16:焼き蛤
二〇〇七年五月三日 木曜日
空は晴れ渡り、気分も良い。家からEDITIONに向かう途中、七本槍中央公園を歩いていると、このまま芝生の上に寝転がって昼寝でもしたくなるような陽気だ。
「おろ」
「あら、
ほどなくして公園を抜けると、商店街に差し掛かったところで
「そしてこの夕衣母、
「え?」
いけない、思わず口に出して言ってしまった。真佐美さんが聞き返してくるけれど、ここは流すとしよう。それよりも私は真佐美さんに出会ってから、ずっと疑問に思っていたことがあるのだ。
「や、何でもないです。買い物ですか?」
「えぇ、これから史織さんと待ち合わせ」
にっこりにこにこ。その笑顔には騙されない。その手は桑名の焼豚。私が抱いている疑問はもはや疑問というよりも疑いだ。
「あ、そうなんですか」
「夕方の買い物は結構一緒に行ったりするのよ」
「あ、仲良くしていただいてもう……」
思わず頭が下がってしまう。確かに私と夕衣が仲良くなってから、親同士も仲が良くなって、近頃では一緒に買い物もするようになったと聞いていた。
それにしてもあの史織と正面切って仲良くやれるのだから、なかなか骨太な人物であることには変わりない。そして私が真佐美さんに持っている疑いは、その骨太な性格も起因しているのだ。
「こちらこそ。でもバンドが始まっちゃうとそれも中々できなくなっちゃうわね」
少し寂しそうに真佐美さんは言った。夕衣か史織か、
「あぁ、そうかもしれないですね。でも何ていうか、史織って、私を身ごもったと同時に自分が好きなこと全部やめちゃって、十八年も私たちの親であり続けたんで、今、もしも好きなことができるんだったら、やってほしいなって思うんですよね」
それは本当のこと。柚机家の全員がそう願っていることだ。私や逢太はまだ年齢こそ未成年だけれど、それなりに親の手は離れている。脛はまだかじらなければいけないけれど、親がずっと面倒を見ていなければならない年ではないのだから。
「やっぱり莉徒ちゃんは大人ねぇ。夕衣は一人っ子だから、甘やかしすぎちゃったかしら」
頬に片手を当てて真佐美さんは苦笑する。おばさんチックというよりも、大人の仕草な感じがしてしまうのは、史織がそういった仕草を殆どしないからだろう。史織だったら顎に人差し指を当てて、首をかしげながらうーん、と唸るところだ。
「いやいや、そんなことないですよ。夕衣は夕衣で結構一生懸命考えてますもん。真佐美さんはなんか、そういう趣味とか、ないんですか?若い頃っていうか、今でも若いですけど、学生の時やってたこととか」
チャンス。多分無理だろうけれど、訊き出せるかどうか試してみよう。
「え?な、ないわよ」
「何もないんですか?」
この吃音……。これはきっと何かある。私の疑い通りなら、あまり人には言えない感じの。
「え、えぇ、わ、私若いころは消極的で内気な子供だったの、よ……」
「……」
嘘だ。これだけはきはきと話す人が、夕衣のような妙にクソ度胸のある女を生んでおいて消極的な訳がない。い、いやまぁ私はどうなんだと問われれば、虐められてたような子がこんなんなっちゃった訳だか……それだって絶対博史と史織のせいだし、親の影響は強いはず!
それに夕衣は人見知りなところとかあるけれど、公衆の面前で、たった一人でギターを持ってオリジナルソングを披露することには何の抵抗もない、特殊、いや特異な性格の持ち主だ。真佐美さんが自分で言うように、そんな内気でおとなしい性格だったというのは聊か信じられない。
「うちの史織みたいにバンドとか……」
そう、つまり不良の音楽。でも私は真佐美さんが史織みたいに実はプロのミュージシャンだったのか、という疑いを持っている訳ではない。
「史織さんより私の方が少し年下だからね。私たちの頃はバンドとかはあんまり……」
「た、竹の子族、とか……?」
思い切って言ってみる。史織の少し後の世代でブームになったことと言えば、原宿歩行者天国で奇抜な衣装を着て日がな一日踊りまくる、竹の子族だ。真佐美さんは史織の三歳年下だという話だから、世代的にはぴったりのはずだ。少し調べたのでそのくらいは判る。
「え?えっ、違うわよ、莉徒ちゃんたらもうな、何言ってるのかしら」
明らかに動揺している。やはり私の疑いは真実なのかもしれない。史織の時代はロックが不良の音楽というレッテルを張られていた。つまりその後世間を席巻した竹の子族もその類の、今で言うヤンキーに属するもののはずなのだ。そして竹の子族の前にはもっと決定的なやつがある。
「あぁ、そっか、アレか……」
「な、何?」
「カミナリ族」
今で言う暴走族。つまりは竹の子族のようないわゆるファッショナブルな不良ではなく、筋金入りのアレだ。昭和四〇年代から発祥して、五〇年代にはもう暴走族となっていたらしいので、真佐美さんがそうだとしても、もはやカミナリ族ではなくて暴走族だ。
