03:ナポリタン

 二〇〇七年四月一五日 日曜日

 七本槍ななほんやり市 七本槍中央公園


 とん、と肩を叩かれた。中央公園の中央噴水広場にあるベンチに座って、わたしは恋人の樋村英介ひむらえいすけを待っていたのだけれど。

「うぃ」

「あぃ」

 肩を叩いたのは英介だった。私はポータブルメディアプレイヤーのイヤフォンを外して振り返った。

「何聴いてた?」

sty-xステュクス。……て知ってる?」

 昨日動画からライン録音した音源だからあまり音質は良くないけれど、贅沢は言ってられない。何しろわたしも莉徒りずも音源は持っていないのだ。あとでりょうさんかたかさんに音源を借りられるかどうか訊いてみよう。

「おぉ、女バンド。結構好き」

「そ」

 ジャンルがジャンルだからなのか、英介も知っているようだった。ロック畑で育ってこなかったわたしも名前くらいは聞いたことがあるバンドだから、英介が知っていても全然不思議ではない。

「なんで、色違いじゃねぇ?」

「最近はそうでもないよ」

「そうかぁ?」

 丁度英介と付き合い始めたくらいからロックを聴くようになった。それまでわたしが聞いていたロックはG'sジーズ系ばかりだったので、ヘビーメタルに近いような音楽と比べればまだまだ聞きやすいジャンルだった。けれど-P.S.Y-サイでも莉徒の言うハードロックだかLAメタルだかに近い音楽はあったので、sty-xを聴いてもさほど抵抗はなかった。

「うん。でね、座って」

「え、お、おう」

 ちゃんと英介には言っておかなければならないだろうと思い、わたしは隣に座るように英介に指示した。英介は素直にわたしのすぐ隣に座ると、煙草に火を点けた。

「諒さんから依頼があって」

「依頼?」

 一口大きく吸って、煙を吐く。

「うん。sty-xが復活するから、それの復活ライブの前座に出てくれ、って言うのね」

「え、お前に?」

「うん。最初は莉徒に話が行ったんだけど、その時からもう莉徒とわたしで、っていうことだったみたい」

 まずは一つ一つ、といった具合に説明をする。諒さんからの依頼ということでsty-xが復活することは疑うべくもないと踏んだのか、英介の質問はわたしに向いた。わたしは昨日の経緯をそのまま英介に伝える。

「二人だけ?」

「うん。声がかかったのはね。リズム隊は諒さんと貴さん」

「なにその超贅沢」

「だよねぇ」

 英介の言葉に苦笑する。巧いリズム隊の上で演奏をすると、フロントマンは自分が巧くなったような錯覚さえ起こしてしまう。プロの技術について行けないのでは、という疑念もあるにはあるのだけれど、プロの人たちは低いレベルにも合わせることができるし、ある程度のレベルまでこちら側の演奏の技術を引き上げてもくれる。だからこそのプロなのだろう。

「で、やんのか?」

「うん」

「ほほう」

 やっぱりわたしがこういうことにチャレンジするのは意外だったのかな。最初はきっと莉徒もわたしが断ると思ってただろうから。

「多分、こんな機会二度とないと思うんだ」

「まぁ確かにな」

「なんだろ、わたし、莉徒と仲良くなれたのも、英介と付き合えたのも、音楽のおかげだって思ってるところがあってね」

 この街にきてすぐ、莉徒と初めて出会った河川敷で、わたしは唄とギターの練習をしていた。英介と出会ったときも、その時ふと浮かんだ曲を音楽室にあった古いガットギターで弾いていた。その直後に物凄い口喧嘩をしたんだけれど、もうすぐあれから一年経つんだ。

「あぁ、まぁ確かにそれはそうかもな」 

「音楽だけはきちんとわたしなりに、真剣に向き合いたいってずっと思ってるのね」

「あぁ」

 きっとそれは英介も理解してくれていると思う。わたしは今バンドというバンドは組んでいないけれど、莉徒や英介と一緒に個人練習に入るのはとても楽しいし、この公園で夜、弾き語りもやっている。わたしなりに音楽というものには正直でありたい。それがわたしに素敵な出会いをたくさんくれた音楽への恩返しだと思っているから。

