10:生ラーメン

 二〇〇七年四月二一日 土曜日

 七本槍ななほんやり市 七本槍南商店街 喫茶店vultureヴォルチャー


「ちあーっす」

「あらあらいらっしゃい、莉徒りずちゃん。あ!史織しおりさん?」

 からからと小気味の良い音が鳴り、私と史織は喫茶店vultureに入った。即座に涼子りょうこさんが反応して声をかけてくれる。色々と買い物をしていたので結局十九時前だ。夕飯にはちょうど良い時間なので好都合と言えば好都合だった。

「わ、可愛い!ねぇ莉徒ちゃん凄い可愛い!」

 涼子さんを見て史織がはしゃぎだす。気持ちは判るけれども。

「名を名乗りなさい……」

「あ、柚机ゆずき史織です。涼子ちゃん、だよね?」

 ぽんと肩に手を置いて、涼子さんの正面に向き直させると、史織はすらすらと自己紹介をした。

「はい。宜しくお願いします。すごい!噂どおり可愛い!写真と全然変わらない!」

 涼子さんも史織を見てはしゃぎだす。なんというかもう、二人は同じような人種なので、そこだけで通じ合っているような空気感すら伺わせる。

「ありがとー。へへへ」

「じゃあ座って。たかぁ、史織さん来てくれたよー」

 カウンターテーブルについて、バッグを隣の椅子に置かせてもらう。勿論お客が入れば即座にどかすけれども。

「まじでか!」

 カウンターの奥は水沢みずさわ家の家屋に繋がっている。そこからすぐに貴さんの声が聞こえた。と思ったら顔を出した。

「わーい!貴くーん!久しぶりー!」

 史織はパタパタと手を振る。

「おー!史織さーん!会いたかった!」

 貴さんがカウンターから客席側に出てくると史織が椅子から降りた。と思ったらいきなりがっちり抱擁。い、いや多分ハグなんだろうけれども。

「わーい」

「こらぁ!」

 よその旦那さんとうちの母親が……!

「ま、まぁまぁ莉徒ちゃん」

 涼子さんは慣れた口調で言うけれども、流石にあまりよろしくないような気がしないでもない。別に貴さんと史織がどうこうではないのは判っているけれども。

「史織、この人は涼子さんの旦那さん。貴さん、この人は私のママ!」

「わかってるよぉ」

「親愛のハグだろー。夕衣ゆいにもしてるじゃんよー」

「ねぇ。このくらい」

 史織は基本的に人にくっつく習性があるからそうなのかもしれないけれど、貴さんはそうではない気がする。

「私にはしないじゃん……」

 そう、それがたまに苛っとすることもあるのだ。何故夕衣にして私にしないのか。

「アナタ一回したら腹パンしたじゃないですか……」

 あぁ、それでか……。

「前フリもなくするからです」

 そう。あまりにびっくりして。私の左中段逆突きが貴さんの水月にクリティカルヒットして、数分間呼吸困難に陥れてしまったことがあった。私にだってまだ男にいきなり抱きつかれて恥じらう気持ちはあるのよ!

「六人も男を虜にしたくせに案外純情なのね、莉徒ちゃん」

「虜って……」

 誰も彼も私にメロメロになって付き合った訳じゃないっていうのに。

「しっかしこう並んで見ると親子には見えないなぁ」

「ほんとね、姉妹みたい」

 そのうち涼子さんと貴さんの娘、みふゆちゃんだって、二人が並んだらそういう風に見られるようになるはずだ。今だって涼子さんとみふゆちゃんが並んでいると普通の親子には見えない。みふゆちゃんがまだ小学生だから姉妹には見えないけれど、みふゆちゃんがお年頃になった頃には、恐らく涼子さんは今の若さを少しも損なっていないだろうから、私と史織と同じように見られるはずだ。

「それにしても一八年も良く隠してたねー、史織さん」

 私とは逆の史織の隣の椅子に腰かけて貴さんが言う。

「あんまり子供の頃に話しちゃうと、いじめられちゃうかな、って思ってたんだ」

「まぁあの時代は格好も激しかったしね」

 茶色くて金髪でもじゃもじゃでなんだっけ?トゲトゲでとにかく、メディアに出演していた史織は普通の格好ではなかったからな……。

「まぁ確かにお前の母ちゃんなんかおかしいぜ!って言われてた可能性はあったかも」

「でしょー、だから徹底してたんだー。素顔だったらあんまりばれないもんね」

 私もsty-xステュクスのギタリストが史織だと判る前に何度も動画を見ていたのに全く気付かなかったもんなぁ。

「でもこの辺割と音楽関係者いるよ」

「え、そうなの?」

りょうじゅん少平しょうへいただし大輔だいすけ……は、ちょっと離れてっけどみんな近くに住んでるから」

 確かに私たち学生バンド者からして見れば、夢のようなメンバーが時々このお店にも顔を出す。私がKool Lipsクールリップスに入るほんの少し前に、中央公園でたまたま貴さんと諒さんを見かけてからどんどんと知っていったことだ。まさかその前から足を運んでいたここの店主、涼子さんの旦那さんが貴さんだったなんて知りもしないまま。

