第42話



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変な音がする。


ぼんやりと目に入ってきたのは古い木の床、そこには冬真からもらったラピスラズリのブローチが無残に壊され転がっている。


そして顔に飛んできたそのぬめっとした何かが額にたれ、その異様な臭いに朱音の意識はしっかりとめざめた。


足と手を紐、口にはタオルで結ばれ、冷たい木の床に朱音は横たわっていた。


目線の先には椅子に座る人が見え、顔を何とか上げれば、テーブルの上で何かを切っているのかギコギコという音が部屋に響きとても異様だ。


朱音は必死に顔を動かし自分がどこにいるのか部屋を見渡せば、古びた洋館の中なのか、窓は板で打ち付けられ、壁紙は色あせて至る所破けている。


すきま風が入ってきて、朱音の顔がひんやりとした。



『起きたのかい』



顔を動かせば、そこにはトミーが笑顔で朱音を見下ろしている。


だが英語なので混乱している朱音には言葉では無く音にしか感じない。


さっきまでカフェにいて、トイレから戻ってしばらくすると異様にフラフラしてきて、洋館に戻ろうとトミーとタクシーに乗った気がするがその後の記憶は無かった。



『もう少しで冬真が来る。それまでに用意しないといけないんだ』



そういうとまた古びた椅子に座り、テーブルの上にあるものを持ち上げ瓶に入れれば、赤い液体がゆっくりと満ちていく。


朱音はそれを見て先ほどの音は猫に何かしているものだと知り、部屋に充満する臭いに吐きそうになる。


そんな時冷たい風が一気に入ってきて朱音がそちらに顔を動かせば、誰かの足が見えた。



『冬真!待っていたよ!』



トミーは立ち上がり、明るい声を上げる。


朱音が顔を必死に上げれば、そこには冬真がスーツ姿で立っていた。



『君が忙しいと聞いていたから、彼女は運んでおいた。


なるほど、道具は用意してあったし君が来ればすぐに降霊術を出来るようになっているんだね。


あぁやっと夢が叶う!』



トミーは自分の手が赤く染まっていることなど気にせず、興奮して冬真の側に歩み寄った。


そんなトミーを無視するかのように冬真は部屋をゆっくりと見渡す。


もちろん床にも目線はいったのに、朱音は冬真の目と表情に凍り付く。


冬真は見渡していてもまるでディナーの材料をただ見ているようで、そこに人間が、朱音がいるなどと微塵も感じなせないほど冬真の表情は動かなかった。


冬真が来てくれたもう安心だと思っていた朱音は、感情の無いただの美しい人形が首を自動で動かしているようにすら思え恐怖を覚える。


ここにいるのは自分の知る優しい冬真では無く、これが魔術師としての本当の冬真なのかと朱音は怖いという感情を冬真に対して抱いていることが信じられない。


そして氷のようなその青い瞳に、朱音は釘付けになった。



『既に君が作った魔方陣にある文字をこの生け贄の血でなぞればいいんだろう?


その間君が詠唱しているんだよね、いや、やっと娘が殺された謎が解けるよ!』



未だ嬉しそうに話しているが、冬真はドアを閉め数歩中に入ったままその場から動かず表情も変わらず、何も言葉を発しない。


朱音はトミーがひたすら英語でまくし立てていても冬真という名前以外聞き取れ無いためトミーが何を話しているのか、そもそも自分が何故ここにいるのかもわからない。


もしかして冬真を脅すために誘拐されたのかとも思うのに、自分の冷静な感情がそれは違うと否定する。


そしてあのインカローズの時、男の声が聞こえたことを思い出した。


おそらくそれとこれは繋がっている、そして冬真も。


朱音は顔を下げ、背中に冷や汗が流れていた。


トミーが朱音の側に来るとしゃがんで朱音を見下ろす。



『まさか娘と生年月日が同じで、降霊術の依り代として適性のある娘が娘の亡くなった日の前に見つかるとは。


これも神の導きだろうな。娘の無念さがそうさせたんだ。


降霊術は非常に危険と言うけれど、冬真ほどの魔術師なら君もきっと無事に済むだろう。


娘のためにしばらく我慢しておくれ』



朱音はずっと英語でトミーが自分に語りかけるのに、その愛おしそうな、気遣うような声と表情に、自分が今から起きることが余計に恐ろしいことなのではと顔が強ばる。



『しかしラピスラズリのブローチを目印にして、そしてそれが詠唱中の邪魔にならないよう壊しておいて欲しいなんて連絡をくれたけれど、そこまで娘を思っていてくれたと思うと私は嬉しいよ。


今日のためにこのお嬢さんを逃げないように洋館に住まわせて君を信頼させるようにする、本当に君は根っからの魔術師だね』



はは、と笑いながらトミーは立ち上がって冬真に話しかけるけれど、冬真の表情は全く変わらずただ目の前のトミーを見ているだけ。


トミーはそんな冬真を見て肩をすくめると、テーブルの上に置いた猫の血が入った瓶と筆を持ち、奥の広い場所に置かれた羊の皮の上に書かれた円の中に進む。



『この下書きの上になぞったあと彼女を置けば良いんだね?


