09:赤まむし

 二〇〇七年四月二一日 土曜日

 七本槍ななほんやり市 七本槍南商店街 喫茶店vultureヴォルチャー


 いつもの時間より随分と早い。いつもなら夕食時にここに来ることが多いのだけれど、まだ三時過ぎだ。ならばおやつの時間には丁度良く、今日もまたおいしく涼子りょうこさんのコーヒーとケーキをいただけるという訳で、結局何時何時いつなんどきに来ても、このお店で飲食をしたら幸せになってしまうのだ。

「こんにちは、涼子さん」

「あらあらいらっしゃい、夕衣ゆいちゃんえーちゃん。あ、美朝みあさちゃんも」

 多分ここの常連さんの殆どの人が気付いていると思うけれど、涼子さんの「あらあら」はきっと口癖だ。わたしがここにくるときは、必ず、一緒にいるのが誰であれ「あらあら」って言われる。

「こんにちは」

 それが少しおかしくて、そのおかげでいつも涼子さんに笑顔で挨拶ができているのかもしれない。もしもそれが涼子さんの演出なんだとしたら、もうこの人には絶対に適わないな。

「組み合わせとしては珍しいわね」

「ちょっと俺もアサと仲良しになりたくって」

 高校を卒業する前は、わたしと莉徒と美朝ちゃんの三人でたまに来ることはあったけれど、わたしと二人、とかそこに英介えいすけが入って、とかいうケースはあまりなかった。英介とはいつもだけれど、涼子さんの言う通り、珍しい組み合わせだ。

「浮気?」

「なんで!」

 焦った声を出して英介は言った。わたしは特に英介には取り合わずに空いているテーブル席に着いた。美朝ちゃんもそれに続く。

「冗談よ。何にする?」

 涼子さんの柔らかい笑顔の後は英介も普通に戻ってわたしの隣に座った。

「モカと、んー、BLT」

「じゃあわたしはRBS2とシュークリーム。あぁ、結局いつものになっちゃった」

「私はウィンナーコーヒーとミルクレープを下さい」

 はぁ!ミルクレープ!すっかり忘れていた。いつも気になっていて、でもついついシュークリームの誘惑に負けて手を伸ばせずにいたものだ。聞いたところによると、ミルクレープはたかさんの従弟でThe Guardian's Knightガーディアンズナイトのギタリストでもある大沢淳也おおさわじゅんやさんの大好物で、涼子さんに直々にリクエストしてメニュー入りを果たしたものなのだそうだ。

「りょ、涼子さん!わ、わたしシュークリームをや、やめて……ミ、ミルクレープで!」

 苦渋の決断だ……。しかし一度頼んでしまったシュークリームをキャンセルしてまで、今のわたしはミルクレープに心奪われてしまっている。

「あらあら珍しい」

「け、決してシュークリームを裏切った訳じゃないですから!」

 信じて、シュークリーム。

「ミルクレープに浮気なんてドイヒー!」

 オネエみたいに身体と声をくねらせて英介が乗っかってくる。

「人間だもの!魔が差すことだってあるわ!」

 わたしは手で顔を覆ってわざとらしく言った。

「昔のえーちゃんみたいにね!」

 涼子さんまでもが乗ってきてくれた。本当につかみどころの無い人だなぁ。

「やかましいわぃ!」

 ぱぁん、とテーブルを叩いて英介が突っ込んだ。

「じゃあ、夕衣ちゃんと美朝ちゃんがミルクレープね?かしこまり。少し待っててね」

 そう言うと涼子さんはカウンターの向こうへと移動した。

「え、今の何……?」

 今のノリに付いてこられかったのだろう美朝ちゃんが目を丸くしてわたしに訊いてきた。

多分莉徒りずの悪影響……だな」

「莉徒と話してると時々寸劇にならない?」

 英介の後にわたしが言葉を繋げた。確かこの間も美朝ちゃんの前でマスクドライダー風のやり取りをしたはずだ。

「あ、あんまり……。あ、でもこないだ学食でやってたよね」

 覚えてはいてくれたのね。でも急に乗っかれって言うのも無理がある。美朝ちゃんはわたしよりも大人しいし、真面目だから。でもわたしよりも長く莉徒とは付き合っているし、その関係もわたしよりも深いんじゃないのかな。

「あ、そうそう、あんな感じの……。わたしがおかしいのかなぁ……」

 んー、と首をかしげる。Ishtarイシュターをやっていた時は、こんなノリが多かった気がする。女六人のバンドだったし、莉徒が中心になって話を盛り上げていた感じはあったけれど、そういう流れが自然なのかと思ってしまっていた。

「や、ちげぇだろ。そういうノリが向いてるかどうかってのは相手にも依るじゃん。このノリをやって楽しい人間なのか、別のノリで話してる方が楽しい人間なのか、ってさ」

「おぉ、なるほど……」

 大人しいとか真面目だとかではなくて、莉徒には莉徒の、わたしと一緒にいて一番楽しいと感じるコミュニケーションの取り方があって、それは美朝ちゃんと一緒にいる時のコミュニケーションの取り方ではないということか。きっと莉徒だけではなくて、その時に話しているお互いが楽しかったり、気持ちが安らいだりする方法を知らず、選んでいるのかもしれないな。