 逆の立場から言えば、貴さんたちも同じだったのかもしれない。姿を消したsty-xのギタリストが一八年もこの街で普通の主婦として暮らしていたなんて夢にも思っていなかったのだろう。ましてやその娘と知らずに私と仲良くなっていたなんて。

「そうなんだ!あ、さっき諒くんのところでギター買ったよー」

「おー、復活に向けて?」

「それもそうなんだけど、史織が私のギターぶっ壊したから」

「何で……。つーかそれって莉徒からかっぱらおうとしたやつ?」

「そうそう。一回リハに持ってったんだけど、呑んで帰ってきて家でコケて落としてぶっ倒した」

 不自然に史織の顔の角度が私たちの会話の輪の中から外れて行く。

「わはは!相変わらずだなー、史織さん」

「だってぇ」

「だってじゃない」

 史織が買ったEX-Vはハードケース付きだったけれど、持ち運び用に背負えるタイプのセミハードケースも買った。私のエピフォンを入れていたようなソフトケースではないから、少々の衝撃だったら壊れたりはしないだろうけれど、それでも不安は拭えない。

「そういや香織かおりさんの結婚式ん時もヒール折ってコケたよなー」

「あー、恥ずかしかったなぁ。そのあとね、貴くんがずっとおんぶしてくれたんだよー。それから貴くんのことはずーっと大好きなんだー」

「思いっ切り捻挫してたしね。すんげぇ足首腫らして、でも半べそかいて最後までお祝いする、って聞かなくてさ……」

「諒くんがシップ買って貼ってくれたんだよねー。懐かしいなー。あーそうだ、見てこれー」

 あぁ、いかにも史織らしい。確か親戚の法事の時も似たようなことがあった。

「うっわめっちゃ痛そ。コケた時?」

 膝までスカートをめくり挙げて史織が大きな青タンを見せた。

「うん。憶えてないんだけど……」

「まぁ自業自得だけどね」

「うぅ……」

 絶妙なタイミングでぽん、と涼子さんが手を叩いた。

「はいみんな、続きは注文聞いてからね」

「おっといけね。何がいい?」

「ちょっとおなかすいたね」

 思えばお昼らしいお昼は食べなかった。ちょいちょい私が学校帰りに買い食いしているお店を紹介したりもしていたから、きちんとした食事はしていなかったのだ。

「だねー。涼子ちゃんが一番得意なやつ食べたい」

 それは賢い選択だ。正直私に言わせたら、ここのものは全部おいしいので選びきれない。

「コーヒーは?」

「涼子ちゃんのオススメが飲みたい!」

「じゃあお任せだな」

「かしこまりー」

 貴さんがにっこり笑ってそれに涼子さんが応える。この夫婦のとても羨ましい瞬間。いつも夕衣が強烈に憧れているけれど、私だってそれは同じだ。勿論夕香ゆうかさんと諒さんにもそれはあって、この二組の夫婦は本当に接していてとても幸せな気持ちにしてくれる。もしも私が結婚したとしたら、相手が貴さんのような人、とか諒さんのような人、というのではなくて、相手が誰でも、ちゃんと好きになって結婚した人とだったらこんな関係を、こんな空気を生み出せるような夫婦になりたい。

「かしこまりー」

「真似しないの」

 史織が涼子さんの真似をする。

「かしこまりーって可愛い」

「でしょ?」

 おそらく涼子さんたちが学生時代に使っていた言葉なのだろう。貴さん、諒さん、夕香さんは学生時代からの付き合いだ。夕香さんもこの「かしこまりー」は良く使うし、最近では私も夕衣も使うのであまり史織のことは責められない。

「ていうかもう涼子ちゃんが可愛い!」

「だめ。おれの」

「うー」

 史織は今日は大収穫だなぁ。史織は可愛かったり美人だったりする女子が大好きだ。夕衣や美朝みあさ瑞葉みずははもちろん、二十谺はつかも史織は大好きだ。

「そういやリハ、どうだったの?」

「久し振りにみんなに会ってきたよー」

「おー、みんなどうだった?」

「あんまり変わってなかった」

「そっかぁ。でもま、みんな何かしら活動してたしね」

 中でもsty-xのリーダー、千織ちおりさんは時々会っていたみたいだから、恐らく他のメンバーの活動情報などは史織の耳に入っていたのだろう。

「うん。私だけ専業主婦してたから、久しぶりにギター弾いたら下手すぎる、って怒られちゃった」

「うはー、厳しいな」

 史織に釣られて貴さんが苦笑した。確か貴さんもThe Guardian's Blueガーディアンズブルーの解散から-P.S.Y-サイ始動までに相当なブランクがあったはずだ。