「ち、違います!断じて!違います!断じて!」
この動揺っぷり。確証は得られなかったけれど、とにかく真佐美さんには不良少女の要素がふんだんに盛り込まれていることは判った。それだけでも満足だ。決して私にしか感じることができない空気感を真佐美さんが持っていたからとかではない。それは、断じて違う。
私はほんの少し素行不良だっただけで、断じて不良少女ではないから。そら煙草やバイク、シンナーくらいまではやったことあるけれど、そもそも親とも仲は良いしグレてないし、積木だって崩していない。
「あ、史織と約束してるんでしたよね」
にやり。
心なしか真佐美さんの顔が青ざめている気がした。竹の子族か暴走族か。とにかく、若かりし頃の真佐美さんには何か秘密があることだけははっきりした。今度史織にその話を振って、真佐美さんの卒アルを見せてもらうようにお願いしてもらおう。
「う、うん、そうなの、そうなんだ。うん。そ、それじゃまたね、莉徒ちゃん。またうちにも遊びに来てね」
「はぁい」
私は満足だ。
ただ、ただ、満足だ。
さぁ、練習に行こう。
「って訳でさ、その手は桑名の焼豚よ!ってね!」
休憩時間、EDITIONのロビーで私は言った。
「は?」
あれ、ちょっと難しい言葉を入れてかっこつけたのに。
「いやだから、真佐美さんの笑顔には騙されんぞ、と」
「や、そら判るけど、その手は、なんだって?」
諒さんが言って首を傾ける。
「え、知らないの?」
「や、知ってるよ。お~それ入谷の鬼子母豚」
貴さんも言って、節に乗せつつ口ずさんだ。
「知ってるじゃない」
「おまえ焼豚つったよな」
「だってそう歌ってるじゃん」
古いアニメのエンディングテーマ。最近のと違って昔のアニメソングなどは歌詞が知己に富んでいて面白い。地口を歌詞に使うなんていうのは中々に面白い試みだと思う。都都逸調の語り口調で始まるロボットアニメもあったくらいだし。
「歌はそうだが、あれは違うからな」
「何が?」
歌はそうで、あれは違う?貴さんの言っている意味が判らない。
「ホントは、その手は桑名の焼き
「え、うそ」
でもあの歌だとやき~ぶた、と歌っている。
「語呂合わせの言葉遊びだぞ。その手は桑名の焼豚って語呂悪いだろ」
なるほど読めた。あのアニメーションはとりわけ豚のキャラクターを良くシーンの切り替えなどに使っていて、諺にも豚を取り入れたりもしてたから、それで地口も豚に置き換えていたのか。
「あぁ、言われてみれば確かに。え、じゃあキシボブタも違うの?」
「あれはほんとは鬼子母神」
キシボブタってなんだよ、と諒さんが笑う。
「おぉー、なるほどね。恐れ入谷の鬼子母神」
「そ。びっくり下谷の広徳寺とか」
「嘘を築地の御門跡とかな」
「おぉ、だてに年喰ってないねぇ」
私が知っている、しかも間違えて覚えていたものなんてほんの一部だということか。
「あたりめぇだ。たかだか十八年しか生きてねぇコムスメと一緒にすんじゃねぇやばぁろぅめぃ」
「なんで江戸っ子ちっく」
しっと鼻をすするようなしぐさで諒さんが笑った。
「べ、勉強になりました……」
「夕衣は真面目だなぁ」
貴さんが苦笑しつつ煙草に火をつける。
「でも乱れるとすごいのよ」
「りーずー」
言いながらがし、と私の胸をつかむ。
「う、うそようそ!」
夕衣だけが使える剣聖技、ブレストツイスターは私らのような貧乳女子にはとてつもない威力を発揮するのだ。胸をつかんで捻り上げる。ブラはズレ、指の跡がくっきりと残り、その晩、お風呂で悲鳴を上げることになる。や、考えてみたら
「夕衣さんが乱れたらおっちゃんちょっと引く……」
しゅん、として貴さんは煙草の灰を灰皿に落とした。どんだけ夕衣好きなんだ。
「涼子さんは乱れないの?」
「時々あるよ」
こともなげに妻の痴態を晒す夫。私だってちょっと涼子さんのそういうところは想像したくない。
「た、貴さんってそういう話、全部オープンなんですか?」
苦笑しつつ夕衣が訊く。夕衣は涼子さんに憧れているから、あまり聞きたくない話だったのかもしれない。でも涼子さんだって人間だからなぁ。
「やー、さすがに話せないことのが多いよ」
「それはホンキで聞きたくないです……」
私も夕衣に同感です。っと、それよりも。
「そういえば話変えるけど新曲ってどうなったの?」
「まだ制作中。まぁ来週までには上げるわ」
貴さんが上げるという話になっていたはずだけれど、進んでいるのかどうか。一度しかやらない曲だから、もし私が創る立場なら迷う。貴さんも迷っているのかもしれない。
「おっけぃ。じゃあ私らは既存曲をとにかく反復しよう」
「だね。少し時間に余裕できそうで良かった」
まだライブまでは二ヶ月ある。これだけのペースで二ヶ月近くも詰める時間があれば充分に間に合う。さつきの時のようなことがなければ。あってもらってはたまらないし、あんなことそうそうあるものではないけれど。
