音楽が好きなの?」
「夕衣ちゃんと莉徒と一緒。
あ、前に訊いたな、そう言えば。考えてみれば美朝ちゃんとはあまり音楽の話をしたことがなかったかもしれない。それは美朝ちゃんが音楽を演奏する側ではなかったことが大きな要因だ。例えば、今日のようにわたしと莉徒と美朝ちゃんで話していて、美朝ちゃんが全く楽器や演奏、音楽に興味を持っていなかったとしよう。その場合、わたしや莉徒が音楽の話をしてしまうと美朝ちゃんは退屈になってしまう。せっかく三人でいるのに、二人にしか判らない話題をしてはもったいないし、話に入れない一人が可哀想だ。そんな訳で、美朝ちゃんとはあまり音楽の話をしてこなかった。
「あ、そうなんだ。じゃあシンセで弾き語りなんて丁度良いじゃない」
「うん」
早宮響さんも岬野美樹さんもアコースティックギターやキーボードやピアノの弾き語りを多くするアーティストだ。CDやライブではバンドサウンドで歌ったりもしているけれど、基本は全てアコースティックギターかピアノの弾き語りができる曲だ。わたしは彼女が街角に立ち、アコースティックギター一本を武器に歌っている姿に強烈に憧れた。
「あとあれも好きだったわよね、
Wilde Frauは最近名前を聞くようになったバンドだ。何だったか、人気アニメのタイアップを取ってからよく名前を聞くようになった。
「あぁ、わりと最近出てきたバンドだよね。わたしも気になってたんだ」
少しインターネットの動画サイトでプロモーションビデオを見たけれど、何というか、当たり前のことなのだけれど、きちんとバンドしているとでもいうのか、奇妙なギミックを使わず、本当にギター、ベース、ドラム、そして歌のみで音楽を構成しているバンドだった。ロックというジャンルとは少し違うけれど、ロック調のノリの良い曲が好きで結構気になっていた。
「出てきたのは最近だけど、結構インディーズでCD出してるんだよ」
「へぇ、そうなんだ」
インディーズバンドを知っているとなると、美朝ちゃんも実は結構な音楽好きなのだろう。そうでなければわたしたちがやっているような学生バンドのライブイベントにも顔は出さないだろうし、楽器をやってみたい、とも思わないはずだから。
「Wilde Frauってあんまりロックなイメージはないよね」
「まぁ美朝はもともとロック畑の人じゃないからね。あんただってそうでしょ」
「あ、そっか」
そうだった。最近は
「そんなにロックではないけど、ロックな感じも結構あるし、ちゃんとバンドしてるよ。私も結構好き」
「ほほぅ。わたしちゃんと聞いたことないな」
莉徒が好きなんだったらわたしも抵抗なく聴けそうな気がする。
「じゃあ明日持ってくるね」
「お、やったぁ、ありがと」
「夕衣は結構好きそうかもよ」
「楽しみ」
莉徒の太鼓判付きか。これはまた一つ楽しみなアーティストが増えてしまった。まだ聴く前なので何とも言えないけれど。
「あとはリベル・パテルとかは美朝が好きそうかも」
リベル・パテルは女性だけのスリーピースバンドで、Wilde Frauよりもキャリアのあるバンドだ。莉徒が大好きな
「あ、ちょっと好き。莉徒CD持ってるの?」
リベル・パテルはロックバンドなので、Wilde Frauよりも莉徒の好みに合っているのだろう。
「おー、持ってるよ。じゃあ私も明日持ってくるわ」
「うん」
わたしはリベル・パテルは既に莉徒に借りていたので全て持っている。それよりも。
「何難しい顔してんのよ」
「い、いやわたしも何か美朝ちゃんに貸せるようなもの、あったっけかなぁ、と……」
「あんたのはコアすぎるからねぇ……」
それを言われると返す言葉がない。いわゆる、一般受けとでも言えば良いのか、普通、音楽をやっていなければ聞かないようなものはいくらか知っているのだけれど、音楽を聴くのは好きだけれど、やる方は全く興味がない、というような人に貸すようなCDはそれこそ、早宮響さんと岬野美樹さんくらいしか持っていない。
「昔のフォークの凄い人とか、最近の人だと
「鈴井泰造?」
やっぱり知らないよなぁ。フォークやアコースティックギターが好きな人ならばほとんどの人が知っているくらいなのだけれど。
「うん。ちょっと動画サイトで検索してみ、かなりすごいフォークの人」
そう、莉徒の言う通り一度見てみれば良いのだ。素人目にも凄いって良く判るはずだから。
「へぇ、そうなんだ。じゃあ帰ったら見てみるね」
「うん、是非是非!」
にこり、と笑って失敗したと気付く。ここは美朝ちゃんのように微笑むところだった。
「そういやさ、こないだ中央公園で見かけたんだけど、普通に多分ピアニストだと思うんだけど、すんごい巧かった」
莉徒の言い方だと知り合いではないみたいだ。わたしたちは
「へぇ、見てみたいな。何曜日だった?」
「先週のぉ、木曜だったかなぁ」
「見たことない人だった?」
あの場所は大体曜日で面子が決まっている。別にルールがある訳ではないので、誰が何曜日に混ざってもどうということはないのだけれど、わたしたちはもっぱら金曜の夜か土曜の夜が多い。それにピアノ演奏だけとなると中々珍しい。明日からアルバイトを始めるEDITIONの先輩、
「うん、香憐さんは知り合いみたいだったけど、私は知らなかった。なんかさ、クラシックとかじゃなくて、ゲームの音楽とか弾いてて、超かっちょ良かった」
