08:アーモンドチョコレート

 二〇〇七年四月二一日 土曜日

 七本槍ななほんやり市 七本槍南商店街


「ねぇ、やっぱりよすー」

「なんでよ可愛いじゃん」

 史織しおりの頭痛もすっかり治まって、私たちは七本槍商店街へと繰り出した。修理に出すために持ち出したレスポールのギターケースが若干邪魔くさいけれどこればっかりは仕方がない。

 特に都心まで行かなくてもこの小さな商店街は驚くくらい品揃えがしっかりしている。私が良く行くショップで選んだトップスは史織に良く似合っていたけれども、史織はお気に召さないようだった。

「でも年甲斐もなくこんなカッコ……」

 年甲斐のある格好をしてたらそれこそ普通のおばちゃんの格好になってしまう。子供っぽく感じさせない、いわゆるガーリー風な感じだったら史織は充分いける。なのでトップスとスカートと靴を即購入。払いは勿論史織だ。

「昨日私の靴履いてってるじゃん」

「あれは大人っぽい感じの可愛さだったじゃない」

 まぁ昨日着てた史織の服は中々大人っぽくてお洒落だったけど、童顔の史織にはちょっとまだ早い。四四歳の母親に言うべきことではないけれども。

「童顔なんだから大丈夫よ」

莉徒りずちゃんに言われたくないもん」

 そのナントカだもん、っていう喋り方が抜けないから余計に子供っぽく見られるのよ。

「ママの遺伝子なんですけど……」

「あ、そっか」

 えへへ、と頭を掻く。きっとこの人の精神年齢は中学生あたりで止まっているのだ。私がそんなことしようものなら絶対キモがられる。

「あれ?莉徒じゃん」

「お?英介えいすけ

 後ろから聞き覚えのある声。高校も大学も同じ、樋村ひむら英介だった。

「あぁ!英介君だ!すごい実物!かっこいい!」

 声に出しちゃうあたりが史織だ。すごい実物って何だ。

「四年前の彼氏」

「え!」

 流石に驚いたか。史織の知っている英介は単に夕衣ゆいの彼氏という存在として(それも写真でのみ)だ。夕衣はもう何度も私の家に遊びに来ているので、もちろん史織とは面識がある。それがきっかけでもはや夕衣の母親の真佐美まさみさんとも仲良しだ。私がもしも男かバイの気があったら絶対彼女にしたい夕衣は、やっぱり史織に気に入られている。

「相変わらずだなーてめー」

「今日は何?練習?」

 な訳ないか。ギターも持ってないし。

「いやこれから野暮用。その後は夕衣さんとおデート。そっちこそ練習か?」

「や、修理。いいなぁ。デートかよぉ」

 英介が指差した、背中のギターケースを背負い直す。

「おめーもそろそろその気になれば?」

「ま、もうチョットね」

 英介は私がその気になればすぐに彼氏なんかできるだろう、と言っているのだ。私本人としてはそこまで余裕はかましていない。確かにできるのかもしれないけれど、遊びで男と付き合うのは嫌だし。

「シズも可哀想になぁ」

「なんであいつ限定なのよ」

 こいつも半端にシズ推奨派だ。Kool Lipsクールリップスは高校二年生のときから組んでいるからかれこれ三年の付き合いになるけれど、一度だってそんな色っぽい話が上がったことはない。私はKool Lipsに入る前、バンド内の恋愛沙汰でいくつものバンドを壊してきてしまった。『柚机ゆすぎ莉徒と組んだバンドは必ず解散する』という噂まで流れていたほどだ。流石にKool Lipsを三年も続けているとそんな噂もなりを潜めているけれど、もしもまたKool Lipsでそんなことをしてしまったら、またそんな噂が流れ出すだろう。別に私個人はそんな噂などいくらされてもどうということはないけれど、相手にも組んでいたメンバーにも迷惑をかけてしまう。それにKool Lipsは絶対に壊したくないバンドだ。私がちゃんと仲間と呼べる間柄の連中はやたらと私をシズをくっつけたがっているようだけれど、今のところ私もシズも全くその気はない。三年も一緒に活動していてそんな気にならないのだから、今更それが変わることもないことを誰も判ろうとしない。

「つーか誰?サークルの友達とか?超可愛いじゃん。なんで俺んこと知ってんの?」

 それを英介も判っているから、すぐに話題を切り替える。というよりも私とシズのことなんかよりも、目の前の史織が気になるのだろう。相変わらず女好きでばかで助平だ。史織は黙っていたかと思うと、物珍しげに英介を観察していたようだった。

「ね、莉徒ちゃん、史織超可愛いって!友達だって!」

 ついさっき年甲斐もなく、なんて言っていた史織がはしゃぎだす。はいはい解かった解かった。

「聞いて驚けよヒムラエースケ。……はい、自己紹介」

「柚机史織です」

 ぺこり、と会釈。大人の挨拶に見えないことろが悲しい。

「あれ?ん?親戚?」

 英介は逢太以外の家族とは会ったことがないから、今史織が名乗った柚机という姓を不思議に思ったのだろう。だから英介のこれは自然な反応だ。

「莉徒の母です」

「あーあーあー、母ちゃんね」

「うんっ」

「……嘘吐けぇぃ!」

 素晴らしいノリ突っ込み。一〇〇点をあげたい。

「きっと莉徒ちゃんが粗相したんでしょ?ごめんなさいねぇ」

 その言い方はちょっとおばさん臭い。

「え、あの、はじめまして!え?……まじで?」

「正真正銘、母親よ」

 おー、パニック。いいね、面白い。夕衣が初めて史織と会った時もこんなんだった。私が涼子さんの実年齢を聞いたときもこんなんだった。史織という実例がいたからパニックにはならなかったけど、ちゃんとノリ突っ込みはした。