「お前らが優秀だったからなぁ」
「まぁでもそんだけ練習はしてるからね」
私はともかく夕衣は。練習の虫と言っても良いくらい、夕衣は練習好きだ。ただ夕衣の場合、練習しなければいけない、という感覚ではないのではないか、と私は思っている。単純にギターを触るのが好きなのだろう。
「大したもんだ」
「諒さんと貴さんとやれるなんて多分二度とないでしょ。頑張んなきゃね」
「え!そんなことないよ!」
貴さんがびっくりして私に言う。え、そ、そうなの。
「え、あるんですか?」
私が思ったことをそのまま口に出して夕衣が言った。
「頻繁には無理だろうけど、二度とないなんてこたぁねぇよ」
「だよなぁ」
諒さんが言って貴さんが安堵。そんなに私たちとバンドがしたいのだろうか。プロともなるともう考えていることが判らない。
「でもま、そんなつもりでやらないと緊張感だってなくなっちゃうでしょ」
「確かに」
満足そうに諒さんは頷いた。ただ楽しくやることと、真面目に楽しむことは似ているようでまったく別物だ。少なくとも私や夕衣はそのことを良く判っている。
(あ、なるほど)
少し判った気がする。だから諒さんたちは私たちに声をかけてくれたのかもしれない。プロフェッショナルであれ、アマチュアであれ、そういう気持ちを持っている人とやる音楽なら楽しい。それがプロの仕事という種別でなければなおのことだ。
「わたしたちはこうやってすごく仲良くさせてもらってるけど、やっぱりプロの人たちと一緒にやるって凄いことですからね」
「ま、そういう緊張感保つのはいいことだよな」
「そらプロとやるってだけじゃなくて」
やっぱり貴さんもそう思っていたんだ。無論、プロでやってくことと、アマチュアでやっていくことの『真剣さ』には温度差はあると思うけれど、真剣に向き合うという根底での姿勢が一緒でなければ、プロでもアマチュアでも楽しむことはできないと私は思っている。
「あ、そうですね。同級生でやっててもどれだけ仲良しでも、音楽の面では緊張感は持たないとだめですもんね」
「そうそう。仲イイだけだと続かないしねー」
以前夕衣とも組んだIshtarがそうだったとは言わないけれど、Ishtarはただ楽しいだけ、という空気感は確かにあった。だからその時間に浸っている時はとても心地良かったけれど、ずっとは続かない時間だろうと、皆がどこかで気付いていたんだと思う。あまり楽しい話題でもなくなってしまったな。閑話休題。
「ていうか、私が話変えといてアレだけど、話し戻していい?」
私は言って、ん、と咳払いを一つした。
「おぉ、夕衣母が元ヤン疑惑ね」
諒さんと貴さんはまだ真佐美さんには会ったことはないらしい。さっき携帯電話で写真を撮っておけば良かった。
「でも確かにわたし、お母さんの学生の頃のアルバムって見たことないな。子供の頃のは何度か見たことあるけど……」
いやぁ、これでかなり確率は上がったな。あの形の良い眉と眉の間に、深いしわを作って「あ?」とか言って詰め寄る顔が、極簡単に想像できてしまうのだ。
「まず見せてもらえるか確認してみたら?」
「そうだな。拒否ったら確定じゃん」
諒さんが結構乗り気だ。
「それはそれで怖いよね」
「まぁ無理に暴かなくてもいいとは思うけどね」
私も話題を持ちかけながら、ついそんなことを言う。たしかに隠したい過去を好奇心だけで暴露するというのは、気持ちの良いものではない。私だって自分で言う分には構わないけれど、小学生の頃のことを詮索されるのは嫌だ。詮索されるくらいならば自分から全てを話てしまうけれど。
「う、うん」
「親父さんにそれとなく聞いてみたら?」
貴さんがそう言って腕を組む。私の家のように、夫が全てを知っているということだってあるかもしれない。
「でもお父さんとお母さん、社会人になってから出会ったみたいだから」
「まぁそれも嘘かもしれないしね。私なんて十八年間隠されていた事実があったのよ」
どんな秘密が隠されているかなんて、子供には判らないものだ。私だってあのすっとぼけた女が伝説級のバンドのギタリストだったなんて露ほども知らなかったのだから。
「う……」
「そう言えば貴さんと諒さんも元ヤンだったんだよね」
「おれは違うけど諒はそう」
やっぱり恥ずかしい過去なんだろうな。私も小学生の頃とは別に、はっちゃけていた中学時代のことはあまり突っ込まれたくない。
「オレはお前みたいに族に喧嘩売らない」
おい。
「おれはお前みたいにラリったことない」
おいおい。
「お前は今でも暴力団事務所に殴り込みに行くじゃねぇか」
「あれはサンダーマスクがやったことだ。おれは知らん。つぅかそれならお前も同行してた」
それならば私も話のさわりは知っている。基本的にこの二人は『正義の味方』なので、曲がったことが嫌いなだけだ。