なるほど莉徒が食いつく訳だ。莉徒はゲーム好きだし昔のゲーム音楽も大好きだ。
「へぇ、じゃあ今度の木曜、行ってみようよ」
わたしも昔のゲーム音楽は結構好きだ。時折作曲のヒントにもするし、今風にアレンジしたら美しい曲なのだろうな、と思う音楽がたくさんあって楽しい。
「んだね」
「そういえば香憐さんもキーボード弾き語りやるんだよね」
「んだ。巧いよ」
一度しか見たことがないけれど、本当にきれいに、丁寧に自分の楽曲を歌っている人だった。バンドにも参加することはあるらしいけれど、基本的には一人での活動がメインなのはわたしとも似ていて、ついつい色々なところでシンパシーを感じてしまう人だ。
「美朝ちゃん、久坂部千里さんはどぉ?」
「あ、うん、嫌いじゃないよ。曲は持ってないけど」
きた。
「じゃそれわたしが持ってくる!」
「ありがと」
久坂部千里さんも私は大好きだ。早宮響さんや岬野美樹さんよりも上の世代の女性に絶大な支持を受けている人だけれど、わたしのような年代でも聞いている人は多い。まだギターを始める前から聞いているアーティストだけれど、基本ポップでバンドサウンドではないので、コピーとかはしたことがないけれど、CDは結構な数を持っている。
「これで対等ね」
「何張り合おうとしてんのよ」
呆れ顔で莉徒が言った。た、確かにそうなのだけれども。
「わ、わたしも、もっと美朝ちゃんと、お、お近付きに……!」
正直に言う。変な意味ではないし、ちゃんと友達としてもっと仲良くなりたいだけなのだから別にかまわないだろう。言っておくけれど私はノン気だ。
「なにぃ、お前に美朝は渡さねぇ!」
「美朝!そんな奴やめておれと来い!」
「や、やめて!二人のうちどちらかを選ぶなんて私にはできない!」
おぉ、美朝ちゃんは本当に努力の人だなぁ。なんだか付き合わせてしまって悪いような気もするけれど、わたしと莉徒の寸劇を見ていて楽しそうだと思うのなら、ガンガン入ってきてくれたら良いのだ。
「……悪女だ」
「ホントだ、悪女だ」
でも美朝ちゃんが相手でも、ノリにはノリで返す。
「……!」
はっきりしないのは男でも女でも疎まれやすいということで。またも軽くショックを受けている美朝ちゃんに一応フォローを入れておく。
「ま、グッジョブってことで」
く、とサムズアップ。
「そ、そうなの?」
戸惑いつつもサムズアップを返してくる美朝ちゃんはやっぱり可愛いなぁ。
「もっちろんよ」
にん、と莉徒もサムズアップして言った。
二〇〇七年五月十三日 日曜日
七本槍市 七本槍南商店街 楽器店兼リハーサルスタジオ EDITION
日曜日のアルバイトの時間は午前九時から午後二時までだ。日曜日は学校関係の仕事もなく、店にいられるスタッフも多い。その分、週末は練習スタジオの方が忙しくなってしまうので、そちらの業務に人を集中させている。
「それじゃお疲れ様ね、夕衣ちゃん、莉徒ちゃん、英介君」
柔らかな笑顔で香憐さんが手を振った。香憐さんもこの時間でアルバイトは終わりらしい。お店を出ると香憐さんは駅の方へと向かう。香憐さんの家は駅向こうらしく、いつも徒歩でここにきているのだそうだ。
「あーぃ、お疲れっすー」
「香憐さん、まったねーん」
でれでれした顔で英介が言う。判ってる。こんなのただのやきもちで、しかも意味がないことだって。でも。
「おっつかれさまでっす!」
だだん、と二回、英介の足を踏んでわたしも香憐さんに笑顔を返した。
「いってぇ!」
「ばぁか」
「……」
苦笑しつつ、香憐さんは駅へと歩き出した。それを見送ってからわたしたちも、商店街のはずれへと歩き出す。
「香憐さん、最近ちょっと明るくなったねー」
「そぉ?わたし判んないな、いつもあんな感じじゃない?」
去年の夏の臨時アルバイトは大体が外での仕事だったので、わたしは全くと言って良いほど香憐さんとは接触していなかった。なので、香憐さんがどういう感じだったのかという印象は、ここ最近の印象でしかない。
「まぁあんま大きな声で話すことじゃないんだけどさ、ちょっと前までDVの男と付き合ってたらしくて、別れらんなくて悩んでたっぽいよ」
「え、まじかよ。あんなか弱そうな女の人に暴力振るうとか有り得ねぇだろ」
そもそも女性に手を挙げる男、ということ自体が信じられない。わたしはフェミニズムも何も持っていないけれど、それでも腕力で勝る者が、劣る者に手を挙げるなんて、男同士でも女同士でも嫌なイメージしかない。それが男女の関係であればなおのことだ。
「そうとも言い切れないよ。その辺ってもうコアすぎる世界だしさ。暴力振るう側だって自分にそんな素養があったなんて気付かなかった、って話もあるし、女側だって殴られて愛情感じるって人もいるらしいからさ」
「うえぇ、理解に苦しむ世界だな」
「だね……」
まったくもって英介の言う通りだけれど、香憐さんのようなあんな美人でも恋愛に苦労することもあるんだなぁ。わたしは僻み根性もあるかもしれないけれど、可愛い女の子や美人の女性などはそんなことで苦労はしないのかとばかり思い込んでいた。
「夕香さんが結構相談乗ってたみたいでさ」
そう思えば夕香さんも涼子さんも相応の苦労はしてきたのかもしれない。
「香憐さんはどっちの人だったの?」
別れられなかった、ということは、ある程度その暴力に愛を感じてしまっていたのだろうか。
