06:苺ジャム

 二〇〇七年四月二〇日 金曜日

 七本槍ななほんやり市内 柚机ゆずき


「たぁだぁいまぁ~」

 家にたどり着いた頃にはヘロヘロだった。受験勉強を始めた頃から大学が始まるまでの間、アルバイトは全部辞めてしまったのだけれど、夕香ゆうかさんが今日から雇ってくれたのだ。しかも大学生になったということで少し時給も上げてくれた。あそこの収益構造は一体どうなっているのだろうかと思うけれど、バイト代を上げてくれるのはこちらとしても願ったりだ。アルバイト風情が経営戦略に対して突っ込んだことを言ってしまってバイト代を下げられてはたまらない。触らぬ大明神に祟りなし、だ。

「おぅ、おかえりー」

 居間から逢太おうたが声をかけてきた。逢太も昨日からアルバイトを始めたはすだけれど、夕香さんの店ほど忙しくはないのだろう。もう帰ってきて居間でテレビを見ているとは悠長な奴め。

「あれ、史織しおりは?」

「リハ」

 sty-xステュクスのか。そう言えば朝そんなことを言っていた。今日はEpiphoneエピフォンのレスポールカスタムを持って行ったけど、正直プロが使うのに耐えるかどうか不安ではある。もちろん良いギターではあるけれど、それはあくまでも私ら学生バンドや社会人バンドクラスのギタリストが使うレベルでの話だ。史織がsty-xで使うとなるとやはり不安は残る。

「あのさー、逢太的にどうなの?」

 私はもうすでに是非も何もないけれど、結構ショックだったのは間違いなかった。どういう意味でショックなのかも実は良く判ってなかったから、もはやどうでも良いことにまでなってしまったような気がする。史織が有名人というか、女性ロックバンドの先駆者と言っても良いほどの凄い人だったことが嬉しくもあったし、それを今の今まで隠されていたのが悔しい気持ちもある。史織から直接打ち明けられて一週間が過ぎたけれど、逢太はどういう風にそれを受け止めたのだろう。

「え、史織がプロだったって話?」

「そ」

「別にいんじゃん?オレらの周り、sty-xなんてあー名前は知ってる、って程度だし、うちの母親がsty-xのギタリストなんだぜ、とか言わねぇ限りはそんな大騒ぎにはなんねぇだろ」

「それもそっか」

 前に先輩後輩と色々と話していた時、流行ものを共感できるのは三歳差までだよね、なんて話をしたことがある。私らの間でも別にsty-xは超有名バンドだったというだけで、心酔している人は数名しかいなかったから、逢太たちの世代でもそれは同じなのかもしれない。

「何?姉ちゃんはヤなの?」

「や、そういう訳じゃないんだけどさ、聴いた瞬間はちょっと驚きを隠せなかったね」

 あの大人しくて可愛らしい史織がLAメタルをやっていたなんて。

「まぁあのルックスはオレもどうかと思うけど、流石に復活してもあのカッコはねぇだろー」

「そう願いたいもんね」

 逢太の苦笑に私も苦笑を返す。私も年の割には少し達観しているところはあるけれど、逢太は私以上だ。付き合っていた頃の英介に少し似ているけれど、付き合っていた頃の英介がこれくらい達観していたらもう少し長く続いていたかもしれない。ま、結局は別れたと思うし、未練は欠片も残っていないけど。

「つーかメシねんだけど」

「え、まじで」

「だって史織帰ってくんの十時くらいだぜ」

 さっき電話あった、と言いながら逢太はソファーにごろりと寝転がった。時計を見る。まだ八時だ。流石に労働後の体で一〇時まで何も食べられないのはきつい。

「まじでか!博史ひろしは?」

「今日も遅くなるかもだって」

「えー……」

 何か買ってきてもらおうかとも思ったけれど、博史が遅くなるという時は大体帰宅時間が0時過をぎる。

莉徒りずなんか作ってよ」

「……いいけど手伝いなさいよ」

 特別料理が得意な訳ではないけれど、何も作れない訳じゃない。ただ彼氏ができたとして、私の手料理食べて、とは言えない腕前だ。逢太は全く料理はできないから多少見栄えが悪くても文句は言わない。そういうのは偉いところだなぁと思うし、作る側としても気分が楽だ。

「判ったよ」

 我が弟ながら良くできたやつだ。とはいっても米磨ぎくらいしかやらせることないけど。


「あ、莉徒ちゃんたらいまぁ」

「……」

 部屋でまたsty-xの動画を見てしまっていた。やはりあの技術の高さには嫉妬を禁じえない。私だって速弾きやライトハンド、スウィープはやろうと思えばできる。でも失敗することもあるし、普段からそういう音楽をやっている訳ではないから、いざやる時になるとしばらくリハビリが必要だったりもする。

 いくつかsty-xのライブ動画を見た後、トイレに行こうと部屋を出て階段を下りかけたところで史織が帰ってきた。完全に酔っている。家では少ししかお酒を呑まない史織だけれど、呑めない訳ではない。何度かは一緒に呑んだことがある。

「あっ」

 小さな悲鳴と共に史織がコケた。ごん、という物凄い音が鳴り、ついでばたーん、とギターケースが倒れた。

「ぎゃー!私のレスポール!」

 だだだ、と階段を駆け下りて私はコケた史織よりも投げ出されたギターケースを拾う。

「あ、ご、ごめんね、ひっく」

 コケたまま起き上がる様子もなく、視線を巡らせることもなく、ただこけたままのうつ伏せで、のポーズで史織は明るく言う。

 だ、大丈夫だろうか……。とりあえずギターケースを史織から離した所に置いて、史織を起き上がらせようと脇から肩を入れる。

「お酒くさい!逢太!おーたぁ!」

 今までこんなに酔った史織を見たことがなかった。ついこの間も結構酔ってはいたけれど、ここまで酷くなかった気がする。私と呑んだ時でも酔うまでは呑んでいなかったのだろう。