「あれはファイヤーマスクがやったことだ。オレも知らん」
「よせ、夕衣がマジでびびってる。全部冗談だ」
夕衣の顔が青ざめている。二人が暴力団事務所に殴り込みに行ったのは夕衣がまだこの街に来る前のことだ。それにあれはきちんとした理由がある。
「信じる訳ないでしょ……。まぁでも殴り込みに行ったのって
晃というのは、私の親友の一人、
「あぁ、知ってんのか。まぁ別に暴力沙汰とかじゃないしさ」
「
二十谺の妹の十五谺がアルバイトをしていたお店が、暴力団がらみだったらしく、十五谺も妙な余波をくらってしまったのだ。貴さんや諒さんの言い分も判るけれど、あの時は確か、晃一郎も貴さんたちとは知り合いではなかったはずなので、無理はない。
「あの子勉強はできるけどアタマ弱いからね……」
「そ、そうなんだ」
苦笑して言う私に、夕衣は青ざめた顔のままそう無理矢理口を開いた。
「夕衣さん引きすぎ……」
「だ、だって」
「元々ここら仕切ってる連中のアタマが友達なんだよ。だから、悪いけど、こいつらに手ぇ出すのはやめてくれって言いに行っただけ」
貴さんも苦笑しつつ夕衣に言って聞かせた。元々貴さんや諒さんはステージ上でもなければいつも気さくで、こちらが少々なめたことを言ってしまっても笑って許してくれるような人達だ。だからこそ怒らせるようなことはしてはいけないし、その優しさに甘えるようではいけない。こういった優しい人たちは時に自分を写す鏡にもなる。鏡になるかどうかはこちら側の意識の問題でもあるのだけれど。
「それで話ついちゃうんだからすごいよねぇ」
「ま、持ちつ持たれつってやつさ」
「情けは人のためならず、ってな。善行は積んどけよ」
要するに、学生時代、そのアタマの友達を貴さんや諒さんが助けたことがあったのだろう。その筋の本物の人たちは儀に厚く、受けた恩は石に刻むほどの物らしいから。
「でも何で友達なのに覆面かぶってったの?」
「あぁ、それは勢い」
友達ならば顔を隠す方がおかしなことになってしまうのではないだろうか。私は疑問に思ったことを口にしたけれど、返ってきた返答は実に二人らしい返答だった。
「え」
「や、晃一郎のことぼこった連中をぼこり返す時に、さすがにツラが割れるとまずいじゃん」
しかもその時に、そのぼこった相手から、晃のギターを直すためにお金もせしめたらしいから、過剰防衛どころかもはや犯罪だ。
「まぁそこはそうだろうけど……」
「まぁそんな訳だから、もしも、そういうヤバい連中にちょっとでも絡まれちまったらすぐ言いに来いよ。絶対何とかすっから」
「うん。判った」
「は、はい」
そこは頼もしい。きっと貴さんや諒さんも、そのアタマの友達の人も、立場をきちんと弁えて、ライフスペースもきっちりと切り分けての付き合いができているのだと思う。そうでなければ私たちのような一介の小娘が近寄れる空気感を持ってはいないだろうし。
「夕衣、おれたちはそういう人が友達にいるだけで、おれたちがそういう人じゃないからな」
苦笑しつつ貴さんが言う。数年ばかりの付き合いの中で、判ったことがある。きっと貴さんも諒さんも、年上や目上の人として、礼節を弁えたりされるのが好きではない。後輩に頭を下げさせたり、偉そうなことを言ったりする人間は多いけれど、貴さんや諒さんはそういうことを嫌うのだろう。私たちの言動が完全に彼らを舐めているように見えても、それすらも笑って許す度量がある。やっぱり、妙な甘えは自分のためにはならないな。彼らとのスタンスや、自分の中での行動は良く考えて取らないと。
「わ、判ってます」
「夕衣母がどっかで繋がってたら怖ぇなぁ」
諒さんが寒い時に両肩をさするようなポーズでわざとらしく言った。
「や、やめとこうぜ、詮索とか。夕衣母に失礼だって」
確かにそれは恐ろしい。伝説級のバンドのギタリストがママでした、なんて可愛いものだ。
私のママは極道でした。なんてちょう怖い。
「そ、そうね、よっし、じゃあ練習に戻ろ!」
「あらほらさっさー」
そして災厄は訪れる。
二〇〇七年五月三日、木曜日、一八時四分。恐怖の大王がモンゴルマンを連れてくるだとかそんな感じの。
「あ、ほら、上がってきたわよ」
「え?お?おー、莉徒!」
そんな夕香さんの声に、聞き覚えのある、遠い記憶の中の声。そう、耳を澄ませばそこに、なんてやっている場合ではない。聞き間違いでなければこの声は。
「げ!」
私が中学生の頃に、大変お世話になった大恩ある先輩。私は先輩に失礼のないよう、細心の注意を払い、優雅に、くるりとターンすると、背を向けてダッシュした。
「またこのパターン!」
夕衣が隣で目を丸くした気がする。見て確認する暇はない。
「ちょ、捕まえて」
彩霞先輩はそう声をかけたが、私の短距離走の記録を甘く見るな!五十メートル九秒フラット!