「あ、そうだ、涼子さん」

「ん?」

 先ほどの夕香ゆうかさんのお店でのやり取りを不意に思い出してわたしは訊いてみた。

「夕香さんから連絡行ってますか?」

「えぇ。つい今しがただけど。美朝ちゃん、来週、二六日、木曜日だけど、学校終わったあと空いてる?」

 カレンダーを見ながら涼子さんは言った。

「あ、は、はい。大丈夫です」

 若干緊張した面持ち。気持ちは良く判る。わたしや英介はきっと涼子さんほどではないにしろ、楽器や音楽に精通してきている。自分だけがずぶの素人、という状態は素人の時にしか判らない感覚だ。大丈夫、怖くない、下手で当たり前、という風にいくら言っても、教えても、本人は緊張するばかりだ。こればっかりは慣れて行くしかないし、でもいずれはそんな感覚も薄れて行く。

「無理しないでも大丈夫?」

「はい」

「じゃあその日に、そうね、五時に夕香のところで待ち合わせましょ」

 そう言って涼子さんは微笑む。ふわぁ、なんて和む笑顔なんだろうか。

「俺も行く!」

「わ、わたしだって!」

 びし、と英介が挙手したので、釣られてわたしも挙手をする。その理由はたった一つ。

「え、何で?」

「涼子さんのピアノ聞いてみたい!」

「俺も!」

 英介もやはり同じ理由だった。あまり知られていなかったようだけれど、涼子さんも夕香さんも楽器演奏はする。特に夕香さんはバイオリンやリュートなど、昔からある古くて歴史のある楽器を奏でることもできるらしい。

「あぁ、そういえばみんなの前では弾いたことはないわね。じゃあいいけれど、美朝ちゃんの邪魔は……じゃなくて、美朝ちゃんのレッスン中はブースには入らないこと」

「へぇい」

「やったー!」

 涼子さんのピアノが聴けるなんてとても楽しみだ。

「美朝ちゃんもそれでいい?」

「は、はい!宜しくお願いします」

 テーブルにおでこをぶつけそうなイキオイで美朝ちゃんは涼子さんに頭を下げた。


「わたしは物語って書いたことないけど、きっと曲を創るのと似てるのかな、って思ったりする」

 美朝ちゃんはそういう創作活動をしてきた人だから、きっと楽器の腕前が上達すれば、自分で曲を書きたくなってくるかもしれない。そう思って言ってみた。

「どうだろ。私は曲を創ったことがないから……」

 作詞をする時は、わたしは殆ど自分の身の回りのことを書く。ストーリー仕立てにすることも多い。物語を書くのと歌詞を書くのでは全く違うのかもしれないけれど、似た感覚もあるのではないだろうか。

「あ、そういえば英介は曲書かないよね」

「そうなんだ」

 英介のバンド、Unsungアンサングはボーカル、ギター、ベース、ドラムの最も基本的な四人構成だ。曲を書いているのは誰だかは知らないけれど、英介が作曲活動をしているのは一度も見たことがない。

「あーセンスねぇし。弾くのは好きだけど創るのはちょっとな」

 ある楽曲やフレーズを弾いたり、アレンジをしたりはできるけれど、曲そのものが創れない、という人もバンド者の中では多い。英介もきっとその一人だ。

「Unsungの曲ってどうやってできてるの?」

「基本はドラムかボーカルのどっちかが創ってきて、それでセッションしつつ肉付け、だな」

 以前Ishtarでやっていたやり方と同じだ。大体のバンドはこのやり方で曲を創ることが多い気がする。

「セッション?」

 美朝ちゃんが疑問を口にする。

「そ。アサ唄本とか見たことねぇ?」

「歌詞にコードだけ振ってあるやつ。AとかEとか」

 英介の言葉を補足する。

「あ、見たことあるよ」

「あんな感じで、歌メロとコードだけでとりあえず演奏するんだよ。んで何回かやってくうちに、各パートがアレンジを考えて肉付けしてく、ってカタチだな」

「この部分はこうした方がいい、とか?」

「そ。あとは俺はギターだけど、ドラムに、ここのドラムもうちょいこうして欲しい、とか、ここのベースはこういう方が良くね?とか、いろいろ演奏しつつ、話し合って詰めてく」

 創り手の意思や弾き手の意思が交錯して、時には言い合いになったりもする。Ishtarの時はそういうことはなかったけれど、きっと誰かが我慢はしていたんじゃないかな。特に曲を創れない人は創った人に意見はしにくいものだ。だからといって作曲者の意向だけでは立ち行かないこともある。例えばわたしが創ってきた曲でも、ピアノのアレンジはピアニストの意向を取り入れたいし、ベーシストだけが持っている感性を大切にしたい。バンドの曲創りってそういう面もある。