「んふー」

「よし、まずは靴を脱ごう。史織?史織?」

 聞こえているのかどうか判らなかったけれど、とりあえず玄関に史織を座らせる。

「うん」

 お酒臭い息を吐き出して、ものすんごい笑顔で史織はスカートを脱ぎだした。

「ちがぁーう!逢太ぁー!」

 だめだ。私だけではもう手に負えない。ここは男手が必要だ。

「なんだようっせぇなー!」

「史織がくたばってる!」

 二階の踊り場から顔を出した逢太が史織の姿を見て心底嫌そうな顔を作る。私だって嫌だぞ。

「えぇ……」

「わー、おーちゃんたらいまぁ」

 明らかに気が進まない感じで階段を下りてくる逢太に史織は言った。私はとりあえず史織が脱ぎかけたスカートは放っておいて、靴を脱がしにかかる。

「ちょ!これ私の靴じゃん!」

「だってかわいかったんだもん」

「……」

 今日も少しお洒落な格好をしている。こんな洋服も持ってたんだ。史織と私の背格好はほぼ同じだ。私の胸が小さいのだってこの女の遺伝だ。畜生。そんな訳で今日は私の靴を勝手に履いて行ったのだろう。私の部屋着もたまに勝手に着てるし。まぁ史織は可愛いんだからもう少しこんなお洒落な格好をした方が良い。今度一緒に買い物にでも行くか。

「うぅわ酒くせ!史織ってこんな酒呑む人だっけ?」

「呑むよー。結構いけるよー」

 えへへー、と笑顔になる。血色は良いから吐く、とかはなさそうだ。

「もしかして、今まで色々抑えすぎてた反動が出たんじゃねぇ?」

「……ありえる、かも」

 もしかしたら史織はずっとバンドをやりたかったのかもしれない。ずっとギターを弾きたかったのかもしれない。私は中学、高校とかなり好き勝手にやらせてもらったし、これからだってまだしばらくは好き勝手する気でいたけれど、それは史織がずっと私たちのママでいてくれたからなんだ。一人の頃は、獅子倉史織だった頃は、博史とデートしたり、好きなバンドをやったり、色んなことができていたのに。一人の男の妻になり、すぐに私が生まれて母になり、バンドを抜けた。他のメンバーは皆音楽の仕事をしていたけれど、史織はそれから殆ど音楽に携わらずに、博史の妻であり続け、私たちの母であり続けたんだ。

「ちょうねむぅいぃー」

 ごろり、と仰向けに寝転がると、脱ぎかけたスカートのファスナーから下着が見え隠れする。私は一旦スカートのファスナーを上げると史織を何とか立たせようと腕を引っ張る。

「寝るのは構わないからとりあえず寝室まで移動!」

 重い。私と似たような体重しかないくせに本気で脱力した人間の体はこうも重たいものか。

「もう立てなぁい」

「逢太」

「またオレェ?」

「柚机家で一番体のでかいあんたの仕事」

 逢太はどういう訳か博史よりも成長してしまった。博史も一六九センチメートルと長身だけれど、逢太は高校一年で身長が一七二センチメートルもある。爺ちゃんは背がでかいので隔世遺伝とかいうやつのおかげもあるのだろう。何故娘の私にそれは受け継がれなかった。

「わぁかったよぉ」

「わぁいおーちゃん大好きー」

 史織の両脇に腕を入れて起き上がらせるとそのまま逢太に抱きつくように史織は全体重を逢太に預けた。

「やめれ!逢太がマザコンになる!」

「今更なるか!」

 そうは言うものの史織は可愛いし、こいつは思春期だ。近親相姦とかいう家庭崩壊レベルで洒落にならないことにはならないと思うけれども、できることなら辞めていただきたい。

「でも史織可愛いでしょ?」

「まぁ、この年にしちゃ可愛いと思う」

「やん、おーちゃんったら」

 頬に手を当てて史織が言う。だからそういうのは辞めなさい。

「この女……」

「おーちゃん、娘が母をこの女扱いする……」

 はう、と言いながらわざとらしくため息をつく。お酒臭い。どんだけ呑んだんだ。

「おーちゃんて言うな……」

「逢太くん」

 中学に上がった位から逢太はおーちゃんと呼ばれるのを嫌っている。私が呼ぼうものならガン無視を決め込むほどに。

「きゅんとなるな!」

「なってねぇだろうが!」

 まぁ実の母親にきゅんとする方がどうかしてるので、完全に嘘だけども。

「トイレ」

「え」

 いきなり史織の真剣な声がハッキリと聞こえた。体勢はそのまま逢太に全体重を預けているけど、顔だけこちらに向けて真顔で史織は訴えている。ついさっきまで血色の良かった顔色が今は土気色をしている。いくらなんでも急すぎる。

「……ね、おトイレ。やばい。史織やばい」

「い、急いで!」

「おう!」

 逢太はもはや自分で歩く気のない史織をずるずると引きずってトイレへ直行。これで本当に四四歳か。いい加減にしてくれ。

「あ……」

 私もトイレに行きたくて部屋から出たのに!


「ただいまぁ」

「ひろーしっ!」

 私は逢太と一緒に居間に陣取って見るでもなくテレビを見ていた。予想外に博史は早く帰ってきた。遅くなるときは〇時を回ることなんてざらにあるのに、今日はまだ二三時を少し回ったところだ。博史の能天気な声が響くと同時に私はいきなり頓狂な声を上げる。

「うわ、な、何?」

「お帰り。今日も一日お疲れ様。晩御飯は?」

「い、一応済ませてきたけど」

「よし。それでは風呂は湧いている。迅速に入りなさい」

 晩御飯も食べていないで話をするには少々酷だとは思っていたので、食べてきているなら好都合だ。後は寝るだけ、という体勢で話し合いに挑みたい。史織の過去が暴かれてからもう一週間が過ぎているけれど、博史は仕事が忙しく昨日まで午前様続きだったので、きちんと話を聞く暇がなかったのだ。史織からはある程度の話はもう聴いているけれど、博史から聞きたい話はもちろんある。今日は金曜だし、時間はまだ〇時前だ。今日こそはきちんと訊き出そう。