「あ?」
とぼけ顔のまま、私の両サイドにいた諒さんと貴さんが私の脇に腕を入れて、いとも簡単に持ち上げた。やはり五十メートル九秒の鈍足では駄目だったか……。
「やっ!放して!」
「顔を見るなり逃げるなんて随分ねぇ莉徒」
つかつか、と彩霞先輩が、鬼が近付いてくる。
「にげ、逃げてないっす!その、わ、忘れ物を!」
「何がどうなってんのかは判らんが、地下に抜け道はねぇぜ、莉徒」
私を抱えたまま諒さんは言う。明らかに楽しんでいるような口調だ。
「うう……」
「約二年ぶりに再会した大恩ある先輩に対する態度とは思えないわ、柚机莉徒さん」
背を向けてダッシュしようとして諒さんと貴さんに捕まったので、私は振り返ることもできずに肩越しに彩霞先輩を見る。足はついていない。宙ぶらりんのままだ。
「お久しぶりです、彩霞パイセン」
「遅いわ」
その宙ぶらりんの私の足を、彩霞先輩が蹴った。ばし、と良い音が鳴るけれど、本気ではない。本気なら足が折れていたはずだ。精神的に。
「いたあっ!……すんません。で?何ですか?スタジオにまで出向いてくるなんて……」
私は憮然として彩霞先輩にそう言う。きっとさつきや圭と同じように厄介ごとを持ってきたに違いないのだ。
「ご挨拶ねぇ」
両手を腰に当てて、わざとらしくため息をつく。そんなことしたって受けないぞ。
「あん?彩霞?」
「おー、彩霞じゃん!久しぶりじゃん!」
私の両サイドでそんな声が聞こえたと思ったら、やっと私の足が地についた。
「え、何?気付かなかったの二人とも!」
え、どういうこと?諒さんも貴さんも彩霞先輩を知っているということ?
「え、諒さんたちも知ってるんですか?」
「おー、水城彩霞。バンドまだやってんのか?」
「もっちろん」
私がこのお店を知ったのは彩霞先輩のからの情報だったし、利用し始めたのは実際に高校に入学してからだ。私が中学生の頃はおばあちゃんの家に住んでいたし、彩霞先輩の地元の方のスタジオを良く使っていたので、ここには来なかったけれど、きっとその頃からずっと知り合いなのだろう。
「え、と?莉徒の中学時代の先輩、ですよね?」
夕衣がおずおずと口を開く。いやぁ我が親友とはいえ、あまり彩霞先輩とはお近付きになって欲しくないなぁ。私のあんまりかっこよろしくもない過去がばれるから。
「んま!何よこのカワイコチャン!あたし彩霞、宜しくね」
「は、はい」
ぐい、と夕衣を抱きしめる。弁護する訳ではないが、彩霞先輩もノン気だ。だが、それにしても。
「ゆ、夕衣はおれの……」
「違うから」
ナイス突っ込みだ。九五点をあげよう。
ロビーのソファーに場所を移して、改めて話を聞くことにした。
「お名前は何度か伺ってます」
「私に悪事を仕込んだ張本人よ!」
夕衣のない胸に顔を押し付けながら私は叫んだ。
「あ、あん、わたし髪奈夕衣です、よ、宜しくお願いします」
「大丈夫、怖くない」
夕衣の胸に顔をうずめたまま私は言う。うむ、こういうのはやはり二十谺クラスのニュキョウでないとダメだな。柔らかい部分が少なすぎる。
「じゃあなんで莉徒はそんなあからさまに嫌そうな顔してんだ?」
苦笑しつつ貴さんが言った。
「厄介ごとを持ち込んでくるからよ!」
「やぁね、そんな厄介じゃないわよぉー」
そんな、ということはやはりある程度厄介なことなのだ。メールでも電話でもなく態々私を訪ねてここまで来るのだから、きっとそんな厄介なことではなく、相当厄介なことに違いないわ。
「聞かぬ!」
「まぁまぁそんなこと言わないで」
態度を崩さない。昔だったらここでもう一発蹴りが飛んできそうだったけれど、今はみんな座っているし、彩霞先輩だってもう二十歳だ。きっと落ち着いたのだろう。なので調子に乗らせていただく。これ以上厄介ごとにかかずらっている時間はない。私だってsty-x復活ライブに向けて集中したいし、夕衣と一緒にバンドだって結成したいんだ。
「だが断る!」
言い終わらないうちから、くわ、と彩霞先輩の表情が変わる。
「聞け」
うぅ、この女まじで怖い。
「……」
「聞け」
ちっきしょう負けてたまるか。私だって『あの柚机莉徒がヤンキーになって帰ってきたぞ』と言われたほどの女だ。この女の直伝でもあるけれど、バットを折る下段回し蹴りという必殺技だってあるし、詐欺と殺しと麻薬以外の大抵の小さな悪さをして補導だってされたんだ。
「……よかろう。話してみろ」
「なんだその言い方はぁ!」
両手で私の顔を挟んで彩霞先輩が声を高くする。
「ならば聞かぬ。どこへでも猿が良い!」
そうだ。私に断られて困るのは彩霞先輩だ。ここは強硬な態度で出なければならない。
「今モンキーの方の猿つったか?」
私の顔を挟んでいる両手に圧力がかかり、かなりいびつに私の顔が歪んでいるだろう。ばしゃ、と音が聞こえたかと思ったら夕衣が携帯電話で私のその顔を写真に収めていた。他人事かよ。ってより良く猿って言ったの判ったな。
「言ってません」
「話進めなさい」
ぼす、と彩霞先輩の脳天に軽く手刀を入れて貴さんが話を促した。私は彩霞先輩から解放される。
「やん、貴さんたら」
言いながら私が夕衣をおちょくってモノマネをする時のように身体をくねくねさせながら彩霞先輩が言った。
「お、おれに色香は通じないんだからね!」
「動揺してるじゃないですか!」