「だから、せっかくこんな機会があるんだったら、やってみようって思ったの」

「ま、そういう面じゃ夕衣ゆいらしいか」

「へへ」

 いまだに人見知りはあまり改善されていないし、始まった大学生活でも高校で同級生だった人や莉徒以外には中々友達ができないけれど、音楽を通してだったらまた素敵な出会いはいっぱい作れるんじゃないかと思っている。それがわたしの人と人とのつながりを持つ手段、リンガフランカって言うんだっけ、ともかく、そんな感じなんだろうということは自覚しているし。

「つーかうらやましいぜ」

「だよね」

 深く煙草を吸って、煙を吐き出すと英介は言った。本当は二〇歳になるまで吸わないでいて欲しいけれど、人のアイデンティティたりえるものを個人の都合で曲げてしまうことにもなりかねないので、あまりそういうことは言わないようにしている。莉徒に関しては喉の心配もあるし、あの歌声を失いたくないので辞めるように言っているけれど、結局英介も莉徒も煙草を辞める気はないようだ。

「それにしてもsty-x復活かぁ。まぁ若干今更感ある気もすっけど」

「そうなんだ。わたし昨日動画見たけどすっごい上手だったよ」

 ここ最近のテレビを賑わしているような音楽とは格段にレベルが違う。プロモーションビデオもあったけれど、わたしはライブ動画の方が好きだった。あのバンドの一体感と言うかバンドそのものが持つバンド力は正真正銘のライブバンドなんだ、ってすぐに理解できるほどに。

「巧ぇから売れるとかウケるとかそういう訳じゃねぇしな」

「それもそっかぁ」

 実際に今流行ってるのはそういうものなのだ。もちろん私見もあるけれど。日本文化の特徴というか成れの果て。良いものと良いものを混ぜ合わせて掛け合わせて独自のものにするという風潮は、今の音楽シーンにも顕著に現れている。

「まぁでも当時下火になった本物のロックとかさ、それこそ-P.S.Y-じゃねぇけど、ずっと残ってて、根強いファンもいるじゃん。俺もsty-xは結構好きな方だし、今の売れセンのくだらねぇ音楽と比べたら、そういう本物が復活してくれんのは嬉しいけどな」

 今更感が拭えない、という言葉は英介個人の気持ちではなく一般論で言ったことなのだろう。英介が好きな音楽はそれこそ二〇年前に台頭していたHM/HRヘビーメタル/ハードロック系の音楽だ。sty-xが売れたのもそのあたりのことだし。

「英介から見てもsty-xってやっぱり本物?」

「俺はそう思う」

「そっか」

 わたしが聴く限りではそれこそ本場のHM/HRにも引けをとらないと思えたけれど、そういう音楽に通じている人間が言うのだから、やはりsty-xは本物なのだ。英介の言葉に何となくわたしは安心した。

「まぁじゃなきゃ諒さんたちだって手伝わねぇだろ」

「あぁ、そもそもそこからそうだね」

「んだ」

 諒さん達-P.S.Y-は主に海外で高い評価を得ているし、日本国内の音楽雑誌でもことロック関係を扱っている雑誌に関しては軒並み高い評価を得ている。今の音楽シーンの中心がロックではないから-P.S.Y-が流行る訳ではないにしても、ずっと本物のロックを続けていた人たちが薄っぺらいバンドの手伝いなどする訳もなかったのだ。それこそ日本ロック界の女帝とも言えるsty-xが-P.S.Y-ほどのバンドを前座になど使う訳には行かない、とまで言わしめているのだから。

「でも莉徒は判っけど、お前がLAメタルとか……」

「ね。一年前のわたしならありえないよね」

 言って苦笑する。そもそもわたしはロックではなく、大人しい音楽とでも言えば良いのか、クラシックギターやピアノの旋律が美しい音楽が好みだった。今でも勿論それは大好きだけれど、莉徒や英介と出会う前はロックは聴くだけの音楽だったのだ。