「え、え、だって……」

「こう見えて四四歳よ」

 いつだったかの涼子さんみたいなことを言う。まぁあの人はまだ三六歳だから、まだ探せば同じような若い外見の人はいそうだけど、史織クラスになると中々いない。涼子さんと史織を並べると、やっぱり涼子さんの方が若く見えるけど、三六歳が女子高生に見えるのと、四四歳が二〇代に見えるのではやっぱり差がある。一度写真を見せた時に、あの涼子さんをして「見習わなくちゃ」と言わしめる史織はもはや異常なのだ。この遺伝子が私にも受け継がれていると良いんだけど。

「はぁ?いやだって俺のお袋より若……つーか同級生くらいじゃんよ」

「凄い。聞いた?莉徒ちゃん、ママを見習ってもいいよ」

 母親が十代の時に英介は生まれたらしいから、英介の母親は涼子さんと同世代だ。私も英介の母親には会ったことがないけれど、だいぶもてるらしいことは聞いたことがある。

「う、嘘だろ……」

「そんな嘘ついてどうすんのよ。似てるでしょ、ほら」

 史織の隣に並んで立ってやる。

「ま、まぁそら似てるがよ……。あれか、もう人種としてあれか、涼子さんと同じ人種」

「ま、そうね」

 もうそういう所にしか落としどころがないのだ。こういう人たちはこういう人種なんだきっと。だって涼子さんもそうだって言ってたけど、史織は特にエステやジムに通っている訳でもなければ整形手術をしている訳でもない。まだ十代の私の方が若干肌の張りがあるくらいで、全然衰えていない。全女性の究極の憧れだと思う。

「すごいね。背、おっきい」

 下から覗き込むように英介をじろじろと見る。や、辞めなさい。

「シズとどっちがかっこいい?」

「英介君の方がかっこいいね」

 流石に本人の前ではそう言うか。格好良さだけで言うならまぁ確かに英介はかなり格好良いと思うけれども、付き合うのとかってそれだけじゃないし。

「ど、どうも」

「今度夕衣ちゃんと一緒にうちに遊びにきてね」

 くぃ、と小首をかしげる。辞めなさいマジでそういうの可愛いから。

「あ、わ、判りました。夕衣にも言っときます」

 英介の敬語を聞けるのは中々珍しいな。本当にこいつは口が悪いから。

「あと最近私も知ったんだけどさ、sty-xのギタリスト」

 まぁそこまで言っておいてやろう。毒を食らわば皿まで、って言うし。……違うか。

「え?誰が?」

「史織が」

 史織を指差して言う。

「……マジでか」

 あれ、反応がイマイチだな。はぁっ?って聞きたかったのに。

「うん。今度復活すんだって。でもあんま言いふらしちゃダメよ」

「もうなんか、色々ぶっ飛びすぎてて現実感がねぇ」

 なるほど。情報過多か。いや違うか。現実離れしすぎていて頭も心もついてこない感じだ。

「復活ライブもきてね!」

「あ、ハイ……」

「あと私も史織って呼んでね!」

 『莉徒のお母さん』とか『おばさん』とか似つかわしくないからなぁ、史織の場合は……。

「ハ、ハイ……」

 おー気圧されてる。中々珍しいものが見られた。

「じゃあまたね、英介君!」

「はい、また……。じゃ、じゃあな莉徒……」

「おーう、夕衣に宜しく」

 もはや放心状態に近いな。ちょっと気の毒になってきたけど現実は現実だ。嘘は一つも言ってないし。

「うぃー」

 なにやらさびしげな背中を見せて歩き去る英介を少しだけ見送ると史織が口を開いた。

「あんなかっこいいのに別れちゃったんだ」

「まぁね」

「もったいないなぁ」

 私は全然そうは思わないぞ。まぁ別れてからもこうして友達付き合いしているヤツが多いからそう思うんだろうけど。

 その辺は人それぞれ賛否両論あるだろうけれど、おかしな別れ方をしなければ、私は付き合った男でも普通に友達付き合いはする。おかしな別れ方というか、変な風にだめになってしまったことの方がかなり多いけれど。

「史織の遺伝子のおかげで私もてるから大丈夫」

 そう言って今度は楽器屋兼リハーサルスタジオのEDITIONエディションへと足を向ける。

「今まで何人くらいと付き合ったの?」

 私の手を取って史織が並んで歩く。史織は腕を組んだり手を繋いで歩いたりするのが好きだ。まぁ家族や親しい仲の人に限ってのことだろうけれども、親しい仲でも男にはやっていないだろうな。心配になってしまう。

「六人くらい」

「ろ、ろく?」

 想像を絶する人数だったのだろうか。まぁ確かに十八歳で六人はちょっと多いかもしれないと自分でも思うけれども。付き合わなかったけれど、一晩だけの関係だったり、とかを入れたらもっと行く。流石にそれは親には言えないけれど。更に告白された人数も混ぜるならばもう少し伸びる。

