第41話



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一月も半ばの土曜日、朱音は濃いピンク色のセーターにジーンズ、その上にベージュの少し長めのコート、もちろん胸元にはラピスラズリのブローチをして元町ショッピングストリートで買い物を終えて洋館に向かう道を歩いていたら、歩道で誰かが洋館を見ている。


横浜山手洋館地域は公開されている場所以外にも所々に洋館があるため、観光客がこの洋館を見に来たりすることもある。


だが立っている男は外国人で年齢は五十か六十歳くらいの冬真の艶やかな髪とは違い至る所が跳ねた黒っぽい髪で、黒のコートに古びた革製の大きな鞄を持って顔を上げ洋館を見ている姿に朱音はもしかして冬真の親戚なのかと気になった。


朱音が今は細いツタしか絡んでいない入り口にあるアーチの前に来ると、男が朱音に気が付いた。



「めい あい へるぷ ゆー?」



念のためとその言葉だけ覚えていたが発音もたどたどしく、目の前の男はきょとんと朱音を見ていたが、オー!と大きな声を上げ朱音はビクッとする。


笑顔の男が朱音に前のめりで近づいてきたかと思うともの凄いスピードの英語で話しだし、朱音は引きつった笑みを浮かべながら単語だけでも聞き取れ無いか必死になっていた。


言い終わったのか、笑みを浮かべた男につられるように朱音も笑みを浮かべる。



『多分冬真さんの名前言ったはず、それにここにいるのか聞いた気がする、多分』



もっと長く話していたのだから他に話していたことはあるのだが、朱音はなんとか聞き取った言葉すら怪しく、そもそも質問してもどう英語で返答したら良いのか、朱音の頭の中は高校時代の英語教師のよくわからない授業と、今鞄の中にあるスマートフォンの翻訳アプリという文明の利器に頼るべきか、シャッフルされている。



「アナタ、トーマズガールフレンド?」



にこにこと人の良い笑顔で言われ、朱音は急な日本語に混乱していた。



『アナタってYOUだよね?ガールフレンドって女友達って意味だっけ、あれ?彼女って意味もあったし、あれ?』



英語と日本語が混ざっていることに朱音の頭は混乱中だが、とりあえず笑顔でノーと答えると、男はおおげざに、Sorryと言い、



「ココニスンデイマスカ?」



と言われて、やっと目の前の男が日本語を話してくれていることに朱音は顔の緊張が解ける。



「はい、私はここに住んでいます」



「トーマハ?」



「彼は、仕事に行っています」



いかにも英語での返答文のような返事を朱音がすると、男は肩を落とした。


今日は朝から健人も冬真達も仕事で不在で帰ってくるのは遅くなると言われていたが、男の寂しそうな態度に朱音は戸惑う。もしかして冬真と約束でもあったのだろうか。



「ワタシ、トーマのシンセキ。ヨル、ヤクソクシテマシタ。


デモハヤクツイタ。アイタカッタ、ザンネン。カンコウ、シマス」



Bye、と言って立ち去ろうとした男に、朱音は、Please wait!と声をかけ、



「あー、あの、付き合います、観光」



朱音から笑顔で言われた男はさっきの寂しそうな態度から一変し、嬉しそうな笑顔で朱音の手を取るとぶんぶんと振りながら、Thank you!と言い、



「ワタシノナマエハ、トーマス、トミートヨンデクダサイ」




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朱音と冬真の親戚と名乗るトミーで、急遽横浜観光がスタートした。


ここに来たのは昔一度だけというのでまずは景色の良い海の見える丘公園に行けば、風もそれなりにあって寒いというのにトミーは大喜びでスマートフォンを取り出し撮影を始めた。


以前冬真に聞いたように公園の端にある場所までトミーを連れていき、左に見えるの展望台がついている塔は横浜マリンタワー、船は氷川丸と言って今は動かない、ずっと奥の観覧車は夜はとても綺麗だと説明するのだが、朱音はなかなか言いたいことを説明することが出来ず、必死にスマートフォンのアプリで単語を調べたり翻訳した物を見せたりしていると、トミーはそんな朱音に片言の日本語で答えなんとか会話をしていれば段々お互い打ち解けてきた。


二人は賑やかな横浜中華街を散策し、再度坂を上り海の見える丘公園の中を通って今はあまり花の咲いていないイングリッシュローズガーデンを抜けて、裏側から正面に回り『山手111番館』にあるカフェで休憩することになった。


山手111番館は小さな門をくぐった先に白い壁の三つのアーチがあるヨーロッパの高級な雰囲気の二階建てで、スリッパに履き替えて中に入ってドアを開ければ二階まで吹き抜けのロビーがある。