「いっぱい練習しないと」

「だねー。ライブが楽しみだ」

「うん」

 結局史織は貴さんや諒さんが前座をやることは知っているのだろうか。諒さんがそうだったけれど、貴さんもあえてそれを口にしない。そもそも私と一緒に貴さん達が出演するなんて夢にも思っていないだろうけれども。

「近いんだしさ、何かあったらすぐ教えてよ。携帯の番号交換しとく?」

「あ、そうだね!しようしよう!涼子ちゃんも!」

「了解です」

 貴さんと涼子さんがぱっと携帯電話を……。いや涼子さんは一度家屋の方へ行ってから戻ってきた。家の方に置いてあったのだろう。

「史織、貸して」

「あい」

 そういえば私、貴さんの携帯番号もメールアドレスも知っているけれど、涼子さんのは知らなかった。ついでに私の携帯にも登録させてもらおう。結局私が貴さんの携帯も涼子さんの携帯も史織の携帯も操作して、各々の連絡先を登録する羽目になった。

「でもねー、涼子さんは出かける時に携帯電話持って行かないんですよ」

「携帯するための携帯電話なのに?」

 私が作業している間に貴さんが言う。別段難しい作業でも何でもないので私も普通に相槌を打つが、史織は私の手元をじっと見てる。

「そう」

「意味ないじゃん!」

「私もあんまり外出することってないからつい忘れちゃうのよ」

 確かに涼子さんも専業主婦ではないけれど、それほど頻繁に外出もしないみたいだし、家かお店にいれば連絡はつくのであまり必要性がないのだろう。

「そしたら私ここに来るからここですればいいんだもんね」

「来るなら喋りなさいよ……。よし、登録終わり!」

 何かがズレ始めた機械音痴ども。涼子さんも見た感じだと機械に強いようには見えない。私は各々に携帯電話を手渡すと、お冷を一口飲んだ。微かに感じるレモンとミントの香りがとっても落ち着くわ。

「いいなぁー素敵なお店。ここならすぐ来れるからまた遊びに来るね」

 とん、とグラスをコースターに置く。

「はぁい。いつでもきてくださいね」

 との涼子さんの言葉に私と史織の腹の虫が応えた。


「んまぁい!」

 涼子さんのオムライスを頬張って、咀嚼。三秒後、史織が吼えた。気持ちは判る。

「おいしいって言いなさい」

 普段から私が乱暴な言葉遣いをすると反応するくせに。

「おいしい!感激!莉徒がこんな素敵なお店の常連なんてちょっと生意気ぃ」

 どういう意味でかは掴みかねたけれども、どうせ私みたいな子供が、という意味だろう。

「あんたが常連でもたいして変わんないよ……」

「涼子ちゃん、娘が母をあんた呼ばわりする……」

 半分史織がネタ的に扱っていたような気がしたので、わざと私は言った。

「またかい」

「仲良いですね」

 調理器具を洗いながら涼子さんが笑顔を向ける。ホントにしつこいようで申し訳ないけれど、私はノン気でノーマルだけど、俺の女になれ!と言いたくなるほどの笑顔。今のところ女としての魅力は完敗だけれど、私たちにはまだ成長する時間がある。

「うん。超仲良し。涼子さんは?」

「ん?」

「お母さんと仲いいんですか?」

 なんだか涼子さんと付き合いのある人で仲の悪い人などいるのだろうか。そりゃあ涼子さんだって人間だし、そうした関係の一人や二人、いるだろうけれども。史織や涼子さんは年を重ねて、それも相当に素敵な年の重ね方をしてこういった魅力を培ってきた女性達だろう。けれど、例えばこんな二人のようにおっとり、いやもう言ってしまうけれどもボケーっとしたヤツが同級生だったらわたしはイラついて近寄りもしなくなると思う。史織も涼子さんも私をイラつかせない何かをも持っている。それこそが長年生きてきて培ってきた人間力なのだろうと思うし、そもそも私が嫌いなタイプの天然ボケや猛禽タイプではないのかもしれない。

「うん。うちのお母さんも凄い若いよー。もう六十歳になるけど、凄く可愛い」

「ま、まぁ涼子さんも若いからね」

 確実に涼子さんの母親から遺伝は受けているという訳だ。

「涼子さんは双子の姉ちゃんもいるんだけど、姉ちゃんも超若いよ」

 そう貴さんが言う。

「あぁ、晶子しょうこさん?会ってみたい」

 涼子さんの双子のお姉さん、晶子さんの話は幾度か聞いたことがある。私はもう四年以上このお店に通っているけれど一度も見たことがなくて、最初は涼子さんのドッペルゲンガーだとか、実は涼子さんは二人いる、だとか、少しオカルトじみた噂まで流れたほどだ。何のことはない。双子だったというオチで、隣町の十三橋じゅうさんばし市で涼子さんと同じく喫茶店をやっている。時折涼子さんのお店を手伝ってくれることがあるらしい。最近はあまりそんな機会も少なくなってしまっているようだけれど。私も今度夕衣と一緒に晶子さんのお店に行ってみよう、と言いつつまだ実行には移していない。