「だなぁ。まぁこの一年で一番変わったのお前だしな」

 それはわたしも自覚している。一年前のわたしは友達も恋人も要らないと思っていた、いじけた女だったのだ。

秋山あきやま君だって変わったじゃない」

「あぁ、あいつも女できて良かったなぁ」

 秋山君というのは英介の親友だ。去年の夏、わたしは秋山君に告白されたけれど、その気持ちには応えられなかった。その時はまだ自分が誰を好きだったのかさえ自覚もできていなかったし、色々と問題も抱えていて、自分自身に余裕がなかったのだ。大学生になってすぐ、秋山君に彼女ができたと聞いた時は本当に良かったなと思った。

「そうだね」

奏一そういちに比べたら俺なんか……」

「……」

 ほんの冗談のつもりで英介は言ったのだ。判っている。判っているのに、言葉が出なくなってしまった。これでは英介を責めているみたいで自分がしてしまったこととはいえ、やり口が卑怯だ。

「冗談だよ」

「……」

 何か言わなくちゃいけないのに。いつもみたいに大きな声ではしゃいでしまえば楽だったのに、声が出なくて無言で頷いてしまった。ちがう。悪いのはわたしだと思う。きっと正解も誤解もないことなのだろうけれど、きっと悪いのはわたしだ。

「冗談だっつーの!」

 少し声を高くしてわたしの頭にぽんと手を置いた。いつまでもこのままじゃいられないことは判っているし、いつまでもこのままじゃいけないことも判っている。このままじゃいつか英介もそんなわたしに愛想を尽かすことだって判っている。なのに肝心なところで前に進めない。

「あら、痴話喧嘩?」

 何か言わなきゃ、とそればかり考えていたら意外な人の声がかかった。わたしに安心をくれる人の声。

「りょ、涼子りょうこさん」

 自転車に乗って、カゴに長ねぎの頭がはみ出たエコバッグを入れている。とてもそうは見えないけれど涼子さんは主婦なのだ。水色の自転車がとても涼子さんに似合っている。

「あぁ、えーちゃんが夕衣ちゃん泣かしてるー」

 そんなに酷い顔をしていたのだろうか。涼子さんはそう、柔らかな笑顔で言った。

「ち、ちがっ!」

「違うの?」

 英介の口から煙草をひょいと奪って涼子さんは言った。英介は慌てて携帯灰皿をポケットから取り出して、口を開くとそれを涼子さんに向けた。涼子さんは英介の口から取り上げた煙草をその携帯灰皿に押し込んで満足そうに笑顔になった。涼子さんは莉徒や英介がお店で煙草を吸ってもあまり注意はしないけれど、何かあった時は私がきちんと責任を取る、と言っている。でも涼子さんの目の届かないところ、というか涼子さんの責任が及ばない場所ではきちんと注意するのだ。

「違いますって!」

「ソウデスー!」

 涼子さんの笑顔でほっとしたからなのか、涼子さんに誤解されたくなかったからなのか、わたしは英介の大声に便乗して冗談を言った。涼子さんの笑顔一つで気持ちが軽くなった。本当に涼子さんは魔法使いなのではないだろうか。

「泣いてねーじゃん!あと棒読みやめろー」

「心で泣いたの!」

莉徒りずみてぇなこと言うな!」

 わざと大げさに英介は言った。本当に優しい奴だな、って思う。わたしと付き合う前まではかなり派手に遊んでいたみたいだけれど、わたしが言うのもおかしいけれど、本当に英介はもてたんだと思う。そんな英介だから、きっとわたしと別れてもすぐに新しい彼女はできる。英介はわたしを大切にしてくれているけれど、わたしは英介を大切にしていない。好きなのに、英介の優しさにずっと甘えているだけだ。

「まぁまぁえーちゃん。デートのシメは喫茶店vultureヴォルチャーで宜しくね」

「なんで営業……。いや行きますけどね」

 涼子さんにしては無理やりな会話の結びだな、と思ったけれど、きっと涼子さんは遠くから見て、わたしと英介だってすぐに判って、でも様子がおかしいと思って声をかけてくれたんだ。もしもわたしと英介が良い雰囲気になっていたとしたら、声はかけなかったんじゃないかって思う。