「う、うん……」

 似たもの夫婦なのか、博史も結構大人しいタイプだったりする。一体私は誰に似てこんな性格になったのだろう。

「逢太、お姉ちゃんどうしたんだ?」

「まぁ今日は諦めなよ……」

 ただでさえショックなことがあったのにきちんと博史に話を聞くことができないまま一週間が過ぎ、挙句史織のあの体たらく。正直今私はちょっとイラついている。

「何?何があるの?」

「オレは博史にも責任の一旦はあると思うよ……」

 そう。史織の過去を隠していたことにどんな意図があったのか、きちんと聞きたい。きっと単純に隠していただけではないはずなのだから。

「な、なにそれ、脅し?」

「違う。いいから風呂入って、莉徒の話聞いて」

「う、うん」


「……」

「逢太、娘が怖い。父にガンくれてる……」

 風呂から上がって寝巻きを着た博史に私は視線を投げる。いや正確にはガン飛ばしてる。

「ちょっとね博史」

「は、はい」

 私と逢太が座るソファーの対面のソファーを指差して、座れ、と指示する。

「私たちに、長年黙ってたこと、あるでしょ」

「……?」

 私の言葉に博史はいきなり首を横にくき、と折った。

「とぼけないで!」

「莉徒声がでかい。史織が起きる」

「起きる訳ないじゃん。あのまま朝まで爆睡だよ」

 そうは思うけれど万が一起きて来られたら今この時点ではスーパー迷惑だ。ここは素直に逢太の言うことを聞いておこう。

「長年黙ってたことかぁ……。どれだろうなぁ」

「そんないっぱいある訳?」

 憮然として腕を組むと私は言った。

「え、じゃあ言うけど、莉徒だって逢太だって僕らに言えないヒミツの一つや二つ、あるんじゃないの?」

「う、ま、まぁ、それは……」

 痛いところをついてくる。正直な話、つい最近までの私の男遍歴はちょっと普通の女子高生を逸脱していた。とっかえひっかえ、と言われても仕方ないくらいに。その辺の話は全く家族には話していなかったので、そう言われてしまうとマトモに返す言葉を失ってしまう。

「お互い様だね」

「お互い様じゃなぁい!あ、そうだ。博史、卒アル見せてよ。高校時代の」

 史織のヤンキー時代の写真を確認しなくては。

「だめ」

「なんで?理由も何もなしに納得はできないわね」

「若気の至りは見られたくないもんだよ。例えそれが愛娘のお願いでもね」

 まぁ、気持ちは判らないでもない。私も中学時代の卒業アルバムはちょっと人には見せたくない。

「でもそれが解決しないと、逢太がマザコンになる」

 大嘘をついてやる。

「えぇ!」

「な、なんねーよ!」

 博史の誤解を招くのには大変良い狼狽えっぷりだ。

「実の母を性的な目で見る息子」

「逢太!そ、そうなのか!」

 博史にとっては四四歳であの可愛らしさを保っている史織は自慢の嫁だ。涼子りょうこさんほどではないにしろ、私の服を着せれば二〇代に見せることは充分可能だ。そんな可愛らしい母に息子がときめいても、と博史は思い込んだだろうか。

「んな訳ねーだろ!」

「じゃああんたの部屋にあった『実録!悶絶誘惑濡れた義母』とかいうエロDVDはなんなのよ!」

 近親相姦、ロリ母さんは僕の言いなり下僕だっけ?と本当に探せばありそうなタイトルっぽい言葉を適当に垂れ流す。

「ひぃっ!」

 超大嘘だけど、博史は信じたようだ。いきなりソファーから立ち上がって居間を出ると階段を駆け上がる音が聞こえた。

「ねぇよそんなもん!待て博史、つーか信じんな親父!聞けよ!人の話を!」

「つーか惠子けいこいるのにねぇ……」

 博史だって何度か写真は見ているはずなのに。逢太は惠子と付き合う前までは、それはそれはやれ夕衣ゆいを紹介しろだの美朝みあさを紹介しろだの瑞葉みずはを紹介しろだのと、私の親友の名前を片っ端から挙げていた。

 確かに三人とも、そこいらでは中々お目にかかれないほど可愛いから、逢太の気持ちも判らないでもないけれども。惠子も私の親友たちに勝るとも劣らないくらい可愛い。

「まったく……。責任取れよなぁ」

「ま、作戦成功ってことで」

 それに責任は果たすものだよ逢太君。博史は今頃押し入れを大捜索していることだろう。私らが押入れを開けて少し探したくらいでは見つからないところに隠してあるのだろうし。

「どこがだよ」

「今度涼子さんのコーヒー奢るから」

 憮然とした顔で逢太は言う。まぁ実の父親にあらぬ疑いをかけられてはたまらないだろうな。でも疑う前に冗談でしかないと思うんだけれども。

「惠子もな」

「う、わ、判ったわよ」

 何度か会ったことはあるけれど、惠子はかなりイイヤツだ。我が弟ながら女を見る目はあるらしい。私は男を見る目がないけれども。


「史織はどれ!」

「これです……」

 卒業アルバムを片手にどたばたと戻ってきた博史を促してページを開かせる。

「え、か、可愛い!美少女!」

 集合写真に写っていた史織は今とさして変わらない。いや、確実に今よりも若々しい、本当に美少女という言葉がぴったりな姿だった。全然ヤンキーではないのに何故卒業アルバムを見せたがらなかったのだろう。これなら充分私にも逢太にも自慢できるはずだ。

「あぁー母さん校内でもすっごい人気あったからなー」

「おかしい……」

 博史は決してブサメンではないけれど、際立ってイケメンではない。校内でも人気が高かった、と理解できるほどの美少女が何故博史なんかと付き合ったのだろうか。

「莉徒、もう訳が判らない。何なの?」

 釈然としない表情で博史が訊いてきた。

「ちょっと待って、博史はどこ」

 もう一つの可能性を見出した。史織がヤンキーではないとすると。

「……」

 博史は無言で一人の少年を指差した。

「……これさ、リーゼントって言うんだよね」

 凄い。なにかこう、頭の前?脳みそで言うと前頭葉の上のあたりの髪が出っ張ってとんがっている。いや、見たことない訳じゃない。今でも気合の入ったロカビリーバンドや、公園でロカビリーを踊ったりする革ジャン連中なんかを見ると、こういう髪型をしている人たちがいるから。