「まぁ暴力に愛情を感じるタイプではなかったんだと思うけど、多分、暴力以外のところで、がっつり惚れ込んで抜け出せなかった、って感じなのかなぁ。まぁ私は直接聞いた訳じゃないから何とも言えないけどね」
「なるほど、って言えるほど納得はできないなぁ」
特に自分の知らない世界のことで解った風なことは言えないし。
「でも夕香さんの話じゃ色々吹っ切れたみたいだよ」
「じゃ良かった」
夕香さんが相談に乗ってくれていたのなら、きっと最後までちゃんと夕香さんも付き合ったのだろうし、今香憐さんがあんな笑顔でいられるのならば大丈夫、ということなのだろう。一人で抱え込んで、一人で結論を出してしまわなくて本当に良かった。
「ああいう人はちゃんと幸せんなってほしいよな」
「だねぇ」
次に好きになる男の人が素敵な人だと良いなぁ。
「お前らこれからミーティング?」
「そうだけどでも
別に聞かれて困る話でもないし、
「あ、そう。じゃあ行く。みんなくんの?」
「うん。はっちゃんも美朝ちゃんも来る」
「おー、
あれ、なんだか少し声の温度が違う。
「何、苦手?」
「なぁんか見透かされてる気ぃすんだよな」
英介の苦笑路見てほんの少し理解する。確かにそれは判らないでもない。デキる美人だから、何を言っても言い負かされるような感じはしないでもないけれど、実際のはっちゃんは確かに気は強いけれどちゃんと優しいし、そんなことは全然しない。
「まぁ底が浅いあんたのことだからそらしょうがないわね」
「はぁー?浅くないですけどー」
ぎろ、と莉徒を見下ろして英介は言う。
「まぁ今はそうかもだけどさ、盛ってた頃のあんただったら一撃であの世行きだったわね」
この手の話題が出る度に、盛っていた頃の英介を知らなくて良かったなぁ、と思ってしまう。きっと高校一年生の頃から知っていたら、好きになっていなかったかもしれない。等ということを言ってしまうと、いじけてしまうので言わないようにしている。
「ま、まぁまさしくそれだよ。あんだけイイ女でズバズバもの言う性格だとさ、ちょっとおっかねぇよな」
「イイ女」
ぶす、と音が出そうな顔を創ってわたしは言った。それだってくだらないやきもちなのに、何故か腹が立ってしまう。
「だから底が浅いって言うのよ」
「そういう意味じゃねぇだろ!」
「そういう意味じゃないって判ってても言っちゃうのがもう、って話よ」
さすが、莉徒は判っていらっしゃる。
「むぅ、なるほど……。夕衣、すまん、そういう意味ではない」
「わ、判ってるよ」
わたしにはいつもこうして正直に謝ってくるので、痴話喧嘩という痴話喧嘩はしたことがない。だってこんな正直に謝られてしまったら、反撃のしようがないではないか。
「ちがう、そういう意味でもねぇ」
「は?」
「そりゃわたしなんてはっちゃんに比べたら全然イイ女じゃないけど……」
ど、どうして判ったんだろう……。
「お、偉い。底から二ポイントアップ!」
「何ポイントで底から這い上がれんだよ」
「六万五千五百三十五」
「六四キロバイトかよ」
「判りにくい!」
コア過ぎる突っ込みは置いといて。
「まぁ苦手っつぅと語弊あるな。ただ単に時間が足んなくて仲良くなれてねぇってだけだ。あっちがどう思ってるかは知んねぇけどさ。俺は宮野木のベースすげぇ巧ぇと思うし」
まぁ特にはっちゃんも英介のことは悪くは思っていないと思う。はっちゃんの彼氏の
「英介もそう思うんだ」
「あぁ、俺が知ってる近いバンド者ん中じゃ一番巧ぇかもなぁ」
「だよねぇ。
「
「うん、
伊口君は莉徒のバンド
「さつきちゃんも巧かったよね」
「あぁこないだの後輩か。あいつも巧かったな」
さつきちゃんも上手な人だった。わたしは多分、自分が好きな音楽のジャンルからベースラインを考えるので、素直に綺麗なラインを弾く人はみんな上手だと思えてしまう。ベーシスト的にはそれは基本なので、そこで巧い下手の判断はできないらしいのだけれど。
「まぁヤツは性格に難ありすぎ」
「だね」
もう少し馴染みやすいというか、とっつきやすい感じだとバンドメンバーも居ついてくれるのではないだろうか。私は莉徒がいなかったらきっと彼女たちとはライブなんてできなかっただろうな。
「それにしてもアサのセンスにはぶったまげたな」
「だよね、あれはちょっと普通じゃないよ」
僅か数日でステージに立たせたわたし達もわたし達だけれど、そこまでにできる最善を尽くしてステージに立った美朝ちゃんは正直すごいどころの話ではない。
「途中で失速しないようにしないとね、私らが」
「そうだね」
初速で突っ走ってしまったから、何か、壁にぶつかった時に簡単に折れてしまう、ということももしかしたらあるかもしれない。美朝ちゃんのことだからそれはないと思うけれど、音楽や楽器のモチベーションはずっと続けているわたしだって浮き沈みは激しい。
「色々気遣いも難しいと思うけど、まぁお前ら、いい意味で緊張感持ったままで仲良いし、イケんだろ」
「だと思う」
わたしと莉徒がもう知り合ってほぼ丸一年、ずっと一緒にいられるのは、馴れ合いではない仲の良さを保っていられるからなのだと思う。英介の言う通り、良い意味での緊張感はずっと保っている。
「それにまぁ最悪独りでもできる楽器だってのは救いもあるよね」
「あぁ、なるほどな」
「どういうこと?」
美朝ちゃんはわたしたちとバンドをしたいと言ってくれたのだから、独りでなんて今は意味を見出せないのではないだろうか。