苦笑しつつ夕衣が突っ込む。ま、まぁ彩霞先輩は見た目はかなり美人だから無理もないけれど、涼子さんと比べたらこんな女足元にだって及ばないはずなのに。
「ゆ、夕衣というものがいながらおれは……」
額に手を当てつつ、首をふるふると振りながら貴さんが呻く。
「何、夕衣って貴さんの愛人?」
「そ」
「違います」
「……」
貴さんがそうだ、と言い終える前に夕衣がスッパリと言い切った。貴さんがわざとらしく目を見開いて口をあける。どんだけ夕衣を好きな体なんだ。
「話……」
「聞いてくれるの?莉徒!だから好き!」
いい加減話が進まないので私が促す。大体この『聞くだけなら聞く』という態度をとった時点でお仕舞いなのは重々判ってはいるのだけれど。
「このまま帰す訳にもいかないでしょうよ……」
「ま、帰る気もないけどねぇ」
えぇ、えぇ、そうでしょうよ。この女が引き下がったことなんて一度だって有りはしないんだから。
「んじゃ
本来ならば木曜日はお休みのはずだけれど、ゴールデンウィーク中は木曜日も営業しているらしい。
「お、行く行くー。涼子さんにも久しぶりに挨拶しなくちゃね」
で、長話になるんなら当然涼子さんの所。彩霞先輩が言い終わる前に私は席を立った。
「あらあら彩霞ちゃん、久しぶりね」
カウベルが鳴って十秒後。涼子さんがそう言った。記憶から彩霞先輩の顔を掘り出してきたのだろう。忘れていないところはさすがだ。
「涼子さん久ぶりー。相変わらず若くて可愛い」
「ふふ、ありがと。アルは元気?」
「元気元気、まだ十年は生きるね」
「それは良かった」
「アル?」
二人の会話を余所に私はさっさとテーブル席に移動する。
「パイセンが飼ってるビーグル犬」
アルを疑問に思った夕衣にすぐに答えてやる。飼い主と違ってとても可愛らしい、人懐こいビーグル犬だ。元気ならばそれはそれは本当に良かった。
「じゃあとりあえず話を聞きましょうか。はい、注文!」
とん、とテーブルに手を置いて私は提案。お腹は空いているけれど、今日の晩御飯は家で食べることになっているのでとりあえずケーキ一つだったら……。
「アイスコーヒー!とショートケーキ」
「わたしもアイスコーヒーと、シュ……ミル……シュークミルクレープで!」
つい最近までケーキ類はシュークリームと決めていた夕衣が、最近はミルクレープも食べるようになった。ミルクレープは
「葛藤」
夕衣の言い様がおかしくて私は笑いながら言った。
「真剣勝負なの!」
「判ってるけど。じゃあ私もアイスコーヒーとシュークリームで」
ならば。
私はこのお店のケーキは何を食べてもおいしいと思うので、マストアイテムはないというよりすべてがマストアイテム。時折マイブームで同じものを続けるときはあるけれど、これしか食べない、という感覚は私にはない。
「かしこまりー。楽器はそこに置いていいよ」
お客さんは私たち以外にはまだいない。夕食時だと少ないのかしら。
「はぁい」
「で、彩霞先輩の話ってどういう話なんです?」
楽器をお店の片隅の置かせてもらって、テーブル席に着く。お冷を一口。心地良いミントの香りが少し気分を落ち着かせてくれる。
「ちょっとさ、後輩のドラムとバンド組んでやってほしいのよ」
「後輩?」
「そ、あんたらと同い年。組んでほしいっつぅか、ちょっと見てやってほしいの」
「え、それだけのためにわざわざ来たんですか?」
だとすると、さつきのように問題児なのか、美朝のように初心者なのか、それとも単純に演奏を見てほしいだけなのか。
「そ。歌はあたしやるからさ、ギターやってよ」
「それ、ギター一人ですか?」
「まぁ私弾こうと思ってるけど」
なるほど。
「こいつも入れていいならやります」
「え、夕衣?」
「そう」
夕衣は当然って顔してる。さすが私の相棒。私が言わなくても、きっとやらせてくれって言ってたんじゃないかな。
「なんかロックやりそうに見えないけど」
「大丈夫。歌もうまい」
うんうん、とうなずきながら私は言う。
「ほぉー」
「ディーヴァ」
とっておきも教えておこう。薄っぺらい表面上の情報だけに踊らされる人ではないから。
「え?」
「本物のディーヴァ」
「……夕衣が?」
さすがに目を丸くして彩霞先輩は言った。
「
Goddesess Wingという楽曲がこの街界隈で、ネット上のみで流行った。今でも聞いている人は多いだろう。誰が創ったのか、誰が歌ったのか、誰も知らない。しかしGoddesess Wingは確かにあって、歌った人も確かに存在する。
その幻の歌姫はいつしかディーヴァと呼ばれ、この街のバンド者やミュージシャンにカバーもされた。
しかしそのGoddesess Wingには、オリジナルバージョンが存在する、と言われていた。
アレンジなどを含めた完成度の高いGoddesess Wingとは違い、アコースティックギター一本で、弾き語りをしているGoddesess Wingのオリジナルは確かにあった。
そしてその楽曲の本当の曲名は
「え、マジで?」
「マジ」
夕衣自身も、自分の創った曲がアレンジされてこの街のみんなに聞かれていたなどとは全く知らなかったのだけれども。
「あんたの周りってなんなの一体……」
「何なのと言われても」
確かにすごい状況ではある。そんなに凄い周りの人たちとは、つい数年前までは全くつながっていなかったのだから、今思えば不思議なものだ。
「
「ん?」
今なんて?
