13:オムライス

 二〇〇七年四月二九日 日曜日

 七本槍ななほんやり南商店街 楽器店兼リハーサルスタジオ EDITIONエディション


「あぁあああぁああぁあああああぁっ!」

 午後二時。

 この世のものとは思えない叫び声がスタジオEDITIONにこだました。

「し、し、しSHIORIシオリさん!」

 頓狂な声を挙げたのはさつきちゃんだった。昨日の今日でまさかホンモノのsty-xステュクスのギタリスト、SHIORIがここに来るなどとは夢にも思わないだろう。それにしてもさつきちゃん、素顔の史織しおりさんが良くsty-xのSHIORIだって判ったなぁ。さすがはファンということだろうか。

けい、どうしよう、失神しそう」

「落ち着いて」

 こんな時でも圭ちゃんは落ち着き払っている。この子の度胸の据わり方はきっと並大抵ではない。本当に可笑しな子だ。

「な、何故柚机ゆずきがSHIORIさんを!」

「何故も何も、私のママ」

 あっけらかんとして莉徒は答えた。

「何故!」

 判っていないまま言葉を繋げるさつきちゃん。わたしも初めて聞いた時は同じような状態だったから良く判る。

「何故ってそら史織が博史ひろしと付き合ってやりまくってデキ婚」

「り、ぅ!」

 かぁ、と真っ赤な顔になって史織さんが声を高くする。

「ホントのことじゃん」

 で、デキ……。流石にそこまで知らなかったけれど、史織さんってそういうところはしっかりした人なのかと思ってた。

「そ、そうだけどもうちょっと言い方ってものが……」

「はぁ?」

 じろり、と実の母を一瞥。わたしもお母さんとは仲良しだけれど、流石にここまではできない。

「マ、ママ?莉徒先輩の?お母さん?」

「そう」

 さすがの圭ちゃんも驚きを隠せないようだった。sty-xのSHIORIがこの場にいることよりも、sty-xのSHIORIが莉徒のお母さんだったという方が圭ちゃんにとってはより驚くべき事柄だったのだろう。

「あぁあああぁああぁあああああぁっ!」

「煩いなぁ」

「気持ちは判らないでもないけどね」

 もう落ち着いたのか、圭ちゃんが言う。本当に変わった子だ。

「あんたが言うな」

「あ、あのSHIORIさんが二児の母だったなんて……」

「まぁこのナリじゃねぇ」

 莉徒と並んでもやっぱり母子には見えない。何度見ても見えない。見えないものは見えない。

「なりって……」

「しかも柚机の母だったなんて!」

「正しい反応。百点」

 ぴ、とさつきちゃんを指差して莉徒は満足そうに笑った。やっぱり驚いて欲しかったのかな。

「よし、じゃあ練習しよ」

 場の雰囲気もそっちのけで史織さんはギターケースからギターを取り出しながら嬉しそうに言った。

「空気……」

「え、だって時間ないんだよ。さつきちゃんと圭ちゃんのバンドの名前に傷を付けたくないなら一生懸命やらなくちゃ」

 更ににっこりと悪意のない笑顔。確かに史織さんの言うことは尤もだ。

「ぐ、た、確かにそう……」

「フェニックス!」

 嬉しそうにそう史織さんはサムズアップして言ったけれど、間違いです。

「フィニクスです」

「え、不死鳥じゃないの?火の鳥?科学忍法だっけ?アレイズ?」

 ま、まぁ普通間違えるけど、後半のソレは……。とりあえず突っ込みは莉徒に任せるとして。

「その辺はいいから……。違う国の読み方だと綴りは一緒でも発音が違うこともあるんだよ」

「なるほどぉ、フィニクス!カッコイイ!」

「ふわぁ……」

 バンド名を褒められて、さつきちゃんの目がとろんとなる。憧れの人に褒められればそうもなるか。

「一々感動しない!ライブ終わったら山ほど喋らせてあげるから」

「ほ、ほんとですか!」

 それほど難しいことではないだろうな。莉徒の友達なら。

「私んち遊びに来りゃいいじゃん」

「絶対行きます!」

「という訳だ史織」

「了解なのだ。よし、じゃあ練習しよ」

 ぴ、と再びサムズアップして史織さんはストラップを肩にかけた。

「おけー」


「いや、自分で参加させといてあれだけど、史織、マジで凄いな……」

 唖然、というのはこういうことだ。わたしはたかさんやりょうさんの、いわゆるリズム隊のプロの演奏はご一緒させてもらったことはあるけれど、プロのギタリストの演奏をこれだけ間近で目にするのは初めてのことだった。

「楽しいね!ライブちょー久しぶり!」

 しかも当人は無邪気。ひけらかすでも自慢するでもなく、本当に楽しそうにギターを弾いていた。たった一晩で五曲ものギターソロを、コードから少しもアウトもしないで弾き切っていた。音源とは多少違うソロだったけれど、ギターソロならこれで充分に及第点どころか、超絶すぎる。

 わたしは音楽を楽しむという気持ちだったらどんな世界的ミュージシャンにも負けないつもりでいたけれど、やはり本物の人を目の前にしてしまうと、いかに自分が矮小だったかを思い知らされる。