「ドラマーとかベーシストはバンドっていう単位じゃないと演奏できる場がないでしょ、普通は」
「あ、そっか」
最悪、というのはそういうことか。確かにわたしたちギターボーカルをしている人間は、バンドがなくなってしまったとしても、わたしのように一人で弾き語ることで自分の音楽を表現できる。美朝ちゃんが選んだキーボードもそうだ。だけれどドラムやベースはそうは行かない。ベースボーカルならば、以前良くテレビで見かけた芸人さんのように弾き語ることも可能だろうけれど、あれはあくまでも芸人としてのネタであって、それ以上も以下もない。だから自分の音楽を表現するということは難しいはずだ。それにベースボーカルの人口はおそらくギターボーカルとは比べるべくもなく少ないはずで、多くのベーシストは自らが歌を歌うことは想定していないはずだ。だとしたらそんな彼らがバンドを失ってしまったら、自分の音楽を表現できる場を無くしてしまうかもしれない。
「さつきと
「あれは泣きついたって言わない……」
茶々は入れてしまったけれど実際問題、ベースのさつきちゃんとドラムの圭ちゃんだけではバンドとしての音楽が成り立たなかった。だから莉徒に助けを求めたのだと思う。
「まぁそうだけどさ、でもベースとかドラムなんて一緒にやる人がいなくなっちゃったら心折れちゃうんじゃないかな。特に最初のうちはさ」
「まぁ探しゃいいだけの話だと思うけどよ」
英介は情け容赦ない。けれどそれは自分達がある程度音楽をやってきているから言えることだということに気付いていないからだ。
「ま、そうだけどさ、それだって実際凄い労力必要じゃない。ある程度やってきてる私たちだって、自分独りからバンドを創ろうって思ったら相当でしょ」
「あぁ、そら確かにそうだな」
「だからさ、気遣ってあげんのは必要かな、って私は思うよ」
「そうかも……」
ふとはっちゃんの言葉を思い出した。
(ヘルプとはいえこんなカッコイイバンドでうまいベースと組んでたら私だって焦るわ)
はっちゃんはわたしと莉徒が組んでバンドをすることになったら、当然ベーシストは自分だと思ってくれていた。でも莉徒は、一緒にやりたい気持ちはあるけれど、はっちゃんとは違うバンドでお互いに切磋琢磨した方が良いという考えも持っていた。それはきっとはっちゃんと組みたくないという気持ちよりも、はっちゃんをより尊重しての考えだろう。でも、もしもはっちゃんが、いくら尊重された意見を重視したとしても、わたしと莉徒が組んだバンドから外されたとしたら、やっぱりとてつもなく淋しい思いをするに決まっている。だからやっぱり、やれる機会があるのなら、それこそはっちゃんのようにきちんとバンドに情熱を向けられて、それでいて音楽的にはきちんと緊張感を保てる仲の人とならば、絶対に一緒にやるべきなんだ。
「……ウチはライブいつやんのかなぁ」
「決まんないの?」
「あぁ、なんかドラムとボーカルが今忙しいらしくてな。新社会人だし、中々てめえの都合で仕事も休めねぇみたいでよ」
ベースの秋山君は同じ大学生だから、わたしたちがバンドを探している程度には時間はあるのだろう。
「まぁそらしょうがないねぇ」
「俺もなんかはじめっかなぁ」
「まぁいろいろ手は広げてみんのもいんじゃないの?」
英介は巧いからきっとどこへ行っても、ヘタクソだと断られることはないはずだ。
「だな」
「何か良いネタあったら教えてくれ」
「LAメタルでドラムとベースしかいないバンドがあるけど」
「ノーサンキューだ」
苦笑しつつ英介はぱたぱたと手を振った。さすがに英介もさつきちゃんと圭ちゃん相手では堪忍袋の緒も切れるだろう。
「でもあいつらの候補の中にあんたの名前上がってたわよね、夕衣」
「そういえば」
確か莉徒と英介以外はプロの名前を挙げていたけれども。
「あ、危なかった……。殆ど見ず知らずの俺もターゲットってどんなんだよ」
そもそもの情報源が夕香さんなのだからそれも致し方がないことだ。
「そういう連中なのよ。それを言ったら夕衣だって美朝だってそうでしょ」
「まぁそうか。怖ぇ怖ぇ」
さすがの英介もいくら可愛いとはいえあの二人とバンドする気にはなれないようだ。少し、安心してしまった。
「さてー、到着。お、彩霞さんいるじゃん」
「あ、ほんとだ」
vultureに到着して、窓から中を見ると既に彩霞さんがいた。その隣にはもう一人。恐らくドラマーの子だろう。彩霞さんよりも頭一つ背が高い。私たちミニマム族からしてみたら結構背の大きな子だ。
「ちあーっす」
「こんにちはー」
莉徒がまずvultureに入って陽気に挨拶。
「お、莉徒、夕衣」
「いらっしゃい、莉徒ちゃん、夕衣ちゃん、えーちゃん」
殆ど同時に彩霞さんと涼子さんが応えてくれて、わたしは自然と笑顔になる。英介はわたしたちの後にお店に入って、貴さんがするような、敬礼を少し崩した感じのポーズで涼子さんに挨拶をしていた。
「ちゃっす、涼子さん」
ということは、最初のちゃーっすは彩霞さんに向けてか。
「はっちゃんと美朝ちゃんは?」
「まだみたいよ」
まだ来ていないようだけど、時間はまだ集合時間の十分前だ。もう少ししたら来るだろう。美朝ちゃんは性格的に遅れることはなさそうだし、はっちゃんは
「彩霞先輩、ちゃっす」
あれえ、これが彩霞さんへの挨拶だとしたら最初のちあーっすは何なのだろう?
