23 テオ大神官の野望

 テオ大神官は朝の礼拝を終え、執務室に戻っていた。


 乱暴にソファに腰かけ、枯れ枝のような手が応接テーブルをばんっ、と叩く。


「気にいらん!」

 誰もいない宙に向かってテオ大神官は叫んだ。


「いなくなれば、あんな小娘など皆すぐに忘れると思うたに!」


 ノアが急病で倒れたという話はあっという間に広まり、「聖女様にお見舞いを!」という声が上がり、礼拝堂にお見舞い台が設置され、祭壇がみそぼらしく思えてしまうほどの花や手紙、供物などで溢れかえった。


『聖女様の竪琴を早く聞きたい』『ありがたい話がまた聞きたい』という声が多い。


「くそっ……なぜあんなにあの小娘は竪琴が上手いのだ。妙な説教まで評判を呼びおって」


 ノアはテオ大神官も下を巻くほど竪琴が上手く、弾き語りもすれば歌も歌える。しかも珍しい歌や、聞いたことのないような説教も知っていて、大神官や神官の中でもノアの演奏を楽しみにしている者が多くいる。


 いっそ死んだことにしてしまおうか、という考えが頭をよぎる。


 ノアは馬に乗って逃走し、西大門から出ていったという。しばらく戻ってくる心配はないだろう。ならば今、民には死んだことにしても大丈夫ではないだろうか。後で秘かに追手をかけて始末してしまえばいい。

 その時、扉をノックする音と共にダルザス神官が入ってきた。テオ大神官の側近を務めている男だ。


「テオ様」

「なんじゃ」

 ダルザス神官はテオ大神官の傍までやってきて、声を落とす。

「放っております密偵から連絡が。――ノア様が、ラデウムに戻ってきたそうです」

「何じゃと?!」


 テオ大神官は再びテーブルを叩いた。


「なぜ検問を通れた! 兵たちは何をやっておる!」

「おそらく何等かの偽造工作を……ノア様は一人ではなく、二人、背の高い男を連れているようですので」

「仲間がおったのか」

「どうでしょう。金で雇った護衛かもしれません。昨日の神官兵の話では、ノア様は御一人で馬に乘っていたということでしたので」

「……まさか、ブランデンとモームの手の者ではあるまいな」

「昨日、物見からの報告にあった両国の間諜の行方はまだつかめておりませんので、なんとも言えませんが」

「むう」


 テオ大神官は一瞬考え、すぐに決断した。


「急ぎ密偵に伝えよ。すぐに捕らえる手筈を整えよ、と。兵でも金でも必要なものはいくらでも用意するとな」

「かしこまりました」


 ダルザス神官が出ていった扉を睨んでいたテオ大神官は、白髯の口元を歪める。


「……今年の建国記念祭典の祭司は、わし一人じゃ。この状況を利用しない手はない。」


 ブランデン王国とモーム王国が事実上、無茶ブリの宣戦布告をしてきたときは、よりによって自分の留守番中になんてことを、と思った。

 しかし、よくよく考えてみれば、今の状況はテオ大神官にとって大チャンスだ。


 他の五賢者たちはブランデン、モームの立太子儀式の大神官として派遣されている。

 このところ両大国とは、東西国境警備のことや交易の関税のことで長年の蜜月に影を差す雰囲気になっていたため、五賢者筆頭のオルビオン教皇と教皇補佐をそれぞれに派遣するという、異例の措置をとっていた。


「それが良い方向へ転がったというわけじゃ。これは神から与えられた好機以外のなにものでもない」


 両国が密かにあのような宣戦布告をしてきた今、大神官たちは人質に取られているようなものだ。

 初めはその責任を問われることを恐れたが、よく考えれば

 教皇や教皇補佐が帰国しなければ、五賢者で一人残っているテオ大神官がすべての聖務や政務を事実上引き受けることになる。

 その間もノアが病に臥せったことにして妃の話を先延ばしにする。

 ノアの身を盾にブランデン王国とモーム王国に攻め入らせない状況を作り、五賢者たちの帰還交渉をブランデンとモームに働きかける。

 そういうパフォーマンスをオルビオンの民に見せつけ、テオ大神官への信頼を植えつければ――。


「事実上のオルビオン教皇は、このわしじゃ」


 皺だらけの顔がほくそ笑む。


「神はやはり、このわしに微笑まれたのじゃ。これまで家格のせいで五賢者の末席に甘んじてきたわしに運が向いてきたのだ。すべての権力を手にする運が」


 五賢者筆頭、すわわちオルビオン教皇となり、オルビオンのすべてを手中に収めるという長年の夢が叶おうとしている。


「そのためにも――ノアを野放しにしておくわけにはいかん!」

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