「うん。えーちゃん、きちんと夕衣ちゃんのこと考えてあげてね。男の子はもちろんデリケートだけれど、女の子はもっともっとデリケートなんだから」

「う、うす」

 涼子さんはそう、英介にではなく、わたしに言った。視線は英介に向いているし、英介も返事をしたけれど、涼子さんはわたしに言っている。それが判ってしまう。これは優しい魔法使いのテレパシーだ。英介はいつもわたしのことを一番に考えてくれている。そのくらいのことはわたしにも判る。だからこそ考えすぎてしまうし、中々行動にも起こせない。だけれどどうしても色々なことが怖くなってしまう。わたしが英介の優しさに甘えているだけでは駄目なのだと、きっと涼子さんは言っている。

「……」

「それじゃあ後でね、待ってるから」

 そうにっこりと笑顔になって涼子さんは自転車のペダルに足をかけた。涼子さんは涼子さんでやっぱりわたしたちのことを大切に思ってくれているのだろう。

「はぁい」

 ぐんぐん離れて行く涼子さんの背を見送って、英介は口を開いた。

「悪かったな」

「わたしこそごめん」

 本当に謝らなければいけないのはわたしの方だ。

「いや……。まぁとにかく!映画行くぞ映画ぁ!」

「……うん」

「!」

 いきり立って言う英介の目の前に立って、不意打ちをする。今はまだ、これが精一杯だけれど。それでもわたしはちゃんと英介が好きだから。

「さ、行こ!」

 唇の内側に微かに煙草の味がした。驚く英介を他所に、わたしは英介の手を引いて立ち上がらせる。恥ずかしくてたまらない。しばらくはまともに英介の顔を見れそうにもない。

「あ、夕衣さん、あの……」

「は、早く!」

「お、おぉ……」

 きっと英介も恥ずかしいのかもしれない。何人もの女の人と付き合った男でも、何人もの女の人と寝た男でも、わたしが頑張ればこういう気持ちにさせてあげることはできるんだ。少しだけ学べたような気がする。


 映画は期待するほどのデキではなかった。わたしは最近の安っぽい邦画にみられるべたべたなお涙頂戴モノも恋愛モノが苦手なので、アクション映画にしたんだけれども。

「消化不良!」

 わたしは映画館から出るなりそう言った。損をしたとまでは思わないけれど、映画館で二時間以上も殆ど黙りっぱなしで座りっぱなしなのだ。映画を作っている人はお金を払って見に来る人をきちんと楽しませる義務がある。

「多摩のが良かったか……」

「いや、別にわたしそれ系じゃないし……」

 今日のデートでも多摩が行き先に上がった。それはわたしが十四歳の時から大切にしているぬいぐるみのメーカーが運営しているテーマパークがあるからだ。

「だってシナモロール……」

「シナモロールだけだし」

「そうなのか」

「そうだよ。別にキャラクターグッズ集めてる訳でもないし」

 わたしの部屋にはまだ英介は入ったことはないけれど、写真で見せたことはある。LLLというサイズでほぼわたしの上半身くらいの大きさがある、とても大きなやつだ。寝る時はそのシナモロールがいないと落ち着かない。でもシナモロールが大好きでシナモロールグッズなら何でも欲しい、という訳ではない。わたしはあまり物を集めるような趣味がないので、シナモロールも今持っているものだけで充分だ。

「いやぁ、正直ちょっと安心した……」

「だよね」

 そう言って苦笑する。シナモロールやキティちゃんとか、サンリオのキャラクターはやっぱりディズニーやSan-Xのキャラクターよりも低年齢層向けな気がするのだ。でも公言こそしないけどキティちゃんよりも、ミッキーよりも、ダッフィーよりも、リラックマよりも、シナモロールの方が断然可愛いとわたしは思う。

「そういえばアナタ、sty-xの前座ってどんな曲やんの」

「多分ハードロック系じゃないかなぁ」

 がらりと、話題を変えて英介が言った。やっぱり男の子はキャラクター物とか好きじゃないのかな。別にそこは共有しなくても良いのだけれど。

「ギターは、あぁ、ストラトがあるか」

「うん」

 わたしが唯一持っているソリッドギターだ。フェンダーメキシコのストラトキャスター。中学三年生の時に初めて買ったエレアコの次に、高校一年生の時に買ったギターだ。この街にくる前はあまりバンドとして音楽をやらなかったので日の目を見ていないギターでもある。