「彩霞ちゃん、奥のテーブル席移ってもらってもいい?」
「あーい、了解っす」
彩霞さんが応えてコーヒーカップを手に取った。お店の奥の角のテーブル席だけは定員が六人なので、はっちゃんと美朝ちゃんが来れば皆がそこに収まる。なのでこの打ち合わせには関係のない英介がわたしたちから離れようとした。すると、彩霞さんがその英介を見て目を丸くした。
「え、莉徒の彼氏?」
「違います」
かぶり気味で莉徒は嫌そうな顔をした。付き合っていた頃ってそんなにうまくいっていなかったのかな。英介と付き合っていた頃の話を、莉徒も英介もしたがらないのでどういった付き合い方をしていたかはわたしには判らないままだ。
「夕衣の彼氏っす」
と、英介が振り返りつつ自分で言った。なんだか私個人の打合せなのに、彼氏連れてきちゃいました、みたいなの、本当にばかそうで嫌だな。やっぱり英介には帰ってもらうか、時間をずらして来てもらえばよかった。
「えぇっ!ちょ、な、なんこのイケメン!」
「でもばかですから」
にやり、とずるい笑みをして莉徒は言った。
「……言われよう」
でも勉強はできるけれど、ばかなのは本当のことだ。こればかりはわたしも否定できないのでフォローもしない。いや、できない。
「俺は勝手にくっついてきただけなんで、放れてまっす」
「別にいいのに」
「やー、勝手に女についてったバカ男ってのも嫌なんで。夕衣の打ち合わせですしね」
へぇ、そうかわたしはわたしで男を連れてきたばか女だけど、英介は英介で女についてきたばか男になっちゃうんだ。どちらにしろバカップルには変わりない。いくら元々はバンドつながりであろうと、同じバイト先でバイトが終わった後で、みんなが行き付けの喫茶店に行こうと、そういう目で見てくる人間はいるということだ。彩霞さんがそうだとは思っていないし、事実そう思ってはいないだろうけれど。
「なるほどー。いいやつじゃないのさー」
「あざっす」
笑って英介はカウンター席に腰かけた。
「……手ぇ出すなよ」
莉徒がばかなことを言い出す。
「いやあたし男いるし」
「でしょうよ」
いなかったら手を出されていたのだろうか。英介の気持ちを抜きにしてしまったとしたら、彩霞さんと正面切って戦って、英介を勝ち取る自信はまったくない。怖い怖い。
「で、ちょっと遅くなったけども、ドラマー、はい自己紹介!」
先ほどから彩霞さんの隣にいた少し背の大きな子に彩霞さんは話を振った。
「あっ、えっ、た、た、か、
ど緊張。ついこの間の圭ちゃんを見ているようで笑いそうになってしまった。いけないけない。本人は真剣なのだ。
「
「
莉徒がすぐに自己紹介をしたのでわたしもそれに続いた。
「こんにちはー」
タイミング良くはっちゃんと美朝ちゃんがお店の中に入ってきた。二人は涼子さんに軽く会釈してわたしたちに近付いてきた。
「お、来た来たー。早速だけど自己紹介して、あんたら」
「早速すぎね」
紗枝ちゃんが窓際、その隣が彩霞さんなので、莉徒が彩霞さんのさらに隣に座る。
「あ、えーと、
ぺこり、と会釈して、わたしの隣に美朝ちゃんも座った。
「宮野木
「あっ、ありがと」
美朝ちゃんのフォローも忘れない。さすがは影の番長宮野木二十谺。
「た、たた、高島紗枝です、ぃよお、宜しく、お願いします!」
もしかしたらこういう性格なのかな。上がり症とか。だから彩霞さんは見ず知らずのわたしたちと紗枝ちゃんを組ませようと思ったのかもしれない。
「私は
「おれの」
間髪入れずに莉徒が言う。やっぱり彩霞さんの目から見てもはっちゃんは美人だし、美朝ちゃんは可愛いんだ。
「あんたのじゃない」
「莉徒のじゃない」
二人揃って毎度おなじみの突込み。中々息が合っていて面白い。
「ちっ……。つーか先輩、二十谺には一回会ってる」
「あ、やっぱそう?一昨年だっけ?ライブ来てくれたの」
「ですね」
一昨年だとわたしはまだこの街に来る前だ。みんなとも当然知り合っていない。
「あん時から美人だったけどねー。そっか二十谺がベースやってくれんだ。ならベース暦も長いだろうし安心だ」
彩霞さんて自然に人の名前を呼ぶよなぁ。それも馴れ馴れしい、という感じもしない。羨ましいなぁ。
「私あの時ベースやってる話なんてしましたっけ?」
「うん。まぁ莉徒がこいつベースやってるんですよ、って言っただけだけどね」
「記憶力良すぎ……」
一昨年のそんな一言を覚えているとは。でもはっちゃんは本当に美人だから、その時のインパクトもあって忘れていなかったのかもしれない。それにしても二年前のことがそんなにぱっと出てくるということは凄いことだ。
「莉徒とは違うね」
美朝ちゃんが言ってにっこり。美朝ちゃんて時々突っ込み厳しい。
「ちょ!あ、先輩」
美朝ちゃんへの返しも中途半端に、莉徒は席を立って彩霞さんの手を取った。そして席から離れると何やら耳打ちを始めた。
「ん?」
「……」
「うん」
「……」
「あんたらにお願いするくらいだからそらぁね」
莉徒が耳打ちしているのに彩霞さんの声は普通のトーンだ。でも彩霞さんの返答だけでは莉徒が何を訊いているのかは判らない。後で確認しておこう。
「……」
「いっきなりね。まぁみんなが納得すれば別にいんじゃない?」
「おけ!」
莉徒も普通の声のトーンに戻って、席にも戻った。
「で、説明」
「の前に注文ねっ」
話を促そうとする莉徒に涼子さんが割り込んだ。話が途切れる口を見つけて声を挟んでくる技術も凄いけれど、割込みのスキルも凄く高い。流石は涼子さんだ。
「きょ、今日は奢れないわよ!」
「判ってますってば」
彩霞さんの顔が一瞬青ざめて見えたので、わたしは苦笑してそう答えた。