「つぅかEX-Ⅴ超イケメンね!」

「うん!ちょーイケメン!やばい!」

 およそ親子の会話とは思えない言葉を交わす柚机母子。でも莉徒と史織さんが巧いのは初めから判っていたことで、もっと驚くべきは。

美朝みあさちゃんも凄いんだけど……」

「そ、そうかな」

 おでこを掻いて照れくさそうに美朝ちゃんは笑った。歌詞に振ったコードを目で追いつつ、最初のうちは『これでいいの?』っていう不安な顔つきだったけれど、途中から合わせて弾く楽しみを少しずつ見出して行ったみたいだった。

「うん凄い。つぅか異常。涼子さんが言う通り、あんたセンスありまくりだわ」

「確かにまだ始めて三日の人だとは思えないですね」

 圭ちゃんもそう言って笑顔になる。

「うむ」

「え、そんななの?わたしもう一、二ヶ月くらいはやってるのかと思った」

「そうよねぇ。コードチェンジで少々もたつくくらいだから、薄めに鳴らせば全然問題なさそう」

 元々ストリングス系の音色は鍵盤を押してから音がはっきりするまでに時間がかかるものなどがある。フェードインしてくるような音色を使えば、少々のコードチェンジのもたつきはあまり目立たないだろう。

「が、がんばるね」

「これなら何とかいけそうだね、さつきちゃん」

「うむ」

 史織さんの演奏が感無量だったのか、今まで黙りこくっていたさつきちゃんがやっと言葉を発した。

「なにさっきからえばってんだよ……」

「さつきちゃん、ステージではもっと笑顔がいいよ!」

 演奏の時は多分、莉徒の言う『司令官モード』になっているのか、しかめっ面で演奏していることが多い。せっかく可愛いのにもったいない。対する圭ちゃんは常時にこにこしていて、なるほど、彼女の何事にも動じない性格はドラム向きなのかと理解できた。

「は、はい!」

「何故なんだぜ……」

 莉徒と史織さんに対する態度の違いに呆れつつ、莉徒も笑顔だった。

「圭ちゃんはリズムキープ上手だね」

「ありがとうございます」

「あとは自分の体の軸の芯とドラムセットの芯を自分できちんと調整すればフィル・インのブレも少なくなるよ」

「判りました。留意します」

 お、おぉ、凄い。ドラムにもアドバイスできるなんて流石だ……。それにしても圭ちゃん、留意しますなんて女子高生の返答じゃないな……。

「さつきちゃんも上手だね、通過音とかキレイに使ってる。あとはピッキングの手の振りにブレがあるから、少し、振れ幅が均一になるようにするのと、出来るだけ弦とピックが水平になるように意識するともっと良くなるよ」

「あ、ありがとうございます……」

 さつきちゃんはくぅ、と上を向いて目を閉じた。もったいなきお言葉、とでも言いたそう。

「勿体無き御言葉!」

 言ったわ。

「そんなことないよぉ、じゃあとりあえず、集中力が切れるまでは練習続けよ!」

「はい」

「私らは褒めてくれない……」

 気になっていたことを莉徒が言ってくれた。わたしだって史織さんに褒めてもらいたいけれど、史織さんにしてみたらまだまだなギターだし、褒めるべき点はないのかな。

「え、あ、だ、だって莉徒と夕衣ちゃんはもう凄い上手だもん。今のところ注意点はないかなって思ったからあの……」

 急に弱気になって史織さんはおろおろしだだした。本当に四四歳なのか、この人は。

「SHIORIさんを困らせるな!柚机」

「は、はい……」

 もうなんだか埒が明かないのでとりあえず、という風に莉徒は返事をした。でも史織さんに今のところ注意事項はない、と言ってもらえたのは、わたしにとっては充分な褒め言葉だった。やっぱり基本に忠実に練習をしていて正解だったな。


「明日もリハと本番の間結構空きそうですし、リハの後に練習しませんか」

 練習を終えて、手帳を見ながら圭ちゃんが言った。確かに練習に入れるのなら三十分でも入りたい心境だ。

「うん、わたしもやっといた方がいいと思う」

 圭ちゃんに同意。

「ですね。じゃあ莉徒先輩、私、夕香ゆうかさんにお願いしてきて良いですか?」

「あ、じゃあお願い」

 史織さんには内緒だけれど、このスタジオはsty-x復活のために発足した名無しのバンドのために諒さんと夕香さんの厚意で開けてくれているスタジオだ。違う目的で使うのならばやはり夕香さんに話は通しておかなければならない。それを自ら買って出る圭ちゃんは色々と弁えていてしっかりしている。そしてその圭ちゃんをして、このPhoeni-xフィニクスの状態。いかにさつきちゃんがとんでもないか、なのかもしれないな。

「ねぇねぇ、涼子りょうこちゃんのとこ、行こ」

「博史と逢太おうたは?」

 またしてもおもむろに史織さんが提案してきた。ついこの間、莉徒のお父さんと弟君のほったらかしにして、莉徒と史織さんは涼子さんのお店でおいしいものを食べていたらしく、莉徒は今回もそんなことにならないかと気になったのかもしれない。

「パパはお隣の高木さんたちと呑みに行くって。おーちゃんは友達と遊んでるから遅くなると思う」

 なんだか史織さんのとんでもないキャラクターについ忘れてしまいがちだけれど、こういう面を見ると、ふと思い出す。史織さんはちゃんと莉徒のお母さんなんだ。素敵だな。こんなにギターも上手で可愛らしくて、若々しくて、凄く生きるエネルギーに満ち溢れてる。