「それってある程度楽器やってるひとじゃないとできないよね」

 美朝ちゃんの言う通り、ある程度技術も知識も蓄積されていないと、セッションは難しい。

「あぁ、引き出し色々持ってた方がいいのは確かだからな」

「引き出し?」

「例えばコピーを沢山練習している内に、あのアーティストの曲ではこんな弾き方してたなぁ、とかそこだけ覚えてたり、っていうのが自分の中でどんどん蓄積されて行くから、そういうのを出してったりね」

 アーティストには必ず癖のようなフレーズがあったり、定番のフレーズがあったりする。そういうのを覚えておいて、自分でアレンジしたりもする。そういうのを繰り返して行くと、今度はそれがわたしの癖になってきたりもする。

「で、バレんだよな」

「ばれる?」

「そ。例えば、そのフレーズって-P.S.Y-サイのあの曲と同じじゃん!とか」

 特に、あまり名前を知られていないようなアーティストから持ってきたフレーズがばれると物凄く恥ずかしい。私はそれが嫌なので、耐え切れなくて先に白状してしまうのだけれど。

「なるほど……」

「まぁまだアサにはちょっと早ぇかな」

「だね」

 苦笑して美朝ちゃんは言った。

「美朝ちゃんはとりあえずエチュードからね」

 カウンターの向こうから涼子さんが声をかけてくる。

「練習曲、ですよね」

「お、その辺の予習はしてんのか」

 わたしもエチュードが練習曲だということくらいしか知らない。とにかく、打楽器以上に鍵盤楽器にわたしは疎い。

「うん、予備知識っていうか、そのへんのさわりだけ……」

 キーボードが面白そうだ、と思ってから色々と調べたのだろう。勉強熱心な美朝ちゃんらしい。

「充分だと思うぜ」

「エチュードをほんの少しやったら、好きなアーティストのコピーをやります。初心者用の楽譜とかたくさんあるから」

 どんな楽器でもそれが上達に繋がると思う。上達するための近道はきっとないけれど、秘訣はある。楽しいという気持ちを忘れないこと。

「アサって何が好きなんだ?」

「私は岬野美樹さきのみきさんが好き」

 好きなアーティストの曲を、下手でも、少しだけでも、自分の手で弾けたときの嬉しさといったら感無量だ。その感覚はずっと忘れてはいけないとわたしは思っている。少しすれば、いろいろなことができるようになってきて、できることもできないことも増えてくる。そうするといつしか壁にぶつかって、楽器を弾くことが楽しい、という感覚を忘れてしまいそうになる。壁にぶつかって、上達しなくなって、やめてしまう人がごまんといる。触ってみたけどやめてしまったという人はわたしの周りにもたくさんいたし、美朝ちゃんがそうならないとは限らない。上達を実感できなくなって、つまらないと感じてしまうかどうかは、その初心の気持ちを思い出せるかどうかにかかっているのではないか、とわたしは思っている。だからこそ、美朝ちゃんにはそうなって欲しくないし、できるのならば、一緒にステージに立ちたい。

「あー、わたしも好き」

「何かで一回女優してから女優の方いくかと思ったけど結局音楽だな」

 岬野美樹さんもわたしが大好きな早宮響はやみやひびきさんと一緒でG's系とはつながりの深いアーティストだ。岬野美樹さんの後ろでThe Guardian's Blueガーディアンズブルーが演奏する、などということも少し前の歌番組ではよくあった光景だった。

「そうだね」

「元々アイドルだった人だしね。そっちの芸能活動は向いてないって判ったんじゃない?」

 涼子さんは洗い物をしながらそう言った。

「なるほど。涼子さん会ったことあるんすか?」

「あるわよ。年に何回かだけど、一緒にご飯食べに行ったりするしね」

 わたしたちのような一般人からの感覚だと、有名人と会えて良いなぁ、くらいのミーハーな感覚だけれど、友人として付き合うというのはどういった感覚なのだろう。わたしはそれこそ貴さんや諒さんたち、プロのミュージシャンの人たちと交流はあるし、御飯だって時々奢ってもらったりもする。でもそれは友人という感覚とは少し違う気がする。実際にわたしがその席に同席できたとしたら緊張して何も喋れなくなってしまうだろうし。莉徒だったらそんなこともないのかもしれないけれど。

「すーげー」

「夕衣ちゃんの話とかたまにしてるわよ」

「え!」

 それは光栄だけどかなり気恥ずかしい。

「あと夕衣ちゃんも莉徒ちゃんも好きな響ちゃんとか」

「えぇ!」

 岬野美樹さんは好きだけれど、世代的には岬野美樹さんはわたしよりも年上の人たちに支持されている。わたしたちの世代だとやはり早宮響さんの方が支持されていて、わたしも例に漏れず響さんの大ファンだ。

「大物……」

 できうるならば、そう、できうるならば、サインの一枚でも欲しい。というか、わたしのギターに直接サインしてもらいたいくらいだ。

「スケジュールが空いたらライブ来たいって言ってたけど中々合わないみたいね」

「い、いやわたし響さんに来られたらまともに演奏できない……」

 響さんをリスペクトしている曲も多いし、下手をするとパクリだと言われてしまう曲だってある。

「もし来てくれるとしたら本番終わるまで夕衣ちゃんにはナイショにしとくから」

「ここらじゃ有名なディーヴァとは髪奈かみな夕衣さんのことよ!つって自慢したれよ」

「知らないでしょ……」

 わたしがずっと前に作曲したIshtar Featherイシュターフェザーという曲が、この街の一部で少しだけ広まってしまだていて、誰かがそれをアレンジして歌ったものが広く知れ渡って有名になってしまっていた。