「……はい」

「貴様が元ヤンか!」

 ばん、とテーブルを叩いて私は言った。ヤンキーは史織じゃなくて博史だった。今はこんなおとなしそうにしているのに、実は心の中に一匹の獣を棲まわせていたのか。

「こら莉徒!そんな言葉遣い!」

「やかましい!」

 もう一度テーブルを叩いて私は更に続ける。史織が卒業アルバムを見せたがらなかったのは若かりし頃の博史を見せたくなかったのだ。そらそうだ。当時からLAメタルやハードロックをやっていたからと言って、高校の卒業アルバムにメタルライクな風貌をした史織が写っている訳もない。自分の旦那が見るからに不良でヤンキーで番長ですみたいな格好をしていたら誰にだって見せたくない。

「カッチカチで突き出てる!なにこの学ラン!龍とかいんの?」

 なんか長い。裾が長い。そして詰襟のカラーのところがやたら長い。そしてズボンがスーパー太い。応援団か。

「いや、父さんのは虎だった」

「まじでか……」

 がっくりを頭を下げて私はうなだれた。

「まさかとは思うけど……軽音学部」

 逢太が言ってページをめくる。各部活動の集合写真が出てくる。

「いたー!」

「博史と史織!」

 ヤンキーと美少女。何なのこの組み合わせは。

「諸悪の権化は博史だったか……」

「つーか史織は良く染まんなかったな」

 校内で有名な美少女を不良が見初めて、その美少女も不良の道を歩み始める、なんてことは良くあることだ。中学にも高校にもそういうばかは割りといた。私は素行不良ではあったけれど、いわゆる不良少女ではない。断じて。他の誰がそう言っても。何人かワル(というかばか)と付き合ったこともあったけれど、そういう道には染まっていない。

「あー、判った。母さんのバンド復活の話かぁ!」

「それだー!」

 ぽんと手を打ち合わせて博史が言い、逢太がびし、と指を指す。

「何で黙ってたのよ」

「だって母さんがすっごい嫌がってたんだもん」

「ま、まぁ判らんでもない……」

 こうなることを一番恐れて……いや恐れてって言うのは大げさすぎる。自分のバンド復活がばれるのと同時に、高校時代の話まで露見するのは確かに二人にとっては嫌なのかもしれないけれども。

「父さんはすっごいギターヘタクソでなー」

 なつかしいなぁ、何て言いながら蛍光灯を見る博史。蛍光灯には何も映らないぞ、きっと。

「練習もしないで喧嘩に明け暮れてたらそら上達もしないよね」

「まるで見てきたようなことを」

「だってこれ見てよ、喧嘩上等じゃん」

「うん」

 確か貴さんも昔やんちゃをしていた、と涼子さんが言っていたけど、こんな感じだったのだろうか。今度聞いてみよう。しかしそれにしてもここまでくれば大体大筋は読めてきた。

「で、あっという間に史織に抜かされて、史織も最初は好きな人がバンドやってるからっていう動機から、やってる内に自分が音楽にどっぷりはまりだして」

「デビューに至った、と」

 私の推理を逢太が補足する。

「父は元ヤン、母はヘビーメタル、そらまぁ子供に話したがらない、か」

「まぁ大筋は合ってるけどちょっとちがうね」

 ぴん、と人差し指を立てて博史は嬉しそうに言った。

「え」

「母さんの好きな人が父さんだったんじゃなくて、父さんが母さんにぞっこんで音楽始めたの」

「なるほど。元々史織のが巧かったんだ」

「うん」

 そっちのパターンか。言われてみれば確かにそうなのかもしれない。多分史織は男に不自由しなかったのかもしれないけれどあの性格だし、私みたいに自分から告白、とかもできなかったのかもしれない。それにこんな格好の博史だったら、恐らく史織とは逆の意味で校内では有名だったに違いない。あの柚机博史が獅子倉ししくら史織に目をつけたらしいぞ、という噂が立てば、あえて危険を冒してまで博史の恋路の邪魔をしようと思う男は少なかったのかもしれない。そして当然博史は惚れた女には優しくしただろうし、史織は今以上のスーパー天然女子だっただろうから、見た目は怖い格好をしているけれど本当はとっても優しい人、になったのだろう。

「で、色々教わっている内に恋が芽生えて」

「青春だったなぁ」

「それにしても史織みたいなのが何でばかヤンキーに……」

 もう少しこう、史織には選択肢があったのではないだろうか。私にだって結構選択肢はあった。何度かそういうばかと付き合って、二度と付き合うまい、と心に決めた。大学生活も始まってまたその辺は増えて行くかもしれないけれども、ともかく今は史織の話だ。

「父さんはこれでも勉強ができるヤンキーだったんだ」

「え、まじで?」

 そう言われてみれば博史の最終学歴は大学だ。浪人も留年もしていない、と言っていた。インテリヤンキーだったのか。そういや元彼、いや夕衣の彼氏もそんな感じだ。あいつも中学生の頃はどうしようもない不良で、ばかだったけれど、どういう訳か勉強はできた。

「うん。ギター教えてもらう代わりに勉強を教えてあげてた」

「私の頭のデキは史織の遺伝子か……」

「反骨精神は博史の遺伝子……」

 なんだかもう、妙に納得できてしまった。

「気は済んだ?」

「済んだけど、なんかもう黙ってたってのがちょっとムカついただけよ」

 ふぅ、と一息ついて私はアルバムを閉じた。あぁ、ちょっと煙草吸いたい。これも両親には打ち明けていない秘密だけれども、煙草で補導されたこともあるので、全く知らない訳ではないだろう。

「娘が怖い……」

「別に暴力とか振ってないでしょ。家族と口きかない、とかないでしょうに」

 小学生の時、情緒不安定になったことはある。多分その時の私には相当手を焼いたんじゃないか、って今は思う。口を利かなかった訳ではないけれど、あまり接触はしないようにしていた。それは家族だけではなくて、交友関係も。今の私の友達に言っても信じてもらえないだろうけれど、とにかく学校へ行くのが大嫌いだったのだ。だけれど、中学生になってから少しずつそういうものが影を潜めていって、恐らく博史の遺伝子を色濃く受け継いだ反骨精神に火が点いてしまったんだろうな。