「おっけ。じゃ行こ。夕衣と美朝は?」

「あ、私は元々一人でも行く気だったから」

「わたしも」

 美朝ちゃんがそう言ったのでわたしも便乗する。

「さつきは?」

く」

 少しでも長く史織さんといたいのかもしれない。けなげで可愛いところもあるんだな。変な子なのは変わらないけれども。

「圭ちゃんはどうだろ?」

「まぁさつきが来るなら来るでしょ」

 圭ちゃんとさつきちゃんの仲がどんなものかは良く知らないけれど、がっつりな仲良しなのかな。見た感じだとそういう気がする。

「史織、ご馳走様」

「いいよぉー」

 くい、とサムズアップ。い、いや流石にそれは悪い……。

「え、マジで?」

 言った莉徒も意外そうだった。

「パパから魔法のカード借りてるもん」

 サムズアップをブイサインに変えてにっこりと笑顔になる。いやぁ、可愛いけど多分違う。

「涼子さんとこカード払いできるっけ……?」

 美朝ちゃんが的確な突っ込み。

「喫茶店は多分無理でしょ……」

「だよね」

 苦笑してわたし。

「あ、え、じゃあお金降ろしてくる!」

 長年主婦をしていた割りには少し抜けているかもしれない。でもそれが史織さんの魅力なんだろうな。とにかく可愛らしい。ともすれば莉徒の大嫌いな猛禽系と呼ばれる女性のように見えてしまうけれど、史織さんに至っては全てが天然だとすぐに判ってしまうところが恐ろしい。

「そ、そ、そんな、SHIORIさんに奢らせるなど!」

「じゃあさつき、ご馳走様」

「割り勘という概念はないのか!」

 司令官モードなのにうろたえているともう何がなんだか判らない。一体これは何モードなのかしら。

「年長者のプロのミュージシャンなんだからそんくらい蓄えてるわよねぇ、史織」

 確かに莉徒の親という立場からしてみれば、この場で割り勘などということはできないのかもしれない。ここは丁重にお礼を言って、史織さんにお任せする方が良いか。

「印税がっぽがっぽだよ!」

「嘘つけ」

 まことしやかな嘘……いや嘘ではないのかもしれないけれど、史織さんのノリはどうも冗談にしか聞こえない。

「でもわたしもシングルの曲とか結構作曲してるんだよ」

 そう言えばそうだった。sty-xの曲は割りとギターリフから派生したような曲が多い。そうではない曲ももちろん沢山あったけれど、代表曲のStorm Bringerストームブリンガーは確か史織さんの作曲だったはずだ。

「あぁ、そう言えばそうだったね」

「Storm BringerはSHIORIさんですよね!」

「いえすっ!」

 びし、とサムズアップしながら言ったさつきちゃんに、史織さんもびし、とサムズアップを返した。

「さすがファン」

「復活ライブ、こいつらも招待してあげれば?」

「もちろんだよー」

 にへへ、と奇妙な声を挙げて、でも嬉しそうに史織さんは言った。

「え、もうチケット買っちゃいました」

「まぁそらそうだよねぇ」

「じゃあ払い戻してあげる。わたしの招待のがいい席で見れるよ」

 にへへ。可愛い上に良い人だなぁ。涼子さんに次いで史織さんもわたしの目標の人……い、いや天然な部分が多いこの人みたいにはなれないか。かといって涼子さんにならなれるという訳でもないのだけれど。

「ぜ、ぜ、ぜひ!あぁ!SHIORIさんの娘に生まれたかった!」

「それはそれで結構大変だけどね……」

 でも毎日が楽しそうな気がする。本当はバンドをやりたい、っていう強い気持ちを、子供のために十八年間も押し殺せる人だ。意思の力は恐らくとてつもなく強いだろうし、それでいてこの屈託のなさ、フランクさがあれば、時折とんでもない天然度合いに苛立ちもするかもだけれど、深刻な喧嘩などにはならない気もする。

「そ、そんなことないもん!」

「あー、私のレスポール……。酔っ払いの介護も大変だったな……」

 あぁ、ギターを壊されたら深刻にもなるのかな。私だったら。莉徒だから許せたのかも判らない。

「うう……」

 しゅんとする史織さんがあまりに可哀想だったので、慌ててフォローを入れる。

「でも莉徒、炊事洗濯、全部史織さん任せでしょ」

「夕衣ちゃん大好き!」

 わたしもそうだけれど、何だかんだといって結局親に甘えている部分は大きい。

「だって史織のゴハンのがいいじゃん。私作ってもいいけどさ、私が作ったってウマイ!ってなんないしさ……。博史だって逢太だって絶対文句言うよ」

「えー、言わないよー」

「じゃあせめて食器洗いとか……」

 わたしは一応家ではそのくらいのことはしている。休みの日もお風呂掃除とか洗濯は手伝っているし。

「た、たまにする!」

「ちょーたまに!」

「やかましい!」

「夕衣ちゃん、娘が母にやかましいって言う……」

 と言われてもわたしは苦笑を返すばかりだ。本当に仲が良いなぁ。多分史織さんがバンド者だということが判ってからは、もっと仲が良くなったんだろうな。

「SHIORIさん料理もするんですか」

「じゃあ史織、こいつらが遊びにきたら料理の腕も振るってあげなさい」

「おっけぃ」

 わたしも何度か史織さんの料理をご馳走してもらったことがあるけれど、史織さんは料理も凄く上手だった。今ならきっとギターの情熱が料理に移ったんだろうな、って思う。

「そ、そ、そんな!し、SHIORIさんの手料理なんて!」

「じゃあ私が食うからな。さつきは食うなよ」

「そ、それはだめだ!」

 あたふたおろおろ。面白い子だなぁ。

「まぁまぁ、とにかく、今は明日のこと考えようよ」

 大切なのは明日の本番なのだから。

「うう、不安……」

「美朝ちゃん」

 今まで押し黙っていた美朝ちゃんが漏らした。確かに楽器を始めて三日しか経っていないのにいきなりライブなんて考えられない。

「大丈夫よ、美朝。多少の失敗なんか気にしないの。ちっちゃな失敗を引きずってそのステージ全部を無駄にするのが一番ダメなんだからね。ちょっとくらいの失敗なんか当然って顔してりゃいいのよ!」