 それを知っている殆どの人はアレンジされた方をディーヴァとして認識しているけれど、幾人かだけは、その曲にオリジナルがあることを知っている。そのオリジナルがわたしが歌ったものだったりするのだ。わたしはこの街に来るまで自分の曲がそんなことになっていたなんて知りもしなかったのだけれど。

「話したら知ってたわよ、ディーヴァのこと」

「でもそれはわたしじゃないですよね」

 いわゆる、広く知られているアレンジされたディーヴァの方だろう。

「もちろん夕衣ちゃんのオリジナルは横流し済み……」

「流石涼子さん」

「涼子さん……」

 この街で騒がれていたのは実際にはわたしのIshtar Featherではなく、Ishtar Featherを聞いたディーヴァ、と呼ばれる正体不明の誰かがオリジナルアレンジをした、Goddesses Wingガッデセスウィングという曲だ。涼子さんが、いわゆるディーヴァのGoddesses WingよりもわたしのIshtar Featherを評価してくれているのは知っているし、とてもありがたいけれど、それを響さんに聴かせるなんて恥ずかしいどころの騒ぎではない。

「でも褒めてたわよ。凄く純粋で綺麗って」

「……」

「涼子さんほどの人がヒトサマに聞かせて恥ずかしい曲をプロに聞かせる訳ねぇだろ。自信持てよ」

 涼子さんの人柄を見てもそれはそうだし、涼子さんがわたしのことをとても高く評価してくれているのは凄く良く判るけれど、それとこれとは少し話が違う。

「それは、そうかもだけど……」

「もっとオリジナルが広まればいいのにね」

 美朝ちゃんがそう言って笑顔になる。わたしの知り合いはみんなわたしのIshtar Featherを評価してくれているけれど、友達だから、という部分もあるはずなのだ。だってわたしは、Goddesses Wingが嫌いではない。それどころか、最近では自分でも聞いているほどだ。それは原曲がわたしだから、というくだらないことではなくて、Ishtar FeatherではないGoddesses Wingのアレンジが単純に好きだったりするのだ。最初に聞いたときは、盗まれた、という負の感情が浮き彫りになってしまったけれど、でもそれをカバーしだディーヴァだって、わたしのIshtar Featherを好きになってくれたから、アレンジをしたのだと思えるようになった。きっと好きじゃなかったら、あんなに素敵なアレンジにはなっていなかったはずだし、多くの人に愛されるような曲にもならなかった。

「ま、でもとりあえず夕衣ちゃんはsty-xステュクスのライブに集中、かな?」

「あ、そ、そうですね」

 もしかしたらそのライブには有名人というか、プロのアーティストの人たちがわんさか来るのかもしれない。そう考えたらなんだか怖くなってきた。

「しかし莉徒の頼みとはいえ良くsty-xなんてやる気になったな」

「前にも言ったけど、ああいうの嫌いじゃないんだってば」

 邦楽が多いけれど、わたしだってLAメタルやハードロックは嫌いではない。

「でも聴くとやるとじゃ大違いだろ」

「うん、私もちょっと意外に思った」

 美朝ちゃんは幾度かわたしのライブに来てくれたことがあるから余計にそう思うのかもしれない。一人で弾き語るときも、Ishtarでやったときも、あらかた静かだったりスローテンポだったりで、激しいといってもLAメタルやハードロックのような激しい曲はなかったから。

「でもきっかけがなかったら、多分一生やることはなかったジャンルかも、って思ったんだ」

「興味もあったんでしょ?」

 洗い物を終えたのか、涼子さんがカウンター席にまで出てきて、そうフォローを入れてくれる。確かに涼子さんの言う通り興味はあった。でも自分からバンドを創ってまで、という発想はなかった。

「そうなんですけど、これ、莉徒にはナイショですよ」

「ん?」

 一斉に三人がわたしに顔を向ける。

「わたしがこの街に来て、こんなにたくさん、大好きな人たちに囲まれて暮らせるのって、莉徒のおかげだって、わたし思ってるんです」

 それは仲間に囲まれて、暖かな時間を過ごせば過ごすほどに強くなってきた思いだ。

「……」

 英介がそれか、という顔をして頷いた。以前にも少し、この話を英介にはしたことがあった。

「最初にこの街に来て、友達も恋人も、大切な人なんていらない、って、わたし、ばかなこと考えてて……」

「なるほどぉ」

 涼子さんが顎に手を当てて頷いた。テレビドラマの探偵さんみたいだ。

「え?」

「夕衣ちゃんがこっちに越してきてから、学校の大荷物持ってウチにきてくれたことあったでしょ?最初気付けなくて、途中でラスキンかけたとき」

「はい」

 転入初日、まだ前の学校の制服を着て、教材とか瀬能学園の制服とかを持って、このあたりをウロウロした、僅かにまだ一年前のことだ。

「あの時の夕衣ちゃんは、なんだか暗かったよ」

「かも、ですね」

 涼子さんの言葉に苦笑を返す。去年までのわたしは従姉を亡くして、三年も過ぎていたのに立ち直れていないままでいたから。

「でも莉徒はそういうバリア張ってるわたしに、体当たりで接してくれて、英介とも最初は凄いケンカしたけど、それのおかげであっという間にみんなと打ち解けられるようになって、わたしの抵抗なんて殆ど意味なく消えちゃって、どんどん仲間ができて……」