「まぁ莉徒は優しい母さんの遺伝子を充分に受け継いでるからね」

「今になって博史と史織の娘なんだ、ってやたら実感するわよ」

 本当に優しい両親に恵まれたんだ、私は。

 今になって二人の過去を知って良かったんだ。これを知ったのが小学生の私だったらどうなっていただろう。夕衣も実は私と似た過去を持っている。恐らくは美朝も。だから私は二人が大切だし大好きなんだろうな。

「ははは。じゃあ莉徒はもう寝なさい」

「え?うん、まぁもう寝るけど」

 なんで私だけなんだろう。

「じゃあオレも」

 当然逢太も私に続こうとする。

「逢太はまだダメだ」

「あ?」

「ちょっと父さんと話をしようじゃないか」

「え……」

 ぱん、と膝を叩いて博史は険しい表情を作った。

「いいかい逢太、男は最初は誰しも母親に恋をする、なんて言うけれどね……」

 何かと思ったらその話か。嘘だよ!大嘘だよ!

「はぁ?だから信じてんじゃねぇよ!」

「え?」

 逢太の大声に気圧されたのか、博史はきょとんとして立ち上がった逢太の顔を見上げた。

「ちょっと待ってろ!」

 言って今度は博史が居間を出てどたばたと階段を上がる。惠子の写真でも持ってくるのだろう。

「……博史」

「なに?」

「やっぱあんた私の父親だわ……」

 くくく、と笑って私は博史にサムズアップ。博史は不思議顔のまま私にサムズアップを返してきたけれども。

「おらー!良く見ろ!」

 またどたばたと音を立てて逢太が居間へ戻ってきた。その手には携帯電話。

「お、惠子ちゃんじゃないか。ちゃんと大切にしてるか?」

「してるわ!ちょうしてるわ!だから断じてマザコンなんかじゃねー!」

 博史の顔に携帯電話を近付けて逢太は力説した。そらそうだ。父親に近親相姦の疑いをかけられたのではたまらない。私が悪いんだけど。

「でもさっきときめいてた」

「ときめいてねー!やめろ!博史の誤解が解けねぇだろうが!」

 ソファーの上でぼふ、と足踏みして逢太はムキになる。

「……とまぁそういう訳で、逢太はマザコンじゃないから」

「莉徒はファザコンじゃないの?」

 何の心配だ。

「んー、まぁ博史は好きだけど、性的な目ではちょっと……」

「性的って……。じゃあ彼氏は?」

「今はいないわよ」

 もう二年近くいないな。そういえば。私にしてはこれは快挙だ。でもまぁ今はまだもう少し男よりも音楽をちゃんとやりたいな。ライバルはいっぱいいるけれど、新たに史織っていう絶対に越えたい目標もできたし。

「そうかそうか、素敵な子を見つけなさい」

「男親は娘のレンアイに反対なんだとばかり思ってた」

 だから私は一度も彼氏ができたなんて言ったことはない。

「父さんはそんなことないぞ」

「あー、なるほどね。史織と結婚する時、苦労したんだ」

 母方の爺ちゃんも婆ちゃんもすごい気さくではあるけど生真面目な人だし。あんな見た目からヤンキーです、みたいな博史だったらそれはそれは苦労もしただろうなぁ。キサマなんぞに娘はやれん!みたいな。

「ん、ま、まぁそうだね。でも先に莉徒ができちゃったからね」

「デキ婚かよ!」

 それも知らなかった!またしても明かされた衝撃の事実!

「でもまぁ、そうじゃなかったら、結婚できなかったかも」

 あはは、と頭を掻いて博史は笑った。既成事実という訳か。でも史織がバンドを辞めた年が二三歳。博史も大学を卒業して社会人一年生か。となればもうヤンキールックスではなかったのだろうし、きちんと学歴もある。子供ができてしまったらやはり社会的に責任能力も問われる。

「でも今はうまくやってんじゃん」

 最近は帰っていないけど田舎に帰るときは博史が敬遠されている感じは全くしない。むしろ爺ちゃんとは凄く仲が良く見える。

「そりゃ更正したからね」

 えっへんとでも言わんばかりに博史は胸を張った。

「そっか。……じゃあ言っといてあげるよ」

「ん?」

 ちょっと恥ずかしいけれど。思えば何をそんなにムキになっていらついていたのかも実は良く判らないのだ。博史にも史織にも大声を張り上げてしまったお詫びだ。

「今まぁ彼氏はいないけどさ、すっごい幸せに毎日過ごしてるよ。博史と史織のおかげで」

 始まった大学生活も楽しいし、Ishtarはなくなっちゃったけど、夕衣と二人で新しいバンドを探すのも楽しい。Kool Lipsクールリップスはいまだに活動を続けられているし、私の今は順風満帆だ。それもこれも博史と史織が私のパパとママだったから。

「ん」

 自信満々に博史は頷いた。僕の娘なんだから幸せで当然、とでも言いたげだった。ちょっと照れくさい。

「疲れてるのにありがとね、色々聞かせてくれて。……じゃあおやすみ」

「あい、おやすみ。逢太も惠子ちゃん、大切にしろよなー」

「言われなくても、だ」

 逢太もきっと同じ思いだと思う。私が小学生だった頃、幼かった逢太にとっては、きっと私は嫌な姉だったはずだ。だけれど、姉嫌いにならないで本当に良かったな。それもきっと逢太が博史と史織の子供だからなんだろうな。

「あ、そうだ、最後に訊いとくけど、博史的には史織のバンドの再結成は賛成なのよね?」

「もちろんだよ」

「そ、ならもうなんも問題ないわね」

 博史の顔を見て判ってしまった。やっぱり史織はずっとバンドをやりたかったんだ。私たちがある程度、親の手を離れるようになるまでは我慢しようって、ずっと思っていたのかもしれない。でもsty-xのメンバーの中でただ一人、殆ど音楽の仕事に携わらなかった史織は、sty-x復活の話がなかったらどうしてたんだろう。きっとメンバーからも史織はもう専業主婦だからこっちの道に引き戻せない、とか思われていた可能性だって充分に有り得たはずだ。そして私に今回のことがばれることなく、時々私の目を盗んで一人で寂しくギターを弾いていたのかな。