 ぐい、と胸を張って莉徒は言った。

「お、莉徒ちゃんいいこと言う」

「まぁそうやって腕も上がってったし、度胸もついてったと思うからね」

 確かに莉徒の言う通りだ。全てが失敗しない一〇〇パーセントのライブなんて、ストリートの弾き語りを含めたってわたしもまだやったことがない。聞いてもらいたい人がいるときほど恥ずかしい失敗をして、悔しい思いをする。そんな悔しさがきっと上達に繋がる。

「あたりだね」

「巧くやりたい気持ちは勿論捨てちゃダメだけど、失敗しても当たり前くらいの気持ちで望まないとね」

 だからと言って、失敗しても全然OKという訳ではないことは、きっと美朝ちゃんなら判ってくれるはずだ。

「う、うん……」

「それにシンセなら譜面台立ててる人も普通にいるし、見ながらやっても大丈夫だよ」

 見ちゃいけない、なんてことはない。それに何度か目にしたことがあるけれど、今回のわたしたちの用に、本当に時間が足りなくて、でもヘルプを頼まれて、歌詞を見ながら歌う人だってまぁ、いないこともない。

「あ、そ、そうなんだ、それだとすごい助かる……」

 今日の練習でも思ったけれど、美朝ちゃんはそもそもが鍵盤楽器の適性が高かったのだろう。そうでなければ、どんなにに涼子さんの教え方が巧くてもこうは行かない。莉徒が作ったコード表のコピーに自分なりに色々書き込みをして、回数を重ねるごとにタイミングも良くなっていたし。

「はぁー美朝のライブ童貞いただきよ」

「もう!女の子なんだから……」

 こういうところは全く史織さんと似ていない。かと言って、お父さんの博史さんにも似ている訳ではない。莉徒も逢太君も、史織さんと博史さんの子供とは思えなくらいに言葉遣いが荒い。

「バージンライブね!」

「ちょ、莉徒……」

 言葉はどうあれ、親しい人の初めてのステージに一緒に立てるというのは結構嬉しい。それも美朝ちゃんみたいに真面目に頑張っている人ならば尚更だ。

「大丈夫、優しくするから」

「さすがママより経験豊富!」

「やかましいわ!」

 史織さんがどんな青春を送ってきたかは判らないけれど、やっぱり経験人数は莉徒の方が多いんだ……。

「あ、夕香さんにOKもらいました」

「お帰り、圭。このあと涼子さんのとこ行く?」

 話が危ない方向に向いた瞬間に圭ちゃんが戻ってきた。

「あ、いいですね。さつきは?」

「行く」

 いく、ではなく、ゆく、と言って頷く。

「はー、おなか減ったー」

「ね。今日はオムライスにしよっかな」

 この間は神のナポリタンを食べたから、今日はオムライスにしたい。この間英介が食べていたのが凄くおいしそうに見えた。いや実際おいしいに決まっているのだけれど。

「あ、オムライスちょーおいしいよね!」

「史織さん、ナポリタンは食べました?」

 史織さんはオムライスを食べたことがあるのだろう。嬉しそうにそう言った。料理上手の史織さんも絶賛するほどなのだから、やっぱり涼子さんって凄い。

「食べたことないよ。だって莉徒ちゃんあんな素敵なお店ずーっと史織に隠してたんだから。こないだ初めて行ったんだよー」

「そうなんだ」

 あぁついに自分のことを史織って名前で呼び出しちゃった。場の雰囲気が和めば和むほど、自分の空気に馴染めば馴染むほど、史織さんは地が出易い。なので、莉徒の家に遊びに行くと、大体史織さんは自分のことを名前で呼んでいる。

「だって史織が一人でふらふら出歩いて喫茶店、なんて涼子さんのお店でもない限り行かないでしょうよ」

 遠めに見たら子供に見えてしまうこともあるかもしれないし……。それに関してはわたしや莉徒も人のことは言えないのだけれど。

「そうだけど、でも涼子ちゃんのお店なら行くかも、って判ってたんでしょ?」

「口で言ったことろで行かなかったじゃないの。何度も言ったわよね、私。素敵なお店があるよ、って」

 じと、と史織さんを見ながら莉徒は言う。ただ言葉だけではお店のなんともいえない雰囲気や涼子さんの人柄全てを説明するのは不可能だ。vultureヴォルチャーの魅力が伝わりきらなくても仕方がない。