「うん。さっきのエースケは三人目。あいつと別れてから更に三人」

「なに、すけこましならぬ男こまし?」

 えー、と言って史織は渋面を作る。

「違うよ。その時はちゃんと好きになって付き合ってたんだから」

「そっかぁ。続かないの?」

「うん、まぁそうだね。私さ、こんな癇の強い性格だし、史織と違って男を見る目がないのかもなぁ、って思うんだ」

 大半の男にとって私みたいな女は『理想の彼女像』からは大きく外れるんだろうし。英介にとってもそうじゃなかったからうまくいかなかったんだろうし。今英介が付き合っている夕衣は私とは全然違う性格だ。まぁ多少癇の強いところはあるけれど、立ち振る舞いは私よりも全然女の子らしいし、そもそものマインドがもう夕衣は女子だ。

「そっかぁ。でもね、我慢とかも凄い大事よ。莉徒はその辺ちょっと足りないのかも」

 最近になってからだけど、少しずつ判ってきた気もする。一つダメなところがあるとそこばかりが大きく見えてしまって、良いところを探そうとしなくなってしまう。元々あった良いところもダメなところが大きく見えすぎて埋もれてしまう。一つダメなら全部がダメとう訳では絶対にないのに。それは同時に男側からでも感じることもあるのではないだろうか。私はそもそも女の子らしくないし、男から見てダメな面もたくさん持ってると思う。でも本当に好きだったら許容して欲しい、って思う。恐らくそれは私自身に足りなかったことなんだけれど。

「まぁ確かにね。でもまぁ最近はちょっと男より音楽、なのよね」

 史織があれだけ凄いギタリストだったんだ、と判ってしまったら余計に音楽に燃えてしまう。

「そっかぁ。でも若い時なんてあっという間なんだから、ちゃんと莉徒が全てを捧げてもいいな、って思うくらい好きな人、見つけなきゃね」

「史織は?」

 ふと聞いてみた。昨日博史ひろしに見せてもらった卒業アルバムの写真から察するに、史織は相当もてたはずだ。いくら博史が有名なワルだったとしても、そんなものをも跳ね除けるくらい史織に熱を上げていた男もいたのではないだろうか。

「え?」

「博史は何人目だったの?」

「え、初めてだよ」

「まじでか!」

 それはちょっと驚きだ。いや、確か涼子さんとたかさんも、諒さんと夕香ゆうかさんもそうだって言ってた。でも、だとしたら凄い。学生時代から好きで、今もずっと好きでいられる人に巡り合えてるんだから。

「うん」

 誇らしげに史織は頷いた。ちょっと癪だ。

「そうかぁ、史織は博史に処女を捧げたのかー」

「ちょ、ちょっと莉徒ちゃん……」

 か、と赤面する。この性格も遺伝して欲しかった……。でもそしたら音楽やってなかったかな。いやそれでも史織の娘には変わりないからきっとどこかにロック魂は宿ってたと思う。夕衣もあの性格でしっかり音楽だけはやり続けてるし。

「ちっくしょー、うらやましいなぁ」

「えへへ」

 史織は赤面したまま頭を掻いた。いやぁもう本当に女の子にしか見えないわ。

「まぁでもそのうち史織と博史以上にラブラブになってやるんだから」

 まぁまだもうチョイ先だけどね。

「そのときはちゃんと紹介してよぉ」

「おっけー」

 気付けばEDITIONはもう目の前だった。


 昨日はアルバイトとして店員をやっていたけれど、今日はお客としてEDITIONにやってきた。なんだか妙な気分だ。

「ちゃーす、夕香さん」

 カウンターには夕香さんと昔からの店員の真佐人まさとさんがいた。夕香さんの後ろで真佐人さんも会釈する。

「お、きたね莉徒」

「わ、凄い!すごい美人さん!」

「初めまして史織さん。谷崎たにざきの家内で夕香と言います」

 カウンターから出てきて夕香さんが史織に会釈した。ほんとにもうこの人は夢のようなスタイルを持っていて羨ましい。スラリと背が高く、出るとこは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。Eカップの持ち主だと言う。Eカップともなると天位どころかもはや剣聖だ。

「あっ、柚机史織です。夕香ちゃんね。やー、諒君もやるなぁ。こんな美人さんのハートを射止めるなんて」

 私と史織は二人で夕香さんを少し見上げるような姿勢で対面する。もはや大人と子供だ。

「ありがとうございます。史織さんも聞いてた以上に若くて可愛いですよ」

「聞いた?莉徒ちゃん!若くて可愛いって!」

「良く聞き飽きないわね」

 ふぅ、と嘆息して私は言った。恐らく夕香さんや涼子さん、史織もだろうけれど、街を歩けばそう言われるに決まっているのだ。

「あら、あたしだって何度でも言われたいわよ」

 まぁ確かに、可愛いや綺麗、カッコイイ、なんていう言葉はいくら言われてもさほど悪い気はしないものだけれど。

「だよねー。あ、夕香ちゃん、変にかたっくるしい敬語はなしにしようね」

「あ、判りました。助かります」

「いわゆるカジュアル敬語ってやつね」

「何それ」

英里えりの彼氏が提唱してる、コミュニケーション用の敬語だって」

 最初にそれを聞いたときは上手いこと言うなぁと思っていた。私も堅苦しい敬語は苦手だから、いわゆる『カジュアル敬語』は良く使っている。もちろんそれが通用する相手の時限定だけれど。ちなみに英里というのは高校時代に組んでいたバンド、Ishtarイシュターのキーボーディストだ。ノーチョコレート、ノーライフのとにかくチョコレート好きで変わったヤツだ。私や夕衣とは別の大学に進学したので、最近は余り会えていない。