 そう思うと私も俄然史織のバンド復活を応援したくなってきた。

「復活ライブはみんなで見に行こう」

「んだな」

「もっちろん!」

 私たちは三人でサムズアップして笑顔になった。博史はもちろんのこと、逢太だって、私だって、みんな史織が大好きなんだから。

「よし、じゃあ今日は家族の杯を交わして解散!」

「あらほらさっさー!」

 博史が冷蔵庫から缶ビールを一本取り出して、三つのグラスに注いだ。私たちはそれを一気飲みすると、各々寝室へと足を運んだ。明日から史織にはうんと優しくしよう。

 今まで私を幸せに育ててくれたお礼の気持ちを込めて。


 二〇〇七年四月二一日 土曜日

 七本槍市内 柚机家


「史織ー!起きてー!」

 ばんばんと寝室のドアを叩く。時間にして朝十時。充分な睡眠をとったはずだ。それに昨日散々吐いたからお酒も残っていないだろう。

「んー」

 ドア越しにくぐもった声が聞こえる。うむ、いきなり寝室のドアを開けたら親がエッチしてたなんていう最悪な風景を目にすることはなさそうだ。そのために寝室のドアは必ず強めにノック。夜にトイレに行くときはわざと足音を大きく。そんな気遣いが光る柚机莉徒、十九の春。

「開けるよー」

「んー」

 また同じ声。一応声は聞こえているらしい。

「莉徒ちゃん、史織、もう死んじゃう」

「まさか二日酔い?」

 んー、と唸りながら史織は声を絞り出した。結構辛そうだ。

「気持ち悪くはないけど頭痛い……」

 二日酔いではなさそうだ。ま、朝ごはん食べて薬飲めば納まるだろう。

「じゃあ軽くでもいいからご飯食べて、薬を飲みましょう」

「何でそんなに張り切ってるの……?」

 今日は史織と遊び倒すって決めたのよ。言わないけど。

「今日はまずショッピングに行って、EDITIONエディションvultureヴォルチャーへ行くの!」

「……え?」

 上体を起こして額を押さえつつ史織は訊いてきた。

りょうさんとたかさんのとこ!」

「あ、G'sジーズ……じゃなくて-P.S.Y-サイの?」

 ぽんと手を叩いて嬉しそうに言って、すぐに頭痛で顔をしかめる。

「二人ともすごい史織に会いたがってる。二人の奥さんも」

 史織よりより若くて可愛い奥さん二人。

「え、ママモテ期?」

「違うと思うけど、だから早く支度!」

「えー、明日にしようよぉ。多分凄い酷い顔だよぉ」

 かがみかがみ、なんて言いながら一応はベッドから降りる。隣のベッドにはまだパパが横たわって寝息を立てている。

「大丈夫、今日も史織は可愛い!昨日吐いといて正解!」

 うん、それは本当だ。顔色は全然悪くない。頭痛もどうせ変な向きで寝たせいだろう。

「えへ、莉徒ちゃんも可愛いよ」

「態々言い返さなくてよろしい。ほらさっさと歩く」

「ううぅ……」

 明日はバンド練習があるからダメなんだ。今日じゃないと。

「がまんがまん」

 ゆっくりと階段を下りると、キッチンにはすでに逢太がいた。コーヒーを入れて、トーストを焼いている。ちなみに私はもう食べた。

「おー、史織起きた?」

「あー、逢太、おはよー」

 うう、と額を押さえつつも息子への挨拶は忘れない。

「うぃー」

「何、機嫌悪いとか?」

「頭痛らしい」

 とにかく椅子を引いて座らせる。薬飲むにもとりあえず何か食べさせなくちゃいけないんだから。

「まぁ自業自得だよな」

「なんか膝も痛いよぉ」

 逢太が苦笑して言うと、史織がピンクの水玉パジャマのズボンを捲り上げて小さなひざ小僧を出した。うっわ、すっごい青たんになってる。

「わぁー、あ、あわぁーいたいぃー」

 青たんを見て痛覚が覚醒したのだろう。更に痛みが増したようで、史織は唸った。

「うわー……。昨日帰ってくるなりコケたアレじゃない?」

 その前に外で転んでいる可能性もあるけれど。

「えぇー転んだっけ?」

「あれ莉徒が寝かしたんじゃなかったのか」

「うん。勝手にコケた」

 あれ、なんかそういえばもの凄い音がした気がする。

「……まぁ史織って何もないとこでよくコケたりするしな」

「あぁっ!レスポール!」

 史織がトイレに押し込まれたり、その後博史に詰め寄ったりですっかり忘れていたけれど、昨日、史織がコケたと同時に物凄い音が鳴って、ギターがぶっ倒れたんだわ。

「え?」

「昨日コケた時にすんげぇぶつけた!そしてぶっ倒した!」

 私は慌てて自室に戻る。

「え、ほ、ほんと?」

 背中にうろたえまくった史織の声がかかる。

「ちょっと音鳴るか試してくる!逢太は史織のパン焼いて!」

「あいよぅ」

 どうか壊れてませんように。


「ぎゃあー!」

 ボディの右下、シールドケーブルの差込口がボディにめり込んで、ボディが少し割れている。オマケにフロントのピックアップにでっかいヒビが入っていて、リアピックアップがめっこり凹んでいる。弦は五弦と六弦以外全部切れてる。ヘッドの一弦、二弦、三弦のペグが明後日の方向を向き、トグルスイッチのレバーも折れてる。ひ、ひどい……。フルボッコとはまさにこのことだ。昨日玄関で倒しただけでは絶対にこうはならない。家にたどり着くまでに何度も転んでその度にぶつけてぶっ倒してきたんだわ。

 私の悲鳴じゃなくて絶叫を聞きつけて史織が階段を上がってきた。左手には苺ジャムがたっぷりのトーストを持っている。なんて緊張感のない女だ。

「し、しぉ、史織!こ、こわれたぁー!」

「えぇー!ご、ごめんね……。ど、ど、どうしようっ」

 言ってさっくりとトーストを一口かじる。本当に悪いと思ってるのかな、この人……。

「うぅわ、ひっでえ」

 史織の後ろから逢太がひょっこり顔を出す。

「とりあえず……あれ、何?事務所でギターって用意してくんないの?」

 そういえばプロって楽器買って貰えるんじゃないの?良く事務所がアンプを買ったとか、聞く話だけど。

「楽器は皆自分の持ち物だもん」

 事務所に依るのかバンドに依るのかは判らないけれども、とにかく史織たちsty-xは自前の楽器で活動をしていたようだ。

「えー!じゃあとりあえず修理に出して、その間はSCHECTERシェクター……」

「わぁ!いいの?」

 ひどい頭痛のはずの史織の表情がぱっと輝く。やっぱり密かに狙ってたんだな。その前に壊したレスポールはどうしてくれる。わざとじゃないし修理に出せば直ってくるだろうから怒りは別にないけれどもね……。

「やっぱだめ!」

 そうだ、私がsty-x復活のその日、正に使うんだった。

「えぇー。テレキャスじゃ音が細いよぉ」

 言ってくれる。私のテレキャスターはかなりイイヤツだぞ。かなりイケメンだぞ。そらSCHECTERもめちゃめちゃイケメンだけど、やる音楽によっては世界一のイケメンだぞ。

「ディストーションでも使って誤魔化しなよ」

 オーバードライブよりは細くてとんがった感じはしないだろうし。

「テレキャスにディストーションなんてえげつないよぉ」

 あぁ、なにこの会話が通じる感じ。やっぱりこの人は生粋のギタリストなんだ。

 いや、そうでなく。

「あ、つーかテレキャスもダメ!」

 そうだ。もうこれは人間としてのスペックの問題だ。史織にギターを貸すと危ない。

「えぇー!じゃあ何使ったらいいのー」

「えーじゃない!史織が壊したんだからね!」

「修理代は払うよぉ……」

 うう、と半べそになって史織は言った。多分演技だ。だってこの人まだトーストかじってる。

「それはあたりまえ!つーかなんでもないとこでよくコケる史織にギター貸したくないんだけど……」

 いくら楽器を貸し渋ったりしないとはいえ、楽器を壊す可能性が高い人には貸したくないというのが人情だ。史織は顔を上げていきなり視線を巡らせると、逢太の視線をキャッチして止まる。

「おーちゃん、ギター貸して」

 もぐもぐしながら言って、くい、と小首をかしげる。天然でそういうことをやるから怖いんだ史織は。もしも同級生にいたら絶対嫌いになってる猛禽系だよこれじゃ。狙ってやってないところが判るから別に良いんだけれども。

「おーちゃんて言うな。それにオレ一本しか持ってないし、姉ちゃんのと違って安モンだ」

 いや、きっと貸すのが嫌なだけだ。私のレスポールの惨状を見たら誰だって貸したくなくなる。それに逢太のギターは安モノとは言っても私がちゃんと付き添って選んだやつだ。それなりの音は鳴るし、アンプとエフェクターの力を上手に利用すれば充分ライブでも使って行ける。

「おーちゃん冷たい……」

 史織はがっくりと片膝をついてうなだれた。さくっとトーストをかじる音が聞こえる。

「よし判った!じゃあ修理に出すついでに史織のギター買おう!」

 昨日あれだけ博史も応援モードになってたんだから、ギターの一本や二本、買ってくれるはず。

「えー、パ、パパに訊かないと……」

「柚机家のがま口は史織が抑えてんでしょ?」

 確か史織は家計簿もちゃんとつけているはずだ。

「そ、そうだけどこういう買い物は……ねぇ」

 口元が若干緩んでる用に見えるのは私の気のせいだろうか。

「何?博史まだ寝てんの?」

 これだけギャーギャー騒いでも起きてこないって事はまだまだ寝るんだろう。夕方まで起きないなんてことはざらにある。

「みたいだな」

「よし」

 これはチャンス。


 私は自室に戻って、ICレコーダーを片手に博史と史織の寝室に入る。私の後に史織と逢太が続く。

「博史、博史、聞いて、史織が私のギター壊したぁ」

「んー」

 少し大きめの声で言う。反応はしてるな。よしよし。

「史織にギター貸すの怖いから、ママに復帰祝いってことで一本ギター買ってあげたいんだけどさ、いい?」

「んー」

 よし、これで証拠ばっちり。

「おー流石博史!男に二言はないね!」

「んー」

 よし、頂き。

「じゃあ後で史織と買いにいってくるね」

「気をつけてねぇー」

 結構意識はっきりとしてるのかなぁ。まぁギターを買って良いというお墨付きは半ば強引とはいえ取ったんだからもうどっちでもいいや。

「よし、録音完了」

「莉徒ちゃん……」

 ICレコーダーの電源を切って、寝室の扉を閉める。

「何よ、ちゃんと聞いてたでしょ」

 私は言いながら階段を下りる。史織、逢太と私の後に続く。

「でもパパ絶対覚えてないよ、これ」

 そうだとしても証拠はあるのだ。こんなものは買っちゃった者勝ちだ。

「だからこうして後で思い出させてやるのよ」

「でも、大丈夫かなぁ」

 史織が使うのなら逢太が持っているレベルのギターでは正直あんまり宜しくない。レスポールだって不安だったのだから。私のテレキャスターとかシェクターのEX-IVなら大丈夫っぽいけれど、ともかくプロが持って見劣りしないレベルのものは正直欲しい。

「史織さ、普段からアクセだってブランドモノのバッグとかだって全然欲しがんないじゃん」

 キッチンのテーブルに着くと、逢太が入れてくれたコーヒーを飲みながら私は言った。洋服も普段は地味と言うと意地悪い感じだけれど、質素な、シンプルなものばかりだし。

「だって興味ないんだもん。あ、でも莉徒ちゃんがつけてるのはたまに可愛いって思うよ」

 にへ、と顔が緩む。高級品が欲しい訳ではなくて、きちんと自分基準で可愛いと思うものを欲しがるのはやっぱり私のママなんだな、って実感する。

「私がつけてんのなんてみんなフェイクだよ」

「え、そうなんだ」

 バンドにお金かけすぎてて高級品なんか買えやしないというのが実情なんだけれども。余裕があったらそりゃ私だってカルティエとかヴァンクリーフ&アーペルとかダミアーニとかちょっと可愛いなって思うものはある。

「そ。普段全然お金かけてないんだから、ギターくらい買ったって平気だよ。昨日ちゃんとみんなで史織の復帰を応援しようって話にもなったし」

 もしこれで博史が怒ろうものなら私がバットを折る下段回し蹴りでぶっ飛ばしてやるんだから。

「えぇ!ママが寝てる間にそんなこと……」

「あぁもう話が進まない!」

 お皿に載っている、多分史織の分だろうトーストを一口かじってから言う。

「まぁそんなアホみたいに高いの買わなきゃ大丈夫だって」

 ほら、逢太だってそう言ってる。

「でもママ、莉徒ちゃんと同じのが欲しいなぁ」

 胸元に手を当てて史織が急に恍惚となりつつ言った。あ、危ない人だ。

「まじでか……」

「あのストラト超イケメンだよね。史織あれの赤色が欲しい」

 ぽんと手を叩きつつ満面の笑顔。頭痛はどうした。

「超高いじゃん……」

「え、いくらすんの?」

 そうか逢太はSCHECTERの値段までは知らなかったのか。

「四十万」

「はぁっ?……え、何、姉ちゃんそれ幾ら出してもらったんだよ」

 そりゃあ驚くか。私だってもう一生モノの覚悟で買ったものだし。シングルコイルのテレキャスターとハムバッキングのレスポール、そしてハムとシングルの二種を搭載しているストラトがあれば、音楽をやる上ではもう何も必要ない、と思えるほどだ。あとはまぁエフェクターとかはちょいちょい買うけれども。

「や、実際はすんごい値引きしてもらって三十万弱だったんだけど、十万は出してもらった」

 夕香ゆうかさんのお店、EDITIONで売ってもらったやつだ。特別友情価格、って言ってたけど社割り以上に安くしてもらった。

「え、じゃあ二十万も溜めたの?」

 どれだけ大変だったか。高校三年生のとき、私は主に二つのバンドで活動していた。あと時々やるのを入れると五つ。それだけでもう破産だ。それでも夏休みには地獄のようにキツいアルバイトをこなし、その後も受験勉強をしつつもいくつかアルバイトを掛け持った。

「そうよ」

「オレ、莉徒ってバカだと思ってたけど……」

 そりゃ勉強はあまり出来る方じゃないけれども。

「見直した?」

「いやそこまでギターバカだと思ってなかった……」

「なにこのー!」

 トーストをもう一口かじって、私は手を振り上げた。

「嘘だよ。すげえな二十万て。今度そのギター貸してよ」

「いいけど壊したら弁償だかんねー」

「俺はその辺の遺伝子は受け継いでないから大丈夫だ」

 ま、それはそうだろう。私は傷くらいならいくらついてもあまり気にしない。楽器なんて弾いていれば傷なんか絶対つくし、色だって褪せていく。流石に今回のレスポールほど壊されたら気にするけれども。

「じゃライブ決まったら言ってよ」

「おー、サンキュー」

 まぁ正直言うと、逢太が使うにはまだまだ宝の持ち腐れだけれども。

「よしじゃあ史織の頭痛が治まったら出かけよう!」

 人のものとはいえ、楽器を買いに行くというのは楽しいものだ。それに今日は史織の洋服も買って、史織を可愛くしてやるんだから。

「え、オレ今日デートなんだが……」

 一口コーヒーを飲んでから逢太が言う。

「あんたは別にいいわよ。今日は私と史織のデートなんだから」

「わーい、莉徒ちゃんとデート。逢太、もう一枚パン焼いて」

 私が二口かじったトーストをもはや諦めたのか、史織も自分のコーヒーを一口飲んだ。ちなみに史織のコーヒーはこれでもかというくらい、ミルクと砂糖が入っている。

「おっけ。まぁ楽しんできてくれ」

「あんたもヒニンはちゃんとするのよ」

「抜かりないぜ」

 冗談で言ったつもりだったのだけれど、逢太は親指を立てた。

「ちょ、おーちゃん!」

「おーちゃん言うな!」

「子供は成長するモンなのよ、史織」

 もしかして私が処女だと思ってるんじゃないだろうな、史織。

「判ってるもん!え、まさか莉徒ちゃん……」

 あ、今気付いた。

「土曜の朝から生々しい話はよしましょうね」

「わー、ママが知らない間におーちゃんも莉徒ちゃんもオトナになってゆくぅ……」

 うう、と額を押さえて史織は言った。なんだ思い出したように頭痛が再発したのか。

「親が一八年も隠し事してたんだからそら子供だって一つや二つねぇ……」

 昨日博史に言われたことを逆に返してやる。

「うぅ……」

 ははは。何も返せまい。

「ま、冗談よ。それ食べたらもう少し寝てきたら?」

「う、うん」

 柚机家は割りとそういう話はオープンだけれど、あまりに生々しい話は私もちょっと避けたい。

「史織もちゃんと博史にヒニンさせなさいよねー」

 言ってからコーヒーを一口含む。

「え、今から弟か妹できたら引く?」

 危うくコーヒーを吹き出しそうになる。有り得そうな展開でちょっと怖い。

「ま、まぁ引きゃしないけども……」

「じゃあいいじゃない、夫婦なんだもん」

 生々しい話は避けたい……。

「四四になってまでラブラブ……」

 それはそれで羨ましいんだけどさ。

「まぁ今に始まったことじゃねーし」

 けらけらと笑って逢太が言った。

「それもそうね。じゃあ昼過ぎにもっかい起こしに行くわ」

「うん」

 史織が頷くとがしゃこ、とパンが飛び出た。


 06:苺ジャム 終り

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