「う……」

「だから別に隠してたワケじゃないし」

「百聞は一見にしかず、ってことですね」

 圭ちゃんが言って頷く。

「そうそれ!だからこないだ連れてったんじゃん」

「あぁ、あのSHIORIさんと食事できるなんて……」

 さつきちゃんはどこか恍惚とした目でそう言った。わたしたちの会話などまるで耳に入っていない様子だ。大丈夫かな、この子。

「でも、考えてみたら凄いことだよね」

 それは確かにそうなのだろう。ついこの間までは、ただ単に莉徒のお母さんと一緒にvultureへ行く、というだけだったのに、とんだ真実が隠されていたものだ。

「まぁ私らなんだかその辺の感覚薄れてるけどね」

「確かに」

 特に莉徒の場合は母親がプロのミュージシャンだったし、それ以前にも貴さんや諒さんとも仲が良かった。

「わたしもこんなにいっぱいミュージシャンがこの辺にいるなんて全然知らなかった」

 その、『この辺にいるミュージシャン』たちも、まさかsty-xのSHIORIが普通の主婦になって暮らしているなんて全然知らなかったようだけれども。

「顔見知りだけならまだしも、恩恵受けまくりだもんね」

 本当に色々とお世話になっている。アルバイトのことだとか、公園でのストリートライブのことだとか。

「まぁ迷惑もこうむってる訳だけども」

 去年の突発ライブだとか、今回のsty-x復活ライブのための名無しバンドとか。

「そんな実も蓋もない……」

 迷惑と言ってしまうとさすがに悪意がある。こういったことで少しずつ恩返しをできれば……というのも少し違うかもしれない。何しろこんな経験はいつもできないことばかりなのだから。

「よぉーし、じゃあ片付けよ」

「はぁい」


 同日

 喫茶店vulture


「そういえば肝心なこと訊いてなかったけどさ、ハコどこなの?」

 涼子さんのお店で食事をご馳走になって、食後のデザートも食べて、コーヒーを飲んでいるときに、莉徒が言った。そう言えばわたしも会場が何処になるのかは聞いていなかった。

「あ、最近できたばっかりの翔竜っていうハコです」

「あー、なんか聞いたことあるよ。Letaのすぐ近くでしょ、確か」

 なんだか格闘ゲームの必殺技のような名前だな、と思ったので覚えている。

「どこぞのラーメン屋さんみたいな名前ね……」

 莉徒はラーメン屋さんだと思ったらしい。莉徒こそ格闘ゲームを連想するかと思っていたけれど、確かに味噌ラーメンがおいしいラーメン屋さんを連想してしまう名前でもある。

「あー、ラーメンも食べたいなー」

「まだ食べるの!」

 先ほどわたしが薦めた神のナポリタンとピザトーストを食べたのに凄い食欲だ。

「今じゃないよー。ねぇ涼子ちゃん、この辺でおいしいラーメン屋さんってどこか知ってる?」

 わたしたちと同じような体躯なのに凄い食欲だと思ったらそういうことか。ラーメン屋さんはあまりわたしも知らないな。そもそもまだこの街に着てから一年経っていないし、英介と遊びに行くときもあまりラーメン屋さんに行くことがなかった。

「史織さんはこってりもあっさりもいけるの?」

「どっちもばっちりだよ!」

 ぐ、とサムズアップ。わたしもどちらも好きだけれど、どちらかというとあっさり系の方が好きだ。

「えぇ、意外……」

 美朝ちゃんが言った。美朝ちゃんはあっさりなイメージだけれど、それは間違っていなかったらしい。

「どっちかって言うとこってりかなぁ。背脂べちょべちょとかちょー燃えるよね!」

「つ、つわもの……」

 大人はお酒を呑んだ後に〆めでラーメンを食べるらしいけれど、お酒を呑んだ後だったら、あっさり系の方が食べやすい気もする。

「商店街の並びにある武蔵坊っていうお店はこってりですよ。貴と諒君が良く行ってるみたい。私はちょっとこってりが苦手なんで行ったことないですけど」

 苦笑しつつ涼子さんが言う。史織さんの言う背脂べちょべちょが想像つかないけれど、さすがにわたしもちょっと無理かもしれない。

「ほほぅ」

「あっさり系なら駅の改札の目の前のラーメン三丁目が私は好き」

「あ、あそこおいしいですよね」

 美朝ちゃんが涼子さんに同意する。わたしもお店は知っているけれどまだ入ったことがない。喫茶店やファストフードなら一人では入れるけれど、ラーメン屋さんや定食屋さんは女一人だと少し抵抗がある。

「うん」

「ほうほう。武蔵坊に三丁目ね!今度莉徒ちゃん一緒に行こう!」

 嬉しそうだなぁ。sty-xのことが発覚するまでは本当に生真面目な主婦をしていたんだろうな。色々なところに出かけて、おいしいものを食べて、なんていうことは一人きりではしなかったのかもしれない。

「いいけど、ラーメンなら博史と逢太も一緒のがいんじゃないの?」

「あ、そっか。じゃあみんなで行こうね」

「うん」

 そう話がひと段落ついたところで、さつきちゃんが口を開いた。史織さんの言葉の邪魔は絶対しないようにしているところがまた健気だったりする。 

「それで、だ。柚机」

「はい?」

 首をかしげながら史織さんが返事をする。もはや史織さんもさつきちゃんのキャラを完全に掌握しているようだった。

「し、SHIORIさんじゃありません!」

 恐れ多い!などと言いながら、さつきちゃんは両手を前にしてふるふると振った。

「わたしも柚机だよ」

「そ、そうでした……。で、では柚机莉徒」

「態々フルネーム……」

 確かに。莉徒、で良いのに。

「衣装の件だが、以前の物はまだ持っているな?」

「あぁ、まぁね。やっぱ着るのね……」

 衣装?もしかしてお揃いの衣装だとかがあるのだろうか。

「え、何?」

 一瞬そらおそろしいビジョンが浮かぶ。第一期のsty-xの動画で見た史織さんの衣装やお化粧。

「ゴスロリ」

「えぇ!」

 あまりにも想像とかけ離れすぎていたけれど、そらおそろしいことには変わりはない。よりにもよってゴシックロリータとは。

「着たい!」

「あんたはそう言うと思ったよ」

 苦笑しつつ莉徒が言う。莉徒の口ぶりはもう諦めが入っている。以前ヘルプをしたときも着せられたのだろう。

「美朝ちゃん、娘が母をあん」

「全員分サイズあんの?」

 史織さんの言葉を遮って莉徒が言う。もう明日は本番だというのに、仕立てている時間もないし、ヘルプでゴシックロリータファッションを自腹で買うのはなんとしても避けたい。