「歪みは?」

「マルチとスクリーマー以外は持ってないよ。英介なにか貸して」

「おー、いいけど。じゃあ部屋来……いや、今度見繕って持ってく」

「い、いいよ、あとで行く」

 部屋に行くとまた微妙な問題が浮上してしまうせいか英介は言葉を濁すように言った。でもわたしはあえて英介の部屋へ行く、と意思表示する。どう思うかな。

「い、いや……」

 あれ、何か反応が違う。

「……隠し事だ」

「ち、違う!」

 英介は必死で食い下がった。必死になられると余計怪しいんだけれど……。

「あ、えちぃやつとか出しっぱなしなんだ」

「それもあるがにはあるが、違う……」

 隠し事といっても色々あると思うから、洗いざらい全てを、とは思わない。家族にだって打ち明けられない隠し事というか秘密はわたしにだってあるんだから、英介にだってあるに決まってる。

「じゃあなによ……」

「……片付いてない」

「え!」

 思わず口元に手が言ってしまうほど大きな声が出てしまった。

「段ボールだらけ……」

「だって!もう一ヶ月もたつのに!何やってたの!」

 北海道の親戚の家に居候していた時は殆ど私物を持って行かなかった。戻ってくるなら、と大家さんが半年間、英介の部屋をそのまま取って置いてくれたのだ。そして英介がこっちに戻ってきたのが三月頭。大家さんから更に安い部屋があると紹介されて、前の部屋に置いてあった物をみんなで運んだのが三月中頃。まさか一ヶ月間殆ど部屋の整理をしていないとは思わなかった。

「め、面目ない……」

「……手伝っていいなら手伝うけど」

「まずいもんもあるので一人でがんばります……」

 英介は勉強はとてもよくできるけれど、ものすごく手がかかるばかなのだ。今それを思い出した。

「御意」


「ちわー」

「いらっしゃい、えーちゃん、夕衣ちゃん」

「こんばんは、涼子さん」

 時間にして六時半。わたしたちは涼子さんのお店、vultureについた。vultureってハゲワシっていう意味だけれど、全然涼子さんのイメージに似つかわしくない。前に一度そんな話をしたことがある。涼子さん曰く、ハゲワシの場合はヴァルチャーとかヴァーチャーっていう発音になるらしくて、何でヴォルチャーなのかというと、貴さんがThe Guardian's Blueガーディアンズブルーにいた頃に使っていたKillerキラーという楽器メーカーのエレキベースの名称なのだそうだ。涼子さんはそのvultureが凄く好きだったらしく、このお店を開く時に、二人で決めた名前なんだそうだ。

「何にする?」

 二人がけのテーブルについたわたしたちに涼子さんは言った。いつもの通り、優しくて凄く素敵な笑顔。

「ナポリタン!」

「二つ!と、オムライス!」

 気付けば私は二日連続だ。昨日は諒さんの奢りだったし、お昼ゴハンを食べちゃった後だったから食べそびれたナポリタンを迷いなく注文する。英介もそれに便乗して更にオムライスまでつけた。英介は身長は一八二㎝とかなり大きいけれど、痩せている。痩せているけどよく食べる、痩せの大食いだ。わたしもそれほど食は細くないけれど痩せ型だ。どうして食べたものの栄養が身長と胸に行かないのか、科学的に解明して欲しい。英介ほどの身長はいらないけれど、せめて、せめて一五〇センチメートルは欲しい。

「オムライスは一つね」

「はい。夕衣、半分食っていいぞ」

「食べられないってば」

 英介では確かにナポリタン一つでは足りないだろう。食事時にここに来るとだいたい二品は食べている。

「食わないといつまでたっても大きくならんぞ」

「わたしのお腹が出ても良い訳ね?」

 何が?とは問わずに言う。高校一年生のときから殆ど胸の大きさは変わっていない。殆ど変わっていないけれど、高校一年のときと比べればほんの少しだけ、ブラのサイズが変わらない程度には成長した。