 本当にあっという間の出来事だったように感じる。わたしのくだらない決意とも言えない意固地さなんか、みんなが笑って吹き飛ばしてくれた。

「え、じゃあ俺にも感謝すべきじゃん!」

「してるでしょ」

 そこは、きっと態度には出ていないかもしれないけれど、英介には本当に感謝している。

 元々見ず知らずの人と話すことが苦手だったわたしに、英介と莉徒は何の誤魔化しもない、ありのままの自分でぶつかってきてくれたから。

「……」

「えーちゃん?」

 英介の不満の視線はあまんじて受け止めるけれど、それを涼子さんが制してくれた。わたしだって覚悟の一つや二つ、しなくてはならない。そんなことは判ってる。

「あ、いや、されてます!」

「ライブ終わるまでは待っててよ……」

 思い切って、本当はこんな場所で言うことではないのかもしれないけれど、そう言ってみた。

「え!」

「え!」

 涼子さんと英介が殆ど同時に声を挙げた。

「夕衣ちゃん大胆!」

「ちょ、りょ、涼子さん!」

 失敗した。やっぱり言うんじゃなかった。か、と顔が熱くなる。英介の視線が定まらないのがおかしいけれど、とりあえず今は無視することにする。

「うそうそ、ごめんね。じゃあ今回のsty-xの件は莉徒ちゃんへの恩返し、みたいな感じ?」

 きちんと謝った後に、話題の軌道修正までしてくれた。流石は涼子さん。

「わたしも興味はあったんで、恩返しっていうだけじゃないんですけど」

 それに莉徒に恩着せがましいことを言うつもりなんて更々ない。だから莉徒には内緒で、という前提もつけた。

樋村ひむら君、素敵な彼女だねー」

「み、美朝ちゃん!」

 もう何で顔がこんなに熱いのかが判らないけれども、ともかく気恥ずかしい。

「ほんとのことだよ」

「自慢の彼女です」

 あぁ、もうだめ。英介にそう思ってもらえるのはすごく嬉しいし、でもすごく恥ずかしい。

「ほんとよ、えーちゃん。大切にしなきゃ」

「もちろんです」

 にこ、と笑顔になる。

 ちきしょう、かっこいい。英介の見た目を好きになった訳じゃないのに、こういうことをされるともう完全にわたしの負けだ。

 それに英介は言葉遣いも態度も悪いけれど、本当にわたしを大切にしてくれている。だからこそそこに甘えてばかりではダメなんだ、って最近やっと気付けた気がする。

「みぁ、美朝ちゃんもいい人見つけないとね!」

 どもってしまった。

 この話の流れで美朝ちゃんの話も聴けると良いけれど無理そうかな。

「そうだね」

「樋村英介レベルになると中々いねえけどな!」

「美朝ちゃんは貴さんみたいな人がいいかもー」

 とりあえず英介をガン無視して話を進める。

「あ、うん、いいよね、面白いし、かっこいいし、やさしいし」

 美朝ちゃんもやっぱりそう思ってたんだ。貴さんが同級生とかクラスメートだったら絶対好きになってた、とは口には出さないでおく。

「……無視ですか」

「でもだらしないのよ」

 もう一度カウンターに入ると、自分で飲む用のコーヒーを入れながら涼子さんは笑った。こういう瞬間がとても素敵だ。涼子さんが貴さんの話をするときは、いつも嬉しそうに話す。本当に貴さんのことが大好きなんだ、って聞いているこっちにまで伝わってくるような笑顔。

「え、そうなんですか?」

 確かに几帳面には見えないけれど、あんまり雑な感じも嫌うような気がする。

「うん。部屋なんか凄く散らかってるし、放っておいたら楽器なんてすぐ埃だらけにしちゃうんだから」

「意外……」

 楽器とかは凄く大切にしてそうなイメージがあったけれど。

「典型的なA型なのよ。拘るとこに対しては物凄く几帳面なのに、身の回りとか割とどうでも良くなっちゃう、っていうね」

 なるほど。きっと今メインで使っている楽器とかはお手入れとかもきちんとするけれど、使っていない楽器とかは放置しちゃうのかな。

「そら涼子さんがしっかりしてるから甘えちゃうんでしょ、きっと」

 判った風なことを言うけれど、もしかしたら英介も似たタイプなのかもしれない。引っ越してしばらく経つけど、英介の部屋は引っ越してきたばかりの時よりはましなくらいで、まだ綺麗とは言えない。