「えぇ!涼子ちゃん双子なの?」

「そうなんですよ。一卵性なんですけどその割にはちょっと似てない、かな?」

「や、そっくりだって」

 貴さんが苦笑する。一卵性双生児の知り合いは私にはいないけれど、良く似ているのだろうし、当然違いもあるのだろうくらいしか判らない。恐らく当人たちを見間違えることはあまりないように思う。

「だって貴はすぐ判るじゃない」

「だから旦那が判んないようじゃだめでしょ。つぅか夕香だって諒だって間違えないじゃん」

 それはおそらく付き合いの長さや相手への気持ちの持ち方もあるんだろうな。

「だからあんまり似てないのかな、って思うんだけど」

「やぁ似てる。昔は遠目だとほんっとに判んなかった」

「じゃあ今度写真用意しておくわね」

「わー、楽しみだね」

 史織の言葉に頷いて私はナポリタンを一口。あぁ、もう本当に何したらこんなおいしくなるのかしら。

「晶子ちゃんも若いの?」

「あぁ、チョー若ぇよ。もうこの姉妹は異常だね」

「へぇー。何かもうここまで来ると人種が違うよねぇ」

 英介も言っていたけれど、本当にそう思う。同じ霊長類ヒト科でもこう、何かが違うのだと思う。

「莉徒ちゃんも史織さんの娘なんだから、ずっと若いままでいられるよ、きっと」

「だといいけど……」

「いいけどなに?」

 オムライスをもぐもぐしながら史織が私を見る。恐らく言いたいことは伝わっているのだろう。

「精神年齢が……」

「四四歳の大人を捕まえて……」

 ぷんぷん、とでも擬音が付きそうな怒り方で史織がむくれた。

「四四歳の大人はわーい、とか言わない」

「え、言うよー。千織ちゃんだって言うもん。ね、貴くん」

「ま、まぁ史織さんと千織さんくらいだけど……」

 千織さんは私がまだうんと小さい頃に何度か会っているけれど、記憶では確かに若かった。というよりも見た目で史織と大差なかったような記憶がある。「ママのお友達なの」と言われて、当時の史織と似たような年齢層だったと記憶しているだけなのかもしれないけれど。

「その千織さんていう方、シンセでしたっけ」

「そうそう。んで、リーダー。あとはもうみんなロック姉ちゃん!みたいな感じだった。史織さんと千織さんだけ女の子ーって感じでさ。確かみんなヤンキー上がりだよね」

 まぁLAメタルやハードロックをやるっていうくらいなのだから、見た目のインパクトも大事だったのだろうし、女の子二人とヤンキー姉ちゃん三人では多数決でも色々適わなかったのだろう。

「うん。最初集まった時怖かったよ」

「なるほどねー」

Sounpsyzerサウンサイザーの人たちは?」

「あぁ、みんな元気だよ。しばらく会ってないけど」

 Sounpsyzerは貴さんや諒さんが以前やっていたバンド、The Guardian's Blueが所属していた事務所だ。

「あ、そっか-P.S.Y-はSounpsyzerじゃないんだっけ」

「そ。うちはもう立ち上げしてオリジナルレーベルも創って独立しちゃったからね」

 その時は大分Sounpsyzerの援助を受けたらしいけれど、そのおかげで貴さんや諒さんは自分たちが思った通りの、やりたい音楽をできている、という訳だ。学生バンドはその辺のしがらみや縛りはないけれど、プロのバンドでそれが殆どない状態でできるというのは誰もが憧れることなのではないだろうか。それも彼らの実力があってこそなのだろうけれど。

「あーそっか、すごいなぁ」

「だから、諒が首を縦に振れば何でも手伝えると思うからさ、遠慮しないでいいよ」

 貴さんや諒さんのこういう部分はもう性分なのだろう。多分これは史織がsty-xのギタリストだから、という訳ではなくて、私たち学生バンドに対しても同じなのだ。真剣に何かをやっている人間に助力をしたいという気持ちは、きっと彼らに近しい人間には働いてしまうのだろう。その気持ちは実は私にも良く判る。

 真剣に何かに打ち込んで頑張っている人を応援したくなるし、困っていれば助けたくなる。でもそれが迷惑になりそうなら早々に引き揚げる。夕衣と出会ったばかりの頃なんかは夕衣はあからさまに私との接触を避けていたから、そこに土足で踏み込むような真似はしなかったけれど。

「うん、判ったー。皆に言っとくね」

 そういう機微に理解を持った接し方を貴さんや諒さんはしてきている。だからこそ、何年も疎遠になっていてもこうして暖かなことが言えるのだろうし、頼る側も安心できるのだろう。

 普段は涼子さんや夕香さんの人柄に隠れがちで、呆れられたり叱られたりが目立ってしまう貴さんと諒さんだけれど、そこは流石の涼子さんや夕香さんがこの人、と心に決めた人達なんだなぁって実感する。