「いくない……。けどまぁ、夕衣はもうちょっと太ってもいいと思います」

「もうちょっとって」

 ガリガリな方ではないと思うけれど、まったくダイエットは必要ないと自分では思う。でも今以上体重が増えるのはちょっとショックかもしれない。

「まぁ夕衣が、って訳じゃねぇし個人的な話だけど、ほそすぎるより少しくらいふくよかな方が魅力的ではあると思う。でもだからって、太れって言ってる訳でもない」

 うんうん、と偉そうに英介は言う。わたしと涼子さんを目の前にして良くそんなことを言える。涼子さんはそれはそれはスレンダーなスタイルをいつも保っていて、胸の大きさも慎ましくて素晴らしいと思う。日本女性は何事も控えめなのがステータスなのよ、きっと。……多分。それに身長は一四九センチメートルだっていうし、わたしからしてみたらとても素晴らしいスタイルだ。

「めんどくさい……。あとは、シュークリームと何?」

「りょ、涼子さん……」

 涼子さんに助けを求めたのだろうが、話の内容が内容だ。

「ん?」

「い、いやなんでもないす……」

 涼子さんの女神様のような笑顔だって時には怖くなったりもする。特に英介のようなセクハラ男に対しては。

「デザートはいらないのね」

「シュークリーム二けで!」

 いつまでもわたしたちのテーブルに涼子さんを縛り付けておく訳には行かないのだ。基本的に涼子さんはこのお店を一人で切り盛りしているのだから。

「コーヒーはブレンドとコロンビア?」

「でっす!」

 わたしたちのような学生の客でもこうして好きなコーヒーを覚えておいてくれる。もう本当に完璧すぎるわ。

「あら、映画見てきたの?」

「お薦めしませぬ!」

 テーブルの上に置いてあった映画のパンフレットを目に留めて涼子さんが言う。それでも伝票を書く手を止めない。

「そうなんだ。でも結構CMとかで大々的にやってるわよね、これ」

「うん、でもちょっと期待はずれでしたね……」

 わたしも英介も特に映画好き、という訳ではないけれど、どちらかが気になった映画は結構見に行っている。

「そっかぁ。じゃ、注文はこれでオーケーね」

「へぇい。そういやぁ涼子さんって映画良く見るんすか?」

「見るには見るけど、DVDになってからの方が多いかな」

 なんだか涼子さんの立ち振る舞いを見ていると、クラシックや舞台などを見に行ったりするようなイメ-ジがあるけれど、こう見えてハードロックやヘビーメタルが好きだったりもする。勿論普段お店でかかっているようなピアノの独奏やクラシックギターの曲なども好きなのだろうけれど。

「映画館にはあんまり行かないんですか」

「うん、あんまり行かないわね。そもそもデートとかもあんまりしないから」

「あ、そ、そうなんですか」

 なんだか訊いてはいけないことを訊いてしまった気がする。このお店は平日お休みだし、貴さんはプロのミュージシャンな上に副社長で忙しいだろうし、そうなれば娘のみふゆちゃんの面倒はお店をやりながらも涼子さんが見なければいけないし。

「あ、でも別に貴が甲斐性なしっていう訳じゃないのよ」

 カウンターテーブルの内側の厨房に戻りながら涼子さんは笑った。

「そうなんすか」

「甲斐性なし、って思ったでしょ」

「お、思ってないす!」

 多分思った。わたしもちょっと思ったし。

「思ったでしょ」

「思ったでしょ」

 涼子さんが言って、わたしも涼子さんの真似をして追い討ちを掛ける。

「ハイ……」

「ああ見えてね、旦那様と、お父さんと、ミュージシャンと、全部ちゃあんとやってくれてるのよ」

 手早く作業をしながら涼子さんは言う。

「恋人は?」

「それも勿論、ね」

 ぴん、と左手の人差し指を立てて右頬の辺りまで持って行く。本人が気にしているかどうかは判らないけれど、わたしたちの間ではこれを涼子さんの決めポーズ、『涼子スマイル』と呼んでいる。これを見られると良いことが起こる、というまことしやかな噂まで流れ始めているらしい。

「まぁ貴さんは涼子さんにラブラブっすもんねぇ」

「あら、私だって貴にラブラブよ」

 ちょっと意外な言葉が返ってきた。何というか貴さんは時々このお店を手伝ったりもするのだけれど、そういう時の二人は、ダメ亭主と良妻賢母を絵に描いたような関係に思えるのだ。