「まぁ言いえて妙ね」

「ほんとだね」

 夕香さんも史織も妙に得心がいった様子で頷いた。

「で、それ何?メンテとか?」

「あ、そうそう。ちょっと見てくださいよ。かなりヤバ目だから」

 夕香さんが私の背負うギターケースに目を向けて言った。

「ご、ごめんね……」

「どれ……」

 カウンターの向こう側で真佐人さんがギターケースを受け取ると、それを開けた。

「うわ、何したのこれ……」

「これはちょっと酷いすね……」

 夕香さんと真佐人さんが口々に言う。私だってそう思う。結構な金額が張りそうな気がする。もしかしたら安いギターなら買えるくらいの。

「夕香ちゃん、諒くんは?」

 カウンターテーブルにかじりつくようにしがみついて、史織は夕香さんに言った。もはや罪悪感はゼロだな、この女。まぁそれでも支払いの時に泣きを見ればいい。笑ってられるのも今の内だ。

「え、あ、い、今呼びますね」

「うん!諒くんいるって!」

「そ、そうね、大人しく待ってなさい」

 私にとってはあまりいつもと変わらない史織の行動だけれど、夕香さんはそんな史織に多少なりとも面食らったのか、私に近寄ってきた。

「……いつもこう?」

「私の苦労が伺えるでしょ」

 史織のおかげでこんな立派な性格になってしまったのかもしれないなぁ。ダメな親ほど子は良く育つ、なんて聞いたことがあるし。いや親としての責任という面では史織は完璧とも言える働き振りをしているけれども、この場合史織の個性的な部分で。

「涼子以上のツワモノね……」

「史織に比べたら涼子さんなんか神様みたいなもんですよ」

 涼子さんも時折物凄い天然ボケっぷりを発揮することがある。でも本当に時折なので、常時天然ボケスイッチが入りっぱなしの史織とは比べてはいけないと思う。

「確かに……」

「谷崎君、谷崎君、至急フロントまで」

 そう頷くと、カウンター内に戻って、夕香さんはインターフォンで自分の旦那を呼ぶ。また地下にあるリハーサルスタジオの掃除でもさせているのだろうか。

「で、何なのこれ」

 まじまじと私のレスポールを見て夕香さんは言う。

「史織が酔ってコケて落としてぶったおしたんですよ。多分帰ってくるまでも何回かはぶつけてると思う」

「ぶ、ぶつけてない……」

 もじもじして視線を斜め下に外しながら、史織が言う。

「おうコラ、スカートまくれ」

「ひっ」

 史織が自分でやる前に私が膝上まで先ほど買ったばかりのスカートを捲り上げる。右ひざにでかい青タン。両足の脛にいくつか小さな青タンがある。

「この膝の一番でっかいのは昨日玄関でやったやつだな?」

「た、多分……」

「それすら覚えてないんだから、このほかのアザだって覚えてないでしょ!これとか!これとか!」

 言いながら、一番でかい青タン以外の青タンを指でぐりぐりと押してやる。

「いぃ痛い!痛いぃー!」

「史織さん……」

「夕香ちゃん助けて!」

 私は自分ではマゾ寄りだと思ってはいるけれど、史織とか夕衣を見ているとサドッ気が湧いてくるのは何故かしら。

「おーう、なんだー。……なんだぁ……」

 地下から上がってきた諒さんが、私たちの奇行を見て言葉を詰まらせる。何やってんだありゃあ……っていう顔をしている。

「あ!諒くん!」

「おうおう、なんだこのちびっ子は。チョコでも食うか?」

「相変わらずでっかいねぇ」

 ぱたぱたと小走りに諒さんに近づいて、届きもしない諒さんの頭を触ろうと手を延しつつぴょんぴょんと跳ねながら史織は言う。そしてポケットからなにやら飴のような包み紙に包まれた、多分チョコレートなのだろうそれを出した諒さんの手から、素直に受け取る。

「あ?え?」

 史織に見覚えがないのか(それも会ったのが随分昔なら当たり前だけれども)、諒さんはそれでも不思議顔を作る。恐らく私が一緒にいることで勘は働いているのだろう。

「史織」

 ぴ、と自分を指差して史織は言うと、諒さんにもらった包み紙を開いて多分アーモンドチョコレートか何かだと思うけど、それをひょい、と口の中に放り込んだ。子供か。

「え!」

 びし、と諒さんの動きが固まった。

「おーぅ」

 諒さんっぽい口調で史織は片手を挙げる。

「あ!ほんとだ!史織さんじゃん!何してんの!」

 昔見た姿と殆ど変わっていないことに頭が付いて行けなかったのかもしれない。今週末行くね、って言っておいたのに。史織という名前を聞いて、諒さんは史織の両脇に手を入れて、まるで高い高いをするように抱え挙げた。いや正真正銘高い高いだわ。

「ギター買いに来たよ」

「え、マジでか!夕香!sty-xのギタリストがウチでギター買うってよ!」

 大興奮。これもパニックの内に入るのだろうか。史織はいろんな人に面白い影響を与えるなぁ。

「恐悦至極にございますわね」

「あれだ、サインもらっとけ!sty-xのSHIORIがギターを買いにきました!って」

 良く定食屋とかの壁にある、店に来た芸能人のサインみたいな感じか。そう言いながら諒さんは史織を降ろした。

「ラーメン屋さんみたいだね。誰だよsty-xのSHIORIって……てなるよ」

 嬉しそうに史織は言った。史織はそれこそ伝説とまで言われても良いほどのバンドのギタリストだったのに、それをおくびにも出さない。復活しても、若い世代のバンドマンには誰?と言われて当たり前だということも自覚している。奥ゆかしいと言えばそうなのかも知れないけれど、何と言うか、私が初めて谷崎諒や水沢貴之に遭遇したときのような、大物ミュージシャンとしての覇気や格が全く感じられないのだ。最近は私が慣れたせいなのか、彼らと会う場所が彼らのホームだからなのか、ステージ上のような覇気や格が出ていることは殆どないけれど、やはりステージに立つと彼らは豹変する。その事実を見ているから納得できるのだけれど、史織もステージに立つと豹変するのだろうか。とても今の状態からは想像できない。動画からでは感じ取れない何かを発揮できるのだろうか。聊か心配になってしまう。

「最近の若造からしたらそうかぁ……。ま、それはともかく、サインは頂戴」

 史織を高い高いから開放してぽん、と史織の頭に手を置く。扱いはまるで小さな女の子だ。

「ちょっと落ち着きなさいよ」

 夕香さんが苦笑して諒さんをなだめる。

「いや久々だったからつい……。でもあれだな、史織さんなら儲けナシでいいか」

「そうね」

 こともなげにとんでもないことを言い出した夫婦に私は目を丸くした。史織から何か黒いプレッシャーのようなものでも出たのか。

「ダメ」

 お、史織が反撃した。

「え?」

「あのね、諒くん、私は今日、お客さんとしてきたんだよ。私がどんなバンドやってようが、どんなキャリアがあろうが、このお店にはそんなこと関係ないよね?」

 うわ、何だかしばらくぶりに史織が大人に見える……。

「いや、でもさ……」

「私は夕香ちゃんと諒くんのお店でギターを買いたいだけのお客さんで、このお店に迷惑をかけにきたんじゃないよ」

 偉いなぁ。そして頑固だなぁ。私なら原価で売ってくれるならすぐそれに食いつくけれども。ただこの夫婦の場合、原価で買ったのが私だったら、その後とんでもなくこき使われるに違いないのだけれども、流石に史織はそうはなるまい。

「じゃあ定価で売ってやれば?」

 ちょっと意地悪な茶々を入れてやる。

「……で、でも安くしてもらえたら、きっとまたこのお店に、来ちゃうよ、ね」

「この女……」

 ね、じゃないわよ。

「諒くん、娘が母をこの女扱いする……」

「つーか史織さんは何か決めてるんすか?」

 流石の諒さんも真面目腐った史織がいきなりふにゃんとしだしたので苦笑を浮かべて話を進めた。

「え?何を?」

「買うギターでしょ」

 ぽす、と軽くおでこにチョップする。

「あ、莉徒とおんなじの」

「え、それマジなの?」

 朝もそんなことを言っていたけれども、本気だとは思わなかった。

「うん」

「えー、お揃いとかやめない?」

 実はsty-xの復活ライブの前座に立つ、とは言えないけれども、いや言わないけれども、親子でお揃いのギターを持っているなんてちょっと恥ずかしい。先に買ったのが私だとしても。

「えー、だって私だってホントは欲しかったんだもん」

「!」

 史織の一言で一瞬だけ私の思考が停止した。

 そうだ。その時は全然気付かなかったし、当然気付ける訳もなかったのだけれど、私がギターを買って帰るたびに、史織は心の中でずっとうらやましく思っていたのだろう。私がライブをするたびに、史織もステージに立ちたいと望んでいたのだろう。

 そう考えたら、史織が一番欲しい、と思うものを買うべきだ。そう思った。

 博史すまん、支払いは一括ではきついかもしれん。

「まぁそれじゃしょうがないか。夕香さん、EX-IVの赤ってあります?」

「ちょっとモノがあるとこに行きましょ」

 ギター売り場は店の奥まったところだ。カウンターを真佐人さんに任せて夕香さんはギター売り場に先導してくれる。

「わー、すごいなぁ。こういう感覚久しぶり」

 スキップでもしそうな勢いで史織が夕香さんの腕にじゃれ付いた。少なく見積もっても、史織が楽器を買うのは十八年ぶりだ。それは嬉しいだろう。

「何年やってても新しい楽器買う時は嬉しいですからねー」

「だよねー!」

 ぴょんと一瞬だけ跳ねて史織は夕香さんに笑顔を向ける。スキップは……しなかった。その代わり、じゃれ付いていた夕香さんの手を取ってぶんぶんと振りはじめた。子供か。

「でもブランクあるからいっぱい練習しなくちゃ」

「全然触ってなかったんだ」

 後ろから付いてくる諒さんが史織に声をかける。

「ううん。莉徒ちゃんが学校行ってる間とかにナイショで弾いてたよ」

 気付かなかった。私はそれほど几帳面な性格ではないし、ことの発端になったレスポールの弦交換の件だって最初は自分でやったのかも、くらいに思っていた程度だ。私が出かけている間に、史織がギターを触ってようと、そんな私が気付くはずもない。

「え、そんだけ?」

「うん。こないだ久しぶりにみんなに会ったんだけど、下手すぎ、って怒られちゃった」

「ま、まぁそらしょうがねぇよな……」

「でもこれからいっぱい練習するんだー」

 本当に嬉しそうに言う。私が罪悪感を感じる必要性は多分ないのだろうし、恐らく傲慢で場違いなのだろうけれど、それでも、中学生の時から音楽を始めて、好き勝手に色々とやらせてもらった。史織がそれをどんな思いで見ていたのか、なんて微塵も気付かずに。

「史織、エフェクターとかはどうすんの?」

 きっと史織は私を責める気なんて毛頭もない。史織が自分自身で選んだ道だから。普段は子供っぽくてのほほんとしているけれど、思い込んだら試練の道を行くが女のど根性。さきほどの夕香さんや諒さんとのやり取りでも垣間見せた頑固さは昔からのもので、そこは私も色濃く受け継いでいる。

 せっかく一八年も経って再び手に入れた音楽環境だ。史織には罪悪感なんて少しも感じてほしくない。だから努めて明るく言った。

「あ、うーん。私アンプ直だからねー。でも一応ブースターで何か買おっかな」

 そういえばこの間諒さんと貴さんが話していたのを思い出だした。私はやっている楽曲やパート上、どうしてもクリアトーンが必要だし、そのクリアトーンに空間系のエフェクトをかけるから、アンプ直という発想は基本的にはない。フットスイッチ一つあれば、歪んだ音とクリアトーンの切り替えも可能だけれど、私は歪みにも空間系を使ったりするので、スイッチがいくつもあるようなものを用意しなければならなくなる。ただsty-xみたいな激しい音楽で、シンセサイザーもいる場合は、特にクリアトーンに気を遣う必要もないのか、アンプに直結する場合、チャンネルを切り替えるフットペダルとボリュームペダルくらいがあれば事足りてしまうのかもしれない。

「昨日はどうしたの?」

「昨日はアンプだけ」

「余計下手さがばれるじゃん……」

 特に歪み系のエフェクトというのは音に厚みが増したり、文字通り、音が歪むので、若干音を誤魔化せる。歪みが激しければ激しいほど、何を弾いているのか判らなくなるようなことにもなるので、アンプ直でブースターもかけずに弾くとなると、はやりどうしてもミスは目立ちがちになる。久しぶりにまともに弾くのなら何かしらエフェクターを噛ませた方が良かったのではないだろうか。

「あー、史織さん、今EX-Ⅳの赤はないわ。ごめん」

「えー、そっかぁ……」

 言いながらもさほど落ち込んだ様子もなく史織は言った。恐らくそこまで私とお揃いではなくても良いと思っていたのか、そこまで赤にこだわっていた訳ではないのか、真意は測りかねるけれども。

「EX-Ⅴならあるんだけど」

「何か違うの?」

「見た目は殆ど同じだね。ピックアップの搭載数が違うんすよ。Ⅳはこのデカイのが一つで細いのが二つ。Ⅴはデカイのが二つで細いのが一つ」

 ついこの間私のギターのことを知らなかった諒さんがしたり顔で説明するのを見ていると可笑しくなってくる。

「ほほぅ。ハム、シングル、ハムだね。だとすると単純なパワーだけの話だったらⅤのがありそうかなぁ」

「あとはボディ材も違う。莉徒のⅣはアルダー材だけど、このⅤはアッシュ材」

「こないだ貴さんに聞いたのと、見事なカタログスペック丸暗記」

 本当は諒さんのお店ではなくて夕香さんのお店だから、本来なら店員でもない諒さんがここまで覚える必要はないのだけれど。

「う、うるせぇな。ともかく!sty-xで使うならⅤの方がフレキシブルだと思うよ。はいこれ」

「わあぁ……。やっぱり赤可愛いね、莉徒ちゃん」

 物凄い目を輝かせて史織はSCHECTERシェクター EX-Vを手に取った。

「私は青のがイケメンだと思う」

 赤は確かに可愛いけど、多分私には似合わない。それにそもそも私は暖色よりも寒色の方が好きだから、何を買うにも赤系のものは殆ど買わない。

「あー、青はイケメンだよね、確かに。でもアルダーなんだったら莉徒ちゃんのは女の子だよ」

「え!そうなの!」

 木材で雄と雌があるとでも思ったのか、諒さんが頓狂な声を挙げる。こんなに長くプロのミュージシャンをやっている人でも知らないことはたくさんあるのだろう。正直私だってドラムのことは何も知らないに等しい。

「例え、例え」

 苦笑して諒さんをフォローする。

「そ、アッシュは男鳴り、アルダーは女鳴りって言われてるの、聞いたことない?」

「ねぇなぁ……。つぅか木材にまでこだわるのなんてバチだけかと思ってたぜ……」

 聞いたところによるとドラムスティックはかなりデリケートらしい。諒さんみたいな粗暴な性格に見えても、微妙なズレなんかが顕著に現れる、くらいのことは聞いたことがあるけれど、そこはそれ、やはり同じドラマーでもないと判らないのだろう。人によっては二本のスティックが揃っていようがいなかろうが何でも構わない、という場合もあるらしいし。

「逆に私らはそれが全然判らないけどね」

「ね、夕香ちゃん、赤じゃなくてもいいからⅣとⅤ、両方弾いてみていい?」

 指弾きで少し弾きながら史織は言った。もうすでに小さな試弾き用のアンプを準備してくれていた夕香さんは頷くと、ショーケースに手を伸ばす。ショーケースの中にはEX-Ⅳのシースルーブルー。あれ、これはアルダーっぽくない。

「じゃⅣも準備するからちょっと待っててください」

「うん」

 諒さんがクローマチックチューナーとシールドケーブルをつなげてくれている間にぴろぴろ、と手早くチューニングする。え、チューニングメーターも使わないなんてまさか絶対音感?じゃないな、多分E弦の音が低い気がする。そんな史織を尻目に、夕香さんが手に取ったEX-Ⅳを眺める。

「これアッシュですか?」

「そう。でも莉徒が買ってくれたアルダーより新しいモデルだからあれより高いわよ」

 なるほど。諒さんが覚えてたスペックはきっと情報が古いんだ。でも私が買ったのはほんの一ヶ月くらい前なのに、もう新しいものを仕入れているなんて。

「まじでかー。まぁ私はあんまり木材にはこだわらないから別にいいけど」

 それにきちんと試奏して、自分で納得して決めたものだから、後悔なんてあろうはずもない。

「あ、そっか。じゃあアルダーのⅣも出さなきゃいけないわね」

 私の言葉で恐らく史織は全種類を試したくなるだろうと理解したのか、夕香さんはもう一本、私のものとは色違いのEX-Ⅳにも手を伸ばした。

「手伝います」

「悪いわね今日はお客なのに。はいこれ」

「いいですよこのくらい。うわー地味ぃ」

 木目は木目でそれなりに綺麗だけれど、それに黄土色のメタリックというか何と言うか、良く言えばオレンジ色に分類されるのだろうか、そんな色が乗っている。

「あぁそうそう、二二フレと二四フレがあるんですけど、どっちにします?」

「じゃあ二四で!」

「じゃそれ二四だからじゃあそのまま弾いてください」

 ギターのネックに切られているフレットの数は大体二二フレットから二四フレットのものが多い。ちなみに私のEX-Ⅳは二二フレットだ。

「そんな使うー?」

「音がいっぱい出る方が楽しいよ。私結構ハイフレ使うし」

「まぁ使うんならいいけども」

 フレット数も弦の多さも多ければ多いほど用途は広がるし、できることも増える。けれど、見た目だけで弦が多い楽器の方が難しいことをやれる人みたいでカッコイイから、だとかふざけた理由でそういう楽器を買う連中も世の中にはいる。そういった連中に限って基礎もろくにできないばかが多かったりもするものだ。史織に限ってはそんなことは一切ないけれど。

「よしオッケー、弾いていいよ、史織さん」

 夕香さんと諒さんが準備を終えてアンプのスイッチを入れた。

「わーい」

「ガキか」

 まるでおやつを与えられたお子様のようだ。史織のこれはもう一生治らないだろうな……。

「諒君、娘が母をガキ扱いする……」

「またそれかい」

 さきほど英介にも似たようなことを言っていた。結構気に入っているのかもしれないな。

「正直史織さんのが子供っぽいよなぁ……」

「だよねぇ」

 見た目は私の方が子供っぽく見えるかもしれないけれど、正直史織と比べたら似たり寄ったりだ。そうなると言動が子供っぽいかそうでないかが重要になってくる。私だって子供みたいにはしゃぐことはあるけれど、わーいだとか、~だもん、と言うような言葉遣いはしない。

「えー、ひどぉーい。史織もう四四歳だよ!おばちゃんなんだから!」

「四四!」

 自分を名前で呼ぶ四四歳……。イタすぎるぞ、母よ。せめてそれは家の中だけにして欲しい。

「夕香ちゃんは何歳?」

「三六です」

「若ーい!二〇歳くらいに見えるね」

「い、いや史織さんほどじゃないけど……」

 史織が言っていることは嘘ではない。ただ涼子さんや史織が少し常識を逸しているだけで、夕香さんも本当に若い。涼子さんや史織は若い頃から子供っぽいと言われ、夕香さんは若い頃に老けて見られたタイプろう。

「へへぇ」

「早く弾きなさい」

 ギターを抱えたまま雑談を始めてしまった史織を促す。

「うん。よぉーし」

「……」

 ざん、とAから鳴らす。そのピッキングストロークである程度弾ける人なのか、コードを弾く程度でいっぱいなのかが判る。史織のそれは最初に鳴らすコードはAであることが当たり前なほどに自然な動きだった。

 ギターを持ってまずGのコードを弾く人にはジャイアンツファンが多いらしく、Fのコードを弾く人はファイターズファンが多いらしい。その昔、EXPEEDのギタリストとその人よりももっと大御所のギタリストが対談していた時に言ってたことなので恐らく大嘘、というよりは諧謔だろうけれど、そういう統計的は話は嫌いではない。言うなれば血液型性格判断と同じようなもので、何の根拠もない割には盛り上がるし、諧謔を理解できる人ほど楽しめる話題の一つだということだ。

 などと偉そうなことを言っても私がギターを持って最初に弾くコードはCだ。Cだとやっぱりカープかしら。野球ファンではないので全く判らないけれども。

 そんなことよりも、史織の弾きがエスカレートして行く。

「うめぇ……。激うめぇ!」

 METALLICAメタリカMaster Of Puppetsマスターオブパペッツのソロ、IRON MAIDENアイアンメイデンAces Highエイシズハイのソロからリフ、Judas PriestジューダスプリーストPainkillerペインキラーまで、息つく暇もなく引き倒す。怖くらいニコニコしながら。

「ちょっと莉徒ちゃん、言葉遣ぃー!」

「もう一体なんなのこの母……」

 これで仲間内に下手だと怒られたのか。ここでもsty-xステュクスのレベルの高さが伺える。正直今史織が弾いているものを今私が弾けと言われたら、これほど美しくは弾けないし、Painkillerは何日か練習しないと無理だ。

「おー、流石だな、史織さん……」

 一人呟くように諒さんは言った。諒さんは元々史織がこのくらいは弾けてしまうのは知っているのだろうから、そこにさほどの驚愕は見られない。

「うし、莉徒、エフェクターも見積もってやっから手伝え」

「あ、はい」

 もう少し聞いていたかったけれど、今日史織がギターを手に入れればこの先いくらでもそれを聞く機会はある。教えてもらうこともできるし、テクニックを盗むことだってできる。なんだか燃えてきた。

 敵に塩を送るという訳ではないけれど、史織のプレイスタイルに合う最高のギターと最高のエフェクターを用意してやろう。金を出すのは博史だけれども。

「諒さん、LandgraffランドグラフでいこうLandgraff」

「太っ腹だなぁお前。あれ確か七万とかだろ?」

「そうだけど私の金じゃないし」

「かっ、なるほどな」

 正直Landgraffなら私が欲しいくらいだけど、史織がアンプ直でギターを弾くんだったらそれも要らなくなる訳で、そうなれば自動的に私のものになるというスンポーだ。

「機材的にも恥は掻かせられないでしょ」

「まぁ確かにな。まぁとりあえず色々出してやっから選べや」

「おっけーぃ」


「まいどありー。今度は個人練習にでも入りに来てよ、史織さん」

 店の出入り口で見送り態勢の諒さんが言った。

「うん、また来るね。夕香ちゃん今度一緒にご飯食べようね」

「はぁい。ありがとね史織さん」

 にこにこ笑顔で夕香さんも史織に応える。これだけの買い物をしたらにこにこにもなると思うのだが、何のことはない、単純に夕香さんは史織が気に入ったのだろう。この店の収益構造はさっぱり判らないけれど、常に儲かっているようなので、たかがギター一本売れた程度の売上でにこにこしたりはしないはずだし。

「ギター私が持つ」

「えっ、やだよ」

 夕香さんからシェクターのEX-Ⅴを受け取った史織からギターを受け取ろうと手を伸ばす。史織は生意気にもそれを拒んだ。

「だめ。またコケてぶっ壊したらどうすんの」

 私のエピフォンのレスポール程度では済まないぞ。それも今度は私のギターではなくて、史織本人のギターだ。ショックの大きさもひとしおだ。

「だってハードケースだよぉ。重たいよぉ」

「史織より力あるっつの」

 私にあって史織にないもの。それは絶対的な若さだ。若さは力。若さは正義。

 故に何もないところで躓いて転んで怪我してギターを壊す、などという何者かの悪意すら見え隠れしていそうなことには絶対にさせない。

 この柚机莉徒の目が黒い内はな!

「あぁじゃあ近ぇんだし、送っといてやるよ。おーい真佐人!」

「あーい」

 カウンターから真佐人さんが声を出す。この人もいつも谷崎夫妻にこき使われて大変なんだろうな。

「これ莉徒んちに運んどけや」

「うっす」

「いいの?真佐人さん」

「莉徒んちは近いし、時間判ればその時間にちょちょいとね」

 私にとっては昔からいる店員さんで、先輩でもある人だ。真佐人さんは本当に人が良いから、申し訳ない気分になってくる。

「流石にもうパパ起きてるよね……多分今すぐでも大丈夫だと思います」

 一応後で電話はしてみよう。

「そこまでしてもらっちゃっていいの?」

 そう、真佐人さんに史織も言う。

「また来てくれるんですよね?」

 人好きのする柔らかい笑みで真佐人さんは応える。

「うん、絶対来るね」

「じゃあこれはサービスです」

「ヤッター」

 いちいち言動が子供っぽい。まぁそこが史織の魅力の一つであることは確かなんだけれど。

「じゃあこれから涼子さんのとこ行ってくる。諒さんがオフってことは貴さんもオフでしょ」

「多分な」

 同じ事務所で同じバンドで、一応諒さんが代表取締役社長ということになっているけれど、ギタリストだけがギター雑誌のインタビューに呼ばれる、などということもある。バンドとしては活動しない日でも、メンバーとして個人で活動することもあるのだろう。行ってみなければ判らないけれど、まぁ最悪は貴さんがいなくても涼子さんがいてくれれば行く意味はある。もちろん史織的には貴さんがいた方が良いのだろうけれど。

「おっけー」

「じゃあね、諒くん、夕香ちゃん、真佐人くん。ばいばーい」

 史織の子供っぽい挨拶の後、私たちはEDITIONを後にして、vultureヴォルチャーへと向かった。


「エフェクターはいらなかったの?」

「うん。でも凄いお金使っちゃった。どうしよう」

 結局ブースターで使う程度の安いコンパクトタイプならば、私が持っているということで、エフェクター自体は買わなかった。LandgraffとかBarbarossaバルバロッサとかCENTAURケンタウルスとか色々出してくれたんだけど。推しが足りなかったかなぁ。作戦失敗だ。

「平気でしょ。だいぶ安くしてもらったし」

「領収書ももらったし、だめもとで事務所に出してみるね」

「しっかりしてるなぁ……」

 プロの世界では、どこからどこまでが必要備品で、経費として扱ってもらえるのかは判らない。アンプは事務所が買ってくれただとか、自分で買った、だとかいう話は音楽雑誌やライブDVDのオーディオコメンタリーなどで良く見聞きする。事務所契約をしてはいるけれど、メジャーデビューしていないバンドなどは殆どが自分たちで用意しているところもあるし、でもギターだけはメーカー側から提供してくれる、だとか、もうその辺はきっと業界内でもかなりのグレーゾーンなのだろう。

「えへへ」

 もしかしたら史織のギターも経費で落ちるかもしれない。ついでにレスポールの修理費……は無理か。

 さてさてそれはともかく。

「じゃあ次は……ちょっとアクセと靴見に行って、最後に貴さんのとこね」

「うん。楽しみー」

 ぴょん、と小さく跳ねて史織が笑顔になった。


 08:アーモンドチョコレート 終り

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