「うん」

 そう言って頷いた笑顔は本当に素敵だな、と思わせてくれた。


「はー、夢のよう」

 食後のコーヒーとケーキを平らげて史織はやっと一息ついた。

「じゃあ史織さん、これ、サービス」

 カウンターから出てきて、涼子さんが小さな箱を史織の前に置いた。

「え、ダメ!」

「初めてきてくれた人には何らかのサービスをする、っていうのが涼子さんの流儀なのよ」

「え、じゃあありがたく頂くね」

 史織は人の流儀というか、ルールというか、とにかくその本人が拘っていることを曲げてしまうことが大嫌いだ。

 先ほど、夕香さんのお店、EDITIONエディションでもそうだったけれど、気に入った人のお店に迷惑をかけたくない、という史織の行動原理がまずある。史織はその人たちに利益をもたらすためにお客としてそのお店に訪れるのだ。恐らく一時期でも有名人として過ごした時間の中で、そういったことに対して何か嫌な思い出があるのかもしれない。だけれど、それを押し通して相手のもてなしの気持ちを折るようなこともしない。

「はい」

 にっこりと笑顔で返してくれる涼子さんがそんな史織の気持をも全て理解している、と言っているようだった。

「パパもおーちゃんも喜ぶね」

 史織は無邪気に喜んでいるけれど、無邪気だからこそ、涼子さんにもそれが伝わるのだろう。

 そしてそろそろ現実を見せないといけない。

「父は超ハラ空かせてると思うけどね……」

「え?」

「二十時」

 自分の腕時計を見て史織が時間を確認する。

「つまり、夜の八時」

「判るもん、そのくらい」

 二〇時が午後八時だと言っているのではなくて。

「ホントに判ってる?八時だよ」

 私らは今まさに、おいしいものを食べまくって満腹で幸せだけれども。

「あー!ど、ど、どうしよう!」

「どうかしたんですか?」

「パパ多分何も食べてないよね……」

 博史は料理という料理は一切できない。カップ麺にお湯を注ぐ程度。それも時々失敗する。インスタントラーメンを作るなど、博史にとっては夢のまた夢だ。

「朝の食パン残ってたんじゃない?一枚くらい」

 逢太おうたが平らげてなければ、の話だけれども。

「うわぁ……」

 さぁ、と史織の顔から血の気が引いて行く。これは博史が怒ったら怖い、とかではなく、単純に夫に悪いことをしてしまったという顔だ。

「何か博史の好きなもの買ってってご機嫌取るかぁ」

 高校時代あんなに気合の入ってそうな不良だったのに、拗ねる。拗ねると手に負えない。博史の好物を与える以外にそれを解決する方法はないと断言できるほどに。だから言ってしまえば逆に割と簡単に事が片付く。

「そ、そうだね……」

「じゃあもう二、三個持って行って、史織さん」

 高校時代あんなに気合の入った以下略なのに、博史は甘いものも大好きだ。それが涼子さんのケーキともなれば、感動もひとしおだと思うけれど、主食がケーキでは締まらない。

「で、でも……」

「もうすぐ店仕舞いですし、気にしないで」

「うん、ごめんね、ありがとう涼子ちゃん」

 史織が一応の抵抗を見せるが、流石に博史の好物ともなれば逡巡もするか。それに八時だともう一時間足らずで店仕舞いだ。史織が受け取らなければ恐らく捨ててしまうことになるのだろうから、きっと涼子さんとしても貰ってくれた方が良いのだろう。

「いいえ」

「じゃあおれ車出してくる」

 さ、と貴さんが席を立つ。

「うん、宜しく」

「そこまでしなくていいって」

 そこまでしてもらっては流石に悪い。ウチからここまでは歩いてそう遠くないところだ。勿論車の方が早いけれど、ケーキをご馳走になって、送迎までしてもらうなど、どれほどのビップ待遇だ。

「こんな小娘二人だけで夜道は歩かせません」

 笑って貴さんはカウンターの奥の家屋スペースに姿を消した。


「史織といると至れり尽くせりだなぁ」

 流石の私も申し訳ない気持ちになって呟いた。これは間違いなく史織待遇だ。夕香さんのお店で買った楽器も全てサービスでデリバリーしてもらえたし、喫茶店に至っては送迎付きだ。

「お前ね、史織さんがどんだけ凄い人か知らないからそんなこと言えんだよ」

「凄い、ねぇ……」

 確かに知らなかった。sty-xのギタリストというだけでも凄いことは凄いけれど、それだって今まで知らなかったことだ。

「お前ら女子バンドが今ステージで好きなこと自由にやれてんのも、女子バンドが大人気になったのも、史織さんたちが血の滲むような努力をしてきたからなんだぞ」

「いや、まぁそうらしいけどさ」

 インターネット上のフリー百科事典でも色々と調べたし、未だに根強く残っていたファンサイトも調べた。今の、特にロック系女性アーティストにとっては、彼女たちの存在は本当に大きな影響を与えていたようだった。貴さんが言っていたこともほぼそのまま書いてあったところもあった。