「えぇー、見てみたーい」

「人様に見せるものじゃないわ」

 ふふ、と可愛く笑って涼子さんは言う。

「ツンデレ?」

「全然ツンツンしてないよ」

 英介が言う。二人きりになったときにでれでれするからといって別にそれがツンデレになる訳ではない。

「チャンデレか」

「え?」

 意味を取り損ねて思わず聞き返す。

「普段ちゃんとしてて、二人きりになるとあまあまな感じ」

「そうね。そういう感じかもね」

 なるほど。きっと貴さんも他の人には見せない男の顔があるんだろうな。このお店を手伝ったりしている時は本当に気さくで良い人だけれど、ステージ上の水沢みずさわ貴之はちょっと別人かと思うくらいの格がある。ベーシスト水沢貴之はわたしたちも知っている顔だけれど、きっと涼子さんしか知らない、涼子さんの夫っていう顔もあるんだ。

「まぁツンデレは夕衣だしなぁ」

「夕衣ちゃん全然ツンツンしてないじゃない」

「えー!してますよ!涼子さんが知らないだけっす!」

「そんなことないもん」

 言いながら英介の言葉は正直否定できない。でもツンツンというよりも、大体外で英介がばかなことを言い出すから叱る、というパターンが多いと思う。

「でもツンツンしててもしてなくても、デレの時があるんでしょ?」

 それも多分ない……。

「今日初めてあった」

「えーちゃんが鈍いだけよ、それは」

「そんなことないっす!」

 英介がちょっと正しいと思うけれど、その辺まだわたしは子供なんだって思う。わたしができるレベルと英介が求めるレベルにギャップがありすぎる。だからきっと、わたしの性格を把握している涼子さんが言っていることも判らなくもない。

「あるよー」

 なので一応涼子さん側につかせていただく。

「何人の女の子と付き合ったって、夕衣ちゃんは過去のデータには当てはまらないのよ」

 大人の女性にこれを言われたら、いくら英介でもたまらないだろう。いくら何人と付き合ってきた、と言っても涼子さんほどの人生経験もないたかだか一八歳の小僧がいくら背伸びしたところで簡単に足元を掬われてしまう。

「涼子さんって貴さんと付き合う前は何人か付き合ったんですか?」

 不利と踏んだのか英介は話の重心を少しずらした。でもそれはわたしもぜひとも聴いてみたい話だ。

「ううん。貴が初めて」

「えぇ!」

「素敵!」

 もう、この人はどこまでわたしの理想なのだろう。素敵過ぎてわたしには絶対無理だ。だって相手が英介だし。

「あぁ見えて夕香ゆうかもそうなのよ」

「えぇー!凄い!素敵すぎる!」

「お、落ち着け……」

 きっと今のわたしは目がきらんきらんしているんだろうと思う。

「貴さんは?」

「貴さんも私が初めての彼女」

「諒さんも?」

「そ」

「でもそれって稀有っすよね、正直……」

 もしくは、こんな言い方は失礼かもしれないけれど、時代だったとか。あ、でも涼子さんの時代だとそれほど古い時代ではないんだ。でも一七年、一八年くらい前だからやっぱり古いといえば古いのかな……。

「ま、そうね」

「でも理想」

「女の子はそうよねぇ」

「はい」

 にこにこと嬉しそうに涼子さんは言う。本当にうらやましい。凄く優しい旦那さんに、とても可愛い娘さんがいて、いつまでも若々しくて可愛らしい。こんな結婚生活を夢に見ない女子はあんまりいないと思う。

「い、いやぁだってダメだったもんは仕方ないじゃん……」

「あ」

 別に英介を否定するつもりではなかったんだけれど、言い訳がましく英介は言った。

「そこから学べることもたくさんあるよね、きっと。私はそういう意味では学べなかったからね。多分私も貴も成長してないんだと思うの。だからふとした時にえーちゃんって大人だな、って思う時もあるわよ」

「なるほど……」

 涼子さんのフォローは流石だった。そういう考え方もできるのか。人生経験は絶対に涼子さんの方が豊富だろうけれど、それでも涼子さんが経験していないことを英介は経験している。それが無駄か有意義かは別なのかもしれないけれど、私はきっと人生経験に無駄なんていうものはないって思うし。

「好きな人とお別れしなくちゃならなくなったとしたら、それは凄く傷付くだろうし、落ち込んだりもするよね。何がダメだったのかな、とか次に人を好きになったらこうしよう、とか色々気付けることってあると思う」