「それは確かにあるかもね」

「諒さんと夕香さんもそういう感じな気がする」

 諒さんと貴さんは何となく似ている気がする。二人とも大人だけれど、物凄く稚気に溢れているし、気さくだ。夕香さんと涼子さんは似たタイプではないのかもしれないけれど、似たような男性をパートナーにしているせいか、担っている役割的に似ているところがあるのかもしれない。

「あぁ、あそこもそうね。夕香があの性格だから。だから夕衣ちゃんもえーちゃんにはビシっとしないとだめよ」

 ぴょこ、と人差し指で英介を指差して涼子さんは笑った。

「涼子さんが貴さんにビシっとしてる画が浮かばないです……」

 いつも柔らかくて優しいし、怒った姿が想像もつかない。

「私はやんわり、真綿で首を締める感じかしら」

「怖ぇ……」

 ぼそり、と英介が漏らす。確かに夕香さんのようにどかん、と一気に怒られるよりも怖いかもしれない。

「夕衣ちゃんも美朝ちゃんもそっち向きね」

「ですよね」

 くす、と美朝ちゃんが笑った。可愛らしいなぁ。

「でもさぁ、アサって可愛いし頭もいいし、控えめで煩くねぇし、モテねぇの?」

 丁度良いタイミングで英介がそんなこという。グッジョブ英介。

「か、かわいくないよ」

「可愛いよ。女の目線は判んねぇけど、男の視点で見たらかなりレベル高ぇと思うけどなぁ」

 幾人もの女と付き合ってきた男が言うと重みが違う……のかな?

「あら、女から見ても可愛いわよ」

「涼子さんにかかったらなんでも可愛くなっちゃうじゃないすか」

 確かにそんな気はする。でもわたしも美朝ちゃんは可愛いって思う。

「そんなことないと思うけど……」

「わたしも美朝ちゃんはすごい可愛いと思う」

「ほらー」

 ね、と言って涼子さんはウィンクした。うわぁ可愛い。こういうことを素でやっちゃうところは史織しおりさんに似ている。

「や、結果は一緒でも夕衣と涼子さんの基準は全っ然違いますって」

 それはわたしも思う。

「そぉかなぁ」

「そうっすよ」

「美朝ちゃんもてそうなのになぁ」

 これはチャンスだ。わたしはずっと美朝ちゃんのそういう恋愛の話を聞きたかったから。

「も、もてないよ……」

 もてない訳がない。この間学校の食堂で話していたときも、莉徒がいたとはいえ、知らない男子たちの視線を集めていたのは絶対に美朝ちゃんが可愛いからだ。

「実は、俺は、知っている」

「な、何を?」

 まともに顔を引きつらせて美朝ちゃんは視線を逸らした。怪しすぎる。

「卒業間近、アサが振った男の数、なんと八人」

 むふ、とつけて英介がとんでもないことを言った。

「えぇっ!」

 は、はちにん!わたしだって去年の夏、付き合わなかったけれど、一人、告白してくれた人がいて、その後英介と付き合って、実は、ほんの少しだけ、わたしも実はちょっともてるのかも、と自惚れたことがあったけれど、なんだよ八人ってぇ!

「モテモテじゃん!」

「うううううそ!うそです!八人もいないです!」

「じゃあ何人ならいたって言うの!」

 八人でないにしても!

「ご、五人……」

「正直者……」

 というか、五人でも充分凄過ぎる。やっぱり美朝ちゃんはもてるんだ。美朝ちゃんは顔を真っ赤にしている。

「やっぱもてんだよ、アサは」

 だとしたら、だ。わたしの推論がますます真実味を帯びてくる。

「理想が高いのかも」

 そう言って苦笑してはいるけれど。きっと、美朝ちゃんにはずっと心に決めた人がいるんだ。その人とは何か事情があって結ばれないとか、ただ単純に、ずっと片思いなのかも、とか色々な憶測が生まれるけれど、やっぱりまだそこまでは踏み込めないかな。なんとなくだけれど、美朝ちゃんはそれを隠しているような気もするし。

「とりあえず付き合ってみりゃいいのに」

「英介とか莉徒じゃないんだから……」

「えぇ!髪奈さんは俺がと」

「昔の!昔の!」

 あぁもう面倒臭い。

「それができる人とできない人がいるのよ、えーちゃん」

「まぁ、確かにそうすね」

 わたしがその代表選手だって知っているから、すぐに涼子さんの言葉にも頷いた。

「経験が多いから偉いって訳じゃないしね」

「そらそうです」

 かといって知らなければ知らないままで良い訳でもないのが困ったところだ。

「でもえーちゃんは七校でも噂になるくらいだったもんね」

「え、そうなんですか」

 英介と付き合い始めて、すぐに英介は北海道に引っ越して行ってしまったけれど、その間、校内に噂は広まって、実は何度か嫌がらせを受けたことがある。英介には言ってないけれど、もしもずっと英介を思っている人がいたのだとしたら、そういう人にとってはわたしなんてぽっと出だし、横取りされたような感覚に陥るのかもしれない。そういう事柄に対しては莉徒が随分と慣れているようで、色々な対処法を教えてくれたりもした。だから英介はやはり女子の間で人気があったというのは頷ける。