さすがにこの歳だとここまで連れてくるだけでも腰が痛くなってしまったから後で手伝っておくれ』



そういうとトミーは人が一人余裕で入るような円の中に進み、しゃがみながら既に羊皮紙の上に書かれた古代文字に沿い筆を血にひたらせゆっくりとなぞりだす。


だが突然円に書かれた下書きが赤く染まりだし、異様な光を走らせ出した。



『冬真!これはまだ書いていていいのか!?』



トミーは驚きながら円から出ようとすると、まるでガラスに阻まれたように足がぶつかり、慌てるように手を出すがやはり上も下も円に沿うように何かに阻まれ円から出られない。



『冬真!』



トミーの声が聞こえないかのように、冬真は周囲をゆっくり見回し、手に隠し持っていた赤い宝石を部屋の隅の上の方に勢いよく投げる。



『ギャァ!』



叫び声と共に赤い火の中から黒い猫が空中から落下し、冬真が素早く小さなナイフを投げつけ猫は避けようとしたが何本かが当たり、猫の右目と左足が切り取られ猫は体勢を崩し床に転がった。


そこに冬真は近づいて無表情のまま血まみれの猫を見下ろす。



『さすがだね、割と上手く隠していたんだけど』



猫から男の声が聞こえ、朱音もトミーもそちらを向く。


不思議なことに猫の声だけは朱音の頭に日本語として聞こえてきた。



『これが降霊術?正しくは死霊術の術式でしょう?


薔薇十字団、その中心だった人物アレイスター・クロウリーが死霊術などより性魔術が得意な事は誰でも知っています。


実際は彼をこのまま殺し悪魔を呼ぶ際の新鮮な生け贄にして、そして悪魔への本当の供物は彼女だったんですよね。


自分の使い魔にする悪魔に処女を餌として呼び出すのは、なんら変わった方法ではありませんし』



『どういう、事だ?』



震える声で光る柱の円の中からトミーが冬真に言うと、



『何度も忠告しましたよね?彼女のことは諦めることだと。


死んだ者が生き返ることは無い。


あなたは私の忠告を無視して、こんな魔術師につけ入れられたんですよ』



『おやおや、それではまるで私だけが悪者のようじゃ無いか』



猫が口から血を流しながら不服そうな声を上げる。



『私をおびき出すためにあの男が誤解したまま放置し、降霊術の依り代になる娘を確保していた。


そして私にはまるで味方のように接触しておいて、最悪二人を犠牲にしてまで私を捕まえようとした君の魔術師としてのプライドに敬意を表するよ』



そんな猫の言葉に、トミーは声を震わせた。



『何を言ってるんだ?


娘の死の真相を解き明かすために、依り代になる娘に我が娘を降霊させて娘を殺した人間を聞き出すんじゃ無かったのか?


そのために私に何度もメールをくれたじゃないか。


君だってあの子の死を嘆いていただろう?あの子の思いを知っていただろう?!


冬真!君は娘を愛しているから動いていたのでは無いのか?!』



叫ぶトミーに冬真は氷のような青い目を向ける。



『僕は一度もあなたにメールを送ったことはありません。


電話で話したときも何もそのことを話したことはありませんが』



その答えに、トミーは混乱していた。


電話で何も話さなくても、メールでは電話では他の者がいるので話せなかったと降霊術を進めよう、彼女のためにと言う冬真の言葉に何度も救われていたのだ。


急に仕事が入ったが、先に儀式の用意をしてあること、娘をここに連れてきて欲しいという冬真からのメールを受けてトミーはその通りに行動した。


それが先ほどの言葉が本当ならば、冬真に利用されただけで娘の死の真相を知ることは出来ない。


たった一人の娘を殺した人間を抹殺できるのなら悪魔に魂を売り渡しても良いと思っていた。


だがこれでは何一つ解決しない。


がくりと床に跪くと、地面から不気味な手が何本も湧き上がりトミーの足を掴んだ。



『うわぁぁぁ!!』



パニックになるトミーを猫は満足そうに眺める。



『ふむ、一応術を発動する第一段階には進むようだ。


召喚後あの娘を使えないのは残念だがまぁ方法はある。


君が裏切る可能性は考えていたとはいえ目と手まで持って行かれたのは誤算だったが、代償を払う分希望のものが召喚できるかもしれないな。


さてそろそろお暇しようか。では、またいつか』



すぐに冬真が宝石を埋め込んだ細いナイフを何本も投げつけたが、それは既に消えた猫の血の上に刺さった。


突然、既にいないはずのあの猫の声が部屋の中で聞こえる。



『君が契約を欲しているモノと再会できることを祈っているよ』



冬真は空中を一瞥した後、床に転がされたままの朱音の側に来てしゃがみ、足と腕を縛っていたひもをナイフで切り落とす。


朱音は強ばった表情のまま冬真に顔を向けているが、冬真は朱音の口を覆う布を取り外しても一切朱音を見ようとはしない。


朱音は腕も足も鈍い痛みが身体に伝わるのに、それよりもあの消えた猫が話していた内容でもたらされた胸に走る痛みの方が遙かに大きい。


冬真が何度か実は酷い男なのだと言ったことを朱音は思い出すが、それがこういう意味だなんて誰が考えるだろうか。


囮として冬真の側に置かれながら、でも自分に注意するよう警告していた意味が朱音にはわからない。


優しく紳士な冬真、冷たい表情の冬真、どちらが本物か、それとも全てなのか。


朱音は起き上がることも出来ず、冬真がスマートフォンで誰かと話しているのを見上げていた。


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