「えへへー」

「sty-xが全盛の時代は今よりももっと女がロックなんかやりやがって、みたいな風潮が強かったんだよ。お前らも今でもたまにあるんじゃねぇの?」

「まぁ、あるね」

 特にプロになる気なのか実力がないからなれないのか判らないような、気合と自慢だけは立派な連中だとか、ヴィジュアル系の真似をしてタトゥーまで入れちゃってる、いわゆるドキュンバンドとか、そんな連中はいつも敵意を向けてくる。Kool Lipsは私以外は男だからあまりそういったことはないけれど、女子バンドの時はそういうことも時々あった。

「野次と一緒にエロ本とかステージに飛んできたりしてたんだぞ」

「あー、あったねぇ。最初の頃はいっつも脱げーって言われてた」

 そういう時は史織と千織さん以外のメンバーが正面切って受けて立っていたらしい、とファンサイトに書いてあった。

「嫌な風習だよね、男尊女卑ってさ」

 男性である貴さんがそう言ってくれるのは、女性としては凄く心強い。

「でもハコとかスタジオのスタッフさんはみんな優しくしてくれたよ」

 それは今の私らでもある。全員が女性だとスタッフの気遣いが違う。そういうのは私たちも肌で実感しているから良く判る。

「客にしょーもないのがいたの、判ってたろうしね。仕事で関わってる側は、史織さん達に変な影響出ないように、とかがんばってたよね」

「うん、そうだね」

 でなければきっとsty-xだって続けられなかっただろうし、解散してから何年もたっているのに復活を望まれたりもしないだろう。

「今も昔もロックなんか男のモンでも女のモンでもなかったのにね」

「でも貴くん達は昔からファンだったって言ってくれてたよね」

「だっておれらなんかより全然巧ぇし、かっけぇし、尊敬するしないに性別なんか関係ないからねぇ」

 元々貴さんや諒さんが好きなジャンルだったのもあるのだろう。実際史織が私の母親だと判る前から本当に好きだった、と言っていたし。

「いやぁ、照れちゃうなぁ」

「史織さん達を馬鹿にしてた奴は何人か血祭りに上げたしなー」

 言わなきゃ言わないで良いことを言ってしまう。

「ひぃ!」

「う、嘘だってば」

 史織が悲鳴を上げ、慌てて貴さんがフォローをするが、恐らくそれは嘘ではないと思う。

「嘘じゃないでしょ、それ……」

 涼子さんも呆れて言う。そうか、貴さんも昔はヤンチャしていたという話だから、涼子さんも判っているんだ。

「う、嘘だよばか、何言ってんだよ、嘘だよ……」

「視線が天覇封神斬のコマンドみたいになってるわよ。ちゃんと前見て」

「わ、判りにくい!」

 涼子さんは時々こんなコアなツッコミをする。それが瞬時に判ってしまう私もちょっとアレだ。

「でもねー、そういう風潮とか、スタッフさんの気遣いとかが突出しすぎちゃって、みんな色々心にストレスを溜めちゃったんだよね」

「それが活動休止の原因?」

「私がいた頃、だけど、元を正せばそうだね。他にも色々あったみたいけど。後半はそういうのも相まって作曲とかアレンジでも凄くもめるようになっちゃったらしくてね。男を見返してやろう、とか男に負けないサウンドにしなきゃ、とか……」

 なるほど。判らないでもない。私は割りと男女混成のバンドが多かったからあまりそういう考えはないけれど、女子バンドに所属すると、中には必ず一人、そんなことを言う子がいたものだ。

 男に負けないだとか、男に対抗するだとかいう行為こそ、自分がどうしようもなく女でしかないことを思い知らされるだけのような気がする。そういうことに気付けないという時点で恐らくは冷静さを欠いている。男に対抗心を持つという考え方そのものが、心のどこかで女が男よりも劣っているという気持ちがある証拠だ。そんなことに時間や労力や心の力を使うこと自体が無駄以外の何物でもない。

 私は女だろうが男だろうが、本気で楽しく音楽ができないのだったら音楽なんか辞めちまえ、と常に思っているから。

「そっか」

「でもね、もうみんないい年だし、私以外はみんな音楽の仕事を続けてたし、今は女子バンドが大人気だし、そういう、昔あったストレスも全然感じないで、同窓会みたいな雰囲気で楽しくできると思うの」

 恐らくは他の一八歳よりも、ほんの少し色々な面で経験値を得ている私がその答えにたどり着けるのだから、それこそ私の倍以上生きているsty-xの人達はもうとっくにそんな考えから脱却もしているのだろう。だからこその再結成のはずだ。

「こりゃ復活ライブが楽しみだ」

「みんなで行きますね」

「うん、頑張るね。あー涼子ちゃんがいなくて私があと十歳若かったら絶対貴くんのこと好きになってたなぁ」

「聞かなかったことにしてあげます」

 それは嘘だ。涼子さんだけではなく、あと博史を抹殺しないことには史織は絶対に他の男にはなびかないと思う。それくらい呆れるほどラブラブなのだ。勿論全てが冗談の域を出ていないから私も暢気にそんなことを思えるのだけれど。