注文した物を平らげてから、おもむろに莉徒が口を開いた。
「で、説明!」
「何の説明なのよ」
莉徒と彩霞さんが流れるようなやり取りをする。確かに説明って何の説明なのだろう。
「高島さんは、ドラム歴どのくらいなの?」
はっちゃんが言って、わたしも納得する。言われてみれば、そもそもこのバンドをやってみようと思った彩霞さんの意図も聞いていないのだ。
「あぁ、そういうのね。あい、紗枝」
「に、二年、です」
二年か。だとすると、そこそこ叩けるのかな。わたしもギターは一年程でライブには出演したことがある。その当時は今と比べればあまり上手ではなかったけれど。
「緊張してる?怖いのは彩霞さんだけよ」
「や、多分莉徒も怖い」
恐らく緊張しやすい性格であろう紗枝ちゃんに莉徒が笑顔を向けたけれども、彩霞さんと莉徒の人間的なベクトルはそっくり同じ方向を向いているような気がしてならない。
「え!こんな優しいのに!」
確かに基本的に莉徒は優しいけれど、怖い時は怖い。わたしも以前結構真剣な相談事をしたことがあって、その時は莉徒の優しさに甘えそうになったけれど、ピシャリとシャットアウトされたことがあった。
「声がでかいとビビるのよ」
そう言ったはっちゃんも怒ると怖いけれど、莉徒や彩霞さんみたいにパワフルではなく、どっしり落ち着いた感じなので、はっちゃんの方が当たりは柔らかい気がする。
「まじでぇ!」
彩霞さんが驚いて紗枝ちゃんの顔を見た。自分の後輩なのに知らなかったのか……。
「彩霞さん……」
「よ、よぉし、美朝、二十谺、任せた……」
莉徒が内緒話をする時のように声を潜めて言った。
「ひそひそ声んなんなくていい」
苦笑しつつはっちゃんが莉徒をたしなめる。
「私はキーボード初めてまだ一週間くらいなんです。迷惑かけちゃうかもだけど、宜しくね。紗枝ちゃんって呼んでいい?」
美朝ちゃん、さすがの機微。機微娘だ。
「は、はい、そ、それでお願いします!」
「い、いや、私らタメだから、敬語も辞めよう。私も紗枝って呼ぶから」
苦笑が張り付いたままはっちゃんも言う。でもきっとこの子のこれはこういうものなのではないだろうか。
「は!判りました!」
だめだこりゃ。と思ったけれど、口に出してはいけない。
「兵隊かよ……」
「莉徒」
そういうのもだめなんだってば。
「えっ、今のもダメ?」
「ダメ」
わたしの代わりに美朝ちゃんが言ってくれた。
「おおぅ……」
「紗枝ちゃんもみんなのこと名前で呼んでね」
偉そうな司令官の次は気弱な部下タイプだ。いろんな人がいるなぁ。
「ど、努力します……」
「と、まぁこんな性格なのよ。デカい癖にあがり症で人見知り。基本敬語キャラ。慣れればその辺は少し緩和されるけどね」
「なるほど……」
やっぱりそうなんだ。だとしたらこちらにもやりようはある。というよりも、そういう心構えを持ちつつ、慣れるしかない、というだけの話なのだけれど、その心構えがあるのとないのでは、打ち解けるまでの時間にかなり差がある。
「まぁとりあえず、今日は顔合わせだから、やりたい曲、何か決めようよ」
はっちゃんが話を促す。やっぱりはっちゃんがいるとこういう時に話が進むのが速くて助かる。sty-x復活イベントバンドの時はものすごく話がアチコチに拡散してしまうことがしょっちゅうだ。
「紗枝ちゃんはなにかある?」
とにかく、紗枝ちゃんのドラムがどのくらい叩けるのかを知るには、紗枝ちゃんがやりたい曲をやるのが一番手っ取り早い。わたしは言って紗枝ちゃんに笑顔を向けた。
「み、みなさんに合わせます……」
「却下」
か、と赤面した紗枝ちゃんに莉徒が容赦なく言い放つ。
「えっ、いや、でも、コピーはドラムよりもみなさんの方が覚えるのが大変です、だから……」
「おぉ!凄い!良く判っていらっしゃる!素晴らしい気遣い!でも却下」
確かに紗枝ちゃんの言う通り、何かのコピーをするのであれば、ドラムよりもギターやベース、いわゆる竿モノ部隊の方が曲を覚えるのに面倒、というよりは手間がかかることが多い。けれど、だからと言ってそれを避けてはいけない気がする。
「そうね。今回は二曲くらいに絞りましょ。由比さんの好きな曲と、紗枝の好きな曲」
うんうん。わたしははっちゃんの言葉に二度頷いた。
「そうしようそうしよう」
「で、でも……」
尚も食い下がる紗枝ちゃん。意外と頑固者なのは司令官も部下も変わらないのかな。
「私と莉徒と夕衣は前にバンド組んでたこともあったから、どんなのが好きか、どんなプレイするか、ってのは判ってるの。で、由比さんは初心者。初めのうちはきちんと演奏して楽しい、って思える曲をやりたい。で、紗枝、あなたは今回組むのが初。そんだったら、紗枝の得意な曲で紗枝の腕前を見てみたい、って訳よ」
「そゆこと」
はっちゃんの言葉に莉徒も相槌を打った。わたしたち経験者の意図は見事にまとまっているということだ。特に打合せもしていないのにこの合致は何故だか少し感動してしまう。
「むぅ、見事な仕切ね、宮野木二十谺」
「有難うございます」
彩霞さんが感心しながら言うと、はっちゃんは恭しく頭を下げた。
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて、sty-xの
「おぉぅ……」
ピンポイントすぎる楽曲の選択に莉徒が思わず声を上げた。寄りにも寄ってそこか。わたしたちはsty-x復活イベントバンドではその曲はやらないことになっていたので、逆に良い機会かもしれない。
「あ、や、じゃ、じゃなくて」
「Storm Bringerで決まり。私も莉徒も大好き」
莉徒の言葉に戸惑った紗枝ちゃんの微妙な気持ちを察知したのか、紗枝ちゃんの言葉を遮ってはっちゃんが頷いた。