「何でsty-x知ってるんですか?」
私の疑問を夕衣が代弁してくれた。
「知ってるも何も、あんたのお母さんとだって会ったことあるじゃないの」
「え、いや、そうでなく」
私が説明する前に、何故彩霞先輩は史織がsty-xだと知っているのだ。
「え、あんたやっぱあれで隠してるつもりだったの?」
「は?」
もう訳が判らない。
「あんたのお母さんがsty-xのギタリストだったなんて高校ん時から知ってるけど、あんた言おうとしなかったし、一応隠してんのかなぁって思ってこっちからは言わなかったんだけど」
「はぁ?」
え、な、それ、どういう……。
「彩霞さん、それ、莉徒、隠してたんじゃなくて、知らなかったんです……」
「は?」
今度は彩霞先輩が不思議顔だ。つまりはこういうことだ。
「ついこの間、自分の母親がsty-xのギタリストだって知った……」
「うっそ!ばかじゃないの?」
目を丸くして彩霞先輩は言う。ちきしょうなんて言い草だ。
「ばかじゃない!」
「彩霞さんはなんで知ってたんですか?」
そうだ。それが聞きたい。娘の私ですら知らなかったのに。
「莉徒が中三で、私が高校一年になった時かな、ネットの百科事典に出てたの。
「三年前か」
「でさ、史織って名前、ポエムの詩織ならよく見るけど、歴史の史織ってあんまり見ないじゃない」
いつも私が史織、と呼んでいるからなのか、どんな字?と訊かれたことは確かにあったような気がする。
「で、確かその時に、莉徒のお母さんの旧姓教えて、って訊いたんだよね、まさかとは思いつつも。そしたら獅子倉だっていうからさ」
「そん時もし知ってて隠してたんだったら獅子倉って教えてないでしょ、多分」
いくらなんでもそんなに阿呆の子ではない。
「でもsty-xじゃメンバー表記ってアルファベットだったでしょ。だからばれないと思ったんだろうな、って。こいつばかだなプゲラって思ってた」
うひひひ、と厭らしく笑いながら彩霞さんが私を指差す。
「ち、ちきしょう……」
「でももっと筋金入りのばかだった」
「やかましい!」
私を指した人差し指を払いのけながら私は声を高くした。そりゃ彩霞先輩から見たら間抜けな結果だけれども、本当に知らなかったんだもの。
「ま、まぁまぁ、それはともかくとして」
「お、そうだそうだ。夕衣もやってくれるんならあたしは歌だけでいいから楽かなぁ」
とりあえず、だったら何かのコピーで充分だろうし、それならば私たちが知っている曲でも良い訳だから、時間さえ合えば大丈夫だろう。
「ライブとかはあるんですか?」
「ないよ」
夕衣の問いにさらりとそう答える。また嫌な予感が膨らむ。ライブがないのは、変な使命感がない分今の段階ではありがたいけれど。
「ベースは?」
「いないよ」
「またこんなんか……」
それでもさつきの依頼よりは充分ましな方だ。
「また?」
「ついこの間ヘルプしたバンドが、ライブ二日前にヘルプ依頼してきて、ベースとドラムしかいなかったということが……」
苦笑しつつ夕衣が言う。我ながら良くやったと思うよ。史織の助力があったにしたって。
「良くやったわね、そんなの……」
「ま、まぁ何度もヘルプしたことあったんで、曲は覚えてたし、夕衣にはバッキングだけに集中してもらったんで」
それでも史織がいなかったらあそこまできちんとした形にはならなかったかもしれない。それにいつもならば圭の緊張も殆ど解れず、めためたなライブになっていただろう。それだけでもやはり史織の存在は大きかった。
「ソロとかなし?」
「や、そこは史織にやってもらった」
「ほぉ、さすがに復活するだけあって腕は鈍ってなかったのかな」
「メンバーには下手過ぎる、って怒られてるらしいけど、私らからしてみたらバカテクでしたよ」
まさしく。復帰すると決めてからは練習もしているようなので、少しは腕も勘も戻っていたのだとしても、現役の時はあれ以上だったということだろう。
「そっかぁ。なんだかんだ楽しそうにやってんじゃない。Kool Lipsは?」
「最近はライブ減ったけど、まだちゃんと活動してますよ」
「ほうほう。つーかあたしの依頼が大したことないって判ってあからさまに安堵してるなオマエ」
「ま、まさかまさか」
見抜かれた。
「ベースも誰かいない?あたしベースは持ってないからなぁ」
「いないこともないけど……」
二十谺は今暇なのだろうか。二十谺も私たちとは違う大学に進学したので、今どういう状況なのかは今ひとつ判らない。たださつきを関わらせるのは周りに迷惑だし、多分彩霞さんはさつきにブチ切れる。