「えへへ」

 あ、でも待てよ。

「もしかして昔、貴さんのこと好きだったとか?」

「うん。大好きだったよー。あの頃は可愛い弟みたいで」

 思わずずっこけそうになる。考えてみればそれもそうだ。だって史織と博史は高校生の頃から付き合ってたんだから、貴さんと初めて会った時には私だって生まれていたはずだし。

「弟かー」

「だって初めて会った頃って貴君何歳?」

「二三、四くらいだったかなぁ」

 うーん、と唸って貴さんは左手を顎の辺りに当てたようだった。

「私もうあの時三一歳だったもん。二三歳の男の子にしてみたら三一歳なんておばさんだもんねー」

 そうかなぁ。今の涼子さんは三六歳だけれど、まったくおばさんには見えない。それは涼子さんがそういう人種だから、史織にもあてはまることだ。実年齢が三一歳だったとしても、下手したらまだ一〇代に見えたのではないだろうか。

「初めて会ったとき判らなくてなぁ」

「あぁメイクとかで?」

「そう。おれが聞いてた時ってまだバリバリにメイクしてた時だし、テレビでしか見たことなかったから、普通のメイクで可愛らしい格好してる史織さん見た時は、どこにsty-xのSHIORIがいるんだ?って思ったよ」

 確かにステージ用のメイクと今の史織の差はもうギャップという言葉を通り越して変装だ。いや変身だ。いやもはや変形だ。

「え、このチビッ子?って言ったのまだ憶えてるよー」

「あはは、懐かしいねー。そのあと超土下座したわ。でもさ、史織さんあん時だけ?音楽の仕事したの」

「そうだねー。一年くらいだったと思うよ。莉徒がもう小学校に上がる頃だったから、もうそろそろ隠せなくなっちゃうかな、って思って。逢太もまだ三歳だったし、殆どお母さんに見てもらう形になっちゃってたからね」

「なるほどなぁ」

 小学生に上がる前くらいだと、今でも憶えていることはたくさんある。でも史織が良く家を空けていた、なんていう記憶は一切ない。恐らくは限られた時間内、私が幼稚園に行っている間、それからもしかしたら私が寝付いてから、そういった仕事をしていたのかもしれない。でも言われてみればお祖母ちゃんが割とうちにいたようなイメージは何となく、あるかもしれない。

「バンドがなくなって、莉徒を生んで、やっぱりちょっとしたら色々声がかかってね。やりたかったんだけど、私はね、ちゃんとお母さんしようって決めてたの。でもお仕事手伝ったときは千織ちゃんが凄く困ってて、どうしても助けてあげたくて……」

「莉徒、お前のお母さんはこういう凄い人なんだぞ」

 なるほど、私は本当に史織の遺伝子を色濃く引き継いでいるんだ。千織さんとは学生時代からの友達だっていうし、恐らく史織がバンドを抜ける理由もちゃんと判っていた筈だ。それでも史織を頼らざるを得ない状況だったのだろう。もしも私が史織の立場だったとしたら、やっぱり千織さんを助けたと思う。

「うん」

 しっかりと私は頷いた。そうだ。史織はいつだって私たちの自慢の母であり続けてくれた。そして今は尊敬すべきギタリストであることも知ることができた。

「判ってるわよね、莉徒ちゃんだって」

 言われなくても、と言いたいところだったけれど、諒さんや貴さんに色々と話を聞けなければ気付けなかったことは沢山あった。

「でもバンド復活の話がなかったら、今まで通りだったかも。ママの昔の話とか聞いて、諒さんや貴さんが凄く史織のこと慕ってくれてて、初めて見えた部分っていっぱいあった」

「莉徒ちゃん」

「ま、でもそれがなくてもウチの連中はみんな史織のこと大好きなのは変わんないんだけどね」

 結果的に今まで以上に史織のことが好きになったけれど。

「私もみんな大好きー」

「でもあのギターテクは嫉妬を禁じえないわ」

「わはは、史織さんに比べたら莉徒なんかまだまだコムスメの域を出てないぜ」

 悔しいけど貴さんの言う通りだ。

「えー、でも莉徒ちゃんの年にしてみたら凄い巧いよー。私一八歳のときスウィープなんてできなかったもん」

 まぁ確かに周りの連中を見ても同年代でスィープをやるギタリストは殆どいない。けれどそれはそれだけ練習をしたからだ。才能なんて言葉に溺れるほど平凡なボケ方はしていないし、平凡に塗り潰されないほどの非凡さは自負しても良いと思う。