中は濃茶の落ち着いた色がベースで、この洋館は1926年にJ.H.モーガンがアメリカ人ラフィン氏の住宅として建設された。


1996年に横浜市が敷地を取得し、建物の寄贈を受けて保存、改修工事を行い後に公開された洋館だ。


建物の裏側には海の見える丘公園のローズガーデンを見渡せる広いバルコニーのある『カフェ・ザ・ローズ』という喫茶店があり、朱音たちは店員に勧められ奥のゆったりとした席に座る。


時間も夕方ということもあって中は朱音達しかおらず、トミーは席に座ってもきょろきょろと見回し、外のバルコニーの席に座れなかった事が残念な様子だ。


暖かい日なら良いだろうが、今日はバルコニーの席は出られない。


春になればローズガーデンには沢山の薔薇で彩られ、多くの人がその景色を楽しむのだろう。


テーブルに頼んでいたカフェ・ザ・ローズ オリジナルローズティーとケーキが運ばれ、朱音はチーズケーキ、トミーはアップルバイが前に置かれ、二人は歩き疲れたのもあって早速口に運ぶ。



「Delicious!」



「この紅茶も本当に薔薇の香りがふわっとして」



朱音は日本語で言ったが、トミーはわかっているかのように笑顔で頷き、朱音も笑顔を見せる。



「ムスメトイツカキタイネ」



ふとトミーが庭を見ながら呟く。


その視線の向こうには庭園の中を父親と小さな女の子が嬉しそうな顔で手を繋ぎ歩いていた。



「お嬢さんがいるんですね」



「ハイ。アカネトオナジクライ。トテモビジン!」



そういうとジャケットの胸ポケットから名刺入れのようなものを出し、その中の紙を大切そうに取り出して朱音の前に差し出し、朱音は指をナプキンで拭くと、その小さな写真を受け取る。


そこにはトミーと同じ髪色の、笑顔のとても可愛らしい少女が写っていた。


浅草雷門の前で和服に身を包み、提灯を指さし満面の笑みで写真に写る少女に、どれだけ彼女がこの時間を楽しんでいるのかが伝わってくる。


しかし、娘と来たかったというのにこの写真は日本で撮られたもの。


朱音はトミーの娘が既に日本にいない、何故一緒に来なかったのか不思議に思った。



「お嬢さんは今どこにいるんですか?日本じゃ無いんですか?」



トミーは写真を受け取りその写真を愛おしそうに眺めた後、またケースに入れてポケットにしまった。



「ムカシニホンニイマシタ。イマイギリスネ」



「一緒に旅行できなかったんですか?」



朱音はトミーの寂しげな表情で、自分が軽はずみな発言をしたことに気が付いた。


もしかしたら娘さんは病気でトミーは代わりに来た可能性もあるのにと思って、朱音は慌ててしまう。



「あ、あの、冬真さんには何のご用なんですか?」



とりあえず内容を変えたつもりが、トミーが首をかしげたのを見て日本語が通じなかったのかと急いでスマートフォンを出すと、翻訳アプリで変換した内容をトミーに見せればトミーが笑みを浮かべ何とか通じたようだった。



「トーマとマイドーターのウェディング、ハナス」



その言葉に朱音は言葉を失う。


ハナス、打ち合わせという事だろうか。


冬真さんとトミーのお嬢さんが結婚する、その打ち合わせをしにお嬢さんに代わって父親のトミーが来た、その事実がわかって朱音は頭が真っ白になる。


あの冬真に彼女がいないなんてことはあり得ないのに、そういう陰が見えないことを朱音はどこか安心していた。


だが現実はイギリスに婚約者がいて、だから日本で女性の影は無かったのだ。


クリスマスにイギリスに帰った理由も婚約者と過ごすためだったのだろう。


やはり冬真は自分の保護者みたいなもの、ということが真実だったとわかって朱音は涙が出そうになるのを必死に我慢する。



「パウダールームに行ってきます」



俯いて朱音は立ち上がり、鞄を掴むと足早に席を立った。


唯一フロアにいたスタッフにトイレの場所を案内されて、朱音とスタッフが喫茶室から消える。


トミーは隣の席に置いておいた古い鞄を開けて厳重に包んでおいた小瓶を取り出し、周囲を再度伺った後、朱音の飲みかけのカップに中の液体を数滴垂らす。


無色、無臭のその液体はあっという間にその琥珀色の液体に溶け、トミーは朱音の座っていた隣の席に置いてある朱音のコートを見れば、薄いベージュのコートの襟には、目印と言われていたラピスラズリのブローチ。


名前は朱音と確認済み。



『娘の誕生石が目印とは、彼はやはり娘を愛していたんだな』



そう呟いて、小瓶をまた鞄にしまった。


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