「見たところ柚机莉徒は成長してないようだしな、同じようなサイズならまだある」

 そう言うさつきちゃんもほんの少しわたしたちより背が高いくらいで、スタイルなどは大差ない。

「今どこ見て成長してないっつった?」

 よせば良いのにない胸を張って莉徒がさつきちゃんを睨み付けた。

「でも美朝ちゃんは巨乳だよ」

「や、ち、ちがう!こんなの全然ちがうから!」

 この間触った感覚では、確実に大きくなっていた。でも世に言う巨乳とは確かに違う、とはわたしも自分で言っておきながら思った。

「そうですね。私以外の中では大きいようですが、まだそのカテゴライズは無理があると思われます。むしろまだ標準以下……。何を標準とするかは謎ですが」

 圭ちゃんが胸を張る。圭ちゃんも巨乳という訳ではないけれど、ちゃんとある。多分上着を着ても厚手のセーターやトレーナーを着ても、ちゃんとある、と判るくらいには。なんと羨ましい。

「な、なんか圭ちゃんも副指令モードとかあるの?」

「あぁ、今の口調はそんな感じになっちゃいましたね」

 美朝ちゃんの指摘に圭ちゃんが苦笑を返す。圭ちゃんは落ち着いているというだけで、さつきちゃんのような変なキャラクターはないように思うけれど、今の話し方は確かに少しキャラクターっぽかった。

「あぁ、うちにあったの、あれ、さつきちゃんのだったんだ。前にお洗濯したときにライブで着た、って言ってたもんね」

「うん」

「莉徒ちゃんがいないときに一回着てみたことあるんだぁ」

 嬉しそうに話すなぁ。そういえば史織さんは莉徒が学校に行っている間も、こっそり莉徒の部屋でギターを弾いていたりしたらしい。

「そ、そうなんだ……」

「ともかく、一息ついたら私の家まで来い」

「あーいよ」

 なんだか実感が沸いてきた。去年の夏のように、とてつもない忙しさの中に身を置いている感覚が蘇ってきて、少しだけ興奮してきてしまった。


「!」

「な」

「え」

「ちょ」

 さつきちゃんの家はvultureからそれほど遠くない場所にあった。わたしも何度かは通ったことがある場所だったのだけれど。

「豪邸!」

 そう。そこには物凄く大きな豪邸が建っているのだ。どんなお金持ちが住んでいるのだろうと思ったくらいで、わたしには全く関係のない場所だと思っていたところだ。

「こいつこう見えてお嬢なのよ」

「す、すごい……」

 美朝ちゃんも感嘆のため息を漏らした。

「凄いのは私の親だ。私はなんら凄いことなどない」

 そう言ってのける。そういうところはしっかりしているんだなぁ。

「こんだけお金あるんだから自家用スタジオとか造っちゃえばいいのにっていっつも思う」

「そんな漫画みたいな……」

 それが可能ならばバンドメンバーに苦労することもなくなるのではないだろうか。無料でスタジオを使えるのであれば、流石にメンバーも多少のわがままならば……いや、きっとお金の問題でもないのか。バンドを続けるというのは金銭面はさほど問題にならないような気がする。

「さすがに脛をかじっている状態ではそれはできないですね。さ、遠慮なく入ってください」

「相変わらず広いなぁ」

 豪奢な玄関のドアを開けてさつきちゃんが私たちを招きいれてくれた。

「すごいねぇ、こんなお家住んでみたいね!」

 まるで子供のように史織さんがはしゃぐ。無邪気という言葉がこれほど似合う四四歳は中々いない。

「し、SHIORIさんだったらいつでも歓迎します!」

 振り向きながらもどんどん奥へと進んで行く。ジャンプしても天井には手は届きそうもない。間接照明が照らし出す廊下は寒々しさは一切なく、テレビで見たようなどこぞの高級ホテルのような雰囲気をかもし出している。

「さつきちゃんがウチに来たら狭くて驚いちゃうかな」

「や、さすがにそこまで浮世離れしてないよ」

 苦笑して莉徒が言った。莉徒は何度か来たことがあるのだろう。

「ここです」

 がちゃこ、とドアを開ける。そこはウォーキングクローゼットになっていたけれど、何と言うか、一般家庭で見るウォーキングクローゼットとは訳が違う。あれ、そう、芸能人宅とかで見る衣裳部屋だ。