「別に今後ずっとそのバンドでやってこう、って言ってんじゃないのよ」
「え、そうなんですか」
更に安心する言葉。どうも彩霞先輩イコールとんでもない女というイメージが浸透しすぎていて、正直な話拍子抜けするくらいの依頼だ。
「だから見て欲しい、つったでしょ」
「一回だけですか?」
「そ。お試しってやつよ。あたしもいまバンド三つ抱えてるから忙しいしね」
「さすが莉徒の先輩……」
でも狙いが読めない。何のために私たちと組ませようと思ったのか。ただ単に、彩霞先輩の周りの手が開かないだけ、という訳ではない気がする。
「じゃあさ、こっちも一人、シンセの初心者いるんですけど、混ぜてもらっていいですか?」
彩霞先輩がどういうつもりでこの依頼を私たちにしてきたのかは正直計りかねるけれど、それならば、こちらもその状況を利用したい。
「あ、いいよ。女子?」
「私らと同い年」
「おっけー」
あれ、割とあっさり了解が取れたな。それならそれで良いのだけれど。
「つぅか彩霞先輩、マジでそれだけのためにわざわざ来たんですか……」
彩霞先輩が住んでいるところはそう遠くはないけれど、ここまで通うのは少々厳しい距離だ。そういうこともあって、私たちは今まで疎遠になっていたのもある。彩霞先輩の影響か、私も色々と忙しくしていたのは事実なのだけれど。
「メールでも良かったんだけどさ、ちょっとこっちに用があったのよ。なんで寄り道ついで」
「騙した……」
ということは、彩霞先輩が何かを企んでいる訳でもないのか。仮に企んでいたとしても、別に犯罪沙汰になる訳でもなし、その辺の心配はしていないのだけれど、さつきのアレがあった後だから余計に警戒してしまっているのかもしれない。
「これを伝えにEDITIONまで行ったことに偽りはないわよ」
「さすが莉徒の先輩……」
「殺し以外の悪いことは一通り全部教わった」
ぴん、と指を立てて私は夕衣に言った。あの大人しかった柚机莉徒がヤンキーになって帰ってきた理由の九〇パーセントはきっと彩霞先輩の影響だ。
「人を不良みたいに……」
「中学生で煙草、無免、万引き、シンナーで補導されたのなんて彩霞先輩くらいのもんですよ」
「あんたもね。補導されすぎてお巡りさんとも仲良くなっちゃったしね」
自分でも良く内申書で高校受験、落されなかったと思う。特に中学での学校生活の態度なんて御世辞にも良いとは言えなかった私が。
「……髪奈夕衣はどん退きした」
「思わず口に出ちゃってるわよ、夕衣」
あっはっは、と笑って彩霞先輩が言う。うーむ、やはりこの人を超えるには私はまだまだだな。
「あ、す、すみません」
「た、煙草はあと一年アレだけど、原チャは免許あるし、シンナーとかもうやってないから!」
そう、あとは煙草と酒。それのみだ。
「あたしは酒も煙草も解禁ー。ひゃっほう」
「いいなぁ」
じろり、と夕衣が私を睨む。
「はぁい、お待たせ」
夕衣の視線をそらすばっちりなタイミングで涼子さんが注文したものを運んできてくれた。
「わぁい……いまのなし!」
口が滑ったとはまさにこのこと。まさかこの柚机莉徒が嬉しさのあまり「わぁい」なんて正気の沙汰じゃない。
「史織さんの口癖がうつっちゃったんじゃないの?」
「やばいな……」
確かに史織が実はバンド者だったと判ってからは、史織と一緒にいる時間が増えた。でも口調が移るのは非常にまずい。ただでさえ中学生にも間違えられてしまうこの童顔の上に、子供っぽい言動までしてしまってはある種の大きなお友達に大人気になってしまう。そういうのは夕衣や美朝の役割であって、断じて私の物ではない。
「三人ともゆっくりしてってね」
「はぁい。頂きまぁす」
夕衣が私からシュークリームに視線を移す。ミルクレープはおいしいけれどやっぱりシュークリームを目の前にすれば食べたくなるのが人情。
「おし、じゃあ今日はあたしが奢ってやろう」
「お、マジですか!何、成人するって誰かに奢りたくなるくらい嬉しいの?夕衣!なんでも食え!」
「え、ちょ、追加すんの……?」
ははは。私がこの女を超える日もそう遠くないかもしれない。
「じょ、冗談ですよ」
甘いぞ我が相棒。
「するに決まってんじゃん!涼子さんシフォンケーキ追加!」
「えっ、あっ、じゃあわたしシュークリーム!」
彩霞先輩に確認も取らずに夕衣も私に続いた。それでこそ私の相棒だ。
「鬼か……」
16:焼き蛤 終り
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