 でもそういう経験なら、英介と付き合う前のわたしでもあった。

「まぁでも、それってさ、別れるまで行かなくても、喧嘩とかでもそうっすよね」

「あ、そうだね」

 英介も似たようなことを思ったのか、それとも涼子さんのフォローに回ったのか、そう言った。わたしも英介と付き合う前に好きだった人には、何一つ行動と言う行動を起こせないままで終わってしまった。その失敗から学んで、っていう訳でもないのかもしれないけれど、英介への気持ちに気付いた時は、ともかくこのまま自分の気持ちを押し留めておくのはもう嫌だって思った。

「この喧嘩はマジでやばい、とか仲直りしたときに、今度からもっと優しくしよう、とか、別に別れなくても学べることはあるじゃんね」

 そう言って英介は笑う。涼子さんの言う通り、過去に付き合った女の人のデータとわたしを照合してみても、何も意味はないことだと思うけれど、それまでに経験したことはきっとわたしには生かされているんだと思うし、これからも、わたしも一緒に学んで行くことがたくさんあるんだろうな、きっと。

「やっぱりえーちゃんは大人ね」

「だから、ちゃんと夕衣を見てろ、って言うんでしょ。判ってますって」

 煙草を取り出して火を点けようとしたところで、その手を止めて英介は言った。

「だって、夕衣ちゃん」

「は、はい」

 そんなこと言われちゃったらもうどうしようもない。きっと本当は逃げていたのはわたしだけだったから、覚悟しなくちゃいけないんだろう。涼子さんは英介には「今までの女と同じようには扱えない」、と言っているけれど、わたしには「留まっているだけではダメ」と言っているのだ。

「でも俺から見たら全っ然敵わないくらい涼子さんは大人だと思うけど……」

「そうだね」

 当たり前のことを英介は言う。聴けばあのパワフルさを持つ夕香さんでさえ涼子さんには適わない面があるらしいし。その二人からしてみたら本当に英介なんてただの小僧でしかないのではないだろうか。

「まぁ別れは経験してないけど、他には色々と経験したからね」

「別れそうになるような喧嘩とかあったんですか」

 涼子さんの人格形成はどんな風になされていったのか、本当にごく一部だけでも良いから知りたい。

「喧嘩、っていう訳ではないけど、別れそうになったことはあったわよ」

「そっかぁ貴さんと涼子さんでもそういうこと、あるんだ」

 英介もそれは意外だったのかもしれない。わたしは本当に意外だと思った。もしも英介がいない、とか、わたしが貴さんと同年代だったら、とか、ありえないけれど、もしもそう考えたら、貴さんは本当に素敵な人だって思うけれど、それもやっぱり一方的な見方しかできていないからなのかな。

「でも結婚する前。今は全然そんなことないわよ」

 でも貴さんだってもしかしたら若い頃は英介みたいだったかもしれない。涼子さんが初めての彼女、っていうのは凄く素敵なことだし、英介みたいに女たらしではなかったのだと思うけれど、確か、若い頃は随分とヤンチャだった、って聞いたことはある。英介も中学生の時はかなりヤンチャだったらしいけれど、そういう点で貴さんに似ているところがあるのならば、英介は将来有望なのかもしれない。

「そうですよね。だって涼子さん幸せそうだもん」

「うん。すっごく幸せよ。うちのお店に来てくれてる若い子達にはみぃんな幸せになって欲しい」

 貴さんだけではもちろんない。きっと涼子さんだって辛い思いはたくさんしてきたのだろうし、色んなことを経験して、吸収して今の涼子さんになったんだ。だからわたしだって将来有望だ。英介に幸せにしてもらいたい、というだけじゃなくて、わたしだって英介を幸せにしてあげたい。涼子さんがきっと貴さんを幸せにしているように。

「任せてくださいって」

 ばん、と自分の胸を叩き、英介は自信満々に言った。それはそれでちょっと頼もしい。でも多分根拠は、無いだろうなぁ。

「だって、夕衣ちゃん」

「は、はい」

 いきなりわたしにそう言って涼子さんが人差し指をぴん、と立てた。


 03:ナポリタン 終り

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