「すご!」

 思わず声が出てしまった。それくらいの物量も迫力もある。

「え、なにこれみんな衣装?」

「はい。どれも系統は同じような感じですが、デザインはそれぞれ異なるので、お好きなのを選んでください」

 目を丸くしながら言った美朝ちゃんに、さつきちゃんは腕を組んで答えた。どこか誇らしげだ。

「い、いやぁ、さすがにこれは抵抗あるなぁ……」

「髪奈」

「い、いえなんでもないです……」

 着てみたい洋服はたくさんあるけれど、これは少し違う。いや大分違う。ゴシックロリータやメイド服は本業の方でもないかぎりは完全なるコスチュームプレイだし、わたしたち一般人は正装でも余所行きでも着ないものだ。そもそもゴシックロリータの本業の方が何なのかはわたしには判らないけれど。

「わぁ、かわいい!ね、これヘッドドレス!一回してみたかったんだ!」

 大きな花のようなリボンのような白いコサージュをあしらったヘッドドレスを手に取って、史織さんがはしゃいだ。

「SHIORIさんを見ろ。あんなに喜んでくれている」

「個人の趣味というものが……」

 今日の史織さんは可愛らしい格好をしているけれど、普段の史織さんは、実年齢相応の、言ってしまえばわりと地味系な洋服が多い。だけれど、今はしゃいでいる史織さんを見ると、それももしかしたら真面目な主婦でいるために願望を押さえつけていたのかもしれない。

「えぇ!夕衣ちゃん、せっかくのステージなんだから、いつもは絶対できないような格好とか許されちゃう時間なんだよぉ。色んなことやってみなくちゃもったいないよぉ」

「な、なるほど……」

 一理ある。一理ある、が。

「……」

「み、美朝ちゃん」

「え!」

 美朝ちゃんに助けを求めようかと思ったけれど駄目だわ、この子目が輝いている。

「美朝ちゃんも実は興味あった、とか?」

「う、うん、ちょっとだけ……」

 やっぱりそうか……。みんな良くこんなの抵抗もなく着られるなぁ。

「莉徒は平気なの?」

「あぁ、もう私は慣れたわ」

「そ、そうなんだ……。よ、よし、じゃあわたしも真剣に選ぶよ!」

 ここはもう諦めて腹を括るしかない。確かに史織さんの言う通り、ステージ上でしかできない格好ならば試してみるのも手だ。

「うむ」

「あんまりゴテゴテしすぎるのも可愛く見えない場合もあるからね。軽めなやつがいいよ」

 色々と物色しながら莉徒が言ってきた。どれもこれもゴテゴテしているように見えるのだけれど。

「軽め……。どれだろうか……」

「わぁ、私これがいい!」

 ば、と史織さんが取り出したのはワンピースだ。フリフリのフリルがめいっぱい、これでもかというくらいに、白、黒、白でついている。

「さ、さすがSHIORIさん!お目が高いです!」

 さつきちゃんが目を輝かせて手を組んだ。

「圭ちゃんのは?」

「私も莉徒先輩と同じく私専用のが家にあるので」

「あ、そっか」

 ヘルプである莉徒ですら持っているのだから、圭ちゃんは言わずもがなか。

「ある程度動きやすさも考えなきゃダメね」

「……確かに」

 そうだ、わたしたちは演奏をしなければならない。スカートはさほど邪魔にはならないだろうけれど、袖のフリフリは考えないといけない。

「そういう点でSHIORIさんが選んだのはベストです!」

「ほほーぅ」

 史織さんが選んだワンピースはノースリーブだ。手袋をしたり、アームドレスやコサージュをつけても可愛いのかもしれない。

「じゃあわたしもあんな感じのを探そう」

 史織さんが選んだワンピースは、フリフリは凄いけれど、割りと薄手で、動きやすそうだった。

「メイドっぽいのでも良いかもね」

「メイドかぁ……。まさかコスプレまでするとは……」

 ただでさえとんでもない状況でライブをしなければならないのに、衣装までこんなことになろうとは夢にも思わなかった。

「ま、楽しんだもん勝ちよ、こういうのは」

「そうだね、変に照れちゃうと見てる方も恥ずかしくなっちゃうから。美朝ちゃんの時と同じ」

「え?」

 柚机親子が言って、わたしと美朝ちゃんは同時に二人を振り返った。

「とーぜん、って顔してりゃいいのよ」

「な、なるほど……」


「お、中々似合うじゃない」

「わぁ夕衣ちゃん可愛い!」

 結局メイドの服はエプロンドレスの肩のあたりがストラップをかけると非常に弾きにくくなりそうだったので、史織さんと同じようなワンピースタイプのものにした。恐らくステージでは莉徒をはさんでわたしと史織さんが立つのだから、似たような衣装でも良いだろうということになったのだ。

「やぁ、史織さんにはかなわないな……」

「そ、そんなことないよぉ。もう私おばちゃんだし」

 くり、と口元に拳を当てて史織さんがそう言った。うおぉ、やばい、激烈に可愛い。

「史織さんの外見は世間一般ではおばちゃんとは言わない……」

「やん夕衣ちゃんてば」

「……」

 くねくね。

「美朝はなんつーかもう、さすがとしか言いようがないわね」

「え、そ、そうかな」

「うん、美朝ちゃんなんだろ、すっごい似合う!」

 肩からさげる楽器ではない美朝ちゃんは、メイド風の衣装に決めたようだった。これがメイドの正装なのかと問われればわたしには良く判らないのだけれど、ともかく美朝ちゃんにご主人様、と言われてご主人様を拒否る男などきっと存在しないだろう。