「それも男女共に」

「や、やめて……」

「え、男も?」

 一瞬してはいけない想像をしてしまう。ちなみにわたしは断じてソッチの気はない。ノーマル値。

「そ。男の子の場合は瀬能せのうの樋村には手を出すな、って」

「……ヤンキー?」

 なるほど。以前英介と同じ中学校に通っていた友達に聞いたことがある。英介は相当喧嘩っ早くて、しかもかなり強かったらしい。そんな違う学校に噂が広まるまでとは思わなかった。

「ちがうけど!中学ん時ちょっとバカやってたから……」

「そういえば一年生の時って樋村君、三年生とかに囲まれてたよね」

 一年生の頃だと莉徒と付き合ってた頃かな。

「だからやめなさいって……」

「ヤンキー……」

「ちがうっつの!」

 大学生となっては流石に恥ずかしい若気の至りなのだろう。ちょいちょいネタにしてわたしの胸が小さいことをばかにし続けた逆襲をしてやろう。

「貴も昔はそうだったのよ」

「まじすか!」

「うん」

 今ではまったくそんな感じはしないけれど。

「じゃあ樋村君も将来貴さんみたいになると思ったら有望株だよ」

 確かにそういう考えもある。でも涼子さんの胸の大きさはわたしより少し大きいくらいで、やっぱりカテゴライズすると小さい方にすっぽり収まってしまうはずだ。その涼子さんの胸を、貴さんがばかにしていたとは到底思えない。

「貴さんが涼子さんをばかにするようなことなんて絶対にないと思う……」

「え?」

「な、なに?」

 美朝ちゃんと涼子さんがいきなり不思議顔を向けてきた。説明が足りなかった。

「え、あ、多分、む、胸の話、だと思う……」

 申し訳なさそうに英介が補足してくれた。黙っていればわたしがちゃんと言ったのに。

「えーちゃん、私たち三人を前にして勇気あるわねぇ」

 にこり。

 ちょう、こわい。

 七本槍商店街の優しさ代表選手の涼子さんが……。真綿で締め付けるとはこういうことかもしれない。

「貴さんって、そういうことしました?」

「しないわよ。だってあの人はコレ、が好きなんだもの」

 これ、と自分の胸を指差して涼子さんは言った。

 貧乳の救世主はここにいた!

 随分前に英介が、小さい胸をこよなく愛する男が世界にはきっといる、と言っていたけれど、まさか貴さんがそうだったなんて!もしかしてわたしや莉徒を好き、と言っているのはそのせいだったとか……?ではないかな、流石に。

「でも相手が好きでも女としてはもっと大きくなりたいわよね……」

 はぁ、と軽くため息をつく。

 ああああああ、まさかあの涼子さんがわたしと同じ悩みを抱えていたなんて、すごく感激。

「まぁでもいいじゃない夕衣ちゃん。そんなにばかにするんなら触らせてあげなきゃいいんだもの」

「あ、なるほどぉ」

 それは確かに良い手だ。そんな簡単に逆襲ができるとは思わなかった。

「そもそも女性の胸は男を喜ばせるためにあるものじゃない訳だしね」

「ちょ、ま」

 まともにうろたえて英介が言葉を詰まらせる。ちょっと面白い。

「小さいとかナイとかばかにするけど、エッチする時は絶対触るでしょ、えーちゃんだって」

「ちょ、涼子さん、そんな如実に……」

 貴さんは小さい胸をばかにしていないはずなのになんでこんなに涼子さんがヒートアップしているのかまるで判らないけれども。

「もちろんです!」

「禁止します!」

 再び英介にびし、と指を刺して涼子さんは聞いたことのないような大きな声でそう言った。

「そんな!」

「本当は大きい方がいいけど、ないんだからしょうがない、コレで我慢するか、って思いながら触るんでしょ!おれ小さい方が好きなんだーとか口先では言いながら!」

 なるほど、貴さんの本意がどこにあるかは別としても、涼子さんは涼子さんなりにコンプレックスを抱いているということなのだろう。なんというか今までよりもずっと親近感を感じてしまった。

「りょ、涼子さん落ち着いて」

「私たちだって好きでこんなじゃないのよ!私だって許されるのなら夕香とかはっちゃんみたいになりたかったんだからぁ!」

「な、何のスイッチ入った?」

「わ、判んない……」

 焦りまくった英介が美朝ちゃんに助けを求めたけれど、美朝ちゃんも今ひとつ理解はしていないかもしれない。わたしも涼子さんが何キッカケでこうなってしまったかは全く判らない。