「あ、わたしだって好きだよ!」
何に張り合ったのだか、わたしも慌てて声を上げていた。
「んじゃ余計オッケーじゃん。由比さん、今上がったのは確かシンセは簡単だから大丈夫なはず」
「うん、判った」
おお、凄い自信。いや、これはチャレンジ精神かな。無理、と不安そうな顔をするのはバンドのモチベーションにも関わるから、美朝ちゃんはそういうこともきっと判っているのだろう。
「美朝ちゃんはどうする?」
「私はロジャアレのトランジスタやりたいな」
ROGER AND ALEXは莉徒が大好きなバンドだ。すぐさま莉徒が食いつく。
「お、いいねいいね。じゃあその二曲にしよっか」
にっこりと笑顔になって莉徒は紗枝ちゃんに言った。
「お、おっけぃです」
「sty-xのスコアは私が持ってる。ロジャアレは莉徒持ってるわよね」
「うん。じゃあ取ってくっか」
言って残ったコーヒーをご、と飲んで立ち上がった。
「そうね。じゃあ彩霞さん少し待っててもらって良いですか?」
はっちゃんも言うと、立ち上がった。
「あいよー」
顔合わせは一応終り、vultureからの帰り道。わたしは疑問に思っていたことを莉徒に訊いてみた。
「莉徒、最初彩霞さんに耳打ちしてたのってなんだったの?」
「あぁ、このバンドが一回だけなんだったら、やってみて紗枝気に入ったら、くれ、つったの」
「いっきなりねぇ」
はっちゃんが苦笑する。
「でもドラム見つかったら私らもバンドとして動けるじゃん」
「ま、そうね」
それはわたしもそうなれば良いな、と思っているし、莉徒ともそういう話はしていたので、紗枝ちゃんさえ了解してくれれば願ったりかなったりだ。
「でもどんな具合だ?あの紗枝って子、大丈夫なんか?」
離れた席にいたけれど、話は聞いていた英介がそうい訊いてきた。
「圭タイプかもしれないわね」
「というと本番で緊張するタイプ?」
緊張するタイプもいろいろあるような気がする。圭ちゃんと美朝ちゃんは背中バチーンで何とかなったけれど、紗枝ちゃんが必ずしもそうだとは限らない。
「うん。今日はさ、初対面の人間ばっかりだったからってのもあると思うんだよね」
いざ練習に入ってみなければ判らないことなどいくらでもある。ライブ本番にならないと判らないことだってきっと山のようにあるはずだ。
「何にしても音聞いてみないと判んないわね」
「そうだね」
今ここで、判りもしないことで話し合っていても何もならないことはみんなも判っているのだろう。
「美朝はクソ度胸あるのもう判ってるしね」
「えっ、私だって緊張してたよ!」
演奏が終わった後にへたり込んでしまった美朝ちゃんを思い出す。あれはクソ度胸というよりも、責任感、のような気がしてならない。
「まぁでも背中ばちーん!で解決するじゃん」
「うぅ……」
とん、と美朝ちゃんの背中を軽く叩いて莉徒は笑う。
「何だそりゃ」
「緊張してる時にやるの。どっか一カ所に痛みがあると、意識がそっちに向いて緊張が少し解れるみたいなのよ」
「あぁ、なんか聞いたことあんな。なんかスポーツの選手とかが競技前に顔をパンパンって両手で叩くのとか、あれもそうなんだってな」
「へぇー」
なるほど、だとすると、案外理に叶ったやり方なのかもしれない。事実圭ちゃんも美朝ちゃんも実証してる訳だし。
「でも由比さん、ステージ見てる限りはあんまガチガチになってたように見えなかったから大丈夫よ」
にこ、と笑ってはっちゃんが言う。
「あ、あの、宮野木さん」
「ん?」
「わ、私もはっちゃんって呼んでもいい?」
おお、何というか、美朝ちゃんとはっちゃんが仲良くなってくれるのはとても嬉しい。お互いに莉徒の親友でも、そこが必ずしもつながっている訳ではないというのは当たり前だけれど、でもこうしてバンドを一緒にやるのだから、やっぱりみんなの仲が良い方が楽しいに決まってる。
「じゃあ私も美朝って呼ぶわね」
「うん!」
「美朝ちゃん、見て、あれが本物の巨乳だよ」
ヨーロッパアルプスの最高峰、モンブランのようなはっちゃんの胸を指差してわたしは言った。わたしからしてみれば美朝ちゃんだってずいぶん大きいけれど、やっぱりはっちゃんは別格だ。はっちゃんがモンブランなら美朝ちゃんは小学校の校庭にある築山だ。わたしたちは……当然それ以下、幼児が砂場遊びで作る砂山、ということになる。……放っといて。
「わ、判ってるもん」
「ほら、触ってごらん」
「ちょ、夕衣!美朝に変なこと教えないでよ」
そうは言っても触りたいものは触りたい。男子が女の子の胸を触りたいのとは訳が違うのだから、はっちゃんはそれを拒否するべきではない。
「変じゃないよ、わたしたちはみんな
うん、と頷いて言うと、美朝ちゃんも一緒に頷いてくれた。
「じゃ、じゃあ失礼して」
「言ったそばから触るの!」
本当に遠慮なしで美朝ちゃんははっちゃんの胸を鷲掴みにした。そして小さく、おぅ、って言った。
「亨が見てたらなんて言うかな……」
そんな様子を見ていた英介がぼそり、と言う。
「喜ぶと思う。生粋のばかだから」
「まぁばかなのは知ってっけどよ」
自分の彼氏をフォローするつもりもなく、はっちゃんは言い、美朝ちゃんを引き剥がしにかかった。
「その生粋のばかは就職したのよね」
「そ。標識建ててるらしいわよ」
「す、すごいね」
はっちゃんの彼氏、
「実感沸かねぇわー」
「流石に同い年で就職して給料もらってる人見ると、すごいなーって思っちゃう」
はっちゃんから引き剥がされた美朝ちゃんもそう言った。やっぱりわたしたちのようなアルバイトとは訳が違う。
「だねぇ」
「シャガロックは続いてんのか?