「メイド属性あるんじゃないの?」

由比ゆいの彼氏にメイド属性があるのなら永久貸し出しもしよう」

「い、いや流石にないと思う」

 商店街にもメイド喫茶なるものができて、しばらくたつけれど、英介がそこへ行ったという話は聴かないし、今まででも行きたいと言ったこともなかった。

「髪奈ではない」

「……」

 紛らわしい……。

「か、彼氏いない…」

「そうか。ならば仕方ないな。彼氏ができたら報告に来い」

 やっぱり彼氏はいないんだ。美朝ちゃんの口からはっきりとは聞いたことがなかったから、少し安心したというか、そういう部分では秘密主義でもないのかな、と思うと今後もそうした話はタブーではないのかもしれない。

「え、あ、う、うん。でもこういう洋服着られてちょっと嬉しいな……」

 満足そうに笑顔になる。あぁ、美朝ちゃんのご主人様には一体誰がなるのだろうか。気になって仕方がない。

「そうだろうそうだろう」

 満足げにさつきちゃんが腕を組む。

「史織も満足じゃ」

 ふぁっふぁっふぁ、と多分王様気分なのだろう史織さんが笑った。

「し、SHIORIさんにはプレゼントいたします!」

「え、い、いいよぉ。お高いんでしょ?こういうのって」

「まぁ高いねぇ」

 高いのか……。実はわたしも良く知らない。

「で、でも手伝っていただいているのに報酬を払うこともできず、挙句スタジオまで使わせていただいて……」

 sty-xのファンだったらそうもなるか。わたしたち学生バンドの間ではそんなことで報酬が出たり、なんてことはないけれど、やはり手伝ってもらう手前、スタジオ代やライブ代などはヘルプを依頼した方が持つ。それはヘルプを頼む側も、頼まれる側も、同じような立場や身分だからだ。だけれど相手がプロともなればやはり話は違ってくる。ただそれが、友達や先輩の家族、だとしたらそれはそれでまた違う話のような気もするし、さつきちゃんとしても複雑なのだろう。

「それは莉徒ちゃんの功績だよね」

「ちがうけど」

 きっぱりと莉徒は言う。わたしも殆ど同時に頷いた。

「え、違うの?」

「うん。諒さんと夕香さんの厚意でしょ」

 あと貴さんも。きちんとした理由はまだ史織さんにも話せないけれど。

「そっかぁ」

「じゃあ私と一緒でいいじゃん。永久貸し出し」

 殆どもらってしまうのと感覚は変わらない。わたしもくれる、と言われても気が引けてしまうし、そもそも着る場所もないので困ってしまう。

「それはまた何かあったら手伝うってこと?」

 くい、と小首を傾げて史織さんが言う。もうしつこいようだけれど、本当に四四歳なのか、この人は。

「そうだねぇ。ねぇさつきさ、史織がスーパーサブにいてくれたら感激だよねぇ」

「そ、そんな風にSHIORIさんを扱える訳がなかろう!恥を知れ!恥を!」

 確かに天下のsty-xのギタリストをリザーバーに置こうなんて、sty-xのファンが知ったらさつきちゃんたちは無事では済まないかもしれない。

「私はいいのかよ……」

「まぁ莉徒は素人、史織さんはプロだからね」

「ふむ……まぁ、そらそうか」

 ただ、こちらの事情も何もあったものではないお願いの仕方がどうかと思うけれど。

「でもいいよ、さつきちゃん。わたしが空いてるときだったらいつでも手伝ってあげるね!」

 にこ。

「圭!圭!どうしよう!嬉しさのあまり倒れてしまいそう!」

「さつきの家なんだし、存分に倒れなさい」

 圭ちゃんも嬉しそうに言う。不思議な子だなぁ。

「そう言いつつ、ゴスロリ服を手に入れる史織であった」

「え、あ、でも、ちょっと、ほしい……かも」

 ついに本音を言った柚机史織四四歳。でも史織さんは私生活で着そうで怖い。流石に外出するときは控えるかもしれないけれど、家の中で着そう。

「プレゼントします!」

「え、えぇ、で、でも」

「貰ってあげなさいって」

 さつきちゃんももはや収まりがつかないだろう。庶民の感覚で言わせてもらうと、これだけ同じような洋服があったら一着くらい惜しいということもないのかもしれないし。

「う、うんじゃあ、ありがとね、さつきちゃん」

「はいっ!」

 ふぅー、と傾いた体を圭ちゃんが支える。本当に倒れそうだったのか。

「よし、じゃあ衣装合わせも終わったことだし、帰りましょうか!」

 ぐん、と伸びをしながら莉徒が言った。明日に備えて早く寝た方が良いし、わたしも莉徒の言葉に頷くと口を開いた。

「そうだね」

「じゃ、じゃああの、みなさん、あ、明日は宜しくお願いします!」

 ばきぃ、と音が鳴りそうなほどの勢いで、九十度以上に頭を下げて、耳まで赤くしながらさつきちゃんが言った。なるほど。こういう子なのか。でなければ莉徒も毎回協力はしないだろうし。

「お」

 満足そうに莉徒が頷いた。

「よろしくね、さつきちゃん、圭ちゃん!」

 わ、と両手を挙げて史織さんが言った。

「こちらこそ、宜しくお願い致します」

 圭ちゃんも深々と頭を下げる。結局二人とも変わった子だけれど礼節を重んじる、しっかりした子なんだろうな。そんなことを思いながら、だだっ広い柊家の中を玄関に向かって歩く。

「じゃあ明日ねー、ばいばい」

「はい!」

 玄関でひとり見送るさつきちゃんに、みんなで手を振ると、本当に嬉しそうにさつきちゃんは笑顔になった。


 13:オムライス 終り

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