26 聖女は世界へ祝福を奏でる


 そこはさっきまでいた場所よりも建物のひしめく通りだった。


「あの音は」

 聞きなれた清らかな音にノアの耳が反応する。


「竪琴だ!」


 よく見れば、扉を開いた店の奥にはたくさんの竪琴が並んでいる。


 他にも竪琴が並んでいる店もあり、太鼓や手風琴が並ぶ店もある。よく見ると、竪琴の絵看板がかかっている店には竪琴が、太鼓の絵看板の店には太鼓が並んでいた。


「ここは主に職人ギルドが集まる地区っす。ここには、商人地区と違って他国からの人間がわいわい集まることはないっす。せいぜいオルビオンの職人に用があって訪ねてくる人間くらいっすかね。あとはオルビオンの職人とその家族くらいっす」


 確かに、言われてみると先ほどより人通りが落ち着いている。

 レンガ造りの家や、木造の家が雑多に並ぶ中、各所属ギルドを表す絵看板がずらりと並ぶさまは圧巻だ。


 ノアはふらふらと竪琴の店まで歩いていった。


 この世界でいう「竪琴」とは、前世で言えばライアーハープに近いものだ。

 ノアが習っていたのもライアーハープで、だからこそこちらの世界の物も最初からなんなくあつかえた。

 自分の身体のサイズに合った竪琴を見つけ、店先に座っていたふくよかな女性に声を掛ける。


「これ、弾いてみてもいいですか?」


「へえ、あんた、弾けるのかい?」

 女性はノアを頭のてっぺんからつま先まで胡乱げに見た。


 このオルビオンで竪琴が弾ける人種というのは限られている。

 神官や聖女などの神職にある者か、音楽師か、その音楽師を雇う金のある貴族や大商人だ。

 ローブのフードを目深に被り、ローブからのぞく服もズボンにロングブーツという男のような格好をして、そのすべてが土でうっすら汚れている目の前のみそぼらしい少女は、神職にも音楽師にも、ましてや貴族にも見えない。


「壊したり汚したりしたら買い取ってもらうよ」

 とっとと帰れ、というつもりで言ったのだが、なんと少女は竪琴を手に取った。


(まあいいさ。本当に竪琴を傷物にしたら、働いて返してもらうだけだ。あの頑固おやじがまた新人をクビにしちまったからね)

 さっとそんな段取りを考えて、女性は竪琴を構えたノアに目をやった。


 目の前の女性がそんなことを考えているとは知らず、ノアは竪琴を抱えた。手にしっくりとなじむ感触に、さっきまでのささくれだった気持ちが静まっていく。


(助かったんだ、あたし)


 安堵感が体中に広がって、無意識に息を大きく吐いていた。


 思えば本当に危ない目になど、ノアは乃愛だったときにも遭ったことがなかった。


 容姿も普通、際立った特技も無く、三人兄妹弟きょうだいの真ん中で雑草のように育ち、一度も彼氏ができないまま二十三年間の人生を閉じた。


 はっきり言って、パッとしない人生だった。


 しかし、そのパッとしない人生は、裏を返せばとても平穏だったということなのだ。


(あたしはとんでもなく幸せだったんだ)


 いろんなものに、いろんな人に守られた人生だったのだと。

 それがどんなに恵まれていて、得難いものなのかと。


 今、あの人買い商人のところから逃げてきたことで、心の底から思い知った。


 同時に、両親を含め、乃愛の周囲にいた人々、ノアを受け入れてくれた人々、助けてくれた目の前の小男に、あふれるくらいの温かな気持ちが湧いてくる。


 その思いをこめて、ノアは、前世で大好きだった「あの曲」を奏でた。

 乃愛とノアの世界へ、祝福を送るつもりで。


 いろいろな嫌な感情がほどけて感謝の気持ちに変換され、弦を通して美しい音色になり空中へ溶けていく。

 凹んだ気持ちがふわっとふくらんでいく。

 ノアは一心に弦をはじき続けた。



 曲が終わり、余韻よいんの震えを待ち、最後にそっと手で弦を抑えて曲を弾き終えた。


 その瞬間。


 大きな拍手と喝采が起きた。


「な、なに?」

 ノアは目をしばたたかせる。いつの間にか人垣ができていて、その最前列ではあの小男が涙を流していた。


「よ、よかったっす、貴女を売ったりしないで……貴女は本当にせいじょ……むぶっ」

「しっ、聖女って言っちゃダメだってば!」


 ノアは喝采かっさいの中、小男の腕をつかんでひっぱりつつ顔を必死で隠しつつ、人々にぺこぺこと頭を下げ下げ、店先でぽかんとしている女性の元へ竪琴を返しにいった。


「あの、ありがとうございました」

「いや、いいんだ。あんた――」


 そのとき、店の奥から一人の老人がふらふらと出てきた。


(このお店の職人さん、かな?)


 真っ白のぼさぼさの髪に、やはりぼさぼさの白髯。ずれて鼻の上に乗っかった鼻眼鏡、汚れた作業服にやっぱり汚れた作業エプロン姿の老人は、いきなりノアの肩をがっちりとつかんだ。


「?!」

 ノアは驚いて声も出ない。

 老人はノアを穴の開くほど見つめた。職人らしいごつごつした手は、かすかに震えている。

「あんた……あんた、その曲、どこで――」


「ちょっと、マシュー伯父さん!」

 さっきの女性が老人の肩を叩いた。


「手をお放しよ。この子、びっくりしてんじゃないの。仕事してたんじゃないの?」

「あ、ああ」


 老人は我に返ったようにノアの肩から手を下ろし、のろのろと店の奥へ戻ろうとして、でも振り返った。


「あんた……」

 ノアのことをやはりじっと見て、口をぱくぱくさせている。


(何かあたしに言いたいことがあるんだわ。さっきこのおじいさん『その曲』って言ったわ。もしかして『あの曲』を知っている……?)


「ほら、今は仕事中なんだから。この子に話があるんなら後で食事の時にでも聞いたら」

「え?」ノアは女性を思わず見上げる。食事の時?

「汚したり壊したら、買い取ってくれっていっただろ」


 女性が呆れたように外を指す。小男が、ノアの弾いていた竪琴にほおずりして感動の涙を流していた。涙や鼻水をなすりつけながら。


「あ……」ノアは顔にタテ線が入ったが、時すでに遅し。

 女性は朗らかに笑った。


「あんた、その身なりじゃどうせ金なんか持ってないだろ。だからうちで竪琴の代金分、働いておくれ」

「……わかりました」


 ちょうどいいかもしれない。宿に泊まるほど所持金はないし、ここなら人に紛れられるし、情報収集もできそうだ。顔はマスクを買ってきて隠せばいい。


「あたしはアニーってんだ。あんたは?」

 一瞬迷って、

「ノアです」

 本名を名乗った。

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