 ともかく、これでわたしたちが抱いているコンプレックスが多少なりとも英介に伝わるだろう。

「判りました!涼子さん判ったから落ち着いて!貴さんは嘘は言ってないす!」

「何で判るの!」

「ひ」

 ばん、とカウンターの天板を叩いて涼子さんが叫んだ。涼子さんもこんな大きな声出すんだ……。

「こないだニュキョウ巨乳が好きっつったら殴られました!」

「え?」

 あ、そういえばそんなことあった。そのときの話の主軸は涼子さんだったけれど、今思えば、貴さんはわたしのこともかばって言ってくれてたのかもしれない、と思っていた。

「涼子さんがデカイかったら似合わない!とか小さいから美しい!とか、体のラインが綺麗!とか、もうそりゃ色々や、散々涼子さん自慢されましたぁ!」

 半ば自棄になりながら英介も大きな声を出した。わたしもそのときのことはちゃんと覚えてる。そこまで言ってしまうと今度はわたしたちの憧れている胸の大きな女性が憤慨しそうなことまで。

「え……」

「つぅか何年ラブラブ夫婦やってんすか……」

 ふぅ、と嘆息気味に英介は言った。少し呆れているかもしれない。

「それほんと?えーちゃん」

「マジっす」

 ぐい、とサムズアップ。ぽ、と涼子さんが赤面する。

「涼子さん可愛い」

 結婚して子供もいて、精神的にも大人なんだとばかり思っていたけれど、涼子さんの中にはまだ貴さんに恋する女の子の部分がたくさん残ってるんだ。

 ちょう、すてき。

「今日は貴さんにサービスっすね」

「や、やだ、何言ってるのえーちゃん」

 にひひ、といやらしい笑顔で言う英介に、涼子さんはうろたえながら言った。わぁもうなんだろうこの可愛さ。史織さんとは少し違う。

「何がサービスだってぇ?」

 タイミングが良いのか悪いのか、貴さんが奥の家屋から顔を出した。

「あ、ちわす、貴さん」

「こんにちは」

「こんにちは」

 わたしたちは各々貴さんに挨拶すると、貴さんはにっこり笑って挨拶を返してくれた。

「おーっす。お、アサがいる!珍しい!」

「珍しくないわよ。貴があんまり会ってないだけで」

 まだ赤い顔のまま涼子さんがいくらか落ち着きを取り戻したように言った。

「えー、まじかよー。アサ避けてる?」

「避けてないですよ。わたしだって貴さんに会いたかったですから」

 にこり。美朝ちゃんもかわいい。莉徒もかわいいし、もう少し私もかわいくなりたい。

「聴いた?貴さんモテ期!」

「わたしというものがありながらぁ!」

 貴さんがお店に出ていたら真っ先にハグしようとしてくるかもしれないけれど、今は寝起きみたいで、Tシャツに短パン、というゆるい服装をしている。流石にこの格好でハグはされたくないけれど、普段からわたしのことを好きとか可愛いとか言っているので悪ノリをしてみる。

「それ涼子さんのセリフだろ」

 英介が言って苦笑した。

「あ、そうだ、涼子さん今日サービスデーだった」

「だからそれ何?」

 くい、と首をかしげてひとつ、大きなあくび。

「夫婦の夜の営みの話っすよ」

「ちょっとえーちゃん!」

「え!マジで!おれ毒蝮飲んでくる!」

 なんというかわたしはわたし以外のカップルや夫婦がどんなペースでそういうことをしているのかを知らないので、貴さんの喜びようが今ひとつ判らない。

「赤まむしですよ」

 何故か美朝ちゃんがそこを突っ込む。い、意外……。

「そうそれ!」

「しかも今ですか?」

 もしかして美朝ちゃん、未通じゃないのかな……。はっきりと聞いた訳ではないから、もしかしたらもう経験しているのかもしれない。

「そっか。あとでなー?つぅかなんでサービスデー?」

「貴さんが涼子さんの胸が好きだから」

 英介が即答する。

「は?胸に限らず全部好きですが」

 さも当たり前のように貴さんは言う。こういうのにすごく憧れる。英介もこういう風に言ってくれたらいいのに、って思うけれど、ちょっと英介のキャラクターではないかもしれない。

「そら判ってますけど、こないだ散々俺に語ってたじゃないすか、チャイチィちいちゃいの素晴らしさを」

「あぁ、世界の宝だからな」

 またも、さも当たり前のように言う。

「夕衣、あれがホンモノだ」

「なるほど……」

 理解した。涼子さんが危惧していることなど本当に杞憂だ。貴さんは本当にわたしたちのような人種が好きなんだ。

「?」

「まぁまぁともかく、今日の涼子さんは乱れる、ってことで」

 未経験のわたしが言うことでもないけれども。

「夕衣ちゃんまで……」

「おぉー、まじかー。がんばらないと!涼子さん、おれがんばるね!」

「う、うん……」

 さらに耳まで赤くして、涼子さんが頷いた。もうなんでしょう。とてつもなく可愛いです。

「きゃー!もう何?もう、何!」

 耐え切れなくなって今度はわたしが大声を上げた。もう何なのこの空気感。

「落ち着け」

「じゃあビデオ撮る?」

「いや流石に知り合い夫婦のハメ撮りは見たくねぇすわ」

 貴さんの悪趣味な冗談を英介がまともに返す。空気を読めない男とはこういうものだ。

「……」

 貴さんが恐らくは手に持っていたのであろうライターを英介に投げ付け、それは狙い違わず英介のおでこにヒットした。

「いってぇ!」

「英介が悪い……」


 09:赤まむし 終り

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