 だから、声高らかに言ってやるのだ。

「そのうち史織をぶち抜いてやるわ!」

「私だって負けないもん!」

「貴だって負けないもん!」

「あんたベーシストでしょうが」

「そうでした」

 綺麗な突っ込みも終わったところで我が家が近付いてきた。貴さんが我が家の玄関の前に車を停めると、涼子さんが助手席から振り向いて私の膝の上に白いビニール袋を乗せる。

「なんですか?」

「ついこの間ご近所さんに頂いた生ラーメンなの。慌てて持ってきたんでこんな袋でごめんなさいね。うちじゃあまり食べないんで、旦那さんに作って上げて下さい」

 うはぁ、この気遣い。流石は商店街の魔法使いだ。正直私も史織も博史の晩御飯のことなんてすっかり忘れてしまっていた。

「もう、どうする?莉徒ちゃん、この借りをどう返したらいいの?もう身体で払う?おばちゃんだけど……」

 本気で狼狽えながら史織は言った。

「それも悪くな……い、いやぁ冗談ですよ」

 また言わなくても良いことを貴さんが言って涼子さんに睨まれる。

「ではvultureの大先輩である私が教えてあげましょう。暇なときに涼子さんのお店に行って、おいしい紅茶とケーキを食して、おいしい、と涼子さんに言いなさい」

「正解、ね」

 それが涼子さんにとっての一番の喜び。多分、史織が涼子さんのオムライスを食べて感激したのを見て本当に喜んでいたはずだ。

「そんな当たり前のことじゃ返せないぃ!」

 まぁ確かに史織にとってはそんなことなど当たり前だ。というよりも、一般常識を持つ人間なら誰でもが当たり前だと思うことだ。でも、それでも涼子さんにとってはそれこそが喜びなのだから。

「むしろ私はこんな時間にまで史織さんをお店に引き止めて、挙句家で食べない余りものを押し付けてる方ですよ」

 にこやかに涼子さんは言う。鉄壁の笑顔だ。これが作り笑顔ではないのだからもう本当に涼子さんには誰も敵わない。

「違うもん、史織たちが勝手にいたんだもん。史織たちが早く帰れば涼子ちゃんだってもっと早くに店仕舞いできたのに……」

 ついに涼子さんたちの前でまで自分のことを私、と言わなくなった史織はかなり狼狽えている。

「あら、じゃあ史織さんたちがお店に来てくれたのを私が迷惑だと思ってるってことですか?」

 受け取り方に寄っては挑発しているように聞こえてしまう言葉でも、全くそうは聞こえないから不思議だ。もしも私がそれを言ったとしたらソッコー喧嘩になる。

「ちぃーがぁーうぅー!」

 ばたばたと手足を振って史織は抵抗する。子供か。

「よし判った。じゃあこうしよう。涼子さん、こう見えて史織は料理が超巧いの。なんで、近い内に涼子さんのお昼ご飯を史織の手料理でおもてなし、ってことで」

「あ、それは楽しみ」

 破顔して涼子さんがぽん、と手を打ち合わせた。

「ちょっと莉徒ちゃん!」

「じゃあ史織さん、それで貸し借り無しですね」

「うぅー」

 あれほどのオムライスを振舞われた後では確かに気が引けるのは判るけれど、史織の料理だって負けず劣らずだ。私はいつも晩御飯のおかずは何が言いかと問われると、何でもいい、と答えてしまうのだけれど、それは史織が何を作ってもおいしいものを出してくれるからだ。何でもいい、と言ったからには絶対に文句を言わない、という責任は持つ。ただ文句を言えるものなど一度として史織は出したことがないのも事実だ。

「ちょっ!史織さんの手料理ならおれも食べたい!」

「よし、じゃあ貴さんとみふゆちゃんのお弁当も作ろう。それで手打ちだ、史織」

 ぽん、と史織の肩を叩く。大丈夫だ。今まで料理しか取り得の無かった女だったけれど、今ではプロのミュージシャンのくせに料理まで巧い女にクラスチェンジしたんだから。

「楽しみにしてますね」

 そう言って涼子さんは車から降りた。私と史織もそれに続き、最後に貴さんも車を降りた。

「う、うん、判った……。じゃあ、本当にありがとうね、涼子ちゃん、貴くん」

 本当に申し訳なさそうに言う。まったく、この二人には笑顔で別れないと失礼だぞ。

「なんもだー。でもほんと、また絶対店、来てよね」

「絶対行くよー。涼子ちゃん大好き!」

「えー、おれは?」

「あ、貴くんも大好き!」

 何かのついでのように聞こえなくもないが、恐らく今でも史織は貴さんのことは『弟みたいで大好き』なのだろう。

「よし。んじゃあ旦那さんに宜しくね」

 それで満足したのか、貴さんは私と史織の頭の上に手を乗せてそう笑った。私にはまぁ良いとして、八つも年上の人にすることではない気もする。でも諒さんもしていたから、昔からこうなんだろうな。

「うん。じゃあばいばい!」

 それに史織が嬉しそうなので、やはりそれはそれで正解なのだろう。

「莉徒ちゃんもまたね」

「あい、どうもでっす!」

 涼子さんも笑顔で小さく手を振りながら言う。私はぴょ、と手を上げて挨拶すると、史織を促して二人に背を向けた。


 10:生ラーメン 終り

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