英介が果敢にはっちゃんとコミュニケーションを取ろうとしているのが何だか健気だ。
「その辺は土日きっちり休める会社だから大丈夫よ」
「それは何よりだ。ウチとは違うなぁ」
「
「まぁウチは学生なの俺と奏一だけで、他就職。日曜は休んでるらしいけど、土曜は休めねぇらしい」
「それじゃ仕事に慣れないうちはバンドすんのもきついかもね」
「だよなぁ」
なので、音楽活動的には、英介はいま暇らしい。秋山君はまだ彼女ができたばかりで一番楽しい頃合いだろうし、英介もそれを邪魔したくないだろうし。
「樋村巧いんだから他に何かやればいいのに。もったいないよ」
「巧いかどうかは別としても俺も最近そう思ってたところだ」
この間わたしも言ったけれど、英介の腕ならどのバンドに行っても充分使ってもらえるはずだ。
「あら謙虚ね」
「いや俺はギターの技術に関してはえばったことねぇ」
「女の子にもそれだけ誠実だったらねぇ」
むふ、と莉徒は言って英介の肩を叩いた。
「不誠実なこたぁねぇだろー。確かにとっかえひっかえはしてたけど、二股はしたことねんだぜ」
「え、そうなの!」
そんなこと全く知らなかったので、思わず声に出してしまっていた。
「どいひー!き、聞いてくれ宮野木!彼女が酷い!」
「まぁ夕衣って時々残酷よね」
苦笑しつつはっちゃんもさりげなく英介のフォローに回る。うう、このままでは不利だわ。
「は、はっちゃん……」
「ま、まぁまぁともかく、新しいバンド、楽しみだよね」
「珍しくアサがまとめたな……」
ナイス閑話休題。
「頭良いと順応力も高いんだよ」
訳の判らない寸劇も最近はのってくるようになったし、わたしはますます美朝ちゃんが好きになった。
「な、なんか夕衣ちゃんのその頭良いって、イヤな人みたいに聞こえる……」
「えぇ!そんなつもりないよー」
冗談で言っているのはあるけれど、「はん!この子アタマだけはイイからね!」みたいなことは絶対にない。
「そう言う夕衣も結構成績良かったわよね、そう言えば」
それは莉徒に比べたら、というだけであって、わたしの成績なんて平均点から下がりもしなければ上がりもしない程度だ。
「まぁはっちゃんとか美朝ちゃんとか瑞葉ちゃんほどじゃないけどね」
「瑞葉ちゃんと比べられたら私なんか全然だよ」
美朝ちゃんはそう言って苦笑した。でも美朝ちゃんの成績なら本当はもっと上の大学も狙えたはずだ。
「倉橋さん?」
「そ」
瑞葉ちゃんはもう、本当に学内でもトップクラスの頭脳の持ち主だった。
「あぁ、あの子何処だっけ?」
「確か
莉徒が忘れていたようなので私が答えると、英介が反応した。
「すげぇ!
英介も学力で言うならばもっと上の大学に行けたはずだったけれど、学費などのことを考えて、結局瀬能にとどまった。高校生の頃からずっと進学のために貯金していて、自分の力で学校に通っている。あまり口に出しては言わないけれど、そういうところは本当に尊敬できる。
「だよねぇ」
「伊口も大変だなぁ」
「や、千晶ちゃんもそこそこいいトコ行ってっから」
「メガネって頭イイんかな……」
一瞬わたしの脳裏に過ったことを英介が全部言う。以心伝心とはこのことか。もう少しロマンチックなシチュエーションだったら良かったのに。
「今度私にもちゃんと紹介っていうか、遊ぶ場作ってよ」
「瑞葉と?」
「そ。今までは美朝ってほら、コッチ側、っていうとアレだけど、音楽を演奏する側じゃなかったから、私も接点薄かった訳だし」
少し照れながらはっちゃんは言った。こういう時のはっちゃんはものすごく可愛い。
「?」
美朝ちゃんは小首を傾げているけれど、それも可愛い。
「さては気に入ったな」
「そうよ、こんな可愛いヤツを紹介しないなんて!」
「え、ちょ、はっちゃん」
言いながらはっちゃんは美朝ちゃんをぎゅっと抱きしめた。あぁ!羨ましい!
「わ、わたしと言う女がいながらぁっ!」
むきー!と音が出そうな感じでわたしは両手を挙げた。
「ばかね夕衣、おもちゃはいつか飽きられるものなのよ……」
ふん、と高飛車なずるい笑顔ではっちゃんがせせら笑う。そういう表情がまた超似合う。
「遊びだったの……?」
すがるような目でわたしははっちゃんに食い下がる。
「今までのことは、全て忘れてくれ」
ぷい、と顔を背けてはっちゃんが言った。
「どいひー!」
両手で顔を覆って泣いた振りをすると、横から莉徒が抱き着いてきた。
「よぉし、じゃあオマエはオレがもらってやるよ!」
「莉徒……」
全然、潤んでもいない目で莉徒を見ると、ぐぐぐ、と莉徒が顔を近づけてきた。
「全部忘れさせてやるよ……」
「いやあんたのじゃないし」
べし、と莉徒の顔に手を置いて私の顔から遠ざける。いつの日か、本当にキスされてしまう日が来るかもしれない。莉徒だけは、時折、ほんの少しだけ、マジで怖い。
「そうよ、夕衣ちゃんは私の物!」
ば、とはっちゃんの抱擁から抜け出して美朝ちゃんが言った。
「美朝っ!」
わ、と手を開いて美朝ちゃんが飛び込んでくるのを受け止める。くそう、やっぱり私より胸が大きい。その上気遣い上手。その上超美少女。なんだ!こんな女に目が行かないなんて男どもはばかだ!
「ちょぉ!何その楽しそうなの!俺も混ーぜーてー!」
ばかな男が突然喚きだした。
「やー、男が混ざると興ざめするわ……」
はっちゃんが無表情に言って切り捨てた。
「どいひー……」
ばらりずん。
19:モンブラン 終り
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます