07:チェリー

 二〇〇七年四月二一日 土曜日

 七本槍ななほんやり市内 七本槍中央公園


「よぅ、夕衣ゆい……」

「お、英介えいすけ……。何、どしたの?」

 中央公園の中央広場の中央噴水にあるベンチに英介はなんとも言えない表情で現れた。ちなみに私は一〇分前についたけれど、いつものごとくsty-xステュクスを聴いていた。今日は私がギターの弦を買うのと、sty-xのバンドスコアを探すので、さし当ってEDITIONエディションへ行くことになっているのだけれど、その後は特に何も行動を決めていない。どこか軽く遊びに行って、最後にはやっぱりvultureヴォルチャーへ行くのだろう。

「いや、俺さっき初めて莉徒りず母に会った」

「あぁ、史織しおりさん……。初対面は結構ヘビーだよね」

 わたしはベンチから立ち上がると苦笑した。わたしも史織さんと初めて会った時はかなりのショックを受けたもの。莉徒の友達かと思ったくらいだから。わたしの母親は世間一般的に見てかなり若い方だと思っていたけれど、涼子りょうこさんや史織さんと出会ってからそれを完膚なきまでに打ち崩された。

「密かに不老不死のクスリかなんかが開発されてて、それの実験台にされてんじゃねぇの、と」

 わたしの後ろにとぼとぼととついてきながら英介は呟くように言った。

「妄想」

 英介の気持ちは判らなくもない。史織さんと涼子さんと夕香ゆうかさんの若さはちょっと異常だ。

「ま、そうだけどさ、でもそんくらいの噂流れてもおかしくないぜ、あの幼さは」

「まぁ確かにね。でも史織さん、可愛くて好きだけど」

 史織さんの可愛らしい性格も立ち振る舞いも、何故莉徒には遺伝しなかったのか不思議なほど、史織さんと莉徒は内面は似ていない。

「なんつーか、性格的などうこうじゃなくて、あの母親にしてあの娘有りって感じするよな」

「言えてる」

 性格は全然違うけれど、見た目は結構似ているし、何かこう、ぶっとんでる感じが親子だなぁって感じ。身嗜みに関しては莉徒の方が少し派手めに見えるせいか、遠目から見たら莉徒の方がお姉さんに見えてしまうこともあるかもしれない。

「夕衣んちは?」

「わたしのお母さん?」

「そ」

「んー、娘だからかも判んないけど、若いと思うよ。史織さんや涼子さんほどじゃないけど」

 世間一般的な感じで。

 そういえばわたしと莉徒が仲良くなってから、お母さんと史織さんも仲良くなった。わたしが莉徒の家にお泊りする時や、莉徒がわたしの家にお泊りする時などに、電話で挨拶をしている内に仲良くなり、一緒にお茶をしたり買い物をしたりするようになったらしい。 

「安心できる範囲?」

「だと思うよ」

 言って再び苦笑する。確かに史織さんや涼子さんの若さは少し、不安感を覚えてしまうくらいの若さだ。その不安感の根っこの部分が何なのか、モヤモヤと判らないまま、とにかくこう、言い知れない不安が時々付きまとうのだ。それこそ英介じゃないけれど、アポトキシ……何やらとか飲まされたんじゃないか、とか。

「あの年になっても女の子然としてる母親は魔性の女だな……」

「ま、まぁ判らなくもないけど」

「まぁねぇけど、例えば夕衣の母ちゃんがあんな感じだったとして、夕衣の母ちゃんだから似てる訳だ。それで俺が夕衣んちに遊びに行ったときに、母ちゃんと出くわしたら、一目惚れ、なんてこともあるんじゃなかろうか……」

 ついこの間、中学生の息子の友達と不倫をしている母親、というのをテレビで見た。娘の彼氏と不倫する母なんて洒落にならなすぎる。

「自分でないけど、って前置きしといてむちゃくちゃな……」

 そんなことがあったらもう家庭崩壊だ。怖い怖い。若いままであり続けるのはもちろん理想だけれど、何かと邪魔なものが付いてくる可能性だってなくはないのかもしれない。

「まぁそうだなぁ」

「でも実際ない訳じゃないんじゃない?涼子さんだって既婚者だって判ってても告白する人とかいるんでしょ」

「あぁー、そうらしいな」

 あんなにカッコイイ旦那さんがいて、可愛い娘さんがいて、毎日幸せそうに働いている涼子さんに告白するなんて。

 ……でも、無駄とは思うけれど、ダメだとは判っていても、どうしても自分の気持ちを伝えたい、という強い気持ちを持てるのは素晴らしいことだとも思う。それほどまでに誰かを想えるのは本人も幸せだろうし、涼子さんだってそんな気持ちに応えることはできないけれど、幸せな気持ちになれるのかもしれない。

「英介はなかったの?」

「ねぇけど、まぁ好み言うなら涼子さんより夕香さんかなぁ」

「やっぱりああいう大人っぽい美人がいいんだ」

 スラリと背が高くて、胸が大きくてウェストが凄く細くて、お尻は大きすぎないくらいのボリューム感。完全に嫌味だ。いつものことなのでそれは流すことにするけれど、わたしは一体何を食べたらああなれるのだろうか。ああなれた暁には今まで散々わたしの控えめなバストをばかにしてきた英介に土下座をさせてやるのに。

「いや、タイプっつーより個人」

「え?」

 タイプ別ではなく、あくまでも夕香さんという個人。だとすると、夕香さんは、私見ではかなり大変だと思うのだけれど。

「タイプで大別するならどっちかってーと涼子さんなんだけど、なんつーかさ、涼子さんって普通の男じゃ手に負えなそうじゃん」

「夕香さんだってそうじゃない?」

 英介の言うことは判る。涼子さんは恐らく並大抵の男性ではあの笑顔を引き出せないような気がする。でも涼子さんが好きになった人ならば、どんな人でも幸せになれちゃうような気もする。

「なんか夕香さんはそのへん上手に突っついてきそうな気しねぇ?」

「んー、男の人疲れそうだけど……」

 去年の夏、アルバイトをしたときに思ったけれど、実際に旦那さんのりょうさんはかなりこき使われていた。

「いや多分夕香さんの言うこと聞いてたら一番楽、って感じする」

「あぁ、操るっていうと言葉悪いけど、誘導巧いっていうか」

 なるほど。それも有りなのか。諒さんは普段の行動は割りと稚気に溢れていて、音楽のこと以外は何も考えてなさそうな感じを受けることがある。もちろん社長をしている訳だし、四六時中そうだとは思ってはいないけれど、だとすると、そこで夕香さんがどう動いたら良い、などの的確な指示を出せば、物事は全て巧く回るような気がする。

「そうそう」

「涼子さんは可愛いし、しっかりしてるけど、俺が守んなきゃ!っていうプレッシャーに負けそう」

 実際には違うと思うけれど、夕香さんと涼子さんを見比べたら、確かに涼子さんの方が儚げなイメージはある。ファンタジーロールプレイングゲームなどで例えたら、涼子さんは捕らわれのお姫様。夕香さんは勇敢な女戦士、という役割がピッタリかもしれない。あくまでも外見での話だけれど。

「なるほどぉ。わたしは?」

「言うと思った……。夕衣はどっちかってぇと涼子さんタイプだと思うけど、プレッシャーは感じないな。もちろん自主性は感じるけど」

 それはつまり遠回しな、わたしは英介のタイプに入っているというアピールなのだろうか。いや、まぁ付き合ってるんだからそれはそうなんだろうけれど、涼子さんのような女性を目指す私としては、涼子さんタイプだと言われると少し嬉しい。

「守ってくれる?」

「そらまぁ、とーぜん、な」

 視線をそらして英介は言った。何人もの女性と付き合った経験があっても、こういうところは一々照れる、可愛い一面もあったりする。

「でもわたしの目標は涼子さんだから」

「男にプレッシャーを与えるのはくない……」

 もちろん英介も涼子さんが見た目だけのイメージではないことを知っている。

「涼子さんが与えるのはいい男になるためのプレッシャーだと思うけどな」

 それもきっと相手が気付かない類の。むしろ自主性すら伴わせるような気がする。そういう点では、涼子さんはお姫さまよりも魔法使いなのかもしれない。おれが涼子を守らなきゃ、涼子を守るために強くならなくちゃ、涼子のためにもっと努力しなくちゃ。一緒にいるだけで、涼子さんが何も言わなくても、相手がそう思ってくれるような気がする。だってたかさんは凄く素敵だし、涼子さんには貴さん以外の男の人はありえないって思う。

「ま、まぁ貴さんは確かにカッコイイがよ……。問題はそれを涼子さんが意識してないってことだよ」

「貴さんも意識してないと思うよ」

 きっと付き合うってそういうことなのかな。わたしは英介に、この先もずっとわたしを好きでいてもらうために、努力しなくちゃいけない。女として、もっともっと自分を磨きたい。英介も同じ風に思っていてくれたら、きっと貴さんと涼子さんみたいな素敵な関係をずっと続けて行ける気がする。

「まぁだから、あそこには、なんつーか立ち入る隙もねぇし、涼子さんの相手は貴さん以外に有り得ねーって思う訳。そうすっと、まぁ女性個人で見た場合、夕香さんは最悪諒さんと別れたとしてもフツーに幸せになりそうじゃん」

「あぁー、確かに」

 芯の強さは折り紙つき。夕香さんはもう、強くてカッコイイ、素敵な女性、というイメージだ。それ故に、男の人には依存しない、自分に合わない人であればすっぱりと切り捨てるようなイメージも何となく判る気がする。

「涼子さんはなんかもう一生一人で生きてあ、みふゆちゃんいっから二人で生きていきます、みたいな感じある」

 例えば、貴さんが浮気とかではなくて、もしも事故で亡くなってしまったとしたら、涼子さんは再婚はしないような気がする。仮に二人が不仲になって別れたとしても、涼子さんはやっぱり再婚はしない気がする。

「涼子さんもそういう意味じゃ強そうだもんね」

 涼子さんも芯は強い女性だと思う。この間、ほんの少しだけ夫婦生活の話を聞けたけれど、やっぱり涼子さんは芯の通った女性なのだな、と感じた。

「あぁ。まぁでもまだ経験も足りねぇ俺らの勝手な妄想だし、イメージだからな、いい加減な話だとは思うけどよ」

「そうだよね。涼子さんの若い頃の話とか聞いてみたいな」

 確か貴さんと涼子さんは学生時代には付き合っていなかったと聞いたことがある。お互いに社会人になってから交際を始めたらしいけれど、最初はどんな風だったのか聞いてみたい。

「それはいつでも聞けるじゃん。……お、あれ由比ゆいじゃねぇの?」

 EDITIONの近くまで来て、英介がEDITIONの入り口にいる人物を指差した。

「はぃ?」

 一瞬自分の名前を呼ばれたのかと思い首を傾げたけれど、英介が指差した人物を見てすぐに納得する。

「あぁ、わり、由比美朝みあさ

「ホントだ。楽器始めようかな、なんて言ってたけど本気なのかな……」

 だとしたら話してくれれば良かったのに。

「え、そうなん?」

「うん。上達したらわたしと莉徒とバンドしてみたいって」

 その話をしてからまだ数日しか経っていないけれど、美朝ちゃんの中で音楽に対しての憧れが現実味を増してきたのかもしれない。

「ほほー。そりゃいんじゃねぇか?ま、行ってみっか」

「うん」


「よ、由比」

「え、あ?樋村ひむら君、夕衣ちゃん」

 入ろうかどうしようか迷っている美朝ちゃんは傍から見たら少し挙動不審に見えて、可笑しくなってしまった。

「楽器、ホントにやるの?」

「え、あ、その、まだ判んなくて、とりあえず下見……」

 とは言いつつも、実際に楽器屋さんに行ってみようというところまで気分は高まってるってことなんだろうな、それは。

「言ってくれれば相談乗るのに」

 わたしは苦笑しつつ美朝ちゃんにそう言った。いつもわたしを気遣ってくれる美朝ちゃんに、少しくらい恩返しがしたい。

「判んねぇから下見なんだろ。下見で付き合わせるのも悪いって思ったんじゃねぇか?」

「あ、そっか。あ、じゃあ邪魔かな」

 わたしや英介はバンド経験者だ。それもそれなりにライブも経験してきた。少しかじったことがあるだけの素人という訳ではない。しかし美朝ちゃんのように全くの素人というか、これから始めようとする人だと、経験者に見られてしまうだけでも恥ずかしくなるし、緊張もしてしまうということだって充分に有り得る。

「う、ううん、あ、でも、デート中?でしょ?」

「特に予定も無いデート中です」

「トゲあるなぁ……」

 それを承諾したのもわたしだけれど、別段予定もなくぶらぶらするのは珍しいことでもなんでもない。でもたまにはきちんと計画を立てて、どこか、例えばチーバくんのぺろりと出ている舌辺りにある超有名テーマパークとかに連れて行って欲しい。

「この間はベースしたいって言ってたけど、やっぱりベース欲しいの?」

「ううん、どうせならシ、シンセ?キーボード、なの?」

「まぁキーボードだなぁ」

「それにしようかな、って」

「い、いや英介、それ違い判んないでしょ……」

 そう言いながらも、わたしは少し安心した。ベースはもちろんハマれば楽しい楽器だとは思うけれど、一人で発表する場を作るのは難しい。ギターやキーボードならば、一人で弾き語りもできるし、独奏でも楽しめる。

「え、一緒じゃねぇの?」

「や、わたしもよく知らないけど、た、多分違うと思うよ……」

 でなければ呼び方が違う訳がない。例えばギターの周辺機器ならアンプシミュレーターもプリアンプもエフェクターも、要はみんな一緒だよ、という話もある。だけれど、アンプシミュレーターもプリアンプもエフェクターも、確かにエフェクトというか音響効果を変えるものではあるけれど、厳密には用途は異なるものだし。

「まぁとりあえずどっちでもよくね?」

 なので、シンセサイザーとキーボードも恐らくは違いがあるはずだ。

「そうだね。じゃあとりあえずキーボードにしとこ」

 そうでも今のわたしたちではそれが判らない。だとしたらしたり顔でシンセサイザーと言ってしまうよりは、馴染みのあるキーボードと呼んだ方が良いかもしれない。

「何にしてもキーボードだとピアノ習うとか、そういうのないとキツいかもなぁ」

「う、うん、だからそれも考えてて」

「え、結構マジじゃん」

 それはそうでしょう。

「え、でもギターでもベースでも習わなかったら判らないし……」

「ま、そうだね」

「俺独学だけど……。夕衣習ったことあんの?」

 英介はわたしにそう言ってきた。

「あるよ。最初一年くらいだったけど」

「だからコードの押さえ方とかフォームとか綺麗なのか……」

「フォームは正しく身に付けないと上達しないって言われてたし」

 それは今でもそう思っている。ギターを持った時のフォームやコードの押さえ方。それがきちんとできていなければ、いろんなことに応用、反映ができない気がする。ビルを建てるときに基礎が正しくできていなかったら、ピサの斜塔のように曲がったままビルが建ってしまうだろうし、最後にはきちんとした基礎ができていないせいでビルそのものが崩壊することだってある。音楽だけではないと思うけれど、本当に何事においても基礎は大切だ。

「なるほどなぁ。じゃあ由比も」

「あの、樋村君」

「お?」

 わたしが英介の方を向くと、英介の言葉を遮って美朝ちゃんが少しだけ強く言った。

「紛らわしいから名前でいいよ」

「え、マジ?」

 それはわたしとしてもありがたい。美朝ちゃんの苗字はゆいで、わたしの名前はゆいだ。英介は美朝ちゃんを苗字で呼ぶし、わたしのことは名前で呼ぶ。美朝ちゃんが一緒にいる時にゆいと英介が呼ぶと一瞬どちらを呼んでいるのか判らなくなってしまう。

「うん」

「嬉しいなぁ。じゃあ家族からなんて呼ばれてる?」

 そういえば英介は女友達の殆どを名前で呼んでいる。わたしのことも付き合う前から夕衣と呼んでいたし、以前組んでいたIshtarイシュターの面々もはっちゃん以外は殆ど名前で呼んでいた。

「アサ」

「じゃ、それにするわ」

「なんでアサ?」

 美朝もアサも音数では大して変わらないし、そもそも美朝という音は読みにくい訳でも呼びにくい訳でもないのに、略されるなんてことがあるんだ。

「わたし、お姉ちゃんがいるんだけど、お姉ちゃんの名前が美潮みしおなの」

「じゃあ姉ちゃんはシオって呼ばれてんの?」

「うん」

 アサとシオか。なんだか音だけで聞くと和風というか朝ごはんなイメージだ。

「朝潮太郎かー」

「小さい頃よく言われた」

 美朝ちゃんが可愛らしく苦笑する。

「何それ」

 わたしだけが取り残された。

「昔いた関取。平成元年に引退」

「へぇー」

「く、詳しいね」

「たまたまだ」

「相撲好きなの?」

「日本の国技だぞ」

「言ってるだけでしょ。きっと興味はない」

「良くお判りで」

 一連の軽口を流して、わたしは話題を元に戻す。今の会話の流れの中心は美朝ちゃんだ。

「でもキーボードかぁ……。わたし専門外だからちょっと判んない。確かスタジオでレンタルできるやつはTRITONトライトンってやつみたいだけど……」

 Ishtarのキーボーディストというよりはピアニストだった英里えりちゃんもTRITONを持っていた。

「俺なんかキーボーディストと組んだこともねーからからっきし」

「じゃあとりあえず夕香さんに聴いてみよ」

 わたしたちのようなギターやベース、いわゆる竿物と呼ばれる楽器を扱う人間では鍵盤の楽器は英介の言う通りからっきし判らない。

「んだな、じゃあ入るか?」

 英介はそう美朝ちゃんを促す。

「う、うん。なんか緊張するね」

「自分の専門外のお店入る時ってそうだよね」

「う、うん」

 以前英介がアルバイトをしているバーに行った時、わたしもなんだかとても緊張した。きっとアウェー感が凄く強いんだと思う。ライブハウスでも初めて演奏するライブハウスではそんなアウェー感に包まれることもある。

「まぁここは俺ら馴染みだから。ちゃーっす」

 うぃーんと自動ドアが開いて、入り口すぐのカウンターには夕香さんがいた。

「お、えーちゃんに夕衣……と?」

「こんにちは、夕香さん。友達の由比美朝ちゃんです」

 ぽんと美朝ちゃんの肩に手を置いて、わたしは美朝ちゃんを紹介した。夕香さんってこのお店の店主というか社長なのにフロアに出てることが多い。仕事が好きなんだろうな、きっと。

「は、はじめまして」

「店の店員にはじめまして、なんて中々言わないわよ。いらっしゃい。さっき莉徒と史織さんが来てたけど今日は一緒じゃないのね」

 にこやかに言って、夕香さんはカウンターから出てきた。

「えぇ。今日はコッチが先約だったんで。莉徒と史織さん、何しにきてたんですか?」

「史織さんがギター買いに来たのよ。莉徒が貸してたレスポール派手にぶっ壊したみたいだから、もう代用がなくなっちゃったんじゃないの?」

 ぶっ壊したって……。壊れたんじゃなくて壊したんだとしたら、流石にテレキャスターも貸す気にはならなくて、復帰するなら史織さんのギターをちゃんと買おうということにでもなったのかな。それにしても普通に扱っていれば修理レベルの壊し方なんてしないはずだけれど。

「そういやさっきギターケース持ってたなあいつ」

「そうなんだ。史織さん、ドジッ子っぽいもんなぁ……」

 もしかしたら転んだか何かして壊しちゃったのかもしれない。

「で?そっちの美朝ちゃんは何をお求めかしら?」

 にっこりと美朝ちゃんに笑顔を向ける夕香さん。

「大丈夫、怖くない」

 どこかの谷の姫が小動物に言い聞かせるような口調で英介は言った。

「英介……」

「なんで!怖くないっつったじゃん!」

 どうしてにこやかにしてくれている夕香さんを前にそう余計なことを言うのだろう。本当に英介は勉強はできてもとてつもなく阿呆だ。

「大丈夫、見ての通り超美人で優しい人だよ。ミス・パーフェクト。フォータイムスチャンピオンだから」

「それはミスター・パーフェクトじゃ……」

「キーボード始めたいらしいっす」

 わたしと美朝ちゃんのやり取りを他所に英介は勝手に話を進めた。ぐぬぅ、いつもならそれはわたしの役目なのに。

「ほほぅ。最初にこの店に来たのはお目が高いわね。うちレッスンもやってるし」

「え、マジで?」

「あんたね……。そこかしこに貼ってあるでしょうが」

 びしびし、とあちこちのカベに下がっている掲示板を夕香さんが指さした。メンバー募集の張り紙のほかに、ドラムレッスンやギターレッスン、ピアノレッスンなどのチラシも張ってある。

「おぉ、ホントだ……」

「英介もギター習えば?」

 英介は巧いと思うけれど、やっぱり色々な面で雑なところが多い。わたしが巧い訳ではない。わたしはただ単にコードの押さえ方やコードチェンジに関しては極力丁寧にやるように心掛けているだけの話だから、その心掛け一つで英介はまだまだ巧くなると思う。

「金が勿体ねー。それにまだ独学でも伸びる。……はずだ」

「キーボードの初心者ねぇー。まぁ色々あるから好みのものを見つけるまでは安いのでやってみるのが良いかもね。ピアノ経験は?」

 英介の展望の話をまるで無視して夕香さんは美朝ちゃんに訊いた。

「ないです」

「全くの素人だって」

「なるほどね。じゃあとりあえず中古の安いやつとか、色々見繕ってみよっか」

「は、はい」

 いよいよ楽器とのご対面だ。わたしは初めてギターを買ったとき、元々ギターを弾いている父と一緒に行ったので、殆どお任せで買ってしまった。けれど、今日は美朝ちゃんにそういう人はいない。わたしたちはバンド経験者ではあるけれど、キーボードに関してはほぼ無知に近い。

「予算は?ていうかシンセ?キーボード?鍵盤の数は?」

「ちょ、まっ、まず、その違いから!」

 夕香さんが美朝ちゃんにぐいぐい行くので、慌てて私と英介が間に入る。

「あそっか、まずそっからね」

「ハ、ハイ、おねがいします」

「んじゃこっちおいで」

 そう言うと、夕香さんはシンセサイザー、キーボードコーナーへと移動した。


「まずキーボードってのはこれね。見ての通り、鍵盤楽器」

「え、シンセだって鍵ば」

「だまらっしゃい!」

「……」

「ばか……」

 なんで夕香さんが説明をしている時に横から口出しするかな。

「で、このパネルのとこ、いっぱいボタンあるけど、これを色々操作して、この中に記録されてる、色んな音を使って演奏するの。ピアノっぽい音とかストリングスっぽい音とか。カンタンなリズム打ちならドラムの音も出るわよ」

 ぽんぽん、と手に取ったキーボードのアチコチを指差して説明をしてくれる。今のところ判りやすい。

「ほほう」

「つまり、この中に記録されている音でしか演奏はできないってこと」

「ふむふむ」

 その様相ならマルチエフェクターと似ている。マルチエフェクターはギターがないと音が出ないけれど、あ、そうか、その代わりに鍵盤があるのか。

「で、シンセ。シンセは音を創ったりプログラムしたりすることができるの。例えば、ピアノやギターの音ってのは、一度弾くとサスティーンがあって、いずれ音は消えるわね?」

「減衰ですね」

 ギターやベース、それにピアノ。アナログ楽器のすべては音の振動が音色になる。その振動は与え続けなければどんどんと弱くなり、いずれは消えてしまう。

「そそ。そういう減衰率とかもプログラミングできるのよ。音が発生して何秒後に消えて行く、とかね」

 なるほど。少し判ってきた。エレクトーンとは少し勝手は違うだろうけれど、プログラム次第で様々な楽器をカバーすることもできるんだ。

「うえぇー。急に難しい話になってきたな……」

 英介は渋面を作っている。以前はマルチエフェクターを持ってたくせに音創りで苦戦する人だからなぁ……。

「てことはオリジナルの音色を作ったりもできる」

「そう!」

 わたしが言うと、び、と夕香さんはわたしを指差した。

「えと、美朝ちゃん、判る?」

「う、うん、一応……」

「あとはコンピュータで音楽を作る時に、何小節の何拍にこの音、とかのプログラムもできるの」

 なるほど。それが所謂。

「打ち込み、ってやつですね」

「そうそう」

 いろいろなことをプログラムして、欲しい場所に欲しい音色で欲しいエフェクトをかけることができたりもするという訳だ。わたし達ギタリストが転調するときにばっちんばっちんエフェクターを踏み替えたり、などということは、シンセサイザーではありえないということだ。……多分。

「なるほど。違いは理解できました」

 キーボードとシンセサイザーはきっと用途もプレイヤーも同じでもあるし、違う場合もあるのだろう。

 純粋なピアニストがピアノの音だけ出せれば良い、となると恐らくキーボードやエレキピアノが選ばれる。だけれどバンド者やデスクトップミュージックをやっている人は音色を創ったり、キーボードだけではできないことをしたいからシンセサイザーを使うのだろう。

「つまり、シンセってのは音を合成、つまりシンセサイズするものであって、そもそも鍵盤楽器ではないのよ」

「え、でもさ……」

 わたしも確かにそう思ったけれど。判ってしまった。

「そ。さっきえーちゃんが言いかけたけど、創った音を手っ取り早く鳴らしたいってなったら、じゃあ鍵盤で鳴らそうってのが一番カンタンだったって訳ね」

「なるほどなぁ」

「だから、厳密にシンセサイザーって言ったら鍵盤がついてないシンセサイザーもあるのよ」

「へぇー!」

 なるほど。元々は旋律を奏でる楽器ではなかった、つまり、本当にマルチエフェクターと同じような役割もあったんだ。

「そっか、したっけ初心者はシンセよりもキーボードの方がいいと」

「なるほど」

 色々やれることが多いとそれだけで情報過多で嫌になってしまうかもしれない。

「まぁそうとも言い切れないんだけどね」

「え、何ですか?」

 苦笑して夕香さんは言う。今までの説明だと、あまり機能的にややこしくないシンプルなキーボードを買った方が良いように思えたけれど。

「美朝ちゃんは予算はどのくらいなの?」

「えと、とりあえず二十万くらいまでなら何とか……」

「二十万!」

 なんというお金持ち……。い、いやわたしだって今まで楽器とか買わなかったらそれくらいは持っていた。

「中古ならTRITONのEXTREMEエクストリームだって八万もあれば結構状態いいの買えるわよ……」

「むぅ、高いのか安いのかも判らない……」

 ただスタジオにあるのはTRITONだという話は何度か聴いたことがあるので、それならば多くのスタジオにあるものと同じものの方が良いのではないだろうか。

「まぁギターと一緒でシンセもピンキリだし、金額だけで良し悪しは図れないわ。TRITONならプロでも使ってるしね」

「八万くらいのもんでもプロ仕様でいけんだ」

「八万ったって中古でね。定価だったら倍はするわよ」

 その辺の感覚はギターと似ているかもしれない。プロが使用しているのでも二〇万程度のものもたくさんある。

「なるほど……。それにしたって十六万くらいでいけるんすね」

 高ければ高いほど良いものではあるのだろうけれど、それが好みのものであるとは限らない。ただ楽器としてあまりにも安すぎるものは好み以前の問題でもあるのだけれど。

「まぁそうね。それで、今言ったTRITONってのはシンセ。キーボードもシンセもピンキリだからどっちも良し悪しはあると思うし。初心者だから最初は安いのを買うっていうのもアリなんだけど、でも本当に続けられるんだったら、最初にある程度いいものを買うのも手ね」

「なるほど。せっかく高いの買ったんだし、辞めたらもったいない、ってぇ作用も働くだろうしな」

 わたしのセミ・アコースティックギターがそうだったのかもしれない。父がいくらか出してくれる、と言ったのだけれど、全部自分のお金で買った。でも本当にギターと歌が楽しかったから、飽きることも無くきちんと続けられている。せっかく高い楽器買ったんだし、辞めちゃうともったいないかな、という気持ちは一度も湧いたことはなかった。

「そうね。今は上を見たら六〇万、七〇万するのも当たり前にあるけど、それはもうホントにプロ仕様だし、それこそプロがメイン級で使うやつよ。そこいらのそこそこの社会人バンドでもなかなか六〇万クラスのを持ってるヤツなんてあんまりいないけどね」

 わたしたち学生バンドレベルでもそれは同じだ。中には四〇万、五〇万する楽器を持っている人もいるけれど、殆どは一〇万円に満たない楽器でバンドをやっているものが殆どだ。高校生になってからアルバイトを始めて、少し高い楽器に手を出せるようになるけれど、その辺りはやはり社会人バンドの方々には適わない。とは言っても社会人バンドでもお手頃の楽器で演奏をしている人も多い。何でもかんでも一概に値段だけで決め付けることはできないものだ。

「でもピンキリなのは判りますけど、だったら初心者にはどれくらいが良いんですか?」

「まぁ金額的にはさっき言ったTRITON……の中古、なら……」

 なんだか急に夕香さんの言葉の歯切れが悪くなる。夕香さんにしては珍しい。

「ま、まぁあたしは風潮的に歓迎はしない……けど。風潮的にね!」

 流行り廃りなどがあるのだろうか。全く無いとは思わないけれど、お店の人が薦めないなんてよほどのことだ。

「な、何でですか?」

「ご、極個人的な理由で……」

 視線を泳がせて夕香さんは言った。何のことだかさっぱり判らない上に、夕香さんの言っていることが滅茶苦茶だ。

「え、個人的?」

「今風潮って……」

「や!あたしはいいのよ別に!sty-xの千織ちおりさんも確か三台並べてるうちの一台で使ってるしね!でもsty-xよりももっとこう、そう、邪魔な!しかもアレなヤツがあるのよ!どうせそっから食いついたんでしょ?みたいなのが!あたしはそれが嫌なの!特に黒で七六鍵なんて最悪だわ!」

「な、なんだか判んねぇけど、落ち着いてくださいよ夕香さん!」

 いきなり喚き出した夕香さんを、英介が慌ててフォローする。夕香さんの怒りの源は正直なんのことだかさっぱり判らないままだ。

「アレのおかげでGibsonギブソンレスポールのチェリー・サンバーストとかFENDERフェンダームスタングとかJB62のスリートーンサンバースト、しかもあろうことかレフティよ!そら確かに売れはしたけど、今度は中古が大量入荷よ!バカじゃないの!レフティなんてホントに必要な人以外に売れないっつぅのにそれをカッコだけでレフティ、しかも本物のFENDERなんて買いやがって!一時的な流行りに楽器なんてやれもしない連中がコスプレのために食いつくからこんなことになんのよ!レギュラーならまだしもレフティなんて一体どうしてくれんのよ!そりゃ廉価版だって出たけど、あんなくっだらないもんこの夕香さんのお店に置く訳にいかないでっしょうが!」

 何だか判らないけれど、とにかく商店街きっての美人若奥様が烈火の如くお怒りでいらっしゃる。この怒りっぷりから察するに相当な思いをしたのだろう。

「お、お、おちついて!」

「夕香さん!」

 わたしも美朝ちゃんも口々に言って夕香さんをなだめる。さっき美朝ちゃんに怖くない、と言ったのに怖さ爆発だ。どうしよう。

「はっ!と、とにかく、TRITONの、特にEXTREMEは良い楽器だけれども!オススメできないの!超!個人的に!」

 支離滅裂もいいところだ。さっき「あたしはいいのよ」って言ってたのに……。とは口が裂けても言えない。

「わ、判った!判りましたから!じゃあYAMAHAヤマハとかでもいっすよ!」

「ちょ、ちょっと待って!」

 勝手に英介がメーカーを決めようとするので慌ててストップをかける。もうなんだか忙しい。キーボードを買うのってこんなにも大変だとは知らなかった。あれ、シンセ?

「個人的にはKOLGコルグよりYAMAHAよりRolandローランドね」

 ころり、とずっこけそうになるほど態度を急転させて夕香さんは言った。

「俺らはもうさっぱりだが……」

「あんたはGibsonでも鳴らしてればいいわよ」

 き、と夕香さんは英介を一睨み。

「客に対して……」

「あんたは何も買わないでしょ!」

「あー!ピック買う!ピック買いますよ!百円だからって客扱いしないとかないですよね!」

 あぁ、また始まった。もうちっとも話が進まない。このままでは美朝ちゃんに申し訳ない。

「じゃあ行ってらっしゃい」

「……」

「なんで夕香さんに勝てるなんて思っちゃったの?」

 言い争いで夕香さんに勝てる訳がないのに何故挑んだのだろう。我が彼氏ながら愚の骨頂だ。

「全くだ……」

「あ、あの……」

「わぁ、ご、ごめんね、美朝ちゃん……」

 完全に置いてけぼりを食らった美朝ちゃんがおずおずと口を開く。確かに、初めてきたお店でこんなやり取りをされたらたまったもんじゃない。

「ともかく、まぁ美朝ちゃんが何が欲しい、とかではない限りは、あたし的にはRolandオススメ。Junoジュノシリーズなんかは初心者に結構売れてるからね」

 そう言って夕香さんはぽんと一台のキーボードに手を置いた。

「そのJunoっていうのはキーボードなんですか?」

「シンセよ」

 ふぅむ。初心者だとシンセサイザーの音創りなどは一切手をつけられないだろうと思うけれど、ある程度熟達してくると、必要になるかもしれない。その時にあれば使えるものだ。

「そういえば涼子さんってピアノやるって聞いたんですけど、シンセは持ってないんですか?」

 わたしはまだ涼子さんの演奏を聞いたことが無いけれど、相当な腕前らしいという話だけは聞いたことがある。

「あの子はRolandのfantomファントムって三〇万以上するやつ一台持ってるわよ」

「参考にならんな……」

「確かに」

 夕香さんの言葉を借りれば三〇万ともなれば充分プロで使えるレベルの楽器だろう。これから始めようという美朝ちゃんの楽器を買うのにはあまり参考にはならない。

「まぁヤツはEXTREMEも持ってるけどね……」

 ぼそり、と夕香さんが言ったけれど、聞き取れなかった。

「え?」

「んんっ!まぁレッスンでお金かけるのもあれだから涼子に少し教わるのも良いかもね」

 ぼそりと言った言葉とわたしの疑問を完全に無視して夕香さんは少しだけ声を高くした。

「え、教えられるくらい巧いんすか」

 英介も涼子さんの演奏は聞いたことが無いらしい。確かにお店の中には楽器はないし、お店の定休日に弾いているのだろう。わたしも涼子さんの娘さんのみふゆちゃんに聞いた話だ。

「そら三〇万の楽器使いこなしてんのよ。先生とまでは行かないにしてもバンドでやれるくらいになるまでは教えられるわよ」

「なるほど……」

 それに涼子さんだったらちゃんとお願いも聴いてくれそうな気がしてしまう。

「つーかレッスンもこの店の儲けになるんじゃないんすか?」

「涼子からだってスタジオの使用料くらいはちゃんと貰ってるわよ。それにね、ウチは普通の企業じゃないんだから営利だけ追い求めてたら商売はできないの」

「まぁ俺らも大分助けられてるもんなぁ……」

「だね……」

 夕香さんの言葉に、わたしたちは神妙に頷いた。恐らく夕香さんのこの言葉の恩恵を最も多く受けているのはわたし達だと思う。本当にこのお店は儲かっているのか、と心配になってしまうくらい、わたし達は色々と良くしてもらっている。スタジオも使い始めたばかりの頃は多少他のスタジオよりも高かったけれど、メンバーに一人でも数年間利用している人間がいれば、大分格安で利用させてくれる。夜になれば公園でストリートライブをするために公園の占用許可を取ってくれたり、そこで使う発電機、発電機の燃料などもずべて提供してくれている。基本的に赤字経営をしいている企業は監査なども入ってしまうだろうから、もちろん赤字経営ではないのだろう。

「ともかく、何にしても最初に安いのを買うつもりなら新品でも五、六万クラスので良いと思うわ。ライブでも充分使えると思うし」

 そのくらいの話であればわたしたちギタリストでもすんなりと入って行ける。

「そのJunoシリーズって中古はあるんですか?」

「確か一台だけ……。美朝ちゃん、おいで」

「は、はい」

 夕香さんはすぐとなりのブースにある中古コーナーへ歩を進める。

「ほら、あった。六一鍵だけどそんなに不便はないと思うわ」

「……中古も新品もあんま変わんないんじゃないすか?」

 流石英介。目ざとい。新品と中古品の価格があまり変わらないのだとしたら、わたしは新品を選ぶ。

「む……ホントだ。良し、じゃあ端数切り!」

「九八〇円?」

 値札を見ると四九九八〇円となっている。

「九九八〇円引きよ!何よ百円単位って!セコいわね!」

「え!マジで!」

 九〇〇〇円は恐らく端数とは言わないだろうけれども、ともかくこの値引きは凄い。

「え、でも……」

「大丈夫。この店で一番偉い人だから。社長だから」

「え、そ、そうなんですか!」

 さすがに美朝ちゃんも驚いたか。確かにこの若さで、これだけの品揃えのあるお店を一人で切り盛りしているなんて聊か信じられない。

「そうよ。全ての権限は私にあるのよ」

「す、すご……」

「これ四万円かぁ……とは言ってもやっぱり高いか安いか判らない……」

「まぁ竿物連中には判らないでしょ」

 鍵盤楽器の演奏の仕方から、楽器自体の価値から相場まで、何一つ判らないのだから、それも無理はない。それは鍵盤楽器に携わる人が判っていれば良いことだし、美朝ちゃんもこれから始めるなら徐々に覚えて行けば良いってだけのこと。正直な話をすれば、わたしはギターの相場だってあまり良く知らない。自分が買う時になったらきちんと調べれば良いのだ。その辺はもう何年もギターを弾いてきて得た知識もあるし、いろんなことの判断だってできるようになった。美朝ちゃんも演奏面で色々と楽器に触れていれば、その楽器の価値観などもきっと判ってくるはず。

「まぁでもギターに置き換えたとしたって、四九九八〇円が四万はお買い得だろ」

「確かに」

「でも今日はまだ売らない」

「え、何で!」

 またまたとんでもないことを言い出す夕香さん。

「私から涼子に言っておくから、今度一緒にうちにおいで。んで、涼子に少し教えてもらって。そこで美朝ちゃんがホントにシンセを楽しめそうだと思えたら、売ってあげる」

 なるほど。ただ楽器を売るだけが仕事じゃないんだ。もちろん夕香さんの人柄があってこそなのだけれど、なんだかとても素敵なお仕事だな。莉徒はここでアルバイトを始めたみたいだし、わたしも一緒にやろうかな。

「さぁっすが夕香さん。優しいなぁ」

 その楽器が合うかどうか、続くかどうか、好きになれるかどうか。それは個人の気持ちもあるだろうし、資質もある。資質と言っても、シンセサイザーやキーボードを奏でるための才能があるかどうかという資質ではない。本当にその楽器を楽しんで、向上心を持てるかどうか、という資質。つまり好きになれるかどうか、という一番大切な部分だ。

「あんたらの友達でしょ。あんたらには色々贔屓にしてもらってるからね。ちょっと遠出して大型店行っても良いのにうちで色々買ってくれるじゃない」

 大型店の方が確かに色々少し安いし、品揃えだって豊富だということもあるのかもしれないけれど、往復の電車賃を考えると、そのアドバンテージもあまり意味がなくなってしまう。

「だってよ、アサ。良かったなぁ店の前で俺らに会っといて」

 大したこともしてないのに何故か英介が大威張り。

「だね。ありがと、樋村君、夕衣ちゃん」

 美朝ちゃんに感謝されるのは嬉しいけれど、本当にわたし達はただの通りすがりだ。

「無計画のデートも良いもんだろ」

「結果的にね」

 それでもこんな風に人に感謝されることもあるのだから、不思議なものだ。

「うし、じゃあこのまま涼子さんとこ行くか。アサは時間あんのか?」

「うん。でも二人はデート中でしょ?」

 カップルと一人、という微妙な機微に触れつつ美朝ちゃんは言う。本当に色々なことに敏感だし、気遣いが巧い。

「じゃあ英介は帰らせるから二人で行こ」

「何でだよ!俺だってアサとちょっとくらい仲良くなったっていいだろ!」

 可愛い女の子と仲良くなりたい、と思うのは至極当たり前のことだと思うけれど、何故だか英介が言うと、いやらしく感じてしまう。これ、もしかして焼きもちかしら……。

「高校の時はあんまり喋ったことないもんね」

「え、そうだっけ?」

 意外そうな顔で英介が言った。英介や莉徒、わたしが携わったライブには何度か来てくれたりもしたけれど、そういう場では感謝と挨拶の言葉くらいで、あまりゆっくりとは話さないものだし。

「うん。莉徒と樋村君が付き合ってた時、ほんのちょっとだけ」

「わたしがここに来る前じゃない」

「そうだなぁ」

 それも随分前のことだ。英介と莉徒が付き合ったのは高校一年生の頃だったというので、わたしがこの街に来た時よりもさらに二年遡る。

「じゃあ二人のお邪魔じゃなかったら行こうかな」

「よしきた!」

 何がそんなに嬉しいのか、英介は満面の笑みだ。

「じゃあ私は涼子に電話しとくわね」

「すみません、夕香さん」

 一連のやり取りを見ていた夕香さんがそう言って、入り口近くのカウンターへと戻って行く。

「いいえ。そうだ。ついでに言っとくけど、美朝ちゃん」

「はい」

 くるりと振り返って、ぴん、と美朝ちゃんを指差して。

「流されないで、自分の意思でね」

「あ、はい、判りました」

 美朝ちゃんはそう言ってぺこりと頭を下げた。

「そういや今日は諒さんはいないんすか?」

「地下の掃除させてるわよ」

-P.S.Y-サイのドラマー……」

GRAMグラムの社長……」

「-P.S.Y-のドラマー、GRAMの社長の前に私の旦那だからね。暇な時くらい愛する最愛の妻の店の手伝いくらいするのは当然でしょ」

 愛する最愛の妻って……。でもわたしもこのお店ではアルバイトをしたことがあるけれど、本当に忙しいときの夕香さんは正直人使いが荒い。もちろんその間、夕香さん自身も忙しくしているので仕方が無いのだけれども。

「楽?」

「じゃねぇかもなぁ……」

 ここに来る前の話をぶり返して英介に振ってみる。

「ん?」

「何でもねっす」

 話の内容がばれたらあとで大目玉を食らいそうだ。

「そ。じゃあ美朝ちゃん、また来てね」

「はい!」

「えーちゃんはちゃあんとピック買ってってね」

 あぁ、覚えてた。流石夕香さん。百円でも見逃してくれない。

「へぇい……」

「じゃあ夕香さん、また」

「まいどありー」

 夕香さんと一緒に入り口まで戻ると、夕香さんに頭を下げて、わたし達はvultureを目指そうとした。が、その場でくるりと体の向きを変えた。わたし偉い。良く思い出した。

「いらっしゃ……何よ騒々しいわね」

 夕香さんが嘆息交じりにそう言ったのを背に、わたしは弦売り場まで小走りに向かった。

「わたし弦買いにきたんでした!」


 07